第7話

日曜日、午前九時。

関西将棋会館の大広間は、異様な緊張感に包まれていた。

月二回の研修会例会。普段なら少年少女たちの初々しい駒音と、幹事棋士の指導の声が響く場だが、今日ばかりは空気がまるで違う。

広間の壁際。普段なら姿を見せないはずの奨励会三段数名や、私服姿の若手棋士、さらには連盟の広報担当までもが、遠巻きにひとつの対局席を凝視していた。

席の奥に座るのは、丸眼鏡にブレザー制服をきっちり着こなした鳴海 鈴(なるみ すず)女流2級。

千早と同世代の現役女子高生でありながら、自宅の超ハイスペックPCで将棋AIを24時間稼働させ、膨大な評価値と最善手順を丸暗記している現代将棋の秀才。

すでにプロの女流棋士として看板を背負っている彼女が、研修会B1の最上位として、新入会員の「壁」を務める。

「……遅いですね」

鳴海は膝の上のタブレット端末を閉じ、冷淡な声で呟いた。

「新入会の初戦で遅刻だなんて、データ以前に勝負師としての礼儀を欠いていると思います」

周囲が「やっぱり来ないのか?」「神奈木竜王に折られたか……」とざわつき始めた、その時だった。

ガララッ!

広間の襖が、遠慮のかけらもなく乱暴に開け放たれた。

そこに立っていたのは、紺のブレザーを羽織り、プリーツスカートを揺らした南千早だった。

両手をポケットに突っ込み、肩をわずかに揺らして入ってくる。

数日前の「死にかけの抜け殻」のような姿は、どこにもなかった。

黒髪は耳の後ろで無造作に結ばれ、その切れ長の瞳には――神奈木翔に一度は粉々に砕かれ、地獄の底から再び怨念を掻き集めて練り直したような、極限の殺気が宿っていた。

「……悪ぃな、電車が一本遅れた」

千早はボソリと呟くと、観戦者の視線など目もくれず、鳴海の前に進み出た。

学生鞄を畳の上にドカッと置き、スカートの裾を無造作に払って下座に正座する。

「あなたが、南千早さんですか」

鳴海が眼鏡のブリッジを押し上げ、冷たく見据える。

「噂は聞いています。高峯先生や高瀬アマを力将棋で崩したとか。ですが、私にそういった前時代のハメ手は通用しません。AIの算出した最善手順で、合理的に処理させていただきます」

挑発。だが、千早の眉はミリも動かない。

ただ、その唇の端が、三段リーグの血煙を吸ってきた野良犬のように、凶悪に吊り上がった。

「AIの計算? ……ハッ。テメエの頭で考えてねえ記号の丸暗記なんざ、便所の落書きと変わらねえよ」

「なっ……!」

「手加減はいらねえぞ、お嬢ちゃん。テメエが信じてるその『綺麗な世界』ごと、盤上で引きちぎってやる」

「……そこまで。両者、礼」

幹事の号令が掛かる。

「お願いします!」

鳴海が鋭く頭を下げ、千早もまた、ドスの利いた声で返した。

「……頼むわ」

先手は千早。

初手――千早の細い指が、迷いなく7七の歩を摘まみ上げた。

――バシィッ!!

広間全体を震わせる、重く乾いた破砕音。

▲7六歩。

鳴海は眉一つ動かさず、事前にインプットされた何千万手というツリーから最適解を引っ張り出し、△8四歩と応じる。

角換わり模様。鳴海にとっては、自宅のPCで数万回シミュレーションした「完全に整備された舗装道路」だ。

だが、千早はその道路を、力づくでブルドーザーのように踏み潰しにかかった。

定跡の歩突きを途中で放棄し、▲4八銀から突如として▲5六歩。

さらには▲6八銀と引きつけ、自陣の玉の囲いをそっちのけで、中央に厚みを築き始める。

(……何ですか、この手は?)

鳴海の眼鏡の奥で、光が点滅する。

(AIの評価値では明らかにマイナス。居飛車の定跡から大きく逸脱した悪形。……誘っているの? この程度の罠、私のデータには全て入っています!)

鳴海は電光石火の速度で、千早の「緩手」を咎めに出た。

△8五歩から△7七角成、同銀と角を交換させ、千早の中央の隙間へ鋭く△4五角と打ち込む。

両取り。誰が見ても、後手の鳴海が序盤で決定的なアドバンテージを握った美しい一手。

壁際で見守っていた奨励会員たちが息を呑む。

「鳴海さんが決めたか……?」「いくらなんでも角の隙が露骨すぎた……」

だが。

下座の千早は、前のめりに猫背を丸めたまま、ピクリとも動揺していなかった。

神奈木に叩き潰された四十二手。

あの絶望の暗闇の中で、千早が噛み締めていたのは「現代将棋の理」の恐ろしさだった。

綺麗な理屈で神奈木に勝てるわけがない。AIをなぞったところで、本物(神奈木)の劣化コピーにしかならない。

ならば――「理屈を殴り殺す」しかないのだ。

「……おい、メガネ」

千早が、低く囁いた。

「テメエのその機械はよ……自分の首に刃物が刺さる時の『痛み』まで計算してくれてんのか?」

「……え?」

千早の右手が、盤上へ振り下ろされた。

――ドゴォッ!!

駒を割るような音とともに叩きつけられたのは、角の手当てなど完全に放棄した、自陣からの強襲。

▲1五歩。

(……は? 端……!?)

鳴海の思考が、一瞬白く弾けた。

(角がタダ取りできる局面で、端歩……!? 評価値は……評価値は後手+800点! こんなの、取れば私の勝ち確――)

鳴海は震える指先で△2七角成と馬を作った。

だが、その瞬間、千早の手は一切の躊躇なく、次の駒を掴んでいた。

▲1四歩。

△同香。

▲1二歩。

「なっ……!?」

鳴海の呼吸が止まった。

端に垂らされた、たった一枚の歩。

ただそれだけの駒が、鳴海の玉の脱出ルートを完全に塞ぎ、自陣の香車を無力化し、千早が序盤に築いた「中央の厚み」と一直線に繋がったのだ。

(嘘……!? 馬を作ったのに……私の玉、逃げ場がない……!?)

「AIが教えてくれるのはな、相手が『機械』の時の正解だ」

千早の目が、獲物の骨を噛み砕く狼のように獰猛に光る。

「目の前に座ってんのは、血の通った人間なんだよ。……息、苦しくなってきただろ?」

そこからの千早の指し手は、まさに「蹂躙」だった。

派手な攻めなど一つもない。

鳴海が必死に馬を自陣に引きつけようとすれば、嫌らしい歩の叩きでその利きを遮断する。

鳴海が反撃の桂馬を跳ねようとすれば、露骨な金引きでその頭をペタペタと押さえつける。

評価値がどれだけ後手に傾いていようと、「鳴海鈴という生身の人間」が指せる手だけをミリ単位で全て封殺していく、狂気じみた受け潰し。

「あ……、あ……」

鳴海の額から、大粒の汗がポタポタと畳を濡らす。

眼鏡が汗でずり落ちる。

見えない。

画面の向こうの緑色の評価値バーが、急速に千早の側へ雪崩を打っていくような幻覚。

呼吸ができない。

千早の薄い胸から漏れ出る浅い息の音、そして盤面を睨みつける据わった眼光。その圧倒的な「圧」に、鳴海の心臓が押し潰されそうになる。

『――三十秒。一、二、三……』

記録係の無慈悲な声。

「待って……っ、待って、どこ……!? 最善手は、どこなの……!?」

鳴海の指先が激しく震え、駒を掴めない。

画面の中にあったはずの「絶対の正解」が、目の前の美少女が繰り出す泥水のような勝負手の前に、跡形もなく消え失せていた。

『――八、九』

「ぐっ……△3三銀!」

「遅ぇよ」

千早の細い腕が、空を切り裂いた。

叩きつけられたのは、持ち駒の――▲2三歩成。

王手ではない。

だが、その瞬間に鳴海の玉は、完全な「必至」へと沈んだ。

「……っ」

鳴海の両手が、ガタガタと音を立てて盤の上に落ちた。

涙が眼鏡のレンズを濡らし、ポロポロと盤面に零れ落ちる。

指せない。一手も、指せない。

神童と呼ばれ、データで武装してきた自分の将棋が、前時代の亡霊のような少女に、骨の一本一本まで嬲り殺されたのだ。

「……ま、参り……ました……ッ」

鳴海が畳に額を擦りつけ、嗚咽を漏らした。

五十六手。

研修会B1のトップであり、現役の女流プロが、完膚なきまでに叩き潰された瞬間だった。

広間は、静寂に包まれていた。

壁際で見ていた奨励会員たちも、幹事棋士も、誰一人として声を出せない。

盤上に残されたのは、整然とした美しい棋譜ではなく、獲物を窒息死させたばかりの血生臭い処刑台だった。

千早はふらつきながら背筋を伸ばし、額に張り付いた髪を乱暴に払った。

薄い胸を大きく上下させ、荒い息を吐き出す。

全身の筋肉が軋み、指先は痙攣していたが――その瞳の奥の飢餓感は、何一つ満たされていなかった。

「……おい、記録係」

千早は掠れた声で、青ざめて硬直している幹事を見上げた。

「次、誰だ? ……さっさと連れてこい。今日中に、ここにある星、全部奪い獲るぞ」

女流棋士界隈への、最初の殴り込み。

南千早という怪物の牙が、ついにプロの領域へと突き刺さった。

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