第3話 迷いを越えて――VS.Nissan<Juke Nismo RS>(NF15)
#0 Formation Lap
時刻は二四時、気温は十二度、路面温度は十度、晴れ。微風が雲を東へと流し、ぼやけていた下弦の月がシャープになる夜。この時間の十月は少しだけ寒くて、空気もどこか肌を突き刺すような冷たさを持ち始める。そして鋭いのはそんな外気だけではない、この二人の視線も互いを射るような精悍さを孕んでいた。
『教養全学ツインストレート』。その中腹に、愛車である軽トラックのスバル<サンバー>を背にしながら、青海(おうみ)は相手をじっと見据えている。彼の胸中にあるのは、一つの悩み。本当にコイツと戦わなければならないのか。
その答えを、けれどもWRブルーに染められた軽トラは教えてくれない。<サンバー>はエンジンのピストン一つも動かさず、青海に一言しか掛けてくれない。ただ一つ、自分を好きなように扱えと。
「だから、俺は決めなくちゃならない……あぁ、決めたよ。もう何も迷わない」
「そっか。僕も、もう後には退かないから」
青海の呟きに答えたのは、彼の友人である白島(はくしま)。隣に佇むクルマはホワイトにレッドのピンストライプが入った、日産<ジュークニスモRS>。この『羊の皮を被った狼』を鋭く見つめて、青海は今宵の相手である白島に宣言した。
「……白島。この埼玉大学最速を賭けて、俺と一本勝負のSRCをやろう」
「そうだね。当初の予定通り、僕も青海に挑戦状を叩きつけたい。キミの<サンバー>と僕の<ジューク>、或いはキミと僕。そのどちらが最速なのか、甲乙をつけようよ」
互いに歩み寄り握手を交わし、そして正面から目線を交える。白島から一枚の紙を手渡された。見るとそれはSRCのコースマップで、埼玉大学構内を一周するような、ストレートとコーナーがバランス良く入り混じったレイアウトだ。
「このコースマップ、僕が考案した奴だけど。異論がなかったら、この通りで始めたい」
「……構わない、お前の決めたコースだからな。これでSRCをやる、スタート位置までクルマを動かすぞっ!」
周囲のギャラリーにそう呼び掛けて、『埼玉大学ホームストレート』までの道を開けさせる。両者エンジンキーを差し込んで回し点火、スーパーチャージャーとターボチャージャーの唸り声がそれぞれ、夜の大学を震撼させた。
SRC――埼玉大学ラリー選手権(Saidai Rally Championship)。
読んで字のごとく、埼玉大学敷地内の路という路をサーキットとしてクルマのスピードを競い合うレース。私有地であるため法定速度が存在せず、毎度エキサイティングなバトルが見られる話題沸騰中の人気モータースポーツだ。自分のクルマを所有している大学生は講義が終わると愛車のキーを握り、夜の大学をただひたすらに走り込んでそのエギゾーストを響かせる。
バトルは挑戦を引き受ける形で行われるため、決められた試合がある訳ではなく偶発的。ルールやレギュレーションは紳士規定が少々存在する程度で、当事者同士の合意さえあれば基本的には何でもあり。三台以上のスポーツカーでバトルをしてもよし、ターマック(舗装路)だけでなくグラベル(未舗装路)をコースに織り込んでもよし。そんな大してラリーでも選手権でもないSRCにおいて、最近ダントツで注目すべきトピックスが一つある。
首都高速埼玉大宮線をホームコースとする走り屋チーム、ナイトフライト。そのリーダーである赤羽(あかばね)の駆るトヨタ<86>が、他流試合として参加したSRCで軽トラックに敗北したのだ。
高速道路バトルはハイスピードかつ相応以上のドライビングテクニックが要求されるため、その覇者である赤羽はいわば『さいたまの帝王』となる。そんな技量の高いドライバーが、どこの田舎から出てきたかも分からないような軽トラに負けた。これは大学生の走り屋たちにとって非常に重大な出来事であり、これによりSRCの注目度が全国的にもぐっと高まったと表現しても過言ではないだろう。
そしてこれは同時に、その軽トラックであるスバル<サンバー>とドライバーの青海の華々しいSRCデビューでもあった。
赤羽の<86>に勝利した軽トラは、そのボディカラーから『青い流れ星』として多くの走り屋の心に焼き付いた。そうなると当然青海の<サンバー>は数多くの有力ドライバーから標的とされるようになり、彼へと宛てられた挑戦状も後を絶たない程に送られてきた。しかし青海はこれら全てに対してSRCで勝利して、毎夜のようにその実力と青い軽トラを遺憾なくギャラリーに見せつけている。
しかし学祭の準備が始まり出す十月末。そんな埼玉大学ラリー選手権も、頂上決戦という形でその幕が降りようとしていた――。
埼玉の秋は、とても短い。九月を過ぎても蝉が鳴いていると思えば、それから一か月も経たずに酷く冷え込んでしまう。そんな中でも学祭は毎年秋と冬の移り変わりの季節に開催されるので、短い秋の終わりを告げる風物詩と化していた。
ホームストレート上に多く展開される立看板は、そんな学祭の訪れを知らせてくれるオブジェである。そしてこれは同時にSRCのシーズン終盤を告げるモノでもあると、青海、黒崎(くろさき)、白島の三人が眺めながら嘆いていた。
「もう、今年のシリーズも終わりだね」
「そうだなー……冬は路面温度が低すぎるから、全開走行するにゃ向いてないからなぁ」
「でもよ青海、冬でもSRCをやった前例はあるみたいだぞ? 何でもラリー・スウェーデンよろしく、スノーラリーをやったとか」
「冗談じゃないだろーな、それ」
黒崎の言葉を青海が笑い飛ばすが、次の瞬間には哀愁の漂う表情を覗かせる。
「どうしたの、青海?」
「いや、もうしばらくSRCは出来なくなるんだなーって。そのスノーラリーを仮にやるとしても、多分年明けてからになるだろ? そうでなくとも、学祭が終わるまでは出店のテントやらが邪魔で走れなくなる。それまでには、もう一回くらい全開バトルがやりたいって思わねーか」
あと一週間もしてしまえば、ホームストレートの端々でテントの位置決めが行われるだろう。それに搬入用トラックの経路確保や一般客が大学構内を暴れまわらないようにする目的で、一部の道は封鎖されてしまう。学祭が終わるまでにも時間がかかるので、埼玉大学を走るならば今しかない。
しかし彼のそんな悩みに対し、黒崎と白島が呆れたように溜め息をついた。
「お前な、これ以上誰とバトルするってんだ?」
「ナイトフライトの赤羽さんに、本庄サーキットの二人……もう、速い人たちとはあらかたバトルしたんじゃないのかな?」
二人の言葉の通りで、青海は既にSRCチャンピオンへと王手をかけている状態だった。あらゆるスポーツカーに軽トラで勝利した今、この埼玉大学を彼以上に速く走れるドライバーは誰も居ないはずだ。けれども王者の余裕なのか、青海は勝ちを得ようとしている訳ではなかった。
「別に、最速を極めたいっては思ってねーって。赤羽さん辺りに声掛ければ、多分また一緒に遊びで走ってくれるんじゃねーのか」
「だったら、お前一人でタイムアタックでもすりゃいいだろ?」
「そーゆー問題じゃないんだよ黒崎、バトルとタイムアタックとじゃ緊迫感ってモンが違うだろーが。俺はバトルがしたいんだよ」
首を横に振る青海だったが、ふと一つのある事実に気付く。一度指で軽い音を鳴らしては、唐突に白島をじっと見つめた。
「……そーいや俺、白島とバトルしたこと無いや」
「えっ……確かに、言われてみればそうだね」
意外そうな顔をしてから、白島が相槌を打つ。彼ら三人はそれぞれが愛車(と言っても親所有)で日常的にSRCを楽しんでいるが、青海と白島が一緒になって埼玉大学を走り込む機会は思いのほか少なかった。大体は黒崎と一緒に楽しむが、白島は大抵別の日に別のセクターでタイムアタックやバトルをしている。
「これ、何でなんだろーな」
「僕らの専攻が違うからじゃないのかな? だから時間割も中々合わなくて、一緒に走れてないのかも」
「そうか、お前は俺らと違って哲歴か」
黒崎が横槍を入れる。青海と彼は別々のゼミでも、同じ地理系の専攻なので時間割がある程度被っている。しかし白島だけが別の歴史系専攻のため、そもそも大学に来る曜日からしてずれているという訳だ。
「だったら、俺と白島でバトルをやってみるか? お前も十分速いんだし」
「青海、それって本気なの?」
「九割方冗談かな、友達とガチバトル出来る気がしねーわ」
そう快活に笑う彼だったが、対して白島は何か考え込むような視線を向けていた。
青海と黒崎は蓮田に家があるのに対し、白島は逆方向の川口市在住だ。そのため大学最寄り駅である北浦和駅で別れることの多い三人だが、その日は駅前のチェーン系居酒屋にて、青海を抜かした黒崎と白島の二人がサシで呑んでいた。
「ねぇ、黒崎……URCって知ってる?」
カウンター席にある隣の椅子から、白島が一つ尋ねてきた。彼の頬はほんのりと上気し、大人しい顔立ちに艶やかな色が差さっている。
「全大学ラリー選手権(University Rally Championship)だろ? SRCの全国版みたいなやつ。それがどうした、もう今年のURCはシーズンオフ間近のクライマックスだぞ」
判断力の鈍りかけた頭を回し、黒崎がある程度まともに受け答えをする。
URCとは全国の大学を舞台に大学生たちのレーススピードを競う競技で、ポイント制により毎年チャンピオンが決定する。全国区なだけあってSRCよりはしっかりとシステム化されているが、やることは大して変わらず自動車バトル。基本的に六つの地方ごとに分かれながら開催され、我らが埼玉大学は当然激戦区である関東ブロックに属している。
この程度のことならば、酔いかけの彼でも十分に判断できる。どうしてそれを訊いたのか、白島は意外な事情を口にし始めた。
「来年のシーズン、僕はURCのマーシャルをやりたいんだ」
「マーシャル……審判か。そうか、お前就職先もサーキット運営会社志望だったな」
「URC委員会が、ちょうど募集を掛けててね……昔からやりたい仕事だったし、いい経験になると思う。時間だって十分にある。でも――」
「走りたいのか」
黒崎の鋭い指摘が的中して、白島は目を伏せながら一つ頷いた。
「マーシャルになったら、選手として登録できないレギュレーションだから……URCのドライバーになれなくなる。僕は走るのも好きだから、他の大学でレースをすることも諦めきれないんだ」
スポーツにおいて審判は公正であるべきで、勿論それはモータースポーツでも同じことだ。URCでもドライバーとの関係性を過剰に深めないために、マーシャルが運転手として走ることが禁じられている。同じマーシャル仲間が出走しているからという理由で、そのチームが贔屓されてしまっては問題だからだ。
そしてこの縛りこそが、白島の決断を鈍らせている。彼もSRCを走るドライバーであり、しかも陰の実力者と囁かれるほどに速い。当然友人である黒崎はこのことを知っているし、だからこそ彼から相談を持ち掛けられたのだろう。
やりたいことが二つあり、そしてそれらは相反する。果たしてどちらを取るべきなのか、白島の瞳は酷く悩んでいた。どちらか一方を選び取っても、もう片方を捨てたことに後悔してしまうだろう。
そんな悩める彼への言葉を、黒崎は一つだけ持っていた。
「……SRCのチャンピオンシップに、挑めばいいんじゃないのか?」
「えっ……?」
淡々と話す黒崎の助言に、白島が目を瞠って驚いた。この顔は、SRCとURCに関連性を見出せていないモノだろう。しかし彼は指を振り、イカの湯引きをつまみながら喋り出した。
「いいか、白島。悩んでるっていうのはな、決断できるだけの自信が足りてないってことなんだ。今のお前の場合は、自分にURCドライバーたりうる実力があるか自信がないってところだろう。本心はマーシャルをやりたいけども、あわよくばURCで走りたい、でも自分が具体的にどれだけ速いか把握できてない。お前の話の切り出し方がマーシャルありきだったから、これくらいは酔ってても分かるさ」
「黒崎、キミがしらふの状態だとこっちの心まで読まれそうで怖いよ」
余談だが、レース中にそのような心理戦をやるのが青海である。黒崎も、彼には到底敵わないのだ。
「そこでSRCなんだ。埼玉大学の代表として出るのがURCドライバーだからな、SRCのチャンプがその枠に収まるのは客観的にも当然と言える。そしてこの結果を出せばお前の自信にだって繋がるだろうし、晴れて自他共に認めるURCドラになれるって算段だ」
「……負けた場合は?」
「その時は、諦めがつくだろう。URC優勝の夢はそのチャンプに託して、白島はマーシャルとしてそいつを応援する。勝てばドライバー、負ければマーシャルだ。分かりやすいだろう?」
そう口にする黒崎も、しかしあまり浮かない顔をしていた。白島の悩みは解決したし、やることだって明瞭化できた。だというのにこの二人は、あまり晴れた気分ではない。丁度目の前にある湿気た唐揚げのような、はっきりしない眼差しで虚空を眺めていた。
「……SRCのチャンピオン候補って、現状だと青海だけだよね」
「だな、お前の相手が務まるのはあいつしか居ない」
SRC最速のドライバー、青海。未だ負けなしの、『青い流れ星』。ただでさえ友人とのバトルは気が引けるというのに、つい数時間前に友人とは本気で戦えないと零した彼に、白島は自身のためにバトルを挑もうと決心してしまった。
そして、運命のバトル当日。ホームストレート上に停められた<サンバー>、そのドライバーである青海は既にハンドルを握っている。臨戦態勢が整った中、彼はドア越しで車外の黒崎と言葉を交えていた。
「――という経緯だ。青海、白島は本気だぜ」
「そうか……情報、ありがとな。あいつのその気持ちに答えるためにも、今日はベストな走りをして見せるさ。そして、俺のためにも」
「お前、やっぱり今日という日に――」
「助手席に乗ってもらってるってのは、やっぱり意味があるってことだよ」
勘のいい黒崎も、今日が『あの日』であることに気付いたらしい。青海と彼とは最早ツーカーの仲で、会話をしていてもストレスが無くて心地良い。レース前に最適なリラックスだ。
そしてリラックスに欠かせないもう二人、友人の桃山(ももやま)と先輩である赤羽も<サンバー>に近寄ってきた。
「青海くん……今回の相手って、白島くんなんだよね」
「そーだぜ、桃山。どうかしたか、ここで『どうして二人が戦わなくちゃいけないのっ?!』とかよく居るヒロインみたいなセリフを吐くのは無粋だぞ?」
「ははは、流石に私でもそんなことは言わないって……青海くんに迷惑だって、ちゃんと分かるし」
しかし彼女を傍から見ていると、そのような言葉を言いたそうなテンションの暗さを感じる。俯き両手を後ろで組みながら、淋しそうに桃山が口を開いた。
「今回のバトル、二人のこと良く知ってるから……さ。どっちを応援すればいいのか、分からなくなっちゃって」
そう言ってはにかむ桃山だったが、やはりどこか悲しそう。正直、彼女のそんな気持ちは青海にも分かる。つい先程まで白島とのバトルに難色を示していたのは、誰でもない彼なのだから。互いを認め合っている友人と、争い事をするなんて。
二人の戦う運命を呪いながらも、どちらの側につけばいいのか分からない。そんな彼女のことが見ていられなくなり、自分も一瞬だけ決意が揺らいだので、青海は慣れない慰めの言葉を桃山と自らに向けてプレゼントした。
「別に、友達の勝ちを望まなきゃいけないって決まりはないからな。配慮したってつまらない、相手に合わせる人生なんて酷いモノだからさ。桃山の好きな方を応援すりゃ、自分の好きなことをやりゃ、俺はそれでいいと思う」
「すっ、好きな……方を……」
彼の言葉を受け取った瞬間、どう回路がイカれたのか知らないが、桃山が頬を桃色に染めた。けれどもこれで先程の悲しそうな顔が吹き飛んだのも事実で、怪我の功名とも言えそうだ。
「……おうおう、レース直前にイチャイチャするとはいいご身分だなぁ青海よぉ?」
そしておおよそ耐えきれなくなったのだろう、こめかみに青筋を立てながら、このタイミングで赤羽が割って入ってきた。この空気の読めない行動に流石の青海も呆れた視線を送るが、それ以上に苛立ったのは桃山だ。闇討ちをするように言葉で批難する。
「先輩、やられて相手が嫌なことだって想像できないんですか」
「そ、そこまで怒らなくてもいいだろうよ桃山ちゃん……小学校の先生みたいなこと言わなくても、さ」
「しょうがないですよ、赤羽さん。俺だって黙ってたんですから、雰囲気壊したらこのくらいが妥当な制裁でしょう」
黒崎に背中を優しくさすってもらったところで、赤羽がようやく本題に入る。
「それでよ、青海。今回の相手……お前の親友だってこと、精神的な辛さは分かった。でもクルマ、あの<ジュークニスモRS>だぞ。率直に言って、勝てんのか?」
「相手が白島でも戦うって決断はしましたし、さらさら負ける気はありませんよ。賽は投げられなきゃ分からない、勝算がたとえわずかでも俺は挑みますって」
屈託のない笑顔を作ろうとしたが、青海の不安はやはり滲出してしまう。それ程までに、今回の相手は強力だ。仕方がないので、彼は正直に独白する。
「……でもやっぱ、勝てるって確信は無いですよ。いつもだったらもうちょいあるところ、今日ばかりは欠片もありゃしない。どこでオーバーテイクを仕掛けるかだって、まだ決めちゃいないんですし。クルマが<ジューク>ってだけでも辛いのに、白島とはあんまり走ってないから実力も未知数ですんで」
「青海……だったら、俺らはゴールの見える場所でギャラリーしとくさ。だから、トップチェッカーで帰って来いよ」
赤羽に差し出された腕を組み返し、堅く強い約束を交わす。勝てない戦だが、同時に負けられない戦でもある。どうにかして白島よりも速く走り、そしてあのタイムを越えなければならない。
そう決意したところで、再三黒崎が言葉を投げてきた。
「なぁ、青海。今回のスターター、俺にやらせてくれないか?」
「むしろ、お前以外に誰が出来るってんだよ」
「そうだよな……そう言うと思った」
今度は笑顔が成功して、気持ち良く黒崎を見送ることが出来た。そして相手の顔を見返してやると、彼も決心をしたらしい。落ち着き堂々とした足取りで、二台のクルマの間へと移動する。
「白島、聞こえるか? SRCチャンプ、俺が頂かせてもらうぜ」
「それは難しいよ、僕も速いから」
「そうだったな。でも、俺だって速い」
ホームストレートの中央分離帯を隔て、青海と白島が挑発し合う。互いの目線を絡まらせては、エンジンに火を入れ排気を起こす。ステアリングを振りグリップ確認、シフトレバーは一速の位置へ。ブレーキランプを光らせてから、アクセルを煽って空吹きを数回。後のコミュニケーションは、バトル中にやれば十分だ。
黒崎が右手を高らかに挙げる。二人の良き友人であり、このバトルの立会人。レースを仕組んだ責任として、彼は見届けなければならない。だから彼たった一人にのみ、スターターという役職は務まる。
「お前ら、行くぜ……カウント五秒前っ!」
今一度、ハンドルを握り直す。
「四、三っ!」
指が一つ折られてゆく度、心臓の鼓動が少しずつ高まる。それに比例してエンジンも唸り、回転数は徐々に上がり。
「二、一――」
互いの視界に互いは居ない、意識は研ぎ澄まされ前しか見ない。左足のブレーキをリリースして、右足のアクセルをぐいと踏み込み。
「駆け抜けろ、GO!」
クラッチを繋いで、サイドブレーキを解除。スーパーチャージャーとターボチャージャーが何千回転もの悲鳴を上げながら、今年最後のSRC、そのシグナルがグリーンになった。
#1 Stay the Night/Dave Rodgers (SUPER EUROBEAT Vol.103)
スタート時、白島はいささか奇妙な感覚に陥った。
(……何だろう)
今回、彼は見事なスタートダッシュを決められた。CVTの変速はいつも通りに扱えたし、エンジンのレスポンスも違和感を覚えない程に普通。だというのに、彼の<ジューク>は蹴り出しで青海の<サンバー>にわずかながら出遅れていたのだ。
(原因は……軽さなのかな。でなければ、普通ならこの<ジューク>が軽トラに後れを取ることなんて、無いはずだから)
果たしてギャラリーの何人が気付けているだろう。築かれたリードは、およそ軽トラのドア半分ほど。開始コンマ数秒間に起きたほんの小さな差、それも誤差に近いモノではあるが、白島がその分だけ遅れたのは揺るぎない事実だった。
しかしそれも束の間の出来事。エンジンの回転数が一五〇〇を超えたあたりから、当初の予想通り<ジューク>のノーズが軽トラよりも前に迫り出される。ハイパワーターボに4WDという組み合わせを持つこのクルマならば、いともたやすいことだった。ただ馬力を前面に押し出せば、このように『正門前モニュメントゲート』入口までのストレートで追い抜きが出来る。
(<サンバー>の加速……最初は速かったのに、その後すぐに伸び悩んだ。ニトロでも使ってたのかな……?)
そう考えて、しかし白島はすぐそれを否定する。青海が加速装置なんかに頼らないということは、友人である彼が一番知っている。そんなことよりも、今は青海との真剣勝負だ。
青海は白島の走りを把握し切れていないだろうが、その逆もそうとは言い難い。なぜなら彼はこれまで、青海のSRCを殆どギャラリーとして見続けてきたからだ。自分が青海の前で攻めたことのないコーナーだって、青海は数多もの挑戦者を相手に何度も何度も攻め続けている。白島含めたギャラリーたちに対して、青海は自身の走りをあまりにも披露し過ぎたのだ。
(だから、分かるんだ。このコーナーは攻め過ぎちゃいけない、他のコーナーに重点を置くべきなんだって)
ブレーキングからの綺麗なターンインで、白島がモニュメントゲートを難なくパスする。ブーメラン状のテールライトが尾を引き、まるで後続車を罠に誘い込むかのよう。
羊は自らの身体を餌に獣を引き寄せ、しかしそれは羊の皮を被った狼、その哀れな獣を狼が襲う。
「グランツーリスモってのは、このクルマのことを言うんだよっ!」
短いが力強く叫び、白島の『羊の皮を被った狼』、<ジュークニスモRS>がS字コーナーへとダイブしていった。
(ここまでは、自己ベストもいいとこのペースで走れてる……)
モニュメントゲートとS字コーナーを抜けたところで、<サンバー>の車内にて青海が独りごちる。前を追う<ジューク>にはスタート直後のホームストレートで抜かれたが、その後のコーナーは自分の方が速いという自信があった。
元来、<サンバー>のような軽トラはコーナリングマシンだと相場が決まっている。わずか七〇〇キロしかない車重は遠心力が小さいのでコーナリングスピードを高く保つ武器になるし、<サンバー>のRR(Rear Engine Rear Drive)駆動は重心が車体後方に偏るため回頭性にとても優れる。エンジンパワーが非力なので直線区間ではどうしても力負けしてしまうが、現在走っている蛇のようなテクニカルセクションならば、前のクルマとの差をぐっと縮めることも不可能ではない。
S字を抜けた先はタイトなコーナーが三つも連なる難所、『駐輪場連続シケイン』。その中でも最後のターンⅢは特にタイトで難易度も高く、『サンダーコーナー』と呼ばれている。この区間は青海が最も得意とするセクションの一つで、『青い流れ星』の魔の手から逃げられたクルマはここでは皆無だ。
まずはセクション進入、今回も彼はブレーキングを相手よりもわずかに遅らせた。にもかかわらずオーバーステア傾向で機敏に曲がり、しっかりと荷重を目いっぱいフロントに掛けながら、コーナー内側の頂点であるクリッピングポイントに車体をぴたりとへばりつかせる。そしてハンドルを勢い良く右に倒しつつ、素早くサイドブレーキを引いてリアタイヤをロック。たちまち<サンバー>は進入スピードを保ちながら、半ドリフト状態でターンⅠを難なくクリアーした。
これが青海の必殺技のうちの一つ、サイドターン。とても初歩的なテクニックながらも、重心の関係で後輪を滑らせにくい<サンバー>をリニアにドリフトさせることが出来る。これによりコーナーへと突っ込む直前の速度を大してロスすることもなく、無理矢理だが車体を小回りに曲げることを可能とし、結果としてコーナーでのタイムをぐっと縮められるのだ。
このようにして連続シケインのターンⅠを切り抜けた後は、キレの良い振り返しで左カーブとなるターンⅡを曲がる。その先の短い直線区間は出来るだけ長くアクセルを踏んで、離陸前のジェット機のようにスピードを乗せる。そうして目の前に現れたのが、シケイン最大の難所であるサンダーコーナー。
バンプを越えてからフルブレーキングで、ターンⅠと同様に荷重をフロントへ。その後右ステアリングで急旋回しつつ、アクセルオンで荷重をリアに。重量でなく勢いに頼った遠心力と相俟って、コーナーのイン側である右フロントタイヤを地面から持ち上げ浮遊させた。
彼が魅せるもう一つの必殺技、インホイールリフト。シビアに荷重をコントロールすることで、コーナーに対してフロントのイン側にあるタイヤ、例えば今回の右コーナーにおける右フロントタイヤを浮かせるというテクニックだ。そのため外部から見れば三本のタイヤだけで走っていることになり、ただの曲芸走行だと馬鹿にする者も多少は存在する。しかし、この技の真価はもっと奥深いところにある。このタイヤが浮いた分で車体半分インカットをして、通常のラインよりも奥まった、短い距離で曲がることが可能となるのである。
不安定かつ極限スピードで繰り出されるこの技は、これまで幾度となくギャラリーたちを魅了し続けてきた。これこそまさしく『青い流れ星』の象徴的なテクであり、青海がSRC王者最有力候補と囁かれる理由の一つ。
だからこそギャラリーは、そして青海は、前を往く白島に対する絶望感を植え付けられることとなった。
サンダーコーナーという名称の由来は、本庄サーキットでかなりの速さを見せつけていた三田(さんだ)という学部生がクラッシュしたコーナーだからだと噂されている。そしてそんな三田は今回、そのサンダーコーナーで青海と白島のバトルを観戦していた。隣では同じ本庄サーキットでスピードを発揮している女性、緋宮(ひみや)がタブレット端末で<ジューク>の性能を調べている。この二人は、過去SRCで青海に完敗を喫した仲でもあった。
「今回のバトル、一見の価値があるよな。そりゃこんなにもギャラリーで混む訳だ」
「その割には、アナタもよくこんな良い場所を確保できたわよねぇ……」
「当たり前だろ? 俺はお前のためだったら、どんな苦労だって惜しまねぇよ。だからさ緋宮、今度俺と一緒に――」
「しつこいわねぇ、いい加減私のこと諦めないの?」
「お前いつにも増して酷くねぇか?!」
男涙を流しながら好意を訴え批難する三田と、全くタイプでもない男から言い寄られるのが嫌で足蹴にする緋宮。この二人がどのような関係かというと、おおよそこのように嫌がられるパターンの一方通行だ。
「そんでよ、緋宮。<ジューク>のスペック、分かったか?」
「そうねぇ……今回の青海くん、苦戦は必至よ。そのくらい、あのクルマは恐ろしいわ」
「俺たちよりも、恐ろしいって言うのかよ?」
三田が調子に乗った発言をするが、これには確固たる根拠がある。彼の愛車である<スカイラインGT-R>や緋宮の<フェアレディZ>を超えるクルマは、そうそう存在しないのだ。三〇〇馬力をゆうに超える心臓部はタフだし、タイヤのトラクション(粘着摩擦力)を稼ぐためには重いくらいの車重が丁度良い。特にストレートパワーでは負けなしである上に、ドライバーはサーキットを走り込んだ手練れだ。彼らとそのクルマを超越するレベルは、達成するのがとても難しいのである。しかし緋宮はそんな三田の自信とは裏腹に、首を横に振ってお手上げの溜め息を漏らした。
「SRCだってこと、忘れてない? 私たちはクルマの大きさが災いして、狭い埼玉大学内ではそのパワーを十分に発揮できなかった。だから二人して、軽トラに負けたのよ」
「知ってるっての、んなことは。俺が言いたいのはな、そこんじょこらのなよなよしたSUVであるはずの<ジューク>が、俺のGT-Rに匹敵するのかってことだよ」
「アナタも日産党員なら分かるでしょう? 例えファミリーカーであろうと、日産のクルマがどれだけ恐ろしいかってのをねぇ……」
そのような話をしている矢先、噂の<ジューク>が駐輪場連続シケインに進入してくるのが見えた。砲弾のようで特徴的なフォルムは意外にもキビキビとコーナーをクリアーしてゆき、中間のストレートではターボならではの加速を見せる。そしてサンダーコーナーもミス無く小回りに纏めて、4WDの加速力を武器にしながらそのコーナーを後にした。
「何か……味気なくねぇか? ドリフトするでもなし、グリップ走行で普通に曲がってな。コーナーはそこまで速くねぇけど、クルマの特性生かして直線でタイム稼ぎますー、って感じ。何つーか、テクニックってモンが感じられねぇのよ」
三田は白島の走りをこう評した。確かに青海に比べると、彼のコーナリングには覇気が感じられず淡々とした印象を覚える。4WDが曲芸走行に向かないからという事情もあるのだろうが、それにしてもどこか面白みに欠ける。このことには、緋宮も賛同してくれた。
「そうねぇ……ギャラリーのテンションも上がってないし、皆アナタと同じ意見ってことね。<サンバー>が最初は後ろで相手を追いかけるって構図も、十分に予想できるし見飽きた光景だから」
「やっぱそうだよな――っとと、噂をすりゃ『青い流れ星』のお出ましだぜ。見てろよ白島……どうここを攻めるのが正しいのかってのを、青海がこうやって教えてくれるってなぁっ!」
「白島くん、先行っちゃったから見てないでしょうけどねぇ」
連続シケインのターンⅠを、危険なレイトブレーキングで飛び込む<サンバー>。オーバーラン気味なところをサイドターンで無理矢理捻じ曲げ、半ドリフト状態でターンⅡへ。勢いそのままにドリフトの切り返しだけでそのコーナーをパスし、車体の軽さを武器にフル加速をする。そうしてからブレーキパッドを赤熱させることで荷重をきっちりとリアからフロントへ移し、その間にステアリング操作で右へ。外側のタイヤに力を込めながらすぐにアクセルを全開、遠心力と慣性力を前面に押し出したインリフトを決めて、サンダーコーナーにWRブルーの残像を残していった。
「くぅ~、コレだぜコレ! 見てるこっちが轢かれちまいそうなくらいの、限界コーナリング! ライバルすら虜にする走り、本当に惚れ惚れしちまうよなぁ?!」
拳を熱く握りながら、三田が彼の魅力を語り出す。青海はこの芸術的な曲芸走行によって、これまでバトルをした相手すらも魅了してきた。そこには白島とは比べものにならない程のエナジーがあり、形容しがたい迫力をギャラリーにもたらしてくれる。しかし緋宮は、別のことに注目していた。
「熱くなってるところ、申し訳ないけどねぇ……やっぱり青海くん、すごく戦い辛そうだったわよ」
「何だよ、空気読めねぇなぁ……んでよ、どう戦い辛いって?」
「ギャップよ。白島くんと青海くん、このサンダーコーナーまでで何秒差だと思う?」
「んあ? そんなの……二秒も無いんじゃねぇのか。まだレースは始まったばかりだしよぉ、ここまでは青海の得意な低速セクションだぜ?」
そう予想する彼に対し、彼女は非情な現実としてストップウォッチを掲げて見せてきた。そこに表示されていた数字は。
「さ、三秒二三……っ?! まだ序盤なのにかよ?!」
「そうよ。地味なのは確実なんでしょうけどねぇ……白島くん、かなりの曲者みたいよ」
緋宮が口角を吊り上げて笑いつつも、頬筋には興奮の汗が一筋流れていた。
「今、緋宮から電話があった。二人のギャップ、三秒二三だったんだとよ」
「三秒二三……この数字、赤羽さんはどう見ます?」
教養学部棟西側、外階段の踊り場。コース全体が把握できる上にホームストレートと教養全学ツインストレートとがよく見下ろせる好スポットに、黒崎、赤羽、桃山という恒例の三人が陣取っていた。今はギャラリーをしている緋宮からの連絡を赤羽が受け取ったところで、その内容を聞いた彼らは苦い顔を表す。
「マズいだろうな……いつもだったら一秒、ストレート最速のGT-R相手でも約二秒差だったセクションで、これまで見なかった三秒台だぜ?」
「それだけ、あいつの<ジューク>が速いってことですよ」
「え~っと……黒崎くん、赤羽さん。あの白島くんの<ジューク>ってクルマ、さっき見た時は全然速そうじゃなかったんだけど……速いの?」
おののく二人に桃山が本日最初の質問を投げかけると、赤羽が同意を交えながら解説をしてくれた。
「桃山ちゃんの気持ちは、俺にも分かる……<86>みたいなクーペフォルムじゃないし、凄く鈍重そうな見た目だしな。でも、あのクルマは中身が化け物なんだよ」
「……中身?」
「二一四馬力を叩きだす<MR16DDT>エンジンに、直線最強の四輪駆動。しかも車重は一四〇〇キロしかないと来た」
真面目な眼差しで語る赤羽だったが、彼女はピンと来ていないような曖昧とした表情をしていた。
「えっと、確か緋宮さんと三田さんのクルマが三〇〇馬力で、青海くんの<サンバー>は七〇〇キログラムだったから……速いんですか、それ?」
「思考の軸が違うんだよ、桃山ちゃん。あれは<サンバー>の二倍もの馬力を備えている上に、<スカイラインGT-R>より一五〇キロも軽いんだからな」
一般的にクルマはパワーが大きければ大きいほど、車重が軽ければ軽いほど速くなる。その上で<ジュークニスモRS>というクルマは、GT-Rと軽トラの中間を取った、バランスの良いスペックなのだ。しかも強みがまだ残っていると、黒崎が話に割って入ってくる。
「それに加えて……赤羽さん、<ジューク>の車幅って幾らか知ってますか?」
「三ナンバーだから、一七〇〇ミリ以上は確実……だよな?」
「正解はこれです、見てください」
そう言って彼が差し出したタブレットには、<ジューク>の細かいスペックが載ったPDFファイルが表示されている。赤羽がそれに目を通して、車幅の欄を確認すると。
「一七七〇ミリ……マジかよ、それだけしか無いのか!」
「<スカイラインGT-R>が一七八五ミリで、<フェアレディZ>が一八四五ミリですからね……日産のスポーツカーよりもコンパクトってのは、このSRCにおいてなら絶対の武器になりますよ」
「あの~、車幅ってクルマの幅のことだよね。それって、そんなに重要なの? パワーとかの方が、もっと大切な気がするけど」
身振り手振りを交えながら、桃山に今度は黒崎が対応する。
「一般的なサーキットならば、ワイド&ローってのが主流だ。車幅は広く、車高は低くって感じで、これだと空力的に有効と言える。しかしこれをラリーや一般道で再現するってなると、曲がろうとすれば道が細くて壁に当たるわ、路面の凸凹で車体は跳ねるわで、まともに走れたもんじゃない。だから車幅をコンパクトにして、車高を空力と相談しながら上げるんだ」
三田の<スカイラインGT-R>が顕著な例だが、サーキットではワイド&ローのセッティングが最も速い。車幅の広がった分だけ太いタイヤを履けるし、車高も低ければ空気抵抗のかかる前面投影面積が減るからだ。一方でWRCに出走しているラリーカーは車幅一七〇〇ミリメートル以下のコンパクトホットハッチをベースにするのが主流で、小回りの利く車体をコーナーで存分に曲げている。
「そこでだ、桃山。サーキットとラリーコース、SRCはどっちに近いと思う?」
「ラリー選手権、って銘打ってるんだから……ラリーコースに近いんじゃないのかな。ってことは――」
「その通り。車幅が狭くて車高が高いクルマが、SRCでは有利になるんだ。これの代表例が、まさしく青海の<サンバー>だよ」
SRCは道幅が狭い場所を頻繁に走り、路面にはバンプやキャッツアイなど障害物も多く散りばめられている。そしてこれらが原因となって、クルマのスピードも自然と時速百キロメートル以下に制限されてくる。そうなると例え非力でも車幅のコンパクトな車体が幅を利かせるようになり、加えて車高が多少高くても空力的影響を受ける速度域にまで達しないので影響が少ない。だから<サンバー>はワイド&ローのスポーツカー相手にここまで勝ってこられたのだし、<ジューク>が青海にとって最大の脅威となり得るのだ。
彼女への解説を終えた黒崎は、そのままの勢いで赤羽に小話を振る。
「因みに<ジューク>の車幅って、赤羽さんの<86>と殆ど一緒なんですよ」
「嘘だろ黒崎、俺のとか? 全くそうには見えねぇけど」
「全長と車高が違いますからね。確かにこれらは<86>の方が大きいんですけど、車幅の方はたった五ミリ広いだけなんですよ。だから<86>ってかなりコンパクトなスポーツカーで、そういう意味でもSRCにこのクルマはピッタリなんです」
意外そうにたじろぐ赤羽。青海の<サンバー>に負けただけあってか、自分がSRCにおいて速いとはあまり思っていなかったらしい。
「でもよ……いくらクルマが良くても、ドライバーの腕が伴ってないとな。その点で俺はテクニックに未熟な部分が多いし、白島が三秒のギャップを叩き出せたことに感心してるんだよ。なぁ黒崎、アイツはどんな魔法を使っているんだ?」
「種を明かせば簡単ですよ。白島は、ターンインの名手なんです」
戸惑う桃山に対して先手を打つため、黒崎と赤羽がアイコンタクトを通じてすぐさま口裏を合わせ説明しだす。
「あっ、えっと、その……」
「難しく言えば荷重移動のテクニック、簡単に言えば速く曲がるための技だ。特に低速コーナーで威力を発揮するから、SRCでモノにすれば強力な武器となる」
「例えるなら……桃山ちゃん、よく数学で使ってたコンパスを想像してくれ。あれで円を綺麗に描くには、中心点に強い力で針を押さえつけないとダメだろ? それと同じことで、クルマを綺麗に曲げるにはコーナー径の中心に近い位置――つまりクルマのフロント側に、フルブレーキングで荷重をかけるんだよ。これがターンインってやつ」
中心に力をかけることで、円弧は寸分も違わず描写される。クルマがコーナーを曲がり轍で弧を描くのも同様に、中心点に最も近接する車体前方に荷重をかけることで無駄なくクリアーすることが出来るのだ。そのためドライバーがブレーキを踏んで減速した後にステアリングを切る際は、わずかにブレーキペダルを踏んだままで曲がる。このテクニックこそがターンインで、白島が得意とするモノだ。
「へ~……それを使うと、青海くんよりも速く走れるってことなんですね」
「そういうことなんだろうけど……俺は正直半信半疑だよ。黒崎、どうなんだ?」
「可能ですね、白島ならば。アイツのターンインは精度がダンチですし、何よりも相手が青海ですから。正攻法に弱いんですよ、あいつ」
白島が勝利することに嬉しさを覚え、青海が敗北することに悲しみを覚える。そんな矛盾した感情を引っ提げながら、黒崎は沈んだ声で喋っていた。
「青海の走りはトリッキーだからこそ、相手の隙を作り出しては蜂のようにしてそこを突くんですよ。でも白島のようにミスが無い相手なら、アイツのやり方は通用しません。しかもクルマ的に考えたって、<ジューク>の方がSRCにマッチしてるかもしれませんし」
車体のコンパクトさ、悪路走破性、テクニック。これまで『青い流れ星』が武器としてきたあらゆる要素が、白島の<ジューク>に追いつかれているか追い越されている。それどころかエンジンパワーでは完全に敗北し、ストレートスピードでは勝利できる訳もない。
「黒崎……確かに、今回は悲観的にもなるよな。青海が持ってるアドバンテージなんて、突っ込みのレイトブレーキングと最小回転半径くらいだし。低速コーナーでしか、相手との差を詰めることが出来ないのか……」
「そっ、それじゃあ青海くんは――!」
「あぁ、桃山……言いたくはないが、今回は流石に負けるかもしれない」
黒崎が静かに言い放った。青い流星は白い雲漂う大気圏に突入し、そしてやがては燃え尽きてしまう。それがもしかしたら今夜なのかもしれないと、三人は心中で覚悟した。
#2 Wild Reputation 2005/Dave Rodgers (SUPER EUROBEAT Vol.156)
サンダーコーナーを立ち上がった瞬間、青海の視界に衝撃的な光景が飛び込んできた。
「なっ、嘘だろオイ……っ!」
前を往く<ジュークニスモRS>のテールライトが、ストレート一本を隔てた『理三裏S字カーブ』に差し掛かっていたのだ。今までの相手ならば、ここまで速くはなかった。せいぜい青海の一メートル先を走っているか、三田の<スカイラインGT-R>ですらストレートの半分しかリードを築けていなかった。
(冷静になれ……冷静にだっ! この距離、タイムに換算すりゃ三秒以上だ……コーナーが連続する箇所ならば、それくらいは詰めることも出来る!)
はやる心を抑えつつ、彼が必死の分析をする。いくら青海の得意なセクションを抜けて三秒差とはいえ、SRCもまだ序盤。この先にあるコーナーの多いセクションならば、<サンバー>だって追いつけるはず。ただし懸案事項が一つ、そこに辿り着くまで彼我差が何秒にまで広がるか――。
脳裏で計算を始める青海。しかし微かに見えるブーメラン状の赤色灯の動きを見て、彼の意識が現実へと引き戻された。
「あれは、なんて小回りなんだよ……!」
恐らく<サンバー>と遜色ないスピードで、<ジューク>がS字カーブを攻めていった。青海の懸案事項は、また一つ増えてしまったようだ。コーナーですら、追いつけない。
白島の特技がターンインであることは、前に黒崎から聞いたことがある。だから駐輪場連続シケインでも一、五秒以上は離されると予想していたが、結果はその予想をはるかに上回られた。そして今しがたのコーナリングを見る限り、どうやらそれは夢でなく現実らしい。では、その原因は何なのか。
(車幅か……? コンパクトだから、こうも生き生きとコーナーをぶっ飛ばせる……)
彼は瞬時で、離れた黒崎たちと同じ結論に至る。特にその車幅を武器にしている青海だからこそ、この答えに素早く辿り着けたのかもしれない。
(加えて、やっぱり直線が速い! 4WDの加速も去ることながら、悪路走破性の高さがコースの障害を蹴散らしてる……!)
心の中で舌打ちをする。やはり四輪駆動であることは、誰にとっても最大の武器だ。駆動輪が四つもあるためエンジンパワーが効率良く伝達されるし、部品数の多さから来る車重もトラクション増加に貢献している。加速時に荷重の移る後輪も駆動しているし、『走る』ことに関して言えば文句無しのレイアウト。下手なドライバーが乗っても速いし、プロドライバーが乗ったらもっと速い。
それに、悪路走破性も4WDの特権だ。例えタイヤの一つがスリップしたとしても他の三輪を使えば安定するし、凹凸の激しい路面でもいくつかの駆動輪は必ず接地している。埼玉大学のような路面状況の悪いコースでも、4WDの<ジューク>はパフォーマンスを落とさないだろう。
そんな4WDレイアウトを採用した<ジューク>は、まさしく『羊の皮を被った狼』。日産伝統のスポーツカースピリットを、ある意味で一番継承しているクルマだ。見てくれは大人しいコンパクトSUVでも、中身は中途半端なスポーツカーをぶち抜いてしまう程の化け物。水鹿を意味する<サンバー>のことも、食い引き千切ってしまうだろう。
「考えろ……考えろっ! 相手の弱点は何だっ?!」
青海が自らに問いかける。四輪駆動の弱点と言えば、『曲がる』ことと『止まる』こと。前輪も駆動するためアンダーステアが大きく出て小回りが利かないし、重い車重はブレーキ時の制動距離をいたずらに長くしている。
加えて青海の<サンバー>だって、悪路走破性は高い方だ。こちらのRR駆動は、特性として加速が有利。だからクルマとして明確に負けている要素は、ストレートスピードの伸び率だけだ。
(ならば直線は我慢して、低速コーナーで追いつめるいつものセオリー……出来るのかぁ? そんな芸当)
これまでの三秒差の内容からして、コーナーのテクニックで白島に負けているのかもしれない。仮にそうだとしたら、もう希望は残されていない?
そんな懸念を頭に浮かべつつ、青い軽トラは理三裏S字カーブにようやく到達。前の<ジューク>は既にこのコーナーを抜けていて、その先に伸びる『工学部東コロナーデストレート』に差し掛かっている。その直線で差を広げられるのは、明白。
僅か七〇〇キログラムの車体を攻性に変えた、限界ギリギリのレイトブレーキング。車体を曲げられる最大のスピードで左コーナーを曲がり、テールライトの残像を置き土産に。すぐさま右へステアリングを切り返せば、アクセルオンで瞬発的な加速をする。 <EN07X>エンジンのスーパーチャージャーがフル稼働し、その咆哮をエグゾーストから排気した。
その瞬間、青海は奇妙な感覚に襲われる。
「何だ……よ?」
視界が一気に、狭まる錯覚。まるで周りの世界を全て、置き去りにしているような。自分が異常なのではなく、<サンバー>の外側が対応しきれていない。先に見える<ジュークニスモRS>すらも、彼へと段々近付いてきている。
しかしその感覚は一瞬で終わり、白島も水を得た魚のようにスイスイと直進していった。軽トラがそれに追いつける訳もなく、ジリジリと彼我差も開かれてしまう。
(今のは一体……? 無我夢中でアクセルを踏んだら、世界と<ジューク>が遅く見えて……)
青海の思考は、けれどもにわかに信じがたい。彼がS字カーブを抜ける瞬間、<ジューク>はコロナーデストレートの中腹に居たはずだ。あのクルマよりも速い瞬間が、コーナー以外にあるのだろうか。
「俺の加速……速かったのか?」
彼が独りごちる。<ジューク>よりもS字カーブのセクタータイムが速かったことは、恐らく事実だ。そこでコンマ五秒以上詰められていても、コーナーなのだから何ら不思議ではない。
しかしあの時の感覚は、二、五秒差を二秒差にまで縮めたモノのように思える。それも相手が失速する原因も無いのに、だ。
一応こちらがブレーキング時に相手が立ち上がり加速のタイミングならば、物理的な距離がグッと縮まるという現象はある。特にヘアピンのような低速コーナーで見られやすい。しかしそれはタイム的に全く詰まっておらず、結局こちらが立ち上がった時にはそれまでと同じ距離差を築かれているモノだ。それに今回の場合は、このケースに該当しない。
向こうのストレート走行中に差が詰まるということは、向こうのパフォーマンスに対してこちらが何かしらのアドバンテージを持っているということ。特にストレートスピード自体で劣っているのだから、それ以外の部分は<サンバー>が速い。コーナーで詰めたタイム以上に縮まっているのならば、それは加速に優位性があるとしか考えられない。
(加速一つを取ってみても、向こうとこっちに違いがあるってことか……)
それが具体的には何なのか、青海にはまだ分かりかねる。それを追究するためにも、このバトルをここで投げ出すわけにはいかない。
「そうだ……まだ諦めらんねぇ! 頼むぜ<サンバー>、見てくれよ兄貴っ! 白島のあの白い<ジューク>を、ゼッテーにブチ抜いてやるんだからなぁっ!」
ステアを握る手に力を込めて、アクセルの開度を最大限に。助手席の『それ』を一瞥してから、前方のテールライトを睨み、『青い流れ星』が赤色灯の尾を曳き輝かせた。
埼玉大学自動車部、略称シャブ。今まで赤羽の<86>に幾度となくバトルを挑み負け続けた彼らも、今日は青海対白島のSRCを見物しに集まっていた。場所は『工学部ロングストレート』脇、ちょうど教職員駐車場がある場所だ。
「前情報だと、<ジューク>が勝つって論が優勢で……」
「馬力が高い方が速いんだ、<ジューク>が勝つに決まってる!」
「でも、何が起こるか分からないのがSRCなんでしょう?」
シャブの部員である広尾(ひろお)、茅場(かやば)、入谷(いりや)の男三人が、好き勝手にそれぞれレースの顛末を予想していた。しかし所謂オタクである彼らが語り合ったところで、事実に近い結論は導き出せない。そこにもう一人、三十路近い留年生が現れる。
「入谷くんの言う通り、何が起こるかは未知数だ……自分たちが先輩だからって、それを否定しちゃダメだよ、二人とも?」
『う、上野(うえの)さん……!』
自動車部名誉部員である上野も、このレースのギャラリーとして参加していた。普段表に出ない彼がここまで出てくるということが、このバトルの重要性を物語っている。
「本当はこんなところに張らないで、もっとゴールに近い場所を陣取るべきなんだけど……ダメだねぇ、キミたちは」
『す、すいません上野さん……!』
「まぁ、グチグチ言うだけ無駄かな。ホラ、もう先頭が来たよ。あのヘッドライトは……」
彼が言葉の尻を濁すと、重いエギゾーストノートが響いて来た。この音が<サンバー>のモノではない、初めて聞く旋律だと三人が察する。そして上野はこの結果を楽しむように、ニヤリと口元を吊り上げた。
「ま、前情報の通り<ジューク>が先行してる!」
「やっぱ馬力はパワーだぜ!」
「しかも、<サンバー>が後ろについてこない――いや、今見えました! あの差……四秒はありますよっ!」
広尾、茅場、入谷の三人がそれぞれ叫ぶ。重厚かつ電光石火の如くストレートを駆けているのは<ジュークニスモRS>の方で、四輪駆動をフルに活かした直線加速をこれでもかという程に見せつけてくる。荒い路面のロングストレートすらもろともせず、V字型のヘッドライトが彼らの網膜に一瞬で焼き付けられた。
「ハイパワーターボに4WDの組み合わせ、まぁここまで順当と言ったところだろうね……むしろ、こんな強いクルマと軽トラックがバトルしてるのが滑稽だよ。でも、現にここにはその軽トラに負けた<86>にすら勝てない、孫請けで敗北したような三人が居るから仕方がないねぇ……」
「そりゃあ、確かに傍から見たらおかしいって笑われるでしょうけど……でも、僕たちは『青い流れ星』の勝利を望んでるんです。いつの間にやら、ね」
「まぁ、走ってすらいない私が横槍を入れるのも滑稽かな……けど、これだけは言えるよ。今の<サンバー>の走り、よく見ておいた方が良い」
上野と入谷が話している最中、ドップラー効果を効かせながら<ジューク>が彼らの目前を横切っていった。通過するそのスピードはやはり速く、直線での手強さを実感させられる。この先は『体育館北ロングストレート』まで含めた一本の長い直線になるので、タイム差は開かれるばかりだろう。
白い<ジューク>を目で追った後、すぐに<サンバー>が工学部ストレートへと進入してきた。手前のコーナーは勿論、右前輪をクリッピングの窪みに引っ掛けた溝落としサイドターンで攻めている。そしてコーナーを立ち上がり、悪路極まるこのストレートへ。
四人の眼前に現れたのは、にわかに信じがたい光景だった。
ストレートを苦手とするはずの<サンバー>が、先程の<ジューク>と遜色ない速度でストレートを走っているのだ。
「こんなの……前情報には無かったのに!」
「パワーが足りないのに、何でこんなに走れるんだぁっ?!」
「<サンバー>が、遅くない……いや、むしろ速いですよっ?!」
シャブの三名がそれぞれ叫ぶ。以前もここでギャラリーをしたことが何度かあるが、<サンバー>のこんな走りを見るのは初めてだ。間近で流れる『青い流れ星』を見送りながら、上野が入谷に問いかけをする。
「あの軽トラック……今までと何が違っているか、何が原因で今日こんなに速いのか、分かる?」
「えっと、ですね……加速が良いように見えましたけど、その後の伸びも<ジューク>に劣るながら、いつもより調子が良かったように……」
ぼんやりと答える入谷に対し、彼が正解をズバリと言い当てる。
「ストレートを走行時の、前輪にかかるトラクションが違うんだよね」
青海にも勝ってほしいし、白島にも勝ってほしい。そんなわがままを心中に無理矢理押し込めると、黒崎は唐突にタバコが欲しくなった。吸った経験など一度もなく、どんな味かも分からないというのに。
「赤羽さんって、タバコよく吸ってますよね」
「それがどうしたよ、黒崎?」
「おいしいのかな、って思ったんで」
愛想笑いを浮かべてすぐ、黒崎が視線を足元に向けた。知らない味だというのに、酷く渇望している。それが不思議でならなくて、自分のこの気持ちが分からなかった。
「分かるぜ……息詰まると欲しくなるよな、タバコって。何もかも放り出して逃げたくなって、自暴自棄で毒を摂ろうとする。俺も元カノと別れた時、酷くそんな気持ちになったもんだよ」
赤羽の同情が、心に沁みる。不味いタバコを吸うよりは、こちらの方が彼には良薬だった。そんな黒崎を、桃山も心配してくれる。
「やっぱり……辛いんだよね? 今日のレース」
「ああ。片方が勝つってことは、片方が負けるってことだ。友人が敗北する姿なんて、俺は見たくない」
空を見上げる。雨は降りそうにない。番狂わせの天候的要素がこの先割り込んでこないのならば、この勝負は白島に分がある。彼の負ける場面なんて、想像も出来ない。逆もまた然りだった。
下弦の月が、まるで黒崎をあざ笑っているように見えた。
気を紛らわそうとして、彼は何か別のことを考えることにした。未来のリザルトではない、例えば今日起こったこと。そこでふと、スタート前に青海と交わした言葉を思い出す。
「そういえば……今日って、青海の兄貴さんの命日なんですよ」
雫のように、ポツリと呟く。あまりに脈絡もないことを口にしたからか、二人の眼差しが心配から驚愕へと変化した。
「青海くんって、お兄さんが居たんだ……知らなかった」
「当然だろ、桃山は大学に入ってから青海と知り合ったんだから。あいつの兄貴さんはあいつが中学生の頃、このSRCで命を落とした。不幸な事故だった」
「黒崎……何が、あったんだ?」
話の先を赤羽が促す。
「タイムアタック中に、コースアウトしたんですよ。兄貴さんは五年前のSRCチャンプに最も近かったくらいに速い人で、その日はこの大学のレコードタイムを叩き出した日だったんです。んで、そのレコードを記録した次の周回にもっと速いタイムを出そうとして、結局ブレーキングミス。生け垣を乗り越え教養棟の外階段に真正面から突っ込んでクルマは廃車、兄貴さんも亡くならしたんです」
「ちょうど、俺らの立っている真下って訳か」
「ギャラリーするのにここを選んだ理由、別にそのことが関係してはいないんですけどね。たった今思い出したくらいですし」
黒崎の語りはとても静かだった。傍から見れば、当然の結末と言えるだろう。広いエスケープゾーンのあるクローズドサーキットならまだしも、SRCは道幅が狭いし余裕もないためコースアウトが即命取りになる。青海の兄も、最期は信じられない程に呆気ないモノだったろう。
「それじゃあ、青海くんは今お兄さんへの弔いの気持ちで走ってるのかな」
「今日の目的はそれだって、青海もレース前に言ってた。実は兄貴さんが死ぬ時に乗ってたクルマも、スバル<サンバー>でな。だから、青海は兄貴さんのことをかなり意識してるんだ。今も兄貴さんのレコードを越えるために、あいつは走ってる」
「それって、死にに急ぐってことじゃ……!」
はっとして慌てる桃山だったが、黒崎はそれを否定する。
「白島が居るから、大丈夫だろう。友人の前で死ぬことなんてできないからな、並走していることが青海にとってのセーフティロックとして機能してるんだ。逆に言えば青海にとって、今の白島は兄貴さんに近付くためのパートナーでしかない」
『友人が見ている』と意識するだけで、ヒトは自らのことを客観視できる。そうすれば熱くなりすぎて視野が狭くなることもなければ、危険な行為に足を突っ込むこともない。青海は白島と一緒になって走ることで、この効果を狙っている。だから彼にとって、このバトルには兄のレコードタイム更新の意味合いしか存在しない。
赤羽が懐からマルボロを一本取り出し、それに火を点けて吹かす。携帯灰皿に吸殻を落としてから、青海の兄と青海との関係に関心を示した。
「青海のやつ、お兄さんのことがよっぽど好きだったんだな……俺にゃ年下の従弟が居るんだけど、そいつは多分<86>に乗ったりはしないだろうな。お兄さんと同じクルマにまで乗るってのは、やっぱり血を分けた兄弟でしか芽生えない強い憧れってことなのかね」
「どうでしょうね。青海のやつ、赤羽さんにだって憧れ抱いてますし……というか、あいつは赤羽さんに兄貴さんを重ねてるんだと思いますよ」
「何でだよ、また? お兄さんと俺とに、共通点でもあるのか」
「コースに見合ったクルマ選びと、クルマのポテンシャルを存分に引き出した走り、でしょうね」
ピンと来ないような顔をする赤羽に対し、黒崎が思い出を懐かしむように語る。
「最初に赤羽さんを見たのは、首都高でエボⅣとバトルしてる時でした。俺を助手席に乗せながら、青海はインプのR205で赤羽さんとエボのバトルを追っかけてました。覚えてません?」
「あ~、あの青い<インプレッサ>か……バトルに参加してこないから不気味だなって思ってたけど、あれお前らだったのか」
「そのバトルで赤羽さん、道が地下に潜る際の高低差を使って勝ちましたよね。それがライトウェイトスポーツの<86>にしか出来ない芸当だ、このコースの特性を理解してそれにピッタリのクルマを操った最高のパフォーマンスだってことで、青海のやつは赤羽さんに惚れたんですよ。だから、その後すぐにSRCを申し込んだんです」
今年の春先にあった、青海対赤羽のSRCバトル。それは、青海のデビュー戦でもあった。その時のことを記憶のトランクから引き出しているのだろう、赤羽が得心の行った表情をした。
「なるほどな、それでさっきのセリフが生きてくる訳だろ? 青海のお兄さんも、SRCにピッタリな<サンバー>の特性を前面に押し出した走りをしてた。ちょうど今の青海のようにな。んでそれはあいつがお兄さんから影響を受けた結果であって、また俺の走りもそんな感じだったってことか」
わずか七〇〇キログラムの車重、コンパクトな車体、加速と回頭性を追求したRR駆動。SRCにおいて<サンバー>は最大の武器となり、それの性能を極限まで引き出せたものがSRCチャンピオンとなる。青海兄はそのようなドライビングで青海を魅了し、また首都高における赤羽も彼の目には同じように見えたのだろう。
「普通のサーキットならば強い訳がないクルマを使って、この限定的なコースを攻める……『常識を非常識で破る』って、青海もよく言ってますね。クルマの弱点だって、コースやらテクニックやらで相殺する。例えばインホイールリフトなんかは、フロントにトラクションがかからないRRの特性を逆手にとって――」
そこまで言いかけたところで、黒崎の口が突然止まる。彼の頭の中で散らばっていた点同士が、一本の思考というラインによって繋がった。
「んあ? どうしたよ、黒崎」
「いや、ちょうど今分かったんです……青海が用意した、とっておきの切り札が」
冷や汗を顔筋に伝わらせながら、黒崎がにやりと口角を釣り上げた。判明した、青海の切り札。それが一体何なのか、赤羽がせわしく促す。
「切り札、だと……?」
「話はびっくりするほど単純なんですよ。<サンバー>の弱点は、RR駆動を原因とするフロントトラクションの不足です。これのせいで、中々真っ直ぐには走れない」
エンジンがリアタイヤの直上にあるレイアウトが、<サンバー>やポルシェ<911>の採用するRR駆動だ。慣性力が後ろ側にかかる加速時にトラクションを得られるメリットがある反面、しかし前輪の接地性が低いため操舵が効きづらい。これにより発生するデメリットは二つ。『曲がらない』ことと、『真っ直ぐ走らない』ことだ。
うち前者に関しては、ドライバーである青海のテクニックにより克服可能。それどころか前輪のトラクション不足をインリフトによって利用すれば、コーナリングスピードは他のクルマを凌駕する。
問題は後者、直進安定性の欠如だ。フロントタイヤが地面に押し付けられないということは、わずかな影響でも操舵輪がふらついてしまうということ。車体も安定せずストレート走行中に余計なステアリング修正を強いられ、パワーをロスしてしまい結果としてストレートスピードが遅くなる。
現在、青海はこの直進安定性で苦しんでいるはずだ。特に相手が<ジューク>ならば尚更、四輪駆動はトラクションに優れるため直進安定性が高い。だから<サンバー>は、特にストレートで押し負けているのだ。
「このトラクション不足、赤羽さんならどうやって改善します?」
「普通なら、重くすりゃいいよな……でもいたずらに車重を増やすと、クルマの運動性も落ちちまう。俺ならそもそもでトラクション増加は諦めて、荷重移動のテクを磨くかな~……」
「ですよね。特に<サンバー>は軽量車体が武器ですから、車重を増やすなんてしないのが常識。でも青海は、それを非常識でぶち壊しますよ」
常識を非常識で破る。青海のぶれない根幹に、黒崎はただ笑うしかなかった。彼が話を続ける。
「車重増加のデメリットを出来るだけ抑えつつ、トラクションは最大限に引き出す。これを成し遂げるには、欲しい部分だけピンポイントに重量をかければいいんですよ。例えば<サンバー>なら、運転席と助手席にウェイトを積むとか」
前提として、<サンバー>は前後重量比が均一ではない。エンジンがリアにあるので、配分が車体後方に寄っているのだ。一方で運動性を良くする条件が、前後重量比五〇対五〇。ちょうど赤羽の<86>はこの数値に近い。
<サンバー>の重量配分をこの値に近づければ、運動性もフロントトラクションも改善される。だから車体前方――つまりキャビンに重量物を集中させてやればいい。
「そのうち運転席には青海が乗っているので、助手席に何かしら載せりゃいいんですよ。そしてレースが始まる前、俺は見たんです。助手席に、アレが載っているのを」
「アレ、って……」
「黒崎くん、そのアレって何なの……?」
赤羽と桃山が息を飲み込む。黒崎は目を閉じた後、二人を見据えて言い放った。
「青海の隣には――兄貴さんの骨壺が、載ってます」
S字カーブで覚えた加速感は、ロングストレート進入時にも青海を襲った。
(この感覚……この加速をモノにしなけりゃ、白島も兄貴も超えられない……っ!)
コロナーデとロングストレートを繋ぐ直角コーナーを、彼は溝落としサイドターンで通過する。ブレーキングは最低限で、右前輪をクリッピングの窪みに落としてサイドブレーキ。車体のノーズが出口を向いたところでアクセルを踏めば、<ジューク>に手が届きそうな錯覚に陥る。もっとも、その感覚はほんの一瞬だけだが。
重要なのは、ステアリングとアクセルのタイミングだ。二回も再現できたといえども、三回目があるかは青海次第。この先にある『教育学部テクニカルセクション』でも発揮するためには、彼の運転センスが重要となってくるはず。
(集中しろってことだろ……分かってるよ兄貴、五年前のアドバイスは覚えてるって。だからそこで――俺のナビシートで、俺の走りを見ていてくれ)
<サンバー>の助手席にあるのは、シートベルトで固定された骨壺。わざわざ墓から掘り出してきて、おまけに遺影と位牌もダッシュボードに載せている。だから今日こそ、兄の弾き出したレコードを越えなければ。
前輪に確かなトラクションを感じる。今までと違って、工学部ロングストレートを走っているのに舵角の修正が少ない。骨壺によるチューニングの効果は、誰よりも青海が一番理解していた。
(これでも前に追いつけるか……ストレートは、やっぱりジワジワと離される……!)
ブーメラン状のテールライトが、夜闇に溶け込もうとしている。直線で離されるのは承知の上で、彼は『差を出来るだけ広げないこと』を狙っていた。ここで追いつくにはエンジンパワーが圧倒的に足りないし、しかも相手は四輪駆動だ。逆立ちしてもかなわないのなら、<ジューク>が不得意な区間で攻めればいい。WRブルーの軽トラが得意な、低中速コーナーで。
(そのクルマの得意な場所で、ポテンシャルを最大限に……非常識的な兄貴の走り、カラクリはどれもがこれだった。そして、弱点はアイデアでカバーするってのもな。だから、決着はもっと先だ……!)
見えなくなるのもいとわずに、青海が白い<ジューク>を追う。直進安定性は、兄の力を借りた。それならば今度は、青海自身の力を発揮する時だ。
#3 on My Own/Donna (SUPER EUROBEAT Vol.134)
体育館北ロングストレートを、一匹の白狼が駆け抜けてゆく。満月でないのが悔やまれるが、それでも月明かりは彼を照らす。白島の操る<ジュークニスモRS>は、後続の<サンバー>に対しておよそ四秒半ものマージンを築き上げていた。
この彼我差は埋められない程に大きく思えるが、白島の予想ではもっと離しているはずだった。いつもより、青海が速い。この程度なら、少しでもコーナーが連続すればすぐ詰められる。
(うかうかしてられない、ってことかな……)
危機感を覚えた彼はアクセル全開、タービンをフル回転させ限界まで速度を上げた。アクセルを踏めばその分だけ、過給圧が彼を後押しする。三〇〇〇回転、四〇〇〇回転……回せば回すほど、狼の脚が強靭となってゆく。<MR16DDT>ターボエンジンは、ストレートで真価を発揮する怪物だ。
バックミラーの中で、WRブルーの<サンバー>が小さくなってゆく。ブレーキングポイントでは差を縮められるが、直線はこちらの独壇場だ。離してはまた近づかれ、離してはまた近づかれる。青海の前を走っていれば、誰もが襲われる奇妙な感覚。
しかし、今日は様子が違っていた。<サンバー>のゼロ加速と中間加速が、どうやら速くなっているらしいのだ。特に後者はストレートの遅い<サンバー>の特性に相反するモノで、白島としても完全なる誤算である。折角コーナーで彼と遜色ない走りをしているというのに、同等の中間加速で帳尻を揃えられている。思うようには、行かせてくれない。
「全く……本当に楽しいよね、青海は」
無意識に彼が呟く。現在このバトルを、白島は楽しんでいた。これまで『青い流れ星』のスタイルとして確立された『常識』を、青海自らが壊している。だから想定通りのレースはさせてくれずに、想定外の番狂わせを起こしてくれる。
計画は崩れるために存在する、とは白島の持論だ。当たり前の常識が当たり前のように実行されては、何の面白みも無い。予定調和を打ち壊すことこそが、エンターテインメントの醍醐味である。だから彼は計画や戦略を常識で武装し、それをかき乱してくれる不確定要素を望んでいる。それがまさしく、青海という友人なのだ。
今の白島は、心の底から楽しんでいる。マーシャルになるかドライバーになるか、当初の目的も忘れてしまった。SRC最速も知ったことではない。常識で青海を追い詰めて、青海はそれを非常識で返してくれる。そのことがただ楽しくて、白島はステアリングをずっと握っていたかった。
「楽しいよねぇ、青海はどう思うのっ?!」
やがて西門が見えるようになり、そこで白島はフルブレーキング。重く制動力の低い<ジューク>だが、エンドレス製のブレーキがしっかりと受け止めてくれる。荷重をフロントに目いっぱい乗せて、落ち着いてミスなく右コーナーを曲がる。ここから教育学部テクニカルセクションの始まりだ。
まずは先程曲がったターンⅠに続け、ブレーキを残したままターンⅡへ。ここのストレートは短すぎるため、ロクにアクセルも踏めない。それならば荷重を残したまま、二つをまとめて一つのコーナーとして捉え曲がるのが賢明だろう。
その先の直線は短いながらも、アクセルを踏んでタービンを回す。過給された空気をピストンが圧縮、シリンダ内で燃焼しパワーへと変換。すぐに二〇〇〇回転を越えたところで、ターンⅢ進入のブレーキング。
しかしこのターンⅢで彼は、<ジュークニスモRS>のスピードをほんのわずかしか落とさなかった。
その光景に、青海は衝撃を受けた。
道と道の間に障害物が少ないため、体育館北ロングストレートからは、向かいにあるテクニカルセクションのターンⅢがよく見える。<サンバー>と<ジュークニスモRS>はちょうどそこですれ違い、その差は変わらず四秒半程度のはずだった。
「なっ、何だよそれ……っ?!」
青海が目撃した白い<ジューク>は、とてつもない速さでターンⅢを曲がり切っていた。
元来、<サンバー>は教育学部テクニカルセクションが得意だ。その中でも中速コーナーであるターンⅢはアクセルの開度が最も大きく、軽量車体の<サンバー>よりも速くクリアーできるクルマは無いとされてきた。しかし彼の目に映った白島の<ジューク>は、青海と遜色ないコーナリングスピードでターンⅢを駆け抜けたのだ。
その要因は、コンパクトな車体だろう。幅も長さもスペースを取らないのなら、狭い道ですら空間をかなり広く使える。青海が軽量コンパクトなクルマしか扱わないのも、このメリットを重視しているからだ。加えて<ジューク>の場合には、そこにハイパワーターボと四輪駆動のパワートレインが重なる。そしてドライバーはターンインの名手、白島だ。むしろここまで条件が揃っていて、コーナーが遅いはずがない。
「これ、もう勝てないんじゃないのかぁ?!」
ストレスで青海が大声を吐く。差を詰めるつもりだったテクニカルセクションで、あろうことかタイム差を維持された。いや、もしかしたら広げられたかもしれない。そして恐ろしいことに、この先には追いつけそうなセクターが皆無なのだ。
テクニカルセクションを抜けた先は、直線レイアウトのオンパレード。途中の『経済学部テラストライアングル』を除けば、後は殆どがストレートになる。所々に直角コーナーはまだ残されているが、この差を埋めるのにそれだけでは足りない。
まさしく、絶体絶命だった。
「マジかよ、マジかよ、おいおいマジかよ……ちょっと待てって白島、止まれって!」
無理な願いでも、口に出てしまう。彼の焦りは、最高潮に達していた。この調子でテクニカルセクションに突入するも、白島より速い自信がない。インリフトでターンⅠとⅡを乗り越えるものの、七〇〇キログラムが鈍重にすら思えてくる。相手の二分の一程度の重量だというのに。
僅かなブレーキングからのターンⅢは、良くて白島と同タイム。正確に計れば、もしかしたら負けているかもしれない。そしてショートカットしながらターンⅣを右に曲がるも、追うべき<ジューク>はもうホームストレート上に居るため見えない。途中ギャラリーを数人轢いてしまったことも、青海は全く意識していなかった。
「ダメだ、全然見えないっ! どーしろってんだよこれぇっ?!」
テクニカルセクションの短いストレートですら、今の彼にはかったるく感じた。たった三本のこの区間だって、白島の方がコンマ何秒か速いはずだ。でなければ、彼が追い付けないのはおかしい。数回経験したあの加速感も、このセクションでは一回も彼の前には現れなかった。青海はまだ、加速を武器にしきれていない。
『青い流れ星』は、今日まだまともに観測されていない。
「どうするんだよ、兄貴――」
無意識にその言葉が零れたことに気付き、青海は動揺してブレーキングを誤ってしまった。
左足を踏み込むタイミングが、少し遅れた。迷ったのではない、ブレーキングポイントは完全にわきまえている。足が滑ったのではない、汗をかいてはいるが靴から染み出たりはしていない。ただ一瞬だけ思考がジャムって、足に命令が届かなかった。
――こんな時にまで、兄を頼るのか。
情けない、と青海は痛感した。この期に及んで、兄に助言を求めている。兄が何でも解決してくれると思っている。兄はもう、五年前に亡くなったというのに。
ただでさえ、今日のバトルでは兄の骨壺を利用しているのだ。SRCチャンピオン候補だった兄のアイデアはいわゆるジョーカーであり、それを二回以上切るのはフェアじゃない。隣で見守ってくれるだけでいいと考えていたのに、ピンチに陥るとすぐ頼る。近くに置いておくのは、失敗だったろうか。
(兄貴――)
フロントガラスのその先に、生きていた頃の兄が見える。幻影か、それとも幽霊だろうか。このまま轢くことが出来ないのは確かだ。遺影のようににこりと笑っていて、一緒に遊んでくれた時と同じ表情をしている。弟想いの良い兄が、青海の目の前に舞い戻ってきた。
そんな兄の笑顔を見ていると、懐かしいことも思い出される。兄に教えてもらったカート、兄の<サンバー>のナビシート、背中で感じるゼロ加速……思い出のどれもが、昨日のことのように鮮明。その時のことを想起しながら、目の前には意識を少しも注がず、ステアリングを左へと傾ける。そしておもむろにアクセルを踏んで、背中側からの圧力を覚える。
視覚ではなく身体全体で荷重を感じ取り、それを手綱として彼は青い<サンバー>を操った。
そして懐かしさと共に、あの加速感が再三青海に襲い掛かった。
ホームストレートはコモ棟付近に居たギャラリーたちが、木々の揺れるようにざわめき始める。白島の地味だが堅実なターンインの後、三秒経っても青い<サンバー>が見えてこなかったからだ。途中でクラッシュしたか、道を間違えたか。様々な憶測が全員の頭をよぎるものの、そのどれもがエラーである。
四秒六四。これ程のタイムを開けてから、青海はギャラリーたちの前に姿を現した。
「来たぞ、『青い流れ星』だっ!」
「オーバースピードで突っ込んでくるぞ、毎度ながらもシビレるぜ!」
「<ジューク>との差は四捨五入して五秒だぜ! こんなんで今日も勝てんのかぁ?!」
口々に好き勝手言うものの、それは青海にまで届かない。いくら軽トラのドアが紙のように薄っぺらいといえども、キャビンの中に居る彼には殆ど外界の音も聞こえないはず。しかしこの時はそうでなかったのか、信じられない光景が彼らの目の前で繰り広げられた。
<サンバー>がブレーキングでミスを犯し、制動しきれなかったのだ。悲鳴のようなスキール音。タイヤスモークがわずかに上がり、ゴムの匂いが撒き散らされる。攻めのブレーキングではなく完全な失敗であることを、この音と煙が教えてくれた。
「うわっ、限界求めすぎてミスったのか?!」
「パフォーマンス……じゃねーよな」
「バカかお前、<サンバー>は今負けてて余裕ねーんだぞっ?!」
ブレーキングを遅らせすぎたか、或いは集中力が切れたのだろうか。激しく体力を消耗するモータースポーツにおいて、ドライバーの集中力は途切れやすい。そのような時につまらないミスを犯し、結果としてクラッシュしてしまうのが常だ。特に耐久レースにおいて顕著だが、SRCのようなスプリントでも時たま起こってしまう。
けれども緊張の糸が切れた訳ではないということを、『青い流れ星』はここで証明して見せた。
ホイールスピンが、大きく轟く。とても短い排気管から、<EN07X>の唸りが吐かれる。
コモ棟脇のテクニカルセクション最終コーナーを流れるように、WRブルーの<サンバー>がドリフトで駆け抜けていった。
「うおぉぉぉ、スゲーよこれ!」
「WRCも顔負けのドリフトっ!」
「アグレッシブに攻めてやがるぜ、こりゃ五秒差もすぐに蹴落とすかぁっ?!」
そのパフォーマンスに、ギャラリーが湧く。スピード超過で突っ込んでからの、わずかな荷重移動を用いたブレーキングドリフト。そしてゼロステアで車体が安定したと同時に、アクセル全開のフル加速が見舞われた。タイヤ痕からは蜃気楼が立ち込め、青い軽トラのテールランプもすぐに夜闇へと溶け込んでゆく。最高の速さと最大の魅力を兼ね備えた、見事なまでのドリフトだった。
とはいっても、青海は普段ドリフトをしないドライバーだ。コーナーを攻める時は大抵インリフトかサイドターンで、リアをいたずらに滑らせる場面はなかなかお目にかかれない。RR駆動はリアにトラクションがかかるため滑らせづらいという事情もあるし、そもそもドリフトをするまで攻めなくても勝てるという自信もある。
そんな青海がどうしてドリフトを披露したのか、ギャラリーたちは理由を勝手に想像していた。
「やっぱ巻き返すのに、ドリフトは必須ってことじゃねーのかな?」
「でもこの先コーナーももう少ないし、逆転するのは厳しいだろ」
「じゃあじゃあ、もうバトルは諦めて一人でD1グランプリやって遊んでたってこと?」
「確かに死体を受け止めたりと、<サンバー>はコモ棟前で遊ぶ傾向があるけどさぁ……」
レースも残り三分の一。『青い流れ星』はどこで仕掛けるか、それとも<ジューク>が先行逃げ切りでSRC逆転チャンピオン誕生となるか。ギャラリーたちの憶測は、クルマよりも速く大学内を駆け巡っていた。
#4 No Other Love/Madison (SUPER EUROBEAT Vol.106)
理学部三年の女子大生である戸越(とごし)は、赤羽の率いる走り屋チーム『ナイトフライト』のサブリーダーだ。今年で二一歳になるが、一五〇センチメートル弱の身長と大きく束ねられたツインテールのせいか実年齢よりも幼く見える。ナイトフライトでは最速のドライバーとされているが、クルマの性能にまだ頼っている点とその容姿が理由でカリスマ性に欠けている。そのためリーダーの座を赤羽に明け渡し、自身はナンバーツーに甘んじていた。
そんな彼女も他のメンバーと同じく、青海対白島のSRC最終戦をギャラリーしていた。場所は図書館前、ちょうど教育学部A棟との間に挟まれたストレートが一望できるスポットだ。周囲では仲間たちも数名一緒に観戦しており、そこが密かにナイトフライト特別席と化している。
「エグゾーストが聞こえてきた……もう、近くにまで来ているのだ」
果たしてそれが<ジューク>のモノなのか<サンバー>のモノなのか、彼女にはまだ判別できない。どちらが前を走っているのかは、目の前に現れてからのお楽しみだ。あえて言うならば、前に<サンバー>とバトルした時はもっと低い排気音を聞いていた気がする。
メロンパンを頬張りながら待っていると、戸越のケータイに一件だけ着信があった。すぐに確認してみると、リーダーの赤羽から電話がかかってきている。通話ボタンを押してスピーカーを耳元に当てたら、意外な人物の声が飛び込んできた。
「はいもしもし~、戸越なのだ~……」
『あっ、戸越さんですか? 覚えてますかね、青海の友達の黒崎です。前にちょろっと話したことがあるはずなんですけど』
「あ~、黒崎くんだね。そっか、赤羽とも仲良かったんだっけ……それで、何の用なのだ? 残念だが、メロンパンはもう最後の一個で――」
『赤羽さんからの伝言ですけど、生協のメロンパンは砂糖多めで太るから、特に幼児体系のお前は気を付けろ、ですって』
図星を突かれ、閉口する戸越。確かに最近レポートに追われるストレスからか、メロンパンを自棄食いしていたずらに消費している気はしていた。まさかこのおいしいメロンパンが、彼女の身体にとって毒だとは。
『って、そんなこと伝えたくて電話寄越したんじゃないんすよ。実は戸越さんに、お願いがあって。白島と青海の走りを動画に撮って、こっちに送ってくれませんか?』
「<ジューク>と<サンバー>の動画……? いいけど、走ってるところだけでいいの?」
食べかけのメロンパンをナイトフライトのメンバーに渡しながら、彼女は奇妙な依頼について尋ねて返した。それについて黒崎は、より細かい注文をしてくる。
『具体的にはホームストレートからコーナーを曲がって進入、そしてA-Bシケインを通過するまでの一部始終です。ナイトフライトの皆さんは、図書館前で観戦してるんですよね?』
「そりゃ、ここからなら確かに撮れるはずだけど……そんなの、何に使うのだ?」
『戸越さんも、やってみりゃ分かるはずですよ。それじゃ、お願いしますね!』
その一言で通話が途切れ、ビープ音が虚しく響く。やるには構わないのだが、黒崎たちもどこかでギャラリーをしているはずだ。バトルを見たいのなら、自分たちも間近で見られるはずなのに。それに赤羽と同じくスタート/ゴール地点で観戦しているはずだし、途中経過が知りたいのなら結果を伝えるだけでも十分。彼の意図が、全く理解できなかった。
そうこうしている内に、排気音が段々と大きくなってくる。バトル中の二台が接近してきた証拠だ。戸越は慌ててケータイのカメラを起動し、言われた通りストレート入口のコーナーからビデオを撮り始める。
「来ましたよ、先行は<ジューク>です!」
メンバーの一人が叫ぶと同時、白い車体が暗闇から突然現れるのが見えた。あれが<ジュークニスモRS>、ドライバーは白島と言ったか。ケータイのレンズをそのクルマに向け、ファインダー越しで彼女は捉えた。
第一印象に、ドライビングが羊のようだと思った。ブレーキングでしっかりと荷重をフロントに移してから、低速のターンインでコーナーを曲がる。面白みはなく大人しいが実直で乱れもない、お手本のようにしっかりとしたコーナリング。見ていると眠くなりそうだが裏にはテクニックがぎっしりと詰まった、常識の固まりのような走りだった。
しかしストレート区間に入ると、その印象も一瞬で崩壊する。<MR16DDT>エンジンが、まるで狼のように吠え出したのだ。荒ぶるパワーを4WDで封じ込め、辛うじて安定性を得ている走り。特に中盤からの伸びが良く、他を寄せ付けない獰猛さを纏ったドライビングと言えそうだった。
「凄い、これがSRC……」
『埼大西A-Bシケイン』に突入する<ジューク>を見送り、思わず言葉を漏らす戸越だったが、彼女にはまだ仕事がある。一台目を撮り終わった次の瞬間、おおよそ四秒半遅れて、WRブルーの<サンバー>が姿を現したのだ。この時点でこの差を取り戻すのは、少々現実味に欠ける。いくら『青い流れ星』とはいえ、今回は敗色濃厚だった。
カメラを軽トラに向けてみると、しかし何故か違和感が彼女を襲う。今まで見ていた<サンバー>とは、どこかが変わっている気がするのだ。具体的にどことは指摘できない、あえて形容するなら『オーラ』だろうか。猛追する気迫を外に滲ませ、青海は埼玉大学を限界スピードで攻めている。
そして黒崎が何故動画を取るよう依頼したのか、彼の走りを見ればそれは一目瞭然だった。
「おっ、戸越から例のブツが届いたぜ」
着メロである『Truth』(F1のテーマでお馴染み)が鳴り響き、赤羽が自身のケータイを取り出す。送られてきた一通のメールには動画ファイルが添付されており、黒崎や桃山と一緒になってそれを再生した。
最初に映っていたのは、白島の<ジューク>だった。お手本のようなターンインと、とても獰猛な直線加速。魅力的な矛盾を見せつけられてか、ギャラリーの歓声が大きく聞こえる。ただ一点だけ、ブレーキングで車体重量が仇になったのかタイムロスをしているものの、トータルで見ればSRC史上トップクラスの区間タイムだった。
「白島くんのクルマ……何だか、凄く速いですよね」
「確かに、それは認めざるを得ないよな。桃山ちゃんでも分かるくらいに、白島の走りは圧倒的だよ」
「それも重要ですけど……こっからですよ、注目どころは」
黒崎が促すと、今度は動画に<サンバー>が出てきた。白島との差は、四~五秒といったところか。しかし青海のドライビングは、諦めているようには見えなかった。
溝もなければ乗り越えることも出来ないからか、青海はサイドターンで入口のコーナーを攻める。スピーカーから出るスキール音が割れ、見ているだけで振動した空気が伝わってきそう。そして無駄な動きもせず綺麗に立ち上がり、A棟前のストレートを進む。あれだけうるさかったガヤもその瞬間だけは静まり返り、エンジンサウンドの独壇場と化していた。最後にいつも通り限界ギリギリのブレーキング、今度はクリッピングを乗り越えられるにも関わらず、インリフトではなくまたもやサイドターンでA-Bシケインを駆け抜けていった。
動画はそこで終わっていて、ディスプレイもブラックアウトしてしまう。赤羽がリプレイボタンを押してから、黒崎は本題を切り出した。
「……で、この動画を見てどう思ったか。そうだな、たまには桃山に聞いてみるか」
「えっ、えーっと……青海くんが、カッコよかった?」
「小学生レベルの感想は求めちゃいねーんだよ、はいテイクⅡ」
無慈悲な彼のNGを受けて、桃山がもう一度挑戦する。
「そんなこと言われても……青海くんの勢いが、いつもよりも凄かった気がするかな? あと、いつもやってるインホイールリフトってのをやってなかったとか」
「おぉ、桃山ちゃんも流石に成長してきてるな。まともな評価が出来てる」
嬉しそうな顔をする赤羽に、黒崎が質問を投げかけた。
「ってことは、赤羽さんも同じことを?」
「勢いもそうだし、インリフトじゃなくてサイドターン。確証は俺もこんくらいしか持ってないけど、タイム計ったら青海の方が速いだろ。この区間」
「その通りですね。でも、確証ってやつは他にもちゃんとあるんですよ」
再生されている動画のシークバーで、二台の区間タイムを測定する。コーナーを抑えながらも直線で勢いを見せる<ジュークニスモRS>と、直線は苦手ながらもアグレッシブにコーナーを攻める<サンバー>。三人が確認してみたところ、驚くことに青海の<サンバー>が白島よりコンマ七秒ほど短いタイムだった。
「え、えげつないな……」
「やっぱり、赤羽さんもそう思いますよね。たったこれだけのストレートで、およそ一秒も詰めている。青海の走りが、今までのそれじゃないんですよ」
スタートしてからテクニカルセクションまで、青海は白島に押されていた。ギャラリー御用達のSNSを見た限りだと、直線の中間加速が段違いであること、コーナーで差を詰められないことの二つが主な原因だったらしい。特に後者は、コーナリングスピードを主力としている<サンバー>にとってかなりの痛手だった。
しかしこの動画の地点では、青海の方が総合タイムで勝っている。つまるところ、先述した二つの敗因をバトル中にクリアーしたということだ。その内直進安定性については、助手席の骨壺で説明がつく。しかしそれだけでは、理由が足りない。
「青海の走りに、変化が生まれたって訳か……インリフトでなくサイドターンにしたってのが、そんなに影響大きいのかよ?」
「それもありますけど、それだけじゃない……<ジューク>の方に、弱点が生まれたんです」
「……弱点?」
赤羽が聞き返すと、彼はとても単純にその言葉を放った。
「ターボラグですよ」
それを耳にして何となく理解したのが赤羽で、一方いつも通りに首を傾げるのが桃山。やはりいつものように、二人して説明にかかる。
「桃山、ターボチャージャーの仕組みって覚えてるか?」
「確か……エンジンに無理矢理、空気を送り込むんだっけ。扇風機みたいなのがブォーって回って」
「ざっくりし過ぎだ……エンジンの排気でタービンを回してコンプレッサーを作動させ、そのエネルギーで空気を過給する。言ってしまえば、使用済みのエネルギーをリサイクルしてる感じだ。扇風機ってのは、タービンとコンプレッサーのことを言ってるんだろう?」
エンジンが燃焼した空気を排気する際に、そのエネルギーを再利用するのがターボチャージャーだ。排気管の中にタービン(風車)があり、排気が発生することでそのタービンも回転される。すると吸気管の中にあるコンプレッサー(送風機)が連動し、より多くの空気をエンジンに送り込む、というカラクリである。
「そんな感じで、黒崎の言うそのターボだけど、構造上どうしても発生する問題があるんだよ。桃山ちゃん、分からない?」
「って、言われましても……赤羽さん、何かヒントってくれませんか?」
「そうだな……過給を受けて初めて、エンジンの出力は増大する。こんなんでどう?」
彼の助言を基に、桃山が乏しい知恵を振り絞る。しかしそこは今までSRCを見てきた彼女、勘も徐々にだが備えつつあった。しばし唸った後に閃いて、声を大きく張り上げる。
「過給を受けるまで、時間がかかるとか!」
「正解だよ、桃山ちゃん。それが件のターボラグで、白島が悩まされているだろう問題なんだ」
見事的中して、桃山が小さく飛び跳ねる。春の頃とは比べモノにならない程、彼女の知識も蓄えられてきた。
ターボチャージャーはその構造上、過給(ブースト)を受けることが前提条件となっている。エンジンが作動した後の排気がタービンにまで届いて初めて、そのパワーを発揮することが出来るのだ。しかし裏を返せば、排気が来るまでは力を発揮することができない。この排気が到達するまでのわずかな時間が、ターボラグだ。
自然吸気に比べて余計なパーツが付いていることや、過給前提で設計されていることなどが理由で、ターボエンジンはコンプレッサーが作動するまでは排気量の割に非力となる。つまりターボラグが出ている間は、自然吸気エンジンにパワーで負けるのだ。ほんのわずかな差ではあるものの、千分の一秒を争うモータースポーツにとっては致命傷となり得る。
「<ジュークニスモRS>の搭載する<MR16DDT>エンジンは、およそ二〇〇〇回転から最大トルクが発生する。ということはエンジンの回転数がこれ以下の場合――ハードブレーキングからのゼロ加速に加え、直線区間が短く加速しきれない場合に限り、<サンバー>にすらストレートで力負けしてしまう。青海はそこを突いているんだ」
「白島くんが本気を出せない間に、青海くんがギュっと追いついてるってこと?」
「その通り。そしてそれを可能にしているのが、<サンバー>というクルマそのものなんだ」
この時に黒崎が指した対象は、いわゆる『青い流れ星』ではなく、純粋な軽トラとしての<サンバー>だった。当然青海のテクニックは最高クラスだし、それがなければ白島に追いつくことは不可能だ。しかし青海の腕よりも重要な要素が、WRブルーの<サンバー>には隠されている。
「桃山、今度はスーパーチャージャーって覚えてるか?」
「アクセル踏んだら、グゥィーンってすぐ動くやつ」
「お前は少し、用語を覚える努力をすべきだと思う」
黒崎が呆れるも、補足説明を挟んでやる。
「と言っても、それで大まかには合ってるか。クランクシャフトから動力を得て、そいつでコンプレッサーを作動させる……エンジンのエネルギーを再利用してるって点では、ターボと同じなんだけどな」
クランクシャフトは出力軸と訳される通り、エンジンがパワーを発揮するのに重要なパーツの一つだ。具体的にはガソリン燃焼によるピストンの上下運動を、円運動へと変換する役割を持っている。このエネルギーが最終的にはタイヤを回す駆動力になるが、その一部を割いてコンプレッサーを動かすことで過給するのがスーパーチャージャーである。
「けれどターボとの相違点として、エンジン内部で完結してることが挙げられる。そうだろ、黒崎?」
「そうですね、赤羽さん。だからこそ、スーチャには多大なメリットがある」
「え~っと……?」
桃山が顎に手を当てて考え込む。しかしそれでは埒が明かないので、スーパーチャージャーの特徴について赤羽が解説を始めた。
「スーチャの利点については、前にも言った気がするけど……最大の特徴がさっき言った通り、エンジンの内部でエネルギーフローが完結してることなんだよ。だからタービンだとか余計なパーツも不要でコンパクトにまとめられるし、ガソリンを燃焼した瞬間から作動するからタイムラグも無い。軽量でレスポンスに優れるってのは、ターボにはないスーチャの美点なんだ」
時折ジェスチャーを交えながら、彼が視覚的に説明する。例えばターボだとエンジンより発生した排気が、わざわざ離れたタービンまで遠回りしなければ作動しない。赤羽が右手でエネルギーの流れを表すと、この場合は大きな円を描いていた。一方でスーパーチャージャーは、手によるエネルギーフロー表現も小回りなモノとなった。
スーパーチャージャーは、つまり小さくまとまっているのだ。動力源であるピストンからコンプレッサーまでの物理的距離が近く、余計なモノを介さない。だから本体もコンパクトだし、アクセルを踏むとラグ無しですぐ反応してくれる。
「このレスポンスの良さは、そのまま加速性に直結してくるんだよ。低回転域のトルクが、ラグのあるターボ車なんかよりも断然に優れてる。特に<サンバー>は軽いし、今だったら直進安定性も良い……だから今の<サンバー>は、加速が一番速いってことだね」
「その加速の良さを使えば、白島くんのクルマにも追いつける……!」
彼女の表情が明るくなる。序盤の流れと比べれば、現在の青海は見事な形勢逆転を決めていた。黒崎がそこに口を挟む。
「後はRRレイアウトも効いてるな、あれは加速が良いから……」
「だけどよ黒崎、青海がサイドターンを決めてきた理由は何だと思う? 俺、そこだけ上手く理解できねーんだわ」
「あぁ、それなら……簡単ですよ、低回転域のトルクを意図的に取り出してるんです」
黒崎の口ぶりも、徐々に明るくなっている。
「低回転域のトルク……サイドターンで、それが変わるのか」
「インリフトの場合だと、コーナリングスピードが高いレベルで維持されるでしょう? それはつまり、エンジンの回転数も高いままってことなんですよ。だからきっちりブレーキをかけてからのサイドターンで回転数を落として、脱出先のストレートから一気に加速するんです」
いくら天下のコーナリングマシンといえども、直線を走っている方がスピードも乗る。あくまで他車に比べてコーナーが速いだけで、エンジンの出力自体はストレートの方が高いのだ。また高回転域に突入するほど、スーパーチャージャーの効率は悪くなる。そのため無理にコーナリングスピードを確保するよりは、低回転域でしか発揮されないスーパーチャージャーの力を立ち上がり時に引き出すべきである。
「しつもーん、コーナーが速ければそれで十分なんじゃないの?」
「スーチャはその特性上、低回転域で最も効果を発揮し、反面高回転域ではあまり出力も上がらない。だからスーチャの恩恵を受けるには、なるべく低回転域で加速するドライビングをすべしってことだ。インリフトとサイドターンじゃそこまで速度差も無いし、白島はどっちにしろコーナーを合わせてくる。加えて<ジューク>のターボラグという弱点を突くには、この方法がベストってことになる」
特に短いストレートでは、黒崎の言うとおりである。ターボは高回転域重視のため短すぎるとパワーを出しきれず、スーパーチャージャーは低回転域重視なので立ち上がりから力強いトルクを発揮できる。タイムを最も縮められるのが、A棟前のようなショートストレートなのだ。
「軽量車体にRR駆動、直進安定性、そしてスーチャ……この四つの要素を併せ持った<サンバー>による、全身全霊の直線ゼロ加速。この先は短い直線が多いから、青海の逆襲が始まるぜ」
興奮して笑みが零れるこの黒崎は、先程までのナイーブな感情を夜空に捨て去っていた。
「んでよ、問題はどこでオーバーテイクするかだろ……特に道幅が狭いところばっかだから、ロクに二台並べるところもありゃしねー。黒崎、行けると思うか?」
「五分五分……ですかね、俺の希望は。客観的に見たら――いや、俺にはそんなこと無理です」
赤羽の問いに対し、大学会館方面を向く黒崎。
「ただ一つ言えるのは、青海のヤローも『隠されたシケイン』に気付くだろうってことですよ」
#5 Make Up Your Mind/Wain L (SUPER EUROBEAT Vol.44)
コーナーが見えたとほぼ同時、適当な踏力でブレーキング。荷重をしっかりフロントに預け、サイドブレーキを目一杯に引く。進入スピードを活かしたインホイールリフトよりも、このサイドターンの方が色々と都合がいい。そこまでタイムロスにもならないし。
ステアリングを左に切って、リアタイヤが激しくスライドするのを感じる。大切なのは、クルマを身体の延長と捉えることだ。操舵輪は腰で、駆動輪は足。荷重の移動を感じ取って、わずかな動作でコントロールする。ミスを一切削ぎ落とすには、この方法が一番だ。
ノーズが進行方向を向いたところで、間髪入れずにアクセルオン。サイドブレーキから解放されて、リアタイヤが勢い良く暴れ出す。それを制御するフロントタイヤは、ぐっと地面に押さえつけられている。骨壺によるトラクション増加は、確実に効果をもたらしていた。
シリンダ内で混合気が燃焼、ピストンとクランクシャフトが働き始める。コンプレッサーも唸りをあげて、吸気量が無理に上昇。増大したトルクはリアタイヤに直接伝えられ、爆発的な加速を生み出した。
直線ゼロ加速。わざと回転数を下げることでスーパーチャージャーの旨味を抽出する、ストレートを最速で駆けるテクニック。
「兄貴、分かったぜ……こういうことなんだよなぁっ?!」
溢れ出る荷重を背中に受けながら、青海が叫び教育A棟前のストレートを疾走する。兄の幻影が教えてくれた技、或いは思い出させてくれた記憶。以前兄の操る<サンバー>に同乗していた時、兄がこの直線ゼロ加速を披露してくれた気がする。曖昧な記憶だったが、しかし兄は今、青海の傍に居る。
「耳を澄ますんだ、兄貴の声と<サンバー>の声……!」
クルマを身体の一部とするには、そのクルマの『声』を聞き取らなければ。エグゾーストの音はどうか、タイヤのスキール音はどうか……背中から伝わる感触だけでは、全てのことは把握できかねる。聴覚も併せて動員することで、初めて<サンバー>がどうしたいのか、何が出来るのかを感じ取れるはず。
――なぁ<サンバー>、お前はどうしたい?
<EN07X>エンジンから伝わってくる、コンプレッサーの作動音。まるで深呼吸のようなそれは、応と答えたが故のモノ。
――お前も、同じことを考えているのか。
目の前の<ジューク>が見える、今A-Bシケインのブレーキングを終えたところだ。遠くからわずかに見えるだけでも、白島のブレーキングに無駄が纏わりついていることが分かる。もっとスマートに行けるはず、この<サンバー>ならば追いつけるはず。
ブレーキングポイントを見極め、左足でブレーキを踏む。完璧な減速をギャラリーに披露し、エンジンの回転数が一〇〇〇程度であることを確認。慣れたらサイドターンではなくアクセルオンによるパワースライドで方向を変え、コーナーの途中から直線ゼロ加速。『埼大西Aストレート』を、出来るだけアクセルオンの時間を長く取るようにして走る。
<ジューク>のリアに輝く日産のエンブレムが、<サンバー>のヘッドライトで鈍く光った。
「三秒……いや、次のトライアングルで一、五秒以下にまでグッと縮める! それ以降、オーバーテイク出来るのは――!」
次に控える『経済学部テラストライアングル』は、短い直線と低速コーナーの連続した区間だ。ここは今までの流れから考えて、直線ゼロ加速を覚えた青海の方が俄然有利。しかし問題は、パッシングポイントだ。テラストライアングルは狭い故、抜くことは不可能に近い。その先の右コーナー、大学会館前のストレートも同じ。ホームストレートは短すぎるし、教養全学ツインストレートは幅が広いものの普通に仕掛けては<ジューク>に分があるため不発に終わる。
頭の中でコースをなぞる。どこで仕掛けるべきか、チャンスは一度のみ。そのタイミングを見誤ったら、彼の負けが確定してしまう。すなわちSRCチャンプになれない、兄を越えることが出来ない。ただでさえ兄の助けを二度も借りているというのに。
今度こそ、自分の力で越えて見せねば。
そこで、青海は『隠されたシケイン』に気付く。
「この先、もしかして――よし、行くっきゃねーっ!」
腹をくくってフルブレーキング、右に曲がりテラストライアングルへ進入する。こうも短いストレートが続くと、より車体のコンパクトな方が動きやすい。しかもこちらはスーパーチャージャー、低回転域の申し子だ。もたもたと曲がる<ジューク>の後方三、三秒、『青い流れ星』が光の尾を曳き駆け抜けた。
経済学部のある方向から、エグゾーストが響いてくる。それが青海と白島のどちらなのかは分からない、二つの音が重なっているから。
「二台がデッドヒートを繰り広げてるって訳か……どっちが前だっ?!」
「赤羽さん、落ち着いてください。パッシングポイントがロクに無いのなら、先頭は変わらず白島のはずです」
そうなだめる黒崎は、とても落ち着いた声色をしている。それが不思議でならないのか、桃山が横から声をかけてきた。
「黒崎くん……心配じゃないの? 青海くんが負けるとか、白島くんが負けるとか」
「片方が勝つからな、もう誰かの負けについては考えないさ……それに、どっちが勝つのかの見当もついている」
「……ホント? それって」
半信半疑で訊き返す桃山、そして占いは信じないタイプの赤羽。当然理論派の黒崎もそうなので、彼の結論に至った根拠を伝える。ただし、どちらが勝つのかというのはあくまでも伏せて。
「俺たちの右側……外階段の前にあるの、何だか分かります?」
「何って、そりゃ……大学会館前のストレートに、教養全学ツインストレートだろ」
「じゃあ、それらの間には?」
ここで赤羽が目を見開いたということは、彼は理解できたらしい。しかし桃山はまだなので、彼女のためにも説明を続ける。
「会館前の直線からツインストレートに至るまで、桃山ならどうやって道を通る?」
「えっと……こっから見える通りで良いんだよね。まず右に曲がって、ホームストレートを少しだけ進んで、その次に左に曲がる、ってので合ってるかな?」
「それが答えだ。連続してるんだよ、短い直線と低速コーナーが」
「あっ……あぁっ、ホントだっ!」
素っ頓狂な声を出しながら、彼女が件のコースを指差す。大学会館前の直線とホームストレートは比較的短く、それらを繋ぐコーナーはとても狭い。いかにも青海の直線ゼロ加速が決まりそうな、けれども誰一人として気付かなかったセクション。
「俺はこれを、『隠されたシケイン』って呼ぶことにした。間抜けな話だよな、今まで誰も見つけられなかったなんて。そりゃ確かに、まさかホームストレートの走行区間がこんなに短いなんて夢にも思わないけど」
普段学内を徒歩で移動している学生ほど、この罠に陥りやすい。自動車で通過する際とでは、感覚がまるで違うからだ。歩けばちょうどいい距離であっても、SRC中のクルマにとってはあっという間のショートストレート。実際に走行してみなければ、この周辺の構造を完全には把握しづらい。
「それで黒崎、その短いホームストレート上でオーバーテイクするって訳だろ? ちょうど二車線に分かれてるし、道幅も広いんだしよ」
赤羽が推測を口にするも、それを聞いた黒崎は指を振った。
「赤羽さん、青海は我らが無教養学部の学生ですよ? 自らのホームコースの前で、いいとこ見せたいって思うじゃないですか」
「ってことは――」
彼がそう言いかけたところで、バトル中の二台が見えてきた。大学会館前、短い悪路を一秒差以内で爆走している。
「やっぱりか、先頭は結局白島だっ!」
「よく見てくださいよ、こっから先――」
青海と白島が、ブレーキング勝負に差しかかる。重い車体を必死に止めようとする<ジューク>に、アグレッシブなスピードを体現する<サンバー>。シフトダウンのサウンドはまるで、時計の秒針音のよう。一秒、二秒と刻まれてゆき、差も段々と削ぎ落とされる。そして、結末は――。
「あぁっ、白島くんがオーバーランしたっ!」
桃山が叫ぶとほぼ同時、『青い流れ星』が羊を捉えにかかった。
その瑠璃色に染められた軽トラックは、明らかにこれまでの<サンバー>ではなかった。
(おかしい……ホームストレートを抜けたあたりから、絶対に差が縮まってる! 僕の方はパフォーマンスも落ちてない、最高の状態で来てるのに……っ!)
白島が心の中で悪態をつく。バックミラーを見る度に、<サンバー>の輪郭がくっきりと現れてくるのだ。テラストライアングルを抜けようとしている今、まさしくその差は一、三秒。次の二食前にある右コーナーで、とうとう一秒以内にまで詰められるだろう。
(これまでは直線もコーナーも、<ジューク>の方が有利だった……なのに突然、テレポートでもしたかのように近づいてくる! やっぱりニトロでも積んでるんじゃ……?!)
スタート時に覚えた違和感を、彼はこの瞬間に思い出していた。ほんの一瞬だけだったが、加速で軽トラに負けている。それからしばらくは突き放していたため勘違いかと思ったが、そんなことは決してなかった。青海は後半に入ってから、あの加速を上手く利用して追いついてきているのだ。
元々<サンバー>の加速が良いことは、白島もわきまえていた。これまでのSRCで青海が武器にしてきたのを見ていたし、だからこそ中間加速以降のストレートスピードで勝る<ジューク>を以て彼に挑んだ。だというのに、直線で思うように差を広げることが出来なかった。
バックミラーを一瞥すれば、『青い流れ星』が降ってきている。光の尾のようなオーラを曳きながら、白島のことを猛追している。このまま彼の先頭を走っていては、いつか気圧されて蹴落とされる。
今この瞬間に限って言えば、この<ジューク>はただの羊だ。
「負けられない、けど……っ!」
必死のアクセルワークで加速し、二食前のコーナーを攻める。4WDではどうしてもアンダーステアになってしまうが、右足の動作でそれを抑える。それでいてスピードも出さなければ、すぐさまペロリと捕食される。
ゴールは目前だというのに、一秒差もあれば勝てるはずなのに。この時の彼にはどうしてか、もっと逃げなければならない気がした。
針の穴に糸を通すような、進入口の狭いストレート。大学会館前のギャラリーが、彼をあざ笑うように見える。何もかもがプレッシャーの獣となり、白島という餌を丸呑みにする。
負けられない。だからこそ、辛い。
コーナーを曲がり切った<サンバー>が追い付く。彼我差が一秒以上あるようには、到底思えなかった。被捕食者である白島としては、テールトゥノーズのように思える。バックドアのすぐ後ろに、WRブルーの軽トラが張り付いているような。会館前のストレートは、そんなに長くないはずなのに。
そう、ここは一秒差が並べる直線ではない。
「しまった、オーバーラン――」
白島がそのことに気付いたころには、既に会館前の直線を抜けてホームストレートへと差し掛かっていた。慌ててブレーキを右足で踏むも、赤熱したディスクブレーキが限界を迎える。フロントへの荷重移動もままならないまま、ターンインで無理矢理右へ曲がろうとした。
ステアリングを切るとともに、激しいスキール音が響く。タイヤのグリップが限界を超え、四輪ドリフト状態で曲がる。辿り着いたのはホームストレートの左車線、大学会館から見て奥側のラインだ。無駄な挙動が多すぎて、大幅なタイムロスを喫してしまった。
そして彼は、凄惨な現実を見せつけられる。
「パワーが、全然出せない……っ?!」
ブースト圧を発生させるのに、目の前のストレートはあまりにも短すぎた。馬力もトルクも、全然伴ってくれない。今の<MR16DDT>は、非力な自然吸気エンジン同然だった。
そしてもう一つの要因が、CVT(無段変速機)だ。MTやATと違って歯車を使用しないトランスミッションであるが、欠点としてエンジンの回転数に対しフィーリングが悪いことが挙げられる。実際の回転数よりも低いスピードで走っているように感じてしまい、だから思うように加速してくれない錯覚を起こすのである。
二〇〇〇回転にも達しないうちに、左コーナーへのブレーキング。しかも道幅を広く取れないため、行動範囲も限定される。ただでさえ荷重不足でターンインが出来ないというのに、アウト・イン・アウトどころの話ではない。今まで以上に減速しなければ、ツインストレートへ進入することすら叶わない。
つまり一秒もあったマージンを、ここで消費するということだ。
「そんなっ、青海――!」
ホームストレートの右車線には、青い<サンバー>がサイドバイサイドで追いついていた。
相手は会館前のストレートで余裕があった分、手前側の右車線に飛び込むことが出来た。どうせサイドターンを使ったのだろう、そしてそこからのゼロ加速ならば一秒差を消し去ることが出来る。ターボチャージャーとスーパーチャージャーの特性差を、こんな終盤でぶつけてきた。
短い直線というコースに見合ったクルマ選びと、低回転域を重視したクルマのポテンシャルを存分に引き出した走り。『青い流れ星』らしいバトルの仕方で、白島の<ジューク>を捕まえに来る。
<ジューク>と<サンバー>の二台が同時に、左コーナーを駆け抜けてゆく。方やイン側ながらも失速した4WD、方やアウト側だが速度の乗ったRR駆動。こちらが有利なラインであっても、コーナリングマシン相手に勝てることはない。
教養全学ツインストレート進入で、白と青のノーズが横に並んだ。
左側が白島で、右側が青海。ここで抑えることさえできれば、ここで抜かれることさえ無ければ。人生で最も試される、男同士のゼロ加速勝負。
ここがストレートである以上、<ジューク>が負けるはずがない。仮に初速で負けたとしても、中間加速で追いつき追い越す。<MR16DDT>は、SRCにて最強のエンジンだ。
「最後の、バトルだよっ!」
右足でアクセルを最大に踏み、過給圧を無理に発生させる。やはり蹴り出しはスピードが乗っていた<サンバー>が有利、車体半分ほど先行されてしまった。しかし教養棟入口の辺りで、ブーストがエンジンにまでようやく到達。爆発的な加速を生み出し、じわりじわりとバンパーを前へ。四輪駆動がトルクを受け止め、失った差を少しずつ詰める。
そして次に待ち構えているのは、『教育機構棟ヘアピンターン』。ここで白島が、運命を分かつ岐路に立たされる。
「どう、すれば――」
ツインストレートの上りと下り、それらを分かつ一八〇度ヘアピンコーナー。ここを確実にクリアーするには、<サンバー>に並ぶ前に減速する必要がある。しかしそのアクションを取っては、曲がった先で追いつくことが叶わない。ツインストレートの半分まで、つまりこの瞬間で追いつけていないのだから。
かといってオーバースピードで突っ込み、無理矢理曲げるのも得策ではない。相手の方が軽い以上、どれだけ突っ込みで勝負しても<サンバー>に勝つのは不可能だ。先程のようにオーバーランして、無残に抜かれるのが落ちかもしれない。
減速するか、突っ込むか。どちらが成功するかも不明、二者択一の大博打。
(どうする、どちらを取る……っ?!)
ブレーキを踏めば相手の先行を許してしまうし、アクセルを踏み続ければ曲がり切れない。けれどもブレーキを踏めばクロスラインを狙えるかもしれないし、アクセルを踏み続ければ鼻先をねじ込んでのブロッキングが出来る。左と右、どちらのペダルを踏むか。どれを選ぶにしろリスクが付き物で、中々決断することが出来ない。
(どうすれば、どうすれば――)
悩む。考える。冷や汗が頬を伝う。どちらがより勝率が高いか、計算する猶予も残されていない。相手が待ってくれることもない。それでも白島は、どの手を取るべきか迷い続ける。
そしてその迷いが、全てを決定づけた。
「しまっ、また――っ!」
ブレーキングのタイミングを見誤り、ブレーキランプの点灯がワンテンポ遅れる。散々迷い悩んだ末の、痛恨のオーバーラン。慌ててステアリングを右に切り、慣れないサイドブレーキまで併用する。
そして右を再度振り向けば、『青い流れ星』はイン側に居た。
圧倒的有利なライン取りは、会館前のストレートから続いていたのだ。あそこからホームストレートを右車線に進入することで、最終的にヘアピンターンではイン側になる。ツインストレート進入は不利なアウト側だが、軽量車体を活かせばギリギリでクリアーできる。
カウンターアタック。青海の最も得意とする技。
決心できなかった白島は、結果として青海に一本取られてしまった。
サイドターンで小回りに決めて、<サンバー>がツインストレートの後半を疾走する。まるで流れ星のように。<ジューク>よりも、断然速いスピードで。
白島がブレーキを踏んだ頃には、もう彼に勝負権は残されていなかった。かなり大回りに曲がってしまい、取り戻せない程に遅れてしまう。それでもアクセルを右足で踏み、過給圧がやってきた頃には、<サンバー>のテールライトが既に彼方へと消え去ってしまっていた。
何も聞こえない。何も見えない。静寂と暗闇が、哀れな羊を覆って奪う。
白島の<ジュークニスモRS>、教養全学ツインストレートにて敗北。
そして同時に、今年度のSRCチャンピオンが確定した。
#6 Checker Flag
青海がゴール地点で待っていると、しばらくして白島の<ジューク>がゆっくり近づいてきた。バトル中の気迫はどこへ行ったのか、今ではただのずんぐりとしたクルマに過ぎない。
<サンバー>の真横に駐車して、白島が<ジューク>から降りてくる。酷く体力を消耗しているが、瞳はとても輝いて見える。レースを終えた後特有の、不思議なドライバーズ・ハイと言ったところか。
「……よぉ、白島」
「青海……今日は、ありがとう」
にこやかに微笑み、握手を求めてきた。こちらもそれを握り返すと、相手の気持ちが伝わってくる。熱い体温と、柔らかな感触。身体の内側から湧き上がる、ポジティブな感情が。
「そんなデート後の女の子みたいなことを言われてもなー……でも、こっちこそありがとな。良いバトルだったよ、白島」
「それは良かった。青海から見て、今日のバトルはどうだったかな?」
突然そんなことを尋ねられたので、青海は不意に閉口してしまう。あまりにも多くのことが起こりすぎて、一言で表しづらかった。こんなに感情が目まぐるしく変わるレースも、もしかしたら初めてかもしれない。だからその中で最も印象的だった出来事について、彼は感想を静かに述べた。
「……懐かしかった」
それを聞いた途端に、白島が吹き出す。どうして笑われるのか理解できなかったので、慌てて青海が非難した。
「おいおい、そんな笑うこともないだろーよ」
「ゴメンゴメン、あまりにも青海らしかったから。本当に、不思議な感性をしてるよね」
悪気無しで、彼がそう答えてくる。確かにバトルの最中に兄の幻影を見てしまうあたり、感性は不思議なのかもしれない。それでも、笑われるのは納得いかなかったが。
「でも……今日のバトルは、とても青海らしかったよ。スーパーチャージャーの特性を活かして、僕の<ジューク>をストレート上でオーバーテイクする。4WDを直線でだよ? こんな非常識なこと、キミにしか出来ないよ」
「最後まで、勝てるかどうか分からなかったけどな……途中で兄貴のドライビングを思い出して、直線でのゼロ加速に賭けた。後は最後がシケインになってたのも、ギリギリのタイミングで気付いたからな」
「それでも、最後まで気付かなかった僕よりはマシだ」
瀬戸際まで必死だったことも、青海の本心だ。『上手くやれば行けるかもしれない』、彼の心は推測の域を越えずに走っていた。最終的に勝利したことも、実感が中々湧いてこない。
「運が良かった……んだろーな」
「運も実力の内、ってことでしょ?」
白島に言い返されるも、青海はどこか納得がいかない。特に前半は敗色濃厚だったというのに、彼の実力で勝てたとは思えなかった。しかし白島は、彼と真逆の思考らしい。
「……僕、このバトルで実感したんだ。僕の腕は、まだまだなんだって。それだけじゃない、最後のヘアピンターンでミスをしたのは迷っていたからなんだ。決断をすることが出来なかったから……心の迷いが、僕の敗因だ」
すっきりと澄み切った瞳をしながら、白島が独白する。きっと彼は、負けて悔しいだなんて少しも考えていないのだろう。敗北を、ポジティブに捉えている。
「だから、決めたんだ。URCには、マーシャルとして参加するって。実際に出走するのは、僕よりも速くて尚且つ迷いのない、他の誰かがやればいい。でもその代わり、僕は夢を追う。そう、決心するよ」
白島が自分とのバトルで決心を付けられたということを、青海は心底から嬉しく感じた。自分は兄のことを思い出せたし、彼は将来の道へ一歩踏み出せた。互いにとって有益なことが、とても喜ばしい。
「良かったよ、お前が腹を決められたんなら。んで、お前は俺と走ってどうだったんだ?」
バトルの感想をまだ聞いていなかったことに気付き、青海が彼に問いかける。それに対して、白島は即答で率直な気持ちを口にしてきた。
「楽しかったよ。とっても」
白島の笑顔に、嘘は見えない。とても澄んだ気持ちに出逢って、青海も自然と顔を綻ばせた。
「……そうか」
白島の表情と、兄に再会したこと。様々なことを経験しすぎて、今日はもう疲れてしまった。だから青海は感情を持て余し、どこか感傷的な気分に陥る。
「なぁ白島、タバコは持ってるか?」
「持ってないし、何しろ青海は未成年でしょ?」
「……この感情を、来年まで持ち越せってことか」
それは土台無理な話だ。ただでさえ兄のドライビングを忘れていたというのに、一時の気持ちを半年以上持たせるだなんて。そう諦めかけたところで、白島が一つの提案をしてくる。
「じゃあ、僕が思い出させてあげるよ。青海が二十歳になった、その瞬間に」
「――そうだな。来年もまた、バトルしよう」
互いの拳を軽くぶつけ合い、再び戦う約束を交わす。友と一緒に走ることを。まだこの先も、走り続けることを。
「でも惜しいなー、タバコが無いの。折角、ライターは持ってるってのに」
「ライターだけ持ってて、何に使うの」
「いや、伸ばしランナーとか作る時に……」
「そんなプラモ上級テクニック、普段から使う訳じゃないのに常備してるんだね……」
それからしばらくすると、桃山、黒崎、赤羽といつもの三人が駆けつけてきた。まずは桃山が涙を浮かべながら、青海を抱き締め喜んでくれる。
「やったね、青海くん……っ! 今日ばっかしは負けると思ってたのに、青海くんは本当に勝ったんだよね!」
「負けると思ってたって、それ本人に直接言うのかよ……でも、いつもありがとな。桃山が一緒に喜んでくれて、俺も嬉しいよ。泣くほどのことじゃねーと思うけど」
彼女の頭を撫でてなだめると、今度は黒崎が声をかけてきた。
「ゴメン、コイツにお前が負けるかもって吹き込んだの俺だ……」
「マジかよ、黒崎……」
友人からの衝撃の告白を聞いて、青海の背筋に冷や汗が流れた。
「でも、まさか勝っちまうとは……青海も白島も、お疲れさん」
「うん、ありがとう黒崎。それと僕、マーシャルをやることに決めたよ」
白島がそう黒崎に答えて、彼も青海と同じように微笑んだ。
「そう決めたのなら、俺からは祝福しか出来ないな。素直に嬉しいよ、白島が決意したのは」
「青海と同じ反応をするね」
「……俺、こんな反応してたのか」
三人して、一斉に笑い出す。やはり青海は、この二人と最も気が合うらしい。かけがえのない友人と笑うことが、とても楽しかった。
「よっ、青海! SRCチャンピオンおめでとうなっ!」
そして最後に、赤羽が肩を叩いて迎えてくれる。SRCチャンピオンという響きを耳にして、青海は何故か不思議な気分に覆われた。
「俺が、SRCチャンピオン……なんですね」
「青海くん、実感湧かないの?」
桃山に尋ねられるも、彼だって正直なところは分からなかった。
「兄貴のこと、超えられた気がしないからなー……今回勝てたのだって、兄貴が昔教えてくれたテクのおかげだし」
結局のところ、これが本心なのかもしれない。兄の助けを借りて、ようやく青海はチャンプになれた。つまり、彼だけの実力とはどうしても思えないのだ。いくら兄を超えたと言っても、それは兄が志半ばで他界したから。もしあの事故がなければ兄もSRCの王座に君臨していただろうし、今の青海よりは確実に速かっただろう。
「けどな青海、お前の計測タイムだが……お前の兄貴さんが叩き出してたレコードタイムと、千分の一秒まで一致してたぞ?」
「だから黒崎、それじゃ超えられてねーんだよ。それこそ千分の一秒でも速くなけりゃ、俺は兄貴を超えられてない。まだまだ、テクニックを磨かなくちゃなんだって」
バトルを終えたばかりだというのに、青海の瞳には既に闘志がたぎっていた。兄という目標に並ぶことこそ叶ったが、オーバーテイクは達成していない。だからまだ、青海は走りたかった。
そんな彼を見て、黒崎と赤羽が目を合わせる。何を企んでいるのだろうと思えば、二人してとある提案をしてきた。
「つまり、青海はもっと高みに行きたいってことだろ」
「その通りだけど……黒崎、それがどうしたよ?」
「だったら、とっておきの方法があるんだ」
黒崎が意味深な笑みを浮かべると、今度は赤羽が何かを言ってくる。
「スタートは来年の春だからな、今からでも準備すべきだろ? エントリーはこれからだし、まずは一緒に出走するメンバーを決めないとな」
「赤羽さん、何を言って――」
戸惑う青海に視線を向けて、赤羽がその一言を告げる。
「URC――全大学を舞台に、走ってみないか?」
その誘いが、『青い流れ星』の闘志に火を点けた。
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