とくべつなきみ
エーリャの体はぼろぼろだった。
あちこち傷だらけで、真新しい傷からはまだ鮮血が滴っている。
もう立っているだけの力もわかず、イリヤの無事を確認した途端に最後の力も擦り切れ雪の上に倒れ込むように身を横たえた。
イリヤはその場に座り込むとエーリャの頭の下にそっと手を差し込み、膝の上に乗せる。傷がついていない額を撫ぜる指は、微かに震えていた。
「エーリャ……ごめん、ごめんね。こんなになる前に、ぼくが……」
「いいよ。エーリャ、がんばったでしょ……」
文字通り死ぬほど頑張った。自分で自分をほめてあげたいくらいだ。
きっとこんなエーリャを母や兄たちが見たら、とても驚くだろう。あちこち痛いけれど、散々動いて暴れまわった体には雪の冷たさが心地いい。
いまだどくどくと高鳴る鼓動に身を預けながら、目を開けているのも億劫になってゆっくりと閉じた。
静かだ。
川の音さえも雪が吸いこんだように穏やかで、少し心地いい。
自分の鼓動と、傷の痛み、イリヤの体温しか感じない。
このままここで死ぬのかなあ、とどこかよそ事のように思いながらも、それでも黙っているのが嫌でイリヤに話しかけた。
「ねえ、どうしてイリヤはエーリャにたべられたがったの? しにたいだけならころして、だけでよかったよ」
よくよく考えると不思議だ。エーリャに殺してほしいだけならそう頼めばよかっただけの話だ。思い返してみると、イリヤはエーリャに食べられることに固執していたように感じる。
そう問いかけると、額に触れていたイリヤの手つきが止まった。
「それは、言ったとおり、きみに食べられたらきみの血肉になって、獣になれると思ったから。あとは」
「あとは?」
イリヤは少し言いよどむように口を噤んだが、結局ひとつ息を吐いて、白状するようにその理由を告げた。
「……伝承には、きみ達の肉を食べると寿命が延び、毛皮を羽織ると一時的に神術の効果があがったと書いてあった」
エーリャの瞼がかすかに揺れる。
イリヤが話していたことはやはりはったりではなく、実際に行われてきたことだったのだろう。それをその子孫のエーリャに話すことに今さら罪悪感を覚えたのかもしれない。
エーリャからしてみれば、それはとても恐ろしい話だけど、それでも過去のことだ。
かまわない、と示すように尻尾を一度ぱたりと振った。
「イルビスをたべるとながいきできて、つよくなれたってこと?」
「そう……。だから逆もありだろうなとぼくは考えていた。確証はないけれど、人間を食べたイルビスは強くなれるんじゃないかなって。そうしたら、きみは誰に怯えることもなく山で好きなように生きられる。そう考えた」
エーリャにとっては思いもよらない話だった。まさかイリヤがそんな風に考えていたなんて思いもしなかった。
イリヤは、エーリャのことなんて歯牙にもかけていないと思っていたから。まさかエーリャのためになるようなことまで考えていたなんて、驚くに決まっている。
嬉しいような、でも素直に喜べないような内容で、少々複雑だ。
ただ、やはりイリヤはいつもとんでもないことを言い出すな、とは思った。
「エーリャたちはただのけものだよ。イリヤみたいなちからなんてもってないよ」
確かにイリヤは不思議な力を使う。
小さな傷なら治してしまったり、何もないところから火を起こしたり、さっきだってあの獣たちを倒したのはおそらくイリヤの力によるものだろう。見ていなかったのでわからないけれど、きっとそうだ。
きっとエーリャの考えが及びもしない理屈でその力を使っているのだろうけれど、エーリャにとってなじみのないものには変わりはない。
母も兄たちも、山の誰も、イリヤのような力を持つ者はいなかったように思う。皆己自身がもつ体のみを駆使して生きている。それ以外の生き方もやり方もなかった。
エーリャだって不器用なりに自分の持つ牙と爪だけで生活してきたのだ。
だからこそイリヤの言うことはなんだか突飛で、よくわからない理屈にしか思えない。
イリヤはエーリャのそんな言葉を否定することはなく、けれど確信を持ったように話し出した。
「そうかもね。でも伝承がただしければ君たちは女神の末裔だ。僕たちはペルンの神官。もとは同じ生き物であり、家族であり、兄妹であり、恋人だった。全き時から離れた同胞とまた一つになるのに一番手っ取り早いのは、相手を食べるという行為でまるごと支配し取り込むこと。そうは思わない?」
「……わかんないけど、なんか、ヤダよ、それ」
目を開けるのも億劫だったが、そうだねというのも癪でエーリャは目だけでイリヤを睨んだ。
エーリャを見下ろしていたイリヤは可笑しそうに目尻を緩めて頷く。
「そうだね。食べたらなくなる! ってエーリャも言ってたもんね」
「ほんとのことでしょ……ばかにするなー」
またエーリャをおちょくるようなイリヤの調子が戻ってきた。
それが嬉しくて、エーリャは弱弱しくも吠えて返した。
「あと、エーリャ」
なでなで、とまたも撫ではじめたイリヤの声が降りかかる。
目を閉じて微睡みかけていたエーリャは、少しだけ億劫な気分で答えた。
「なに」
「そろそろ、イーリャって呼んでほしいな」
カッとエーリャが目を見開く。
もう体中だるくて少しも動けない、と思っていたのに、イリヤの膝から頭を上げて飄々と微笑むイリヤの顔を信じられない思いで見つめ返す。
「イリヤがいやだって言ったんだよ……!」
「そうだっけ?」
「そうだよ! 怖い顔して耳引っ張って……」
本当に怖かった。
もう絶対に呼ばない、と心に誓ったのに、それをこんなあっさりと覆すなんて。
あのやりとりはなんだったんだ、と愕然とするエーリャの顔を両の手でそっと挟み込んで、イリヤは申し訳なさそうな顔をしてみせた。
「ごめんね。でももう、エーリャにもそう呼んでほしい」
「……なんで?」
「もうぼくをイーリャと呼んでくれる人もいなくなるし。きみはぼくのとくべつだから」
イリヤは少し悲しそうな目でエーリャを見つめ、微笑みかける。
どうして今さらになってそんなことを言い出すのか、エーリャにはわからない。どうしてイリヤがそんなに寂しそうな顔をするのかもわからない。
でも、とくべつだと言ってくれた。嬉しくないわけがない。
嬉しい。
嬉しい、けれど、やっぱりなんだか釈然としない。
エーリャは素直に頷きたくなくて、イリヤの手から顔をそらしてその手に齧りついた。
「いたた、いたいよ、なに急に」
「なんかむかつく」
顎にも力が入らないので手加減する必要もないので、エーリャは遠慮なくイリヤの手をがじがじと齧る。
血が出るほどではないだろうが、それでも牙が突き刺さって痛いのだろう。イリヤはエーリャを慮ってか乱暴にふり払わずに声をあげた。
「いたいいたい、ごめんって」
暫く齧りついて、だんだん顎も首も疲れてきたエーリャはイリヤの手を開放した。
そのまま怒るように顔をそむけて、やや乱暴にイリヤの膝へと頭を戻す。
なにがとくべつだ。そんなこと言ったって当分呼んでやらない。
そうそう思い通りになるイルビスではないのだ、エーリャは。
そんな気持ちで、今度こそエーリャはしっかりと目を閉じた。
「ふん! わがままイーリャ!」
呼んでやらない。
この一回から、当分は。
「エーリャ……嬉しい。とっても嬉しい」
感極まったようなイリヤの声。
幾度となく瞼に触れる柔らかくも温かい感触。
穏やかなぬくもりに包まれて、段々と鼓動も緩やかになっていく。
イリヤの声がどこか遠ざかっていくのを感じながら、エーリャの意識は闇へと溶けていった。
*****
夢を見た。
何度も何度も見た、同じ夢。
あんまり辛くて苦しくて、何度も忘れた。
それでも、何度忘れても、何度でも同じ夢を見る。
忘れたくても忘れられない。
遠くて、ほんの少し前の、自分の姿。
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