第6話 あなたのための嘘は、もうつきません
公爵様との婚約は、審理の日より先に公になった。
伯母へ改めて挨拶にいらした翌日、両家から必要な知らせを出したのだ。祝福と一緒に、驚きの言葉も届いた。わたくしはその一通一通を読み、返事を書いた。
十二月半ばの朝、支度を終えたわたくしは、手提げから鍵を出して小机の引き出しを開けた。ニナがそこから、白い木箱を取り出してくれる。
婚礼の記念品を入れていた箱だ。
わたくしはそこから、三年前の書面を取り出した。控えはすでに婚姻院に預けてある。今日持っていくのは原本だった。
「折り目が、深くなってしまいましたね」
ニナが言った。
「何度も開いたもの」
書かれていることは変わらなかったのに。
それでもいつか違う意味に読めないかと、開いた夜があった。
今日は読み直さなかった。折り目を伸ばして書類挟みに収めると、箱の蓋を閉じた。
「帰ってきたら、この箱の中を片づけるわ」
「わたくしもお手伝いします」
「捨てるものは、わたくしが決めますからね」
「はい。燃やすかどうかも、お任せいたします」
あまりに真剣な顔をしているので、笑ってしまった。
ニナは少しも笑わなかった。わたくしの手を、両手で握ってくれた。
王室婚姻院の審理室は、思っていたより明るかった。
高い窓から冬の陽が入り、正面の机の上に、細長い光が落ちている。壁際には立会人と傍聴者の席があり、元の家と縁のあった人々の顔も見えた。翌春の祝賀会に向けた就任前の確認のため、王室典礼局からも立会人が出席していた。
わたくしが申し立てた公開の審理へ、噂を聞いた家の人々も足を運んでいた。窓際に、トレヴァン伯爵夫人の姿が見えた。目が合うと、小さく会釈を返してくださる。
今日は、この人たちの前で話す。
伯母は傍聴席へ行く前に、わたくしの背を一度撫でた。
公爵様も、その隣に座る。
机の前へ進むのは、わたくしだった。
エメリックはすでに来ていた。
その隣にオディール夫人。少し離れた席にはベリンダ様と、彼女の父であるサヴァン男爵がいた。
元夫の目が、わたくしの左手で止まる。
「……なるほどな」
挨拶より先に、低い声が聞こえた。
「そんなものをつけて来るとは。私を辱めるには、いい機会というわけだ」
「婚約指輪です。婚約者からいただいたものを、はめてまいりました」
「分かっている」
分かっているなら、そんな言い方をしなければよいのに。
わたくしが席に着くと、彼は椅子の肘に指を打ちつけた。
昔、言われたとおりに返事ができないと、食卓の向こうでよく聞かされた音だった。
今日は、その指を見ている必要がなかった。
わたくしは正面を向いた。
婚姻官レニエ様が、提出されている離縁理由を読み上げた。
「妻の健康上の理由により、子を望むことが困難なため。」
短い一行だった。
けれど、その一行を聞いた人が、どんなふうにわたくしを見るようになったかを知っている。
レニエ様は書面を置いた。
「本日審理するのは、この記載と、それに基づく説明の撤回についてです。コレット嬢の健康状態を判断する場ではありません」
エメリックが顔を上げた。
「では、何を確かめるというのです。三年間、子はできなかった。それは事実でしょう」
「ご自身が妻の健康を原因とした、その根拠です。医師の診断はありますか」
エメリックは、傍聴席へ目を向けた。
王室典礼局の立会人が、ペンを持ったまま返答を待っていた。
彼は机へ向き直り、少し声を落とした。
「妻の名誉のために、伏せていたことです」
「わたくしの名誉を守るための離縁理由ではございません。あなたが三年間一度も寝室へいらっしゃらなかったことを、隠すためです」
自分の声は、思っていたよりよく通った。
後ろの席で、衣擦れがした。
エメリックの指が、肘掛けから浮く。
「コレット」
「婚礼の夜から、部屋を共にしないよう命じられておりました」
「君は、ここで、そんなことを」
「はい。わたくしの身体に理由をつけた説明が、ここに残されようとしているのですから」
見知らぬ人に話すことは、今も楽ではない。
けれど、隠しておくために自分の人生を渡す方が、もう嫌だった。
レニエ様へ原本を差し出した。
控えと照合した書記が頷き、レニエ様が日付と署名を確認する。
「ヴァレール伯爵。これはあなたの筆跡ですか」
エメリックは差し示された紙を見た。
あの日と同じ字。わたくしが幾晩も見つめた署名だ。
彼はすぐには答えず、代わりにわたくしを睨んだ。
「取っておいたのか」
「はい」
「あんなものを」
聞こえるだけの声だった。
レニエ様が、もう一度尋ねる。
「あなたが書いたものですね」
「……私が書きました。ただし、結婚した当時の、取り決めにすぎません」
「読み上げます」
紙の上へ落ちていた冬の光が、少しずれた。
「『婚姻後も寝室は別とする。私の寝室を訪ねること、夜間に私を呼ぶことを禁ずる。この取り決めは、私が変更を告げるまで続く』。三年前の婚礼当日の日付、署名はエメリック・ヴァレール」
わたくしは、膝の上で両手を重ねていた。
その言葉を今夜も守れと言われるわけではない。
自分が一人で読んでいたものを、ほかの人も聞いている。それだけのことが、胸の奥に積もっていた重さを、少しずつ動かしていった。
「変更を、いつコレット嬢へ告げましたか」
レニエ様に問われ、エメリックが背筋を伸ばす。
「そういうことは、書面だけで決めるものではないでしょう。夫婦なのですから」
「書面で禁じたのは、あなたです」
「初めは気が進まなかった。それだけです。君の方から来ることも、できたはずだ」
わたくしは彼を見た。
「来るなと命じたあと、いつ、来てよいとおっしゃいましたか」
彼の口が開き、閉じた。
初めて聞く問いではなかったはずだ。
けれど今日は、聞かなかったことにして席を立つことができない。
ニナが呼ばれた。
わたくしの横を通るとき、その足音は少し速かった。けれど、証言台の前ではきちんと足を止めた。
「婚礼の翌朝、オディール様から、伯爵様の寝室へ奥様をお通ししてはならないと。夜に奥様がお尋ねになっても、伯爵様をお呼びしてはならないと申しつかりました」
ニナの声は、傍聴席へも届いていた。
オディール夫人の扇が、音を立てて閉じた。
「使用人が、主人の家庭のことをどれほど分かるというの」
ニナの顎が強張った。
わたくしは口を開きかけたが、彼女が先に答えた。
「ご家庭のすべてを存じているとは申し上げておりません。オディール様がわたくしにお命じになったことをお話ししております」
夫人が、わたくしを見た。
使用人を黙らせるのが妻の務めだと、何度も教えられた目だった。
わたくしは何も言わなかった。
ニナは今日、わたくしに代わって嘘をつくために来たのではない。自分が聞いた言葉を、自分で話すために来ていた。
レニエ様がもう一通の書面を示す。
夫人の署名のある、証言を止めるために送られてきた手紙だった。
「これも、あなたが書いたものですね」
「家の内々の事情を、外へ持ち出させないためです」
「元の嫁の健康上の事情は、外で話してよいのにですか」
その問いに、夫人の頬が赤くなった。
「皆様を心配させないように、申し上げただけです。三年もの間、家が嫁を庇ってきたことを」
「わたくしを庇ってくださったのですか」
わたくしは尋ねた。
「この取り決めをご存じで、わたくしには、子ができないことを責め続けていらしたのに」
夫人は、エメリックの方を向いた。
「私は、お前の家を守るつもりで」
「今、それを私に言われても困ります」
吐き捨てるような返事だった。
夫人の扇を持つ手が止まった。
いつも同じ食卓の、同じ側にいた二人が、互いに身を引いている。
もう、わたくしを挟んで手を結ぶことはできなかった。
次に、伯母が呼ばれた。
自宅の客間で、オディール夫人はこう言ったと話した。ベリンダ様は初めから、わたくしたちが寝室を共にしていないと知っていた、と。
ベリンダ様が父親の袖をつかんだ。
レニエ様は、トレヴァン伯爵夫人の書簡を取り上げた。
「サヴァン嬢。あなたは伯爵夫人に、結婚前から医師に子を望めないと言われていたコレット嬢を、ヴァレール家は三年間も庇ってきたと話されていますね」
「医師から直接聞いたわけではないと、わたくしにもおっしゃいました。それでも診断があったと話されたのですね」
わたくしが告げると、ベリンダ様は唇を結んだ。
「そんな……細かい言葉まで、覚えていらっしゃるはずがないわ」
レニエ様は、窓際へ顔を向けた。
「トレヴァン伯爵夫人。この書簡の内容に、相違ありませんか」
「ございません。サヴァン嬢から伺った言葉を、そのまま記しました」
夫人は、ベリンダ様をまっすぐ見た。
レニエ様が、もう一度返答を求めた。
「ご自分が話されたかどうかを、お答えください」
ベリンダ様が父親を見た。男爵は娘を見返していたが、口を挟まなかった。
「私は、そう伺っていたから」
「誰にですか」
「……オディール様に」
「医師が診断したと、おっしゃったのですか」
オディール夫人が立ち上がりかけた。
「私は医師の名前など知りません。あの子は、息子の話を」
「でも、奥様は三年も我慢をなさったって! そう言っておられたではありませんか!」
声が高くなる。
ベリンダ様は、エメリックへ体を向けた。
「あなたも、そうでしょう? コレット様を、妻としてお望みでなかったから」
「ベリンダ、黙れ」
「なぜ? 私に言ったことまで嘘になさるの? あの婚礼の夜、私には、あちらの部屋へ行く気はないと、そう言ってくださったのに」
最後の声は、涙に崩れた。
妻の部屋へ行かないという言葉は、彼女にとっては、愛情の証だったのだ。
それを知りながら、わたくしの身体に原因があると広めていた。
エメリックが、ベリンダ様の腕へ手を伸ばした。
その手を、サヴァン男爵が遮る。
「娘に、触れないでいただきたい」
「男爵、誤解です」
「何についてです」
男爵の声に、怒鳴るよりも冷たい響きがあった。
「あなたの家が、病の妻に配慮してきたという説明ですか。それとも娘が、医師の診断を聞いていたという話ですか」
エメリックは答えなかった。
男爵が娘へ向き直る。
「お前にも、帰ったら話を聞く。だが、このまま祝福を受ける結婚の支度など進められない」
「お父様!」
「今、ここで、ほかの方へ事実と違うことを言ったと認めたのだろう」
ベリンダ様の肩が落ちた。
彼女の背後で、華やかな再婚の話に頷いていた人々が、もう誰も頷いていなかった。
書記が記録を確かめ、レニエ様へ差し出した。
エメリックはその紙を見ていた。もう、わたくし一人に署名を迫れば済む書面ではなかった。
「妻の健康に原因があったとの記載は認めません。夫が同室を拒んでいた事実を含め、婚姻の経過を訂正します。医師の診断があったとの説明も、撤回の対象です」
エメリックが椅子を引いた。
「では、私だけが悪いということになるではないか。こんなところまで明かされるとは」
「ご本人が記載を認めていないことは、最初からお伝えしていました」
彼は、わたくしを見た。
あの紙へ署名をしなかった日の顔と、今日の顔を、ようやくつなげたようだった。
「コレット。少し、二人で話そう」
「ここで伺います」
「そういう話ではない」
彼の声がかすれた。
「ここまで大事にする必要は、なかっただろう。君はもう、離縁もできた。公爵閣下との結婚まで決まっている。それなら、私の顔を立ててくれてもよかったはずだ」
後ろで誰かが息を呑んだ。
わたくしの中には、呑み込む息さえ残っていなかった。
呆れていた。
三年間、声を立てずに飲み込んだ言葉の、あまりの多さにも。
傍聴席から、王室典礼局の立会人が立った。
翌春の王室婚礼祝賀会について、ヴァレール伯爵の世話役の内定を取り下げると告げた。
就任前の確認を待っていた名誉ある役目だ。婚姻にまつわる説明を偽り、その訂正を本人に取り下げさせようとする者へは、任せられない。
短い説明が終わる前に、エメリックの顔色が変わった。
「待ってください。あの役目は、私の父の代から家が」
「世襲の役目ではありません。後任を選び直します」
「お待ちください。招待する家々への挨拶も、すでに済ませているのです。今さら、それでは」
立会人は、手元の名簿を閉じた。
「ですが、来春には私も、新たな妻を迎える予定で」
サヴァン男爵は、目を合わせなかった。
ベリンダ様の泣く声だけが残る。
オディール夫人が椅子の背をつかみ、エメリックの袖へ触れた。
「落ち着きなさい。ちゃんとお話をして」
「母上も、何か言ってください。家のためだと、いつも」
夫人の手が、袖から離れた。
自分の言葉で守れるものが、もう何も残っていないと気づいた顔だった。
エメリックは、最後にわたくしを見た。
「コレット。君からも、説明してくれ」
彼が一歩、こちらへ来る。
「私が三年間、君を困らせようとしたわけではないと。子のことは、二人でそう説明すると決めていた。君がそう言ってくれれば、ただの行き違いで済む」
「そのように決めたことは、一度もございません」
「言い方の問題だ。分かるだろう」
「分かりません」
今度は、はっきりと言った。
エメリックの口元が歪んだ。
「君は、そんな女ではなかった」
「あなたのためなら、言われていないことまで言ったふりをする女だと、お考えでしたか」
「私は……君を妻にした男だ」
「そして、離縁した男です」
彼が、わたくしの手首へ目を落とした。
あの家で話を終えるときのように、つかんで自分の方へ向けるつもりだったのかもしれない。
わたくしは、手を書類の上へ置いた。
婚約指輪が、窓の光を受けた。
「君を傷つけたかったわけではない」
「傷つけたつもりがなければ、つけた傷まで、わたくしのせいにしてよいのですか」
彼の目が泳いだ。
公爵様の方を見る。
けれど、そこで何かを頼む前に、わたくしは言葉を続けた。
「お願いする相手は、あなたの望む返事をする者ではなく、この説明で傷をつけられたわたくしです。わたくしは、訂正の申し立てを取り下げません。口裏も合わせません。あなたの名誉のために、自分の身体について嘘をつくことは、もういたしません」
「コレット!」
もう、その声に返事を急ぐ必要はなかった。
「お幸せになるなら、ご自身の言葉に責任をお持ちになってください。わたくしを使わずに」
元夫は、その先を言えなかった。
訂正の通知は、事実と違う説明を受けた家々へ送られる。
オディール夫人には、自分が追認した説明を訂正し、ニナへの働きかけをやめることが求められた。夫人は書面の受領を拒みかけたが、伯爵家の封蝋のある手紙を再び示されると、引き取るしかなかった。
ベリンダ様は、医師が告げたという話を撤回することになった。
父親が差し出したハンカチを握り、彼女は震える声で尋ねた。
「……私が言い直せば、結婚は」
「今ここで、お前に約束できることではない」
男爵の返事は変わらなかった。
エメリックの名を呼ぼうとして、彼女はやめた。彼は自分の失った役目のことで、立会人へまだ何かを訴えていた。
その声を聞いていたオディール夫人の隣で、親しくしていた夫人が席を立つ。夫人が顔を上げても、会釈だけを残して出ていった。
わたくしの味方でなかった人が、急に皆、味方になるわけではない。
ただ、わたくしを恥じて黙らせれば守れると信じられていたものは、もう元には戻らなかった。
レニエ様がわたくしに、原本の返還を告げた。
「お預かりしていた控えと、本日の記録は保管します。こちらは、あなたのものです」
折り畳まれた紙を受け取った。
持つ指が、思ったほど震えていない。
鞄へしまい、机から一歩離れる。
そのとき初めて、部屋の後ろに立っているバスティアン様が見えた。
わたくしが歩いていくと、彼は言葉を急がず、手を差し出した。
「終わった」
「はい」
「よく、話した」
それだけで、泣きそうになった。
でも、泣くより先に笑いが出た。
「もう少し、うまく言えたかもしれません」
「俺は今の君に、また惚れた」
近くにいた伯母が、わざとらしく咳払いをした。
ニナが泣きながら笑った。
わたくしは彼の手を取った。後ろを見なくても、何が終わったのか分かった。
外へ出ると、冷たい風に頬が痛んだ。
けれど、行きに感じた寒さとは違った。
王室婚姻院の階段を下りきったところで、わたくしは立ち止まった。公爵様がすぐに振り返る。
「どうした」
「今日は、少しだけ寄り道をしたいです」
「どこへ」
何か立派な場所を挙げるつもりはなかった。
昼食をとりたかった。温かい部屋で、好きな人と向かい合って。今日ここへ来てくれた人たちにも、笑っていてほしかった。
わたくしは伯母とニナを見た。
「四人でお昼をいただけるところへ。お腹が空きました」
伯母が、目元を指で拭った。
「ええ。私もよ」
公爵様がわたくしの肩へ外套を掛け、馬車を呼んだ。
乗り込む前、彼の腕を少し引く。
「今度は、わたくしにご馳走させてくださいませ」
「それでは、ずいぶん食べるぞ」
「承知しています。あなたの分は、ちゃんと考えております」
彼が笑った。
わたくしはその顔を、風に邪魔されず、まっすぐ見上げた。
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