第四十三話『クリスマスキャロル』

 美鈴は静かに胸元を押さえた。心臓の鼓動がゆっくりと一定のリズムで指先に伝わってくる。

 ……ああアスカ、貴女が此処にいるのね。あの約束は本当だったのね。必ず私の許へ戻る、という約束……

 涙をひとつ流しながらふわりと笑みを浮かべ、窓から紫紺の空を見上げた。

「私も貴女のお蔭で私を縛っていた冷たい鎖から解放されたのよ。貴女の愛と強さで私はこれから生きていける。貴女をずっと愛していたい。貴女が一年前にクリスマスキャロルを空から歌って下さったように、今年は私から貴女へ空に向かってクリスマスキャロルを贈ります。貴女が安らかに眠れる様に」

 

 冬枯れの木立は真っ直ぐ細い枝先を青い空へ向け、木立の向こうに立つ教会堂の十字架もまた、まっすぐ空へと伸びていた。よく晴れた冬空の陽光は、教会から出てくる二つの影を明るく照らした。

「今年のクリスマスはいいお天気になりましたね。ホワイトクリスマスにはなりませんでしたが、晴れたクリスマスというのもまた空気が澄んでいて清々しいものです。きっとアスカさんにも私達のクリスマスキャロルが届いている事でしょう」

 白い軍服に身を包んだ霧島少佐が隣で歩く美鈴へ声を掛けた。美鈴は小さく笑みを向け、鞄から一通の手紙を取り出すと暫く文字を追った。幾度も読み返されたのか、便箋は随分くたびれていた。文面を読まなくても一言一句間違いなくそらんじる事が出来るだろう。

「これを頂いた時には正直驚きました。私は本当にあの方に会えて幸せでした。ですが、こんな形で姿を消されるのは矢張り辛かった…」

「貴女の事をそれ程に大切に想われていたのでしょう」

手にしていた手紙を霧島少佐へ手渡すと薄い笑みを宙へ向けた。

「霧島様、ちょっと遠出を致しませんか?」

 美鈴は執事を誘った時のように霧島を誘った。

 教会を出た後、霧島と令嬢は海辺に居た。

 潮騒が時折冬の冷たい風に飛沫をはらませながら強く吹き付け、鉛色の空と海を更に濃く染め上げてゆく。

 足下で満ち引きする波は油断をすれば黒い海底へと飲み込みそうだ。小さな影が崩していた腰を上げ白い軍服の影を見上げた後、眼前に広がる海へ視線を移した。その手にあるのは小さな小瓶。材質が半透明な擦りガラスになっているせいか中身はよく見えない。

「それは何ですか?美鈴様」

「飛鳥へのお届けものです。彼女が一番大切にしていたもの…」

 ふふ、と笑みを向けた後、静かに小瓶を波へ放り投げた。ざぶん、という音と共に冬の荒い波が小さな瓶を飲み込んでいく。

「あの方は美鈴様のみならず、私の生き方や価値観までも影響を与えて下さいました。私も彼女に救われたのです。あの方が貴女に示された愛の形は、恐らくこの世で最も美しく尊いものでしょう」

「…アスカは私を仇として憎みながら愛して下さったのです」

「美鈴様…」

 何故、そんな事を?と問う言葉は喉元で飲み込んだ。問うたところで彼女の傷を無駄に広げてしまう様な気がした。

「どんなに苦しかったでしょう。そんな事も知らずに私は飛鳥の想いに甘えてばかりだった」

 小さなガラス瓶は遥か遠くまで流され、黒い海がざぶりと幾度目かの潮騒を上げると、とうとう小瓶の姿は波に消えた。

 ……さようなら。アスカ……

 霧島が上着をそっと美鈴の肩へ掛けた。海を去り際、美鈴は首だけを海へ向けてそっと心の中で呟いた。

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