第7話 霧に追われる者たち

「どけ! 橋へ行く!」


ダルクが大盾を身体の前へ立て、人の流れに隙間を作った。レイグとフィエラがその後ろへ入る。


城門へ向かう者と、内側へ逃げ込んでくる者が大通りでぶつかっていた。誰かが転び、仲間の名を叫んでも、人の流れは止まらない。


「戻れ! もう近づけねえ!」


城門側から来た男が叫んだ。ダルクが言い返そうとした時、すぐ前で別の怒声が上がる。


「捨てろ」


古い石橋で見たカルゼンだった。仲間の一人が、獣の頭を彫った石板を両腕で抱えている。


「これだけでも今日の稼ぎになる」


「死体から買い取り所まで運んでくれる奴はいない。捨てろ!」


「でも――」


カルゼンは石板を奪い、道端へ放り投げた。


「走れ」


仲間は悔しそうに石板を見たが、もう言い返さなかった。


横の路地から、剣や槍を持つゴブリンが飛び出してきた。その背へ、黒い毛皮に赤い筋の浮いたヘルハウンドが食らいつく。別のゴブリンが石を投げると、獣は牙を離し、倒れた探索者へ飛びかかった。


「固まるな! 押し潰されるぞ!」


カルゼンが仲間を引く。その前で、一人の探索者がヘルハウンドへクロスボウを向けた。だが、撃つより早く、横から来たゴブリンの槍が脇腹へ刺さる。


男が崩れ、装填済みのクロスボウが石畳を滑った。拾って抱え込んだゴブリンの指が、引き金にかかる。短い音が鳴り、矢は人の流れへ飛び込んで、逃げていた男の背へ突き刺さった。


「ぎゃっ」


倒れた男を避けようとして、さらに二人がぶつかる。ゴブリン自身も反動に驚いていたが、クロスボウを捨てずに胸元へ抱え込んだ。


レイグは押し寄せる人の肩を避け、横倒しの荷車の脇へ寄った。城門は人と荷物に遮られ、見えない。


「フィエラ」


「上から見る」


フィエラが荷車の車輪を踏み、荷台の縁へ上がった。揺れる板の上で姿勢を低くする。


「……橋を渡ってる人はいる。でも、ここからは行けない」


「橋へ出ればいいんだろ!」


「その手前を霧が横切ってるの! 左右の路地も塞がってる」


フィエラは青ざめた顔で飛び下りた。


レイグは人の肩越しに城門を探した。早めに帰ると言った。ネリナにも、ちゃんと帰ってきてと言われた。母も今、いつものように家で待っている。押し戻されてくる群れに足を踏まれ、レイグはよろめいた。


「……内側へ行くぞ」


低く言って、ダルクが城門へ背を向けた。カルゼンも仲間を荷車の陰へ集め、正面の中央通りを指す。


「王城側へ抜ける」


そこにも人と魔物が入り乱れていた。だが完全には塞がれていない。荷車の左には半壊した宿屋、右には入口脇に低い石段のある路地があり、ゴブリンが武器を振り上げている。背後からも人の波が押し寄せた。


宿屋の暗がりで赤い目が光り、カルゼンがレイグたちへ叫ぶ。


「左から犬が来る! 戦えるなら止めろ」


「勝手に仕切るな」


ダルクが怒鳴り返す。


「だったら別の道を開け」


「喧嘩は抜けてからにして」


フィエラが石段を駆け上がる。


「一番うるさいの、ダルクだけど」


「お前も今言うことか」


返した直後、宿屋の窓枠が砕け、ヘルハウンドが飛び出してくる。


「来るぞ!」


レイグが叫ぶと、ダルクは左へ踏み込んで大盾を構えた。低く跳んだ黒い獣の牙と前脚が盾へ叩きつけられ、激しい金属音とともにダルクの靴が石畳を滑る。


「ぐっ……」


ジャイアントスパイダーの毒牙で傷ついていた場所へ、もう一度強い衝撃が入った。盾の表面がへこみ、二つの傷跡の周囲がわずかに裂ける。


「ダルク」


「止めてる! 早くやれ!」


ダルクがウォーハンマーを振り、鉄の頭がヘルハウンドの肩口へ食い込む。


それでも獣は倒れない。盾の縁に噛みつき、首を振ってダルクの腕ごと引きずろうとする。


レイグはダルクの右脇へ回ってスチールロングソードを低く振り、ヘルハウンドの前脚を斬って体勢を崩した。


「離れろ!」


ダルクが盾を引き抜き、ウォーハンマーを頭上から叩き落とす。


鈍い音とともに獣の頭が石畳へ打ちつけられる。なおも脚が動いたため、ダルクが歯を食いしばってもう一度振り下ろすと、ようやく赤い目から光が消えた。


「一体」


フィエラの矢がレイグの右肩の外を抜け、右の路地から飛び出したゴブリンの肩に突き刺さる。


その後ろには、クロスボウを抱えた一体もいた。矢はもう入っていない。それでも武器を捨てず、木の台座を棍棒のように振り回している。


「右から来る」


カルゼンの仲間が槍でゴブリンを押し返す一方、別のヘルハウンドが荷車を跳び越え、別の仲間へ飛びかかった。カルゼンが横から剣を叩きつける。


刃が獣の肩を裂き、跳躍の軌道を外へ逸らした。カルゼンは仲間の襟を掴み、荷車の後ろへ引き倒す。


「立て! ここで寝るな」


言葉は荒いが、自分がヘルハウンドの前に残っている。獣は荷車の脇へ転がったものの、すぐに立ち上がった。レイグが目で追ったのはカルゼンの剣ではなく、荷車の陰へ引き倒された仲間の方だった。橋で見た時と同じく、口で命じる前に身体を動かして仲間を守る男だった。


「レイグ、前!」


フィエラの声に我に返ると、短剣を持ったゴブリンが飛び込んでくる。レイグがバックラーで手首を弾き、胸元へ斜めに剣を走らせると、革鎧が裂けて肩口から血が噴き、ゴブリンは石畳へ倒れた。


だが、すぐ近くには死んだ探索者がいた。その腰袋から赤い小瓶が覗いている。


ゴブリンは倒れたまま、赤い小瓶へ手を伸ばした。


「何を――」


小瓶を奪って歯で栓を抜き、中身を半分ほど顎にこぼしながら一気に飲み込む。


肩から流れる血の勢いが弱まる。傷は開いたままだが、ゴブリンは歯を剥き、もう一度立ち上がろうとした。


「薬まで使うの?」


「驚くのは後だ」


ダルクが叫ぶと、フィエラの放った矢がゴブリンの胸へ刺さり、立ち上がりかけた身体を後ろへ倒した。


背後で上がった誰かの悲鳴が途中で途切れ、レイグは一瞬だけ振り向く。黒い霧は交差路の端まで迫り、後方に捨てられた荷車の車輪を半分まで隠していた。


もう時間がない。


右の路地からはさらにゴブリンが押し寄せ、左ではカルゼンがヘルハウンドを牽制し、正面の中央通りにも人と魔物が入り乱れていた。このまま一体ずつ相手にしていては、黒い霧に追いつかれる。


「カルゼン」


レイグが叫ぶと、カルゼンがこちらを見る。


「正面を空けろ!」


「何をする」


「道を作る!」


レイグは横倒しの荷車の陰へ一歩下がって剣を引き、味方の位置を確かめる。左にダルク、右の石段にフィエラ、荷車の向こうにカルゼンたちがいる。人間のいない場所は、正面でゴブリンとヘルハウンドがぶつかっている石畳だけだった。


レイグは足を止めて息を吸い、騒音の中で意識を一点へ絞った。正面の空気が熱で歪み、小さな炎が一つに集まって火球へ膨らんでいく。


「下がれ!」


カルゼンが仲間を荷車の裏へ引く。その間にゴブリンが石を投げるが、集中を乱される前に、フィエラの矢がその腕へ刺さった。


「今!」


「ファイアボール」


拳ほどの火球が低く飛び、石畳にぶつかった瞬間、炎と熱風が左右へ弾ける。


直撃したゴブリンが倒れ、周囲のゴブリンが悲鳴を上げた。ヘルハウンドも火を嫌って横へ跳ぶ。


正面の群れが二つに割れた。


「行け!」


カルゼンが真っ先に踏み込み、剣で左のゴブリンを押し払って仲間が通れる幅を作る。レイグも反対側から斬り込み、火に怯んだヘルハウンドの首を深く斬って、倒れた身体を脇へ押し退けた。中央通りへ抜ける細い隙間が開く。


「追うな! 抜けろ」


カルゼンが叫ぶ。


「フィエラ、下りろ」


ダルクも同時に声を張った。


「レイグ、走れ!」


フィエラが石段を蹴って飛び下り、三人は開いた道へ駆け込んだ。


背後では、ゴブリンとヘルハウンドが再び噛みつき合っている。倒れた探索者の剣を拾おうとする者もいたが、ダルクは振り返らない。


「放っとけ! 止まった奴から追いつかれる!」


中央通りへ出ると、人の密度は下がったが、安全ではない。


前方では王城方向へ走る探索者たちが互いを押し、横の路地からも魔物の声が近づいてくる。


レイグは荒い息のまま走った。左腕の打撲が脈打ち、魔法を使った疲れが全身に重く残って、喉が焼けるように乾いていた。


「レイグ」


フィエラが急に右を見ると、東側の路地から数人の探索者が飛び出してきた。先頭にいたのは、昼に話した青年だった。


「ネヴァル」


昼に別れた後、東側へ向かった一行で、彼らも別の道から中央へ逃げ込んできたらしい。


だが、その背後には負傷したヘルハウンドがいた。片脚を引きずりながら、それでも牙を剥いて追ってくる。


「こっちだ」


ネヴァルが仲間に手を伸ばした時、ヘルハウンドが最後尾の男へ跳びかかった。


通り脇には、二階部分が大きく崩れた古い商家があった。残った石壁を、黒く腐った一本の木材が辛うじて支えている。


「危ない!」


ネヴァルが仲間を横へ突き飛ばすと、牙は空を噛み、勢いを殺しきれなかったヘルハウンドが商家の支柱へ肩から激突した。


嫌な音がした。


木材が中央から折れた。


「離れろ」


誰かが叫んだ。


二階の石壁が傾いて通りへ崩れ落ちる。ネヴァルは突き飛ばした仲間をさらに押し出したため、自分が逃げるには一歩遅れた。


先に落ちた太い梁がヘルハウンドの胴を押し潰し、獣の声が途切れる。


続いて崩れた石材が、ネヴァルの脚へ落ちた。


「ぐああっ」


ネヴァルの身体が倒れ、仲間たちがすぐに戻った。


「ネヴァル」


「持ち上げろ!」


二人が石材に手をかけるが、動かない。ネヴァルの左脚は膝の下まで瓦礫に挟まれ、血が石畳へ広がっていく。


右の路地からゴブリンの声が近づき、背後では別のヘルハウンドが吠えている。中央へ逃げる人の流れまで押し寄せ、ネヴァルの仲間たちは何度も身体をぶつけられた。


「行け」


ネヴァルが怒鳴った。


「黙れ! 今出す!」


「無理だ! 全員残ったら、全員死ぬだろ!」


「置いていけるか」


「行けって言ってる!」


昼には「死んだら何も持って帰れない」と仲間を止めていた男が、今は自分を捨てて逃げろと叫んでいた。


カルゼンは足を緩め、右足をネヴァルの方へ半歩だけ出した。だが、迫る黒い霧と自分の仲間たちを見て、奥歯を食いしばる。


「止まるな」


カルゼンは自分の仲間へ命じた。


「王城側へ走れ」


カルゼンたちは進んだ。ネヴァルの仲間の一人がなおも戻ろうとしたが、別の仲間に肩を掴まれる。直後、路地から飛んできた槍が二人の間の石畳へ突き刺さり、迫るゴブリンを前に、人の流れに押されて二人はネヴァルから引き離されていく。


「レイグ、行くぞ!」


ダルクはウォーハンマーを腰の吊り具へ押し込み、空いた右手でレイグの上腕を掴んだ。フィエラは何も言わず、ネヴァルと黒い霧を交互に見ていた。いつもの冗談は出なかった。


瓦礫の下から、ネヴァルがこちらを見る。


目が合った。


「来るな」


顔を歪めたまま、ネヴァルは叫んだ。


「行け!」


朝、家を出る時に聞いたネリナの声が、耳の奥で蘇った。ちゃんと帰ってきてよ。母も待っている。


今開いた王城への道を走れば、まだ生きて帰れるかもしれない。だが目の前では、瓦礫の下のネヴァルが来るなと叫んでいる。


ダルクがレイグの腕を引いた。


それでもレイグは、一歩も動かなかった。

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