春錦

 ミチルさんの春の展示会が終わって数週間が経った頃。私は再びK市の桜庭家を訪れていました。

「引っ越してしまうんですね」

「ええ。大叔父が身体を悪くしてしまって。一緒に住んだ方がいいかなと。すみません、手伝ってもらっちゃって」

 名残惜しそうにナギサさんが言いました。

「それは……。お大事になさってください」

「ありがとうございます。それで、この家は手放そうと思っているんですけど……、ガクさんが住みますか?」

 思いがけない問いかけでした。私がこの家に住む。それは魅力的かもしれません。庭には四季折々の花が咲き乱れ、縁側から眺めるK市の景色も良い。しかし――。

「いえ、K市はいい場所ですし、ミチルさんが過ごした家でもありますが……。いかんせん幼い頃のことを思い出してしまいそうなので。あと、一人で住むには広すぎますから」

「そうですか」

 彼女は小さくつぶやきました。

「それに、私はミチルさんの絵をもっと多くの人に知ってほしいんです。だから、旅をしようと思います。各地で展示会を開いて、ミチルさんの作品を語り継いでいく。それが私の夢です」

 今まで夢というのを語ったことがありませんでした。仕事は金を得るための手段でしかなく、人生が終わりを迎えるまで毎日をただ過ごすのだと思っていました。

 しかしミチルさんの絵に出逢い、ミチルさんと話し、ミチルさんの絵の額縁を創り、個展でお客様の顔を見て、裏葉柳の新芽が、硬い地面を突き破って姿を現したのです。

 それを聞いたナギサさんは荷造りの手を止め、春の陽光を反射する海のように輝く笑顔を見せました。


「あ、ガムテープ切らしたみたい。ちょっと買ってきますね。お茶淹れといたのでよかったら飲んでください」

「ああ、はい。いってらっしゃいませ」

 ぱたぱたと駆けていく足音が消えると静寂が訪れました。春は間もなく夏へと季節のバトンを手渡します。

 一仕事片付けると、私は湯飲みを二つ手にとって縁側に腰掛けました。庭の桜の花は散り、もう葉桜でありました。

 K市の街並みが見えました。初夏の足音が近づいてきている城下町は、青々とした大空の下、今日も賑わっています。

 さらぁ、と穏やかな風が吹き抜けていきました。

 舞桜さんに素性法師の和歌を教わってから、私は少しずつ和歌の勉強をするようになりました。きっとこれから額縁を創る中で役立つはず。絵だけではない、音楽にしろ、文学にしろ、あらゆる芸術に触れて、額縁の表現の幅を広げるべきだと思ったのです。

「桜花散りぬる風のなごりには」

 紀貫之の和歌を呟くと、

『水なき空に波ぞたちける』

 懐かしいお声が聞こえました。しかしその方を見ても、誰もいません。温もりだけがありました。

「……ふっ」

 口元が緩みました。

『あの絵の意味、分かりました?』

「ええ」

 ヒントは額縁の模様でした。全ての額縁を創り上げたあの日、目に入った二枚の絵が繋がるように見えたのです。額縁が繋がる、絵が繋がる。

 その二枚だけではありませんでした。

『海遥』の下には上下をさせた反転『嶺望』、『海遥』の上には『正雪』が繋がります。森林の小川を描いた『青葉』の左には、秋桜の花畑を描いた『真心』。『蛍火』の下には、暗がりの部屋を描いた『独夜』、『嶺望』の右に『想蓮』、……。

 パターンがいくつもあり、繋がらないのではないかと思ったこともありましたが、私を引っ張る裏葉柳に引っ張られるまま試行錯誤を繰り返した末、四つのパターンがあることに気がつきました。

 ミチルさんが描き上げた九十九枚の絵。それをパズルのように並べ替えると、一つの大きな絵になったのです。

 タイトルは個展の日まで決まりませんでした。しかし、ナギサさんや舞桜さんの言葉を借り、私は絵の一つを『春錦』と名付けました。あとの三つはそれぞれ、『夏鏡(なつかがみ)』、『秋櫃(あきひつ)』、『冬畳(ふゆだたみ)』。

『夏鏡』は、夏休みの青空の下、中学生(あるいは高校生)の少年と少女が笑い合っている様子を描いたものでした。青春時代の眩しく、輝いた光景が目に飛び込んでくるようです。

『秋櫃』は、若い男女(おそらく『夏鏡』に描かれた二人の数年後の姿)がベンチに腰掛け、紅葉や公孫樹、薄といった秋の風物詩を手に取って話している様子を描いたものでした。少女の方は読書の秋だからか、本を手にしていました。落ち葉を栞にでもするのでしょうか。大切にそっと宝箱にしまうような優しい眼差しがあります。

『冬畳』は、雪が降り積もった道を明るい方へと手を取り合って歩く、和装の二人の後ろ姿を描いたものでした。冬物の羽織に身を包んだ二人が、早く帰ろうと家路を急ぐ。でもその一歩一歩を、一緒にいる思い出だからと踏みしめるように。夕方だろうか。どんな話をしているのだろうか。そんなことを考えてしまいます。

 そして、『春錦』。二人が縁側でお茶を飲みながら、庭の桜を眺めている。いや、桜だけではない。藤、躑躅、柳、……。まさに春の、この縁側からの眺めでありました。後ろ姿で表情は分かりませんが、きっとこれらは――。

 女性はミチルさんでしょう。

 ミチルさんが生きていたらこうなりたかったと、心から望んだ光景なのでしょう。

 そして、願うことなら、ここに描かれた少年、青年は、私であってほしい。

 そんな思いが、心の内に芽生えたのです。

『あとはお願いしますね』

 耳元で囁く声がしました。

「お任せください」

 私が応じると、温もりは頬を撫で、さらりと消えていきました。


『ガク? 届いたぜ』

「そう」

 六月。兄から一本の電話がありました。ミチルさんの春個展を各地で開催し、一段落ついた頃。私は一つの木彫りを創り上げ、結婚したという兄に送りつけてやりました。

 久しぶりに額縁以外で木を彫りました。特に深い意味はありません。ただ、ほんの少しだけ祝ってやろうと思っただけです。

 送り先は当然のことながら実家でした。しかし、柳川ガクを送り主とすると父が私を思い出すのではないかという不安が頭をよぎったので、ナギサさんに送っていただきました。兄にもそのことは伝えてあります。

『薔薇かな? ピンクの』

「うん」

『品種名とかってあるのかな』

「和泉さんに聞いたら?」

 贈り物に相応しいものやら花言葉やらを調べ、これがいいのではないかと思い、薔薇を彫りました。色はピンクホワイトにしました。

『そうするよ。詳しそうだし。……そういや、行ってきたよ。ミチルさんの個展。親父も。気にすんな。額縁を誰が作ったかなんて言ってない。ていうか、もう年だし、覚えてないだろうよ』

「……そう」

 ミチルさんの故郷であるK市で開催しないわけにはいきませんでした。これは使命であり、夢なのだから。顔を見せるなと言った父のことは、こちらから避ければいい。そもそも、K市に来るなとは言われていません。もし何か言われたらちっとは言い返してやろう。こちとら、昔の無機物じゃないのだから。

 と考えながらも、各地を練り歩いて疲労が溜まったのか、私は体調を崩してしまいました。昔の父のようだ……。布団の中でぼんやりと思いました。やっぱり私は父の息子なのです。

 K市での開催はナギサさんに任せきりになってしまいました。最終日くらい行くと申し上げたのですが、病人の仕事は早く治すことだと言われ、受け入れざるを得ませんでした。

『でも親父、絵じゃなくて額縁ばっかり見てたんだぜ? んで、こう言ってたよ。「いい額縁だな」って』

「……」

『その後はもう帰るなんて言い出して、すぐ帰っちゃった。早く自分も彫りたかったんだろうな。……相変わらず、芸術家としてだけは一流だな。嫁さんもぽかんとしてたっけ』

「ふぅん」

 幼い頃の記憶を思い出してまたも胸がちくりと痛みました。しかし同時に、父を見返してやったと思うと鼻が高くなりました。

『ん、おっと。悪い、嫁さんが呼んでるわ。また電話する。じゃな』

「うん、お幸せに」

『ああ。ありがとな。そうだ、引出物送るわ。あと、おまえも結婚するなら俺が何か彫ってやるから連絡しろよな』

「はいはい」

 電話を切り、息をつきました。

 結婚相手などいません。最愛の人はもういないのですから。

 でも私はその人の思いを紡いでいくのです。

 まだ『夏鏡』、『秋櫃』、『冬畳』は一般公開していません。これから開く展示会でお披露目し、その魅力をお伝えする予定です。

 次は夏個展。夏鏡がその輝きを映します。

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