昔あんなに煽ってくれたじゃないか!

わかめ

昔はあんなに煽ってくれたじゃないか!

 昔、僕の近所には、少し生意気な女の子がいた。


「お兄ちゃん、また猫背じゃーん♡ 自信なさそうでかっこ悪ーい♡」


 朝、顔を合わせればそんなことを言ってくる。


「うっさいな。生まれつきだよ」


「えー? 姿勢くらい直せるでしょ? 言い訳ばっかりでよわよわだね♡」


 そう言って、彼女は僕の背中をぺしぺしと叩いた。


 当時、僕は十六歳の高校一年生。彼女は十二歳の中学一年生。


 家が近所ということもあり、小さい頃から顔を合わせる機会は多かった。


 いつからだろうか。


 彼女が、僕のことをやたらと煽るようになったのは。


「うわ、寝癖すっご♡ 鏡も見ずに出てきたの? だらしなーい♡」


 また別の日には、


「お兄ちゃん、靴下左右違うんだけど♡ そんなこともできないの? もしかして私が履かせてあげないとダメな感じ?♡」


 といった具合だ。


 なかなか失礼な女の子だった。


 しかし、不思議なことに嫌な気分にはならなかった。


 彼女の言葉には、いつも何かしらの理由があったからだ。


 猫背を指摘された翌日、僕は少しだけ背筋を伸ばした。


 寝癖を指摘された翌日、出かける前に鏡を見るようになった。


 靴下については……まあ、あれは単純に僕が悪い。


 そんな僕を見て、彼女はいつも得意げに笑っていた。


「へー♡ やればできるじゃん♡ 褒めてほしいの? しょうがないなぁ♡」


 そう言って、僕の頭を撫でるのだ。


 四つも年下のくせに。


 ある日、僕が学校で失敗して落ち込んでいたときのことだ。


 いつものように帰り道で彼女と会ったのだが、その日はどうにも話す気分になれなかった。


「……お兄ちゃん、どうしたの?」


「別に。なんでもないよ」


「ふーん?」


 彼女は僕の顔をじっと見つめていた。


 そして、突然笑った。


「えー♡ もしかして落ち込んでるの? お兄ちゃんってばメンタルよわよわ~♡」


「……ほっといてくれよ」


「やだ♡」


 彼女は即答した。


「一回失敗したくらいでそんな顔しちゃうんだ♡ ざぁこ♡」


「お前なぁ……」


「次はちゃんとできるんでしょ? だったらさっさと元気出しなよ♡」


 そう言うと、彼女は僕の背中を勢いよく叩いた。


「ほら、背筋伸ばして! また猫背になってるよ♡」


 腹が立った。


 けれど、少しだけ笑えた。


 彼女も、それを見て満足そうに笑った。


 そんなやり取りが、僕たちの日常だった。


 だから、その日も当然、いつものように始まると思っていた。


「おはよう」


「あ、お兄ちゃん。おはようございます」


「…………え?」


 思わず足を止めた。


 目の前にいるのは、いつもの彼女だった。


 髪形も、服装も、表情も変わらない。


 ただ、何かがおかしい。


「どうかしましたか?」


「いや……」


 僕は自分の服装を確認した。


 寝癖はある。


 シャツの裾は少し出ている。


 靴下は、今日も左右違う。


 完璧だ。


 どこからどう見ても、煽られる準備は整っている。


 なのに、彼女は何も言わなかった。


「それじゃ、行ってきますね」


「あ、ああ……」


 彼女は小さく会釈して歩いていった。


 僕はその背中を、呆然と見送った。


 なんだ、これは。


 いったい何が起きているんだ。


     ◇


 その日から、彼女は僕を煽らなくなった。


 翌日も、その翌日も。


 一週間が過ぎ、一か月が過ぎた。


 僕は何度も彼女と顔を合わせたが、交わされるのは当たり障りのない挨拶ばかりだった。


「おはようございます」


「今日は暑いですね」


「風邪には気をつけてくださいね」


 誰だ、お前は。


 いや、本人なのだ。


 それは分かっている。


 だが、僕の知っている彼女は、もっと生意気で、もっと遠慮がなくて、もっと楽しそうに僕をからかう女の子だった。


 試しに、わざと寝癖をつけて家を出てみたこともあった。


「あ、お兄ちゃん。髪が跳ねてますよ」


「……うん」


「直した方がいいと思います」


「……そうだね」


 正論だった。


 どこまでも正論だった。


 僕は泣きそうになった。


 どうしてしまったんだ。


 昔はあんなに煽ってくれたじゃないか。


 そして、ついに我慢できなくなった僕は、ある夕方、彼女に尋ねた。


「なあ。最近、どうしたんだ?」


「え?」


「いや、その……最近、僕のことをからかわなくなっただろ」


「ああ……」


 彼女は困ったように笑った。


「それなんですけど……私、なんだか煽る気がなくなっちゃったんです」


「煽る気が?」


「はい。前みたいに、お兄ちゃんを見ても、何も言いたくならなくて……」


 彼女は俯いた。


「それに、よく考えたら私、ひどいことばっかり言ってましたよね。ごめんなさい」


「いや、そんなことは……」


「嫌でしたよね。あんなふうに言われて」


「違う!」


 思ったより大きな声が出た。


 彼女が驚いて顔を上げる。


「僕は、嫌じゃなかった。むしろ、君が話しかけてくれるのが好きだったんだ」


「……え?」


「確かに生意気だなって思うこともあったけどさ。でも、君はいつも僕のことを見てくれてただろ。落ち込んでいるときだって、君と話すと少し元気になれたんだ」


 彼女は黙って僕を見つめていた。


「だから、突然変わってしまって、寂しかった。もし何かあったなら、教えてほしい」


 彼女はしばらく黙っていた。


 そして、ぽつりと口を開いた。


「……変な人に、会ったんです」


 それは、彼女が僕を煽らなくなる前日のことだった。


 帰り道、見知らぬ男に声をかけられたらしい。


『まだ、煽るのかい?』


 男は奇妙な笑みを浮かべながら、そう尋ねてきたという。


 彼女は不審に思った。


 だから、いつもの調子で答えた。


『えー? 知らない女の子に話しかけるなんて、よっぽどお暇なんですね♡ お友達いないんですかぁ?♡』


 すると男は、嬉しそうに笑った。


『そうかい。まだ煽るんだね』


 そして。


『じゃあ、煽れなくしてあげよう』


 男の口が、耳まで裂けた。


『今まで煽ってきたことを反省するといい。ヒヒヒヒヒ……』


 そう言い残して、男は消えてしまったという。


「それで……次の日、お兄ちゃんに会ったら、いつもみたいに言葉が出てこなくて」


 彼女は自分の胸元をぎゅっと握った。


「言いたいことがあるはずなのに、何も浮かんでこないんです」


「……今も?」


「はい。何か言おうとすると、頭の中が真っ白になるんです。普通に話すことはできるんですけど……」


 彼女は寂しそうに笑った。


「なんだか、私じゃなくなっちゃったみたいで」


 僕は、彼女の話を最後まで聞いた。


 普通なら、信じなかっただろう。


 妖怪だの、呪いだの。


 そんなものが現実にあるはずがない。


 だけど、彼女が嘘をついているとは、どうしても思えなかった。


「……分かった」


「お兄ちゃん?」


「そいつを探そう」


「え?」


「そいつが君から何かを奪ったなら、取り戻せばいい」


 彼女は目を丸くした。


「そ、そんなこと……」


「僕は、もう一度君に煽られたい」


 彼女は数秒間、僕を見つめた。


 そして、小さく吹き出した。


「……変なの」


 それは久しぶりに見る、彼女の自然な笑顔だった。


 だが、その口から「ざぁこ♡」が出ることはなかった。


 僕は決意した。


 必ず、彼女の煽りを取り戻してみせる。


 それが僕の、十年に及ぶ戦いの始まりだった。


     ◇


 調べ始めて三か月。


 僕は、奇妙な存在の記録にたどり着いた。


 その名も、妖怪(煽り食い)。


 人間の持つ「他者を煽りたい」という感情を食べる怪異。


 煽り食いに煽りを奪われた人間は、他人をからかうことも、挑発することも、軽口を叩くことすら難しくなるという。


 さらに厄介なのは、その影響だった。


 それまで煽ることで他人と交流していた者は、突然、自分の意思を表現する手段を失ってしまう。


 何を言えばいいのか分からなくなる。


 どう接すればいいのか分からなくなる。


 そして次第に、人付き合いそのものを避けるようになってしまう。


 過去の記録には、被害者が引きこもりになった事例まであった。


 僕は怒りを覚えた。


 なんてひどい妖怪なんだ。


 人の大切なものを、勝手に奪うなんて。


 だが、文献には肝心な情報が欠けていた。


 奪われた煽りを取り戻す方法が、どこにも書かれていなかったのだ。


 僕は探した。


 古書店を巡り、神社を訪ね、民俗学者に話を聞いた。


 妖怪研究家を名乗る怪しげな男に高額な相談料を取られたこともあった。


 除霊師に「そんなくだらないことのために来るな」と怒られたこともあった。


 僕はそのたびに思った。


 くだらなくなんかない。


 彼女にとっては、大切なことなんだ。


 事件から一年後。


 僕は高校二年生になっていた。


 彼女も中学二年生になり、新しい友達ができたらしい。


 以前のような生意気な口調ではなく、年相応の丁寧な言葉遣いで、楽しそうに学校の話をしてくれた。


 それはそれで、嬉しいことだった。


 事件から二年後。


 僕は大学受験を控えていた。


 彼女は「無理しないでくださいね」と言いながら、差し入れのお菓子を持ってきてくれた。


 昔なら、きっと「落ちたら笑ってあげるね♡」くらい言っただろう。


 事件から三年後。


 僕は大学生になり、調査に使える時間が増えた。


 少し遠くの神社や古書店にも足を運べるようになった。


 彼女とは時々、メッセージをやり取りした。


 昔のように頻繁に顔を合わせることはなくなったが、連絡が途絶えることもなかった。


 事件から五年後。


 彼女が高校三年生になった頃、久しぶりに長いメッセージが届いた。


『お兄ちゃん、まだ探してるんですか?』


『ああ。なかなか手掛かりがなくてね』


『もう、探さなくてもいいですよ』


 僕は、しばらく画面を見つめた。


『どうして?』


『私、今の生活にも慣れましたから。友達もできたし、学校も楽しいです。昔みたいに話せなくても、ちゃんとやっていけます』


『そっか。それならよかった』


 本当に、そう思った。


 彼女が元気なら、それに越したことはない。


 しばらくして、もう一通届いた。


『でも、たまに思うんです』


『何を?』


『昔の私だったら、今のお兄ちゃんに何て言うのかなって』


 僕は思わず笑った。


『たぶん、五年もかけてまだ見つけられないなんて、よわよわだね♡ って言うと思う』


『あはは。確かに言いそうですね』


 そして、少し時間が空いてから。


『……また、そんなふうに言ってみたいな』


 僕は、そのメッセージを何度も読み返した。


 彼女は今の自分を嫌っているわけじゃない。


 新しい友達もできた。


 新しい生活もある。


 それでも、彼女の中には、失ったままの何かが残っている。


『分かった。もう少し探してみるよ』


『無理はしないでくださいね』


『ああ』


『ちゃんと寝て、ちゃんとご飯も食べてください』


『分かってるよ』


『……本当に分かってます?』


 僕は、少し笑った。


 普通の心配の言葉。


 それも、彼女の優しさなのだ。


 だけど。


 昔の彼女なら、きっともっと生意気に言っただろう。


     ◇


 事件から七年後の冬。


 僕は、ついに煽り食いを見つけた。


 地方の小さな町で、奇妙な噂が広まっていたのだ。


 地元の中学生たちに、見知らぬ男が「まだ煽るのかい?」と声をかけて回っているという。


 僕は仕事の休みを使い、その町へ向かった。


 そして、夕暮れの商店街で奴を発見した。


 彼女が語っていた特徴と完全に一致する男。


 異様に細い身体。


 不自然に大きな口。


 そして、何よりも。


『まだ、煽るのかい?』


 その声を聞いた瞬間、僕は確信した。


「……見つけたぞ」


 男が振り返った。


『おや? 君は誰だい?』


「七年前、君が煽りを奪った女の子を覚えているか?」


『七年前? さあねえ。ずいぶんたくさん食べたからねえ』


 僕は拳を握った。


「返してもらうぞ」


 男は、しばらく僕を見つめていた。


 そして、大きな口を開けて笑った。


『ヒヒヒヒヒ! そうかい、そうかい! 取り戻しに来たんだねえ!』


「……ああ」


『でもねえ、どうやって?』


「それは……」


 僕は言葉に詰まった。


 煽り食いを見つけることはできた。


 だが、奪われた煽りを取り戻す方法は、まだ分かっていなかったのだ。


『ヒヒヒ! 知らないんだねえ!』


 男は楽しそうに笑った。


『それじゃあ、何もできないじゃないか!』


「待て!」


 僕は駆け出した。


 しかし、男の身体は夕闇に溶けるように薄くなっていく。


『そうそう。一つ教えてあげよう』


「……何だ?」


『七年も経ったんだろう?』


 男は、にやりと笑った。


『君が知っていた女の子は、もういないんじゃないかい?』


「……っ!」


『人間は変わるんだよ。七年もあれば、子どもは大人になる。考え方も、話し方も、何もかも変わる』


 男は、僕を指差した。


『君が取り戻したいのは、本当にその子が失ったものなのかい?』


「……何が言いたい」


『君が昔のあの子に、もう一度会いたいだけなんじゃないのかい?』


 僕は、何も言えなかった。


『ヒヒヒヒ! だったら残念だったねえ! もう七年も経っちゃった!』


 そう言って、男は消えた。


 僕は、誰もいなくなった商店街に立ち尽くした。


 七年間。


 七年間、探し続けて、ようやく見つけたのに。


 何もできなかった。


 それどころか、奴の言葉が頭から離れなかった。


 僕が知っていた、十二歳の彼女。


 生意気で、遠慮がなくて、いつも楽しそうに僕を煽っていた女の子。


 今の彼女は、もう十九歳だ。


 大学に通い、友達と遊び、時には旅行にも出かけている。


 僕の知らない時間を、たくさん過ごしてきた。


 もし今、煽りを取り戻せたとしても。


 あの頃と同じ彼女には、戻らないのかもしれない。


 いや。


 戻らないのだ。


 当たり前のことだった。


 人間は、成長する。


 七年も経てば、変わって当然なのだ。


 僕は、何を取り戻そうとしていたんだろう。


     ◇


 その夜。


 僕は彼女に連絡した。


『今日、煽り食いを見つけたよ』


 すぐに返事が届いた。


『本当ですか!?』


『でも、逃げられた。取り戻す方法も分からなかった』


『そうだったんですね……』


『ごめん』


『どうして謝るんですか?』


 僕は、しばらく迷ってから文字を打った。


『もしかしたら、僕は昔の君に戻ってほしいだけだったのかもしれない』


 送信したあと、後悔した。


 何を言っているんだろう。


 彼女にこんなことを伝えて、どうするつもりだったんだ。


 しかし、しばらくして返事が届いた。


『お兄ちゃん』


『うん』


『私、昔の私に戻りたいわけじゃないですよ』


 僕は画面を見つめた。


『今の生活も好きです。友達もいるし、大学も楽しいし、昔よりできることも増えました』


『うん』


『でも、煽れないのは、やっぱり嫌なんです』


『……どうして?』


『だって、私が決めたわけじゃないですから』


 その一文を、僕は何度も読み返した。


『昔の私が、あんなこと言わない方がよかったって思うこともあります。でも、それは私が考えて決めることですよね』


『そうだね』


『誰かに勝手にできなくされるのは、やっぱり違うと思うんです』


 彼女の言葉は、静かだった。


 昔のような生意気さは、そこにはなかった。


 けれど。


 それは間違いなく、彼女自身の言葉だった。


『だから、お兄ちゃん』


『うん』


『まだ探してくれるなら、私は嬉しいです』


 僕は、深く息を吐いた。


 そうか。


 僕は、勘違いしていたのかもしれない。


 昔の彼女を取り戻す必要なんて、ないんだ。


 今の彼女は、今の彼女でいい。


 ただ、奪われたものを返してもらえばいい。


 そのあと、どうするかは彼女が決めることだ。


『分かった。必ず取り戻すよ』


『ありがとうございます』


 そして、最後にもう一通。


『でも、無理はしないでくださいね。本当に』


 僕は、少しだけ笑った。


『ああ。今度こそ気をつけるよ』


 七年前なら、きっとこう言っただろう。


 無茶ばっかりして、ほんとざぁこ♡


 そんな声が、頭の中に浮かんだ。


 僕は、もう一度調査を始めることにした。


     ◇


 事件から八年後。


 僕は、怪異を研究する老人から、重要な情報を得た。


 煽り食いが奪った感情は、消滅するわけではないらしい。


 奴の腹の中に、蓄積されているのだという。


「つまり、吐き出させればいいということですか?」


「理屈の上ではな」


「どうすれば吐き出すんです?」


「それが分かれば苦労はせん」


 老人は、そう言ってお茶をすすった。


 僕は頭を抱えた。


 しかし、これで一つ希望が見えた。


 奪われたものは、まだ存在している。


 ならば、必ず取り戻せるはずだ。


 事件から九年後。


 僕は、ついに一冊の古文書を発見した。


 そこには、こう記されていた。


『煽りを喰らうもの、真なる礼を受くれば、腹に収めし言の心、ことごとく吐き出す』


 ……礼?


 どうやら煽り食いは、心から感謝されると、食べた煽りを吐き出してしまうらしい。


 ただし、口先だけでは駄目だという。


 真に感謝していなければ、効力を持たない。


「……なるほど」


 僕は天井を見上げた。


 難題だった。


 人の大切なものを奪った妖怪に、本心から感謝しろというのだから。


 奴に、感謝できることなんてあるだろうか。


 彼女から大切なものを奪った。


 僕から、彼女との楽しい日常を奪った。


 十年近い時間を費やすことになった。


 それなのに。


 不思議なことに、昔の自分を思い出すと、一つだけ思い当たることがあった。


 あの頃の僕は、彼女の生意気な言葉が好きだった。


 だけど、どうして好きなのかは分かっていなかった。


 煽られなくなって、初めて気づいたのだ。


 彼女が僕をよく見てくれていたこと。


 僕が落ち込んでいるとき、元気づけようとしてくれていたこと。


 ふざけた言葉の中に、彼女なりの優しさがあったこと。


 もちろん、人を傷つける煽りだってある。


 彼女の言葉も、誰に対してでも許されるものではなかっただろう。


 だが、少なくとも僕と彼女の間では、あのやり取りが大切なコミュニケーションになっていた。


 僕は、古文書を閉じた。


「……そうか」


 感謝できることが、一つだけあった。


 もちろん、それで奴を許すつもりはない。


 だが。


 十年間の答えが、ようやく見つかった気がした。


 あとは、奴を探すだけだ。


     ◇


 事件から十年後の秋。


 ついに、僕は奴を発見した。


 SNSに投稿された、ある少女の奇妙な体験談。


『知らないおじさんに「まだ煽るの?」って聞かれたんだけどキモすぎw』


 間違いない。


 僕は投稿者に連絡を取り、目撃場所と時間を確認した。


 過去の記録と照合し、移動経路を推定する。


 煽り食いは、煽る人間の多い場所を好む。


 特に、年下の少女が年上の相手をからかう場面に現れやすい。


 僕は、奴が次に現れる場所を突き止めた。


 そして、夕暮れの公園で待ち伏せた。


「……見つけたぞ」


 十年前と変わらない、不気味な男が立っていた。


『おや? 誰だい、君は』


「三年前に一度会っているんだがな」


『おやおや。そうだったかい?』


「十年前、君が煽りを奪った女の子を覚えているか?」


 男は首を傾げた。


『十年前? さあねえ。ずいぶんたくさん食べたからねえ』


 その言葉に、僕は拳を握った。


『ああ、もしかして、君も誰かの煽りを取り戻しに来たのかい?』


「そうだ」


『ヒヒヒヒ! 馬鹿だねえ! 煽りなんかなくても生きていけるだろう?』


「確かにな」


『おや?』


「煽られなくたって、人間は生きていける。彼女だって、あれから十年、ちゃんと自分の人生を歩いている」


『じゃあ、何をしに来たんだい?』


「彼女が失ったものを、取り戻しに来た」


 妖怪はつまらなそうに肩をすくめた。


『くだらないねえ。もう一度煽ってもらいたくて、十年も?』


「ああ。最初はそうだった」


『……最初は?』


「でも、今は違う。彼女が何を言うかは、彼女自身が決めることだ」


 妖怪は、突然笑い出した。


『ヒヒヒヒ! そんなもの、なくたって困らないじゃないか! 煽るなんて、他人を傷つけるだけのくだらない行為だろう?』


「そういう煽りもあるだろうな」


『だろう?』


「でも、全部がそうじゃない」


 僕は、十年前の彼女を思い出した。


 猫背を指摘されたこと。


 寝癖を笑われたこと。


 落ち込んでいるとき、背中を押してくれたこと。


「僕は、彼女の言葉に何度も助けられた」


『だったら、なおさら残念だったねえ! その言葉はもう聞けないんだから!』


「……そうだな」


 僕は、小さく笑った。


「だから、お前に言わなきゃならないことがある」


『なんだい?』


 僕は奴の目を、まっすぐ見つめた。


「ありがとう」


『…………は?』


「お前が彼女から煽りを奪ったから、僕は彼女の言葉がどれだけ大切だったのか分かった」


『な、何を……』


「十年間、色々な場所を巡った。たくさんの人にも会った。人間がどうやって気持ちを伝えるのか、前よりずっと考えるようになった」


『や、やめ……』


「彼女とも、昔とは違う話ができるようになった。彼女がどんなふうに成長して、どんなことを考えるようになったのか、知ることができた」


 妖怪の顔色が変わった。


『ま、待て……!』


「もちろん、お前がしたことは許さない。彼女から大切なものを奪ったことも、他の人たちにしたことも」


『やめろぉ……!』


「でも、それがきっかけで気づけたことがあるのも、確かなんだ」


 僕は、深く頭を下げた。


「そのことだけは、感謝している」


『お、おおおおおお……!』


「ありがとう、煽り食い」


『おええええええええええええええええええええええええッ!!』


 妖怪が盛大に吐いた。


 口から飛び出したのは、無数の光の粒だった。


 赤、青、黄色、桃色。


 色とりどりの光が、夕暮れの空へと舞い上がっていく。


『ざぁこ♡』


『よわよわ~♡』


『そんなこともできないの~?♡』


『おじさん、もしかして泣いちゃう?♡』


『へたくそ♡』


『だっさ♡』


 何千、何万という煽りの声が、光とともに空を飛び交った。


 なかなか壮絶な光景だった。


 中には、随分と年季の入った野太い声まで混じっていた。


『この程度で音を上げるとは、情けないのう!』


 ……いったい何を食べたんだ、こいつは。


 妖怪は地面に転がり、涙を流しながら僕を睨みつけた。


『お、お前……よくも……!』


「人の大切なものを、勝手に奪うからだ」


『くそぉ……! もう二度と、人間の煽りなんか食ってやるものかぁぁぁ!』


 そう叫ぶと、煽り食いは消え去った。


 僕は、空を見上げた。


 無数の光が、各地へ散っていく。


 きっと、あれは元の持ち主のところへ帰るのだろう。


 十年。


 長かった。


 馬鹿げた旅だったのかもしれない。


 でも。


 ようやく、彼女に会える。


     ◇


 彼女に会ったのは、それから一週間後だった。


 十年という時間は、ずいぶん多くのものを変えていた。


 あの頃、十二歳だった少女は、二十二歳の立派な女性になっていた。


 大学を卒業し、今では社会人として働いている。


 髪は昔より長くなり、服装もすっかり大人びていた。


 僕だって、十六歳から二十六歳になった。


 お互い、もう子どもではない。


 連絡は時々取っていたものの、直接顔を合わせるのは数年ぶりだった。


 待ち合わせ場所に現れた彼女は、僕を見つけると小さく手を振った。


「お兄ちゃん。お久しぶりです」


「……久しぶり」


「元気でしたか?」


「ああ。君は?」


「はい。元気でしたよ」


 彼女は、穏やかに微笑んだ。


 昔とは、ずいぶん違う笑顔だった。


「……聞きましたよ」


「何を?」


「煽り食い、見つけたんですよね」


「ああ」


「私の、取り戻してくれたんですよね」


「……うん」


 彼女はしばらく黙っていた。


 そして、深く頭を下げた。


「十年間、本当にありがとうございました」


 僕は、少し驚いた。


 まさか、こんなに丁寧に礼を言われるとは思っていなかった。


「いや、そんな……」


「お兄ちゃんには、本当に感謝しています」


「……うん」


 彼女は顔を上げた。


「でも、十年も経っちゃいましたね」


「……そうだね」


「私、昔みたいな子どもじゃなくなっちゃいました」


「ああ」


「今の私を見て、がっかりしましたか?」


 僕は首を横に振った。


「そんなことないよ」


「……本当に?」


「ああ。君が元気そうでよかった」


 それは、本心だった。


 十年も経ったのだ。


 昔と同じように煽ってくれなくても構わない。


 彼女が自分の人生を生きてくれているなら、それでいい。


 僕は、そう思っていた。


 すると。


「…………はぁ」


 彼女が、大きなため息をついた。


「……お兄ちゃんさぁ」


「……え?」


「十年だよ? 十年」


「あ、ああ……」


「十年もかけて私の煽り取り戻したくせに、なんでそんな簡単に満足しちゃうわけ?」


「…………え?」


 彼女は、呆れたように腰に手を当てた。


「ほんっと、最後まで詰めが甘いんだから♡」


 心臓が、跳ねた。


「十年もかけて、何やってたの? 私が煽れるようになったかどうか、ちゃんと確認しなくていいの?♡」


「……あ」


「えー♡ もしかして、もう煽られなくても平気になっちゃった?♡」


 彼女は、にやりと笑った。


 懐かしい笑顔だった。


 だけど、あの頃よりずっと大人びた笑顔だった。


「昔はあんなに煽ってほしそうにしてたくせに♡」


「……君」


「なぁに?♡」


「戻った、のか?」


「ふふっ♡」


 彼女は、得意げに胸を張った。


「お兄ちゃんってば、ほんとにざぁこ♡」


 その瞬間。


 十年間の記憶が、胸の奥から溢れ出した。


 近所の道。


 朝の挨拶。


 猫背を叩かれたこと。


 寝癖を笑われたこと。


 失敗して落ち込んでいたとき、背中を押してくれたこと。


 あの日から、ずっと聞きたかった言葉だった。


「……ああ」


 僕は、思わず笑ってしまった。


「……本当に、戻ったんだな」


「うん♡」


 彼女は、嬉しそうに笑った。


 けれど、その目には少しずつ涙が浮かんでいた。


「……でもね、お兄ちゃん」


「うん?」


「私、ちょっと怖かったんだ」


「……怖かった?」


「うん。煽れるようになったら、昔の私に戻っちゃうんじゃないかって」


 彼女は、自分の手を見つめた。


「十年間、いろんなことがあったから。友達もできたし、大学にも行ったし、仕事も始めたし……」


「うん」


「今の私も、結構好きなんだよね」


「ああ」


「だから、昔の私に戻っちゃったらどうしようって、ちょっと思ってた」


 彼女は、顔を上げた。


「でもね。違った」


「……違った?」


「うん。昔の私に戻ったんじゃなくて、今の私に、昔の私が帰ってきた感じ」


 彼女は、嬉しそうに笑った。


「私、ちゃんと私のままだったんだ」


 僕は、何も言えなかった。


 それはきっと、彼女にしか分からない感覚なのだろう。


 だけど。


 十年間、探し続けてよかった。


 心から、そう思った。


「……よかった」


 僕は、小さく呟いた。


 すると、彼女は急に頬を膨らませた。


「……それだけ?」


「え?」


「私のために十年も使ったんだよ? 他に何かないの?」


「いや……」


「もしかして、お兄ちゃん」


 彼女は、少し顔を赤くした。


「十年前から、ずっと私のこと好きだったの?」


 僕は、彼女を見つめた。


 十年前。


 僕は、彼女と話すのが好きだった。


 彼女の笑顔が好きだった。


 生意気な言葉が好きだった。


 だけど、あの頃の僕は、その気持ちが何なのか、はっきりとは分かっていなかった。


 十年間。


 彼女と離れて過ごすうちに、色々なことを考えた。


 昔の彼女のこと。


 今の彼女のこと。


 そして、これからのこと。


「……あの頃は、君と一緒にいるのが好きだった」


「……うん」


「でも、今はそれだけじゃない。大人になった君と話すうちに、もっと君のことを知りたいと思うようになった」


 彼女は、驚いたように目を見開いた。


「これからも、君と一緒にいたい」


「……っ!」


「もしよかったら、今度、二人で出かけないか?」


 彼女は、しばらく黙っていた。


 そして。


「…………ばか」


 小さく、そう呟いた。


「……え?」


「ばか。ばかばか」


 彼女の目から、涙がこぼれた。


「十年もかけて、何やってんの……」


「……ごめん」


「ほんっと、計画性なさすぎ……っ」


 彼女は、涙を拭いながら笑った。


「そんなことに十年も使っちゃうとか、人生設計よわよわすぎでしょ♡」


「……ああ」


「しかも、女の子を誘うのにそんなに緊張しちゃって♡」


「……うん」


「ほんっと、頼りないんだから♡」


 彼女は、一歩近づいた。


「私が面倒見てあげないと、ダメじゃん……っ!」


 次の瞬間。


 彼女は、僕の胸に飛び込んできた。


 僕は、驚きながらも彼女を抱きしめた。


 十年前より、ずっと大きくなった身体。


 あの頃より、ずっと大人びた声。


 だけど。


 僕の服をぎゅっと掴む彼女の手は、昔と変わらず、小さく震えていた。


「……お兄ちゃん」


「うん」


「私、もう子どもじゃないんだよ」


「……そうだね」


「だから、これからはちゃんと今の私を見てよね」


「……ああ」


「昔の私じゃなくて、今の私を」


「うん。約束する」


 彼女は、僕の胸に顔を埋めたまま、少し笑った。


「……よろしい♡」


 そして、顔を上げた。


「じゃあ、今度のお休みは私がリードしてあげる♡」


「……いいの?」


「えー? お兄ちゃんから誘ってきたくせに、今さら確認しちゃうんだ♡」


「いや、だって……」


「ほんっと、頼りないんだから♡」


 彼女は、嬉しそうに笑った。


「しょうがないなぁ♡」


 ああ。


 やっぱり。


 僕は、この子が大好きだ。


「……ところで、お兄ちゃん」


「ん?」


「今日も寝癖ついてるんだけど♡」


「……あ」


「十年経っても全然成長してないじゃーん♡」


 彼女が背伸びをして、僕の髪に手を伸ばす。


「しょうがないなぁ♡」


 優しい指先が、髪を整えてくれた。


「これからは、私がちゃんと見ててあげるね♡」


 僕は、思わず笑ってしまった。


「……よろしくお願いします」


「うん♡」


 彼女は、満足そうに頷いた。


 そして、少しだけ頬を赤くしながら。


「……ま、私も、お兄ちゃんのこと……好きだし」


 そう呟いた。


 僕が何か言おうとすると、彼女は慌てて顔を逸らした。


「な、なに!? 今の聞こえたの!?」


「……うん」


「わ、忘れて! 今のなし!」


「いや、無理だよ」


「うぅ……!」


 彼女は、真っ赤になった顔を両手で覆った。


 僕は、そんな彼女を見て笑った。


 すると、彼女は僕の腕をぽかぽかと叩き始めた。


「笑うなぁ! ばかぁ!」


 ……なるほど。


 これはこれで、なかなか可愛い。


     ◇


 後日。


 僕のSNSには、全国各地から大量のメッセージが届くようになった。


 十年間の調査を記録していたアカウントに、煽り食いを退治したことを書き込んだのが原因だった。


『おい! うちの妹が急にまた煽り始めたんだけど!』


『娘が十年ぶりに「パパよわよわ♡」って言ってきた。嬉しいけど困惑してる』


『幼馴染にまたざこ扱いされるようになった。どうしてくれる』


『近所の子に髪が薄くなったことを指摘されました。訴えます』


『職場の後輩が急に生意気になったんですが、何か知りませんか?』


『妻が結婚前の煽り口調に戻りました。ありがとうございます』


『昔のクソガキが戻ってきた。責任取れ』


 どうやら、煽り食いが吐き出した感情は、すべて持ち主のところへ戻ったらしい。


 被害者の会からも、感謝状が届いた。


 それと同時に、苦情も大量に届いた。


 中には、実に切実なものもあった。


『十年前に煽ってきた近所の女の子が、現在二十五歳になって再び煽り始めました。昔より語彙が豊富になっていて、対処できません』


『妻の煽りが復活した結果、夫婦喧嘩が減りました。理由は分かりません。ありがとうございます』


『娘に「パパ、昔よりお腹出てるじゃん♡」と言われました。十年前はそんなこと言わなかったのに』


『祖母が突然「最近の若いもんは根性が足りんのう♡」と言い始めました。どうしてくれるんですか』


 ……最後のは本当に煽り食いの被害者だったのだろうか。


 僕は、画面を眺めながら頭を抱えた。


「……これは、どうしたものかな」


 すると、隣で画面を覗いていた彼女が笑った。


「えー? 自分でやったことの責任も取れないの~?♡」


「いや、だって……」


「全国の人に迷惑かけちゃって、ほんとざぁこ♡」


「……反省してます」


「しょうがないなぁ♡」


 彼女は、僕の腕に抱きついた。


「そんなお兄ちゃんは、私が一生面倒見てあげる♡」


「……一生?」


「な、なに? 嫌なの?」


「いや。すごく嬉しい」


「……っ!」


 彼女は、真っ赤になった。


「そ、そういうこと普通に言っちゃうんだ♡ お兄ちゃんってば、ほんと……」


 そこで、言葉を詰まらせた。


「……ほんと、ずるいんだから」


 僕は笑った。


 彼女は、昔よりずっと表情豊かになったように思う。


 生意気に笑うこともあれば、恥ずかしそうに俯くこともある。


 丁寧な言葉で心配してくれることもあれば、昔のように遠慮なくからかってくることもある。


 僕は、そんな彼女の手を握った。


「これからもよろしくね」


 彼女は嬉しそうに笑った。


「うん♡」


 そして。


「……ま、私がいないと何もできないお兄ちゃんだから、仕方なく、だけどね♡」


 十年かけて取り戻したその言葉を、僕は何よりも愛おしく感じた。


 なお、翌月。


 全国の煽り被害者を代表するという謎の団体から、僕宛てに正式な抗議文が届いた。


 要求は一つ。


『責任を取って、もう一度煽り食いを探し出してください』


 僕は、その文書をそっと閉じた。


 申し訳ないが。


 二度とごめんだ。

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昔あんなに煽ってくれたじゃないか! わかめ @namawakame

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