第7話 アイドルに涙は似合わない

『祐樹へ、話したいことがあるので、八月一日の十二時、下の地図の喫茶店に来てください』


 手紙に書かれていたのは、それだけだった。

 簡潔だったけれど、母さんの文字で書かれていたし、地図だって母さんが手書きしてあろうものだ。


 聞けば、母さんは事務所と何度かコンタクトを取っていたらしい。

 それもそうだ、瑠衣センパイもそうだったけれど、ボクらが事務所所属のアイドルになるという契約をしたのは高校生の時だ。必ず親の了承が必要になる。瑠衣センパイはお手伝いさんにお父さんの名前だけ書いてもらって、印鑑を押したらしいけれど、ボクは母さんにメールで進言した。


 そして、ボクが寝ている間に帰ってきたらしい母さんがサインと印鑑を押してくれていて、書類は完成されていた。

 その時事務所の連絡先なんかを控えていたんだろう、母さんはちょくちょく事務所に連絡を取って、事務所にチケットを取ってもらい、この間のMスタの観客席に座っていたのだそうだ。そのことはボクに内緒にするようにと、母さんは事務所に言ったらしい。



 喫茶店までの道を、携帯電話で写真を撮った母さんの地図を頼りに歩いていく。

 心境は、少し複雑だった。母さんに会えるのは嬉しいけど、でも、これまで「会いたい」って母さんから言われたことはなかったから。

 きっと何か重大なことがあったんだろう。それもボクにとっていいことなのかどうかはわからないものが。


 瑠衣センパイについてきてもらおうかとも考えた。しかし、結局これはボクら家族の問題でしかないのだから、あの人を巻き込むのもおかしい。


「ここだ」


 母さんの書いた地図の通りの場所に、その喫茶店はあった。全体的に緑色のドアに金の枠で縁取られた窓がついていおり、そのすぐ下には枠と同じく金のドアノブ。傍には、花に囲まれたベンチがある。

 それらがレトロな雰囲気を醸し出していて、とてもおしゃれだ。女性が好みそうで、今度須能さんと打ち合わせをするときに使ってもいいかもしれないし、話が終わったらここで作詞をしてもいい、なんて考えながら気を紛らわせる。


 店内に入ると、エアコンの涼しい風とコーヒーの香りがボクを迎えた。あたりを見渡して間もなく、母さんを発見する。

 

 母さんは入口からすぐの禁煙席に座っていた。

 長い黒髪は横に流して、しわが増えた目元を細めて、こちらに手を振る。

 最後の記憶から少しやせた母親を目にして、席につくと同時に、店員さんから水とおしぼりをもらう。


「あの、アイスカフェオレください」


 かしこまりました、と下がっていく店員さんには目もくれず、母さんと向き合った。


「母さん、少し、痩せた?」

「あら、そう見える? そうね、もう年だもの」

「そんなことないでしょ」


 そうはいっても、一人息子のボクがもうすぐ二十歳だ。それなりに「年を取った」と感じてもおかしくはないかもしれない。

 

 それから、ボクの頼んだカフェオレが運ばれてきて、店員さんが去っていくまでボクらは無言だった。ボクも何を話せばいいかわからないし、母さんも何も言わなかった。


「話があるんじゃなかったの」


 ようやくボクがそう口にした。

 母さんが、カフェオレの入ったカップを手に持って、けれどソーサーに置いて、下を向く。


「もうすぐ、祐樹も二十歳でしょう」

「うん」

「もう、祐樹も働いているし、私の手を離れて立派にやっているし」

「うん」


 「私の手」と母さんは間違いなく言った。「私たちの」ではなくて、「私の」。

 それが何を意味するかはボクもわかっている。

 父さんは、ボクを抱き上げたことがあったのだろうか。その記憶が曖昧なくらい、ボクは父さんに会ってない。


「父さんと母さん、別れることにしたの」


 母さんの言葉が淡々と放たれて、ボクは息を飲む。


「……なんで」


 発することができたのはこれだけだ。

 疑問形にするために、イントネーションを上げることさえできなかった。


「一応、祐樹が二十歳になるまでは、別れないって父さんと約束していたのだけど、祐樹もうすぐ二十歳になるし、立派に働いているし、ちょうどいいでしょう」


 そういって、母さんは紅茶の入ったカップを口にした。

 どうして、そんなに淡々としているの。


「ボクは、どうなるの」

「一応、母さんの方に親権を持つことになるわ。でも祐樹はこれまで通り過ごしてればいいわ。私のことも心配しないでいいし」


 それはつまり。

 それはつまり、私にかかわるな、ってことなの。母さん。


「この間、テレビの収録を見に行って感心したわ。運動がそんなに得意じゃなかったのに、バク転なんてやってるんだもの」


 運動がそんなに得意じゃなかったって。

 母さん、ボクの運動会なんて、見に来たことないじゃないか。

 成績表で、体育で平均的な成績をつけられていたのを見たくらいでしょ。何言ってるの。


「母さん、本当に父さんと別れるの?」

「そうよ」

「何で?」

「だって、お父さんはずっと母さんとは違う女の人と愛し合ってたのよ。でも、祐樹がいるからって、別れないでいてくれたの」

「それは、いつから」

「私がそれを知ったのは、十年くらい前だったかしら。多分その前から関係はあったと思うわ」


 父さんが抱き上げてくれた記憶がないのは、ボクが物心つく前から父さんは帰ってこなかったからだ。



「父さんは今日は」

「さぁ、知らないわ。この話はお前が祐樹にしろって、それだけ言ってたわ」


 冷めた言い方。そこから始まる愚痴は黒く、とても黒く、醜かった。

 そんな風に思っていたのに、ボクという子供をどうして生んだのかわからない程に、母さんは父さんを愛していなかったし、父さんもまた同じだったのだろう。


 母さんの愚痴が、父さんのことから仕事の話に転じた頃、ボクは席を立つ。


「わかった。母さんにもこれからあんまり関わらないし、ボクは今まで通り過ごすよ。今、楽しいし」


 精一杯の虚勢と、なけなしの演技力を振り絞ってボクは言った。


「……そう」

「さよなら、母さん」


 アイスカフェオレの金額だけ机に置いて、ボクは店を出た。

 そして、走る。


 ボクが一番見たかった笑顔は、父さんと母さんの二人の笑顔だった。

 どちらかだけではなくて、二人揃った笑顔。

 見られると思っていた。ボクがアイドルになっても、やっぱり会えなかったけど、それでもいつか、笑って会えると思っていた。

 

「母さん……、父さん」


 ボクはなんで生まれたの。ボクをなんで生んだの。

 ボクは二人の、愛し合った証じゃなかったの。


 どうやって歩いてきたかはわからなかったけど、ボクはいつもの瑠衣センパイと暮らすマンションに帰ってきた。鍵は開いていたので、そのままドアノブに手をかけて回し、開く。


「おう、お帰り」


 瑠衣センパイも今帰ってきたところだったのだろう、スーパーにいつも持っていくカバンの口から、ジャガイモやニンジンが見える。


「る、いセンパイ」

「あ? どうし……」


 ボクは瑠衣センパイの背中にめがけて、頭をぶつけた。背中をめがけたけど、身長差的には左の肩甲骨よりやや右と言った場所だったけれど。


「どうした?」

「……凄い泣きたい気分なだけ」

「あ、そ」


 冷たいというのか、平然とそう返してくるあたりが、瑠衣センパイだ。


「まぁ、泣きたいときは、泣いとけば。肩なら貸す」

「胸じゃないんだ」


 瑠衣センパイは一度ボクに離れるように言って、向き合うように立ってくれた。ボクは、瑠衣センパイの右肩に頭を預ける体勢になる。少しの安心感が彼の熱を通して伝わってきて、涙がこぼれた。


「母さんと、父さんが離婚するんだって。ボクは、二人がそろって笑う顔って見たくて、ボクがアイドルになったことで、そうなるかもしれないって、期待してた。ずっと、ずっとしてたんだけど」


 そんな期待は崩れて消え去った。

 ボクが信じてきた、父親と母親像は最初から存在していなかったのだ。


「そんなの無駄だった。期待しても無駄だった、ボクは、親から愛されてなかったし、二人とも愛してたからボクを生んだんじゃなかったんだ」


 あ、だめだ。この言葉は。

 そう考えたけど、もう口から出た言葉は取り消しはきかない。

「親から愛されてなかった」。これはボクが瑠衣センパイに出会った頃から口に出していなかった言葉だ。なのに。


「ねえ、瑠衣センパイ、ボクはなんで生まれてきたんだと思う?」


 勝手に期待して、勝手に崩れて、それでこんなことを言うんだからボクは本当に勝手だ。

 瑠衣センパイは何も言わない。何も言わないで、ボクの背中をさすっている。

 普通のお父さんって、こんな感じなのだろうか。


 背中の暖かさに、目を閉じるとまた雫が落ちる。


「ゆうき、そういうお前に対して、かける言葉をオレは持ってない」


 一頻りボクの背中をさすった後、瑠衣センパイが嗚咽を漏らすボクに言った。


「『可哀想に』とか、言ってほしいわけじゃないだろ?」


 それはそうだ。そんな風に同情されたいわけじゃない。


「オレもそんなに変わんない状況だったし、だからオレらはつるんでたんだし」

「うん」


 ボクは瑠衣センパイを自分より不幸な人間で、

 瑠衣センパイはボクを、自分より不幸じゃないけど不幸ぶってる人間だと思ってきた。


 互いが互いに優越感を感じていたし、似たような境遇を持っているから居心地がよかった。だから一緒にいた。


「でも、お前はオレよりしんどい。だって期待してたんだから。期待するってことは崩れた瞬間が一番きつい。だから泣きたければ泣けばいい。オレはそれでもお前を可哀想だとは言わない、思わない」

「うん」

「けどな、お前がなんで生まれてきた、なんてわかるだろ。あそこに置いてあるのは何だよ」


 指を指した先にあったのは、三百円均一ショップで買ったカラーボックスだ。白、青、水色と色分けされていて、それぞれ「ゆうき」「るい」「YR」と書かれた紙が貼ってある。

 そのボックスの中に入っているものは、ボクらのファンの皆がくれた、ファンレターだ。

 

「あれ全部読んだだろ、それでもお前は、愛されてないって思うの?」


 読んだ。全部。まだまだ大御所のアーティストの足元にも及ばない量だけど、「大好き」って皆が書いてくれていた。ボクらの曲が好きで、生活の一部にしてくれていて、「ボクらに出会えてよかった」って。


「思わない……」


 少なくとも、そう思ってくれている人がいるうちは。そんなことを考えるのは多分贅沢なのだ。


「ん、よし。わかったら顔洗ってこい」

「うん」


 ボクはそのまま、洗面所にいって、顔を洗った。


「飯、何が食いたい」


 こんな風に泣いたのに、ほかに慰めることもせず、普段の瑠衣センパイに戻っていた。そして、ボクが答える。


「生姜焼き」

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