第三十一話『帰ってきた友達』
同じ頃、屋敷では令嬢が漸く意識を取り戻していた。
白い肌がより蒼く見えるのは窓の外から淡く射す月彩のせいだろうか。その月彩はベッドの傍らで見守る執事の銀色に流れる髪を妖しく照らした。背で束ねられたそれが微かに跳ね、月光の残照が闇に零れ落ちる。椅子から立ち上がる長い影がベッドに横たわる令嬢の影と交わった。
「お目覚めでございますか?御気分は如何でしょうか」
静寂包む室内に静かな低い声が響く。
「…アスカ」
今にも消え入りそうな細い声。令嬢は細い指先を何か探る様に弱々しく宙へ躍らせた。その指先を白い手袋越しの掌が優しく、だがしっかりと包み込んだ。
「もう大丈夫でございます。ただの貧血でございましょう。何かお召し上がりになりますか?お嬢様のお好きなビスクをお作りしておりますよ?」
令嬢は静かに伏し目がちに視線を避けながら小さく頷いて見せた。
「…私はこれからどうすればいいのかしら。霧島様がアスカとご結婚なさった後、私は…」
霧島の突然の訪問。そこで告げられた思いもよらぬ内容。ここ数日の間に目まぐるしく変化していく状況に令嬢の心は不安に沈んでいるのだろう。
「少し、お待ち下さいませ」
ふと、執事が一度部屋を出た後、暫くして腕に何かを抱えて再び部屋へ戻ってきた。
「お待たせ致しました」
令嬢は執事の腕にあるものへ視線を向けた。途端、驚きの表情と共に微かな笑みが口元に溢れ不思議そうに尋ねた。
「まあ!ポアロ…。アスカ、取っておいてくれたのね」
いつか令嬢の手から離された、幼い頃からの友人である白い熊のぬいぐるみがアスカの腕に抱かれていた。
「はい。随分汚れておりましたので専門の職人にお願いをして綺麗に洗って頂きました。少し時間が掛ったようで漸く戻って参りました。まるで新品同様でございましょう?」
令嬢の瞳が執事に貼り付き見開いている。
「如何なさいましたか?」
「あの時、貴女は『もう子供ではないのだから』と取り上げられたでしょう?だからてっきりもう戻ってこないかと思っていました」
俯いた令嬢の瞳から大粒の涙が溢れ、その涙の粒が寝着用ドレスの裾に落ちた。アスカは膝を突き、その涙をぬぐうと腕に抱いていた熊のぬいぐるみを彼女の膝に抱かせた。
「お嬢様の大切なお友達を粗末に扱う筈などございません。唯、かなり品(しな)の良いものでございましたので、お洗濯をするにしても腕の立つ職人の技術に頼らなくてはならないと判断を致しました故、お返しするのが遅くなってしまいました。それに私は『廃棄致します』とは一言も申し上げてはおりませんでしたよ?こう申し上げた筈です。『私がお預かり致します』と。さあ、ポアロもきっとお嬢様のお話を聞きたがっている事でございましょう。その為にはまずお食事を摂って戴き元気にならなくては…」
ぬいぐるみを令嬢に委ねるとワゴンに乗せた鍋からスープを品よく皿に盛りつけた。そっと彼女の顔を盗み見すれば先程より頬に赤みが差し、随分と表情が穏やかになったように見える。
「本日のスープは伊勢エビのビスクでございます。クリーム仕立てのまろやかな口当たりに仕上げました。海老の風味と香味野菜の香りをお楽しみ下さいませ」
丁寧に礼を落とすと令嬢の傍らに控えた。
「ありがとう。戴きます」
暫く温かなスープの香りに包まれ、静かな晩餐が始まった。
晩秋の月が淡く蒼白の光を照らし、その淡い光は軈て執事と令嬢の時間を包み込む事だろう。
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