第四話 では、うちの商会が
「では、うちの商会が全部お引き受けしますわ」
セリーヌがそう言ったのは、王子宮の食卓から葡萄酒が一本減った日のことだった。
飲めなくなったわけではないし、金が尽きたわけでもない。夕食に出すはずだった三本のうち一本を、オスカーが翌週に回しただけだった。
家政費の残りは四十三枚。月末まで十日。食材も薪も蝋燭も、使用人の食事も馬の飼葉も要る。その数字を並べ終えたあと、オスカーは何も言わずに葡萄酒を一本減らした。
アルベルトも、それには何も言わなかった。式典の酒でも、客を招く晩餐でもない。宮の夕食なら、二本で困ることはない。
「花も、葡萄酒も、馬車も。そのたびに別々の商人にお金を払うから、面倒なのです」
セリーヌは食後の茶を置いて、明るく言った。
「うちでしたら、まとめてご用意できますわ」
アルベルトが顔を上げた。
「全部か」
「もちろんですわ」
セリーヌの父の商会は、織物から始めて酒や異国の食器まで手を広げ、今では王都に倉庫を三つ持っている。
「商会一つにお任せくだされば、お支払いだって月に一度で済みますでしょう?」
「そうだな」
「今までのように、あちらはこちらの契約、こちらは別の契約、なんて面倒なことをしなくても。殿下がお望みのものを、お望みのときにお届けできます」
アルベルトは少し考えた。
悪くない話だった。むしろ、なぜ最初からそうしなかったのかと思えるほどだった。
「条件は」
「父に話してみます。殿下のお名前を出せば、きっと喜びますわ」
「そうか」
アルベルトの口元が緩んだ。
「では、頼む」
「お任せくださいませ」
セリーヌは嬉しそうに頷いた。
壁際で帳簿を閉じたオスカーだけが、その話に加わらなかった。
翌日の午後、王都の中央通りに建つ商会の本店、その二階の一室で、セリーヌは父親の向かいに座っていた。
机の上には、王子宮との取引の案が広げてある。
「ですから、花もお酒も食材も、全部うちでまとめればいいのです」
「聞いている」
父親は書類から目を上げなかった。
五十がらみの男だった。娘と同じ淡い色の髪をしているが、顔つきは似ていない。セリーヌが笑えば人が寄ってくる顔になるのに、この男が黙ると、値札を読んでいる顔になる。
「納品はできる。花も酒も食材も、要るなら馬車も揃えよう」
「でしたら」
「誰が払う」
「……殿下が。月末に、まとめて」
「月末までのあいだ、誰の金で仕入れる」
セリーヌは答えかけて、止まった。
「花屋にも酒商にも肉屋にも、うちが先に払う。王子宮から金が入るまで、立て替えるのは全部うちだ。入らなかったときに、それを埋めるのが」
父親の指が、契約書の一番下で止まった。保証人の欄。空いていた。
「ここに名前を書いた人間だ。これまでは、エルヴェール侯爵家だったそうだな」
「お父様のお名前では」
「書かない。王子宮に物を売れとは言った。王子宮の借金を背負えとは言っていない」
「借金だなんて、大げさですわ」
「なら、お前が書くか」
父親が、ペンを一本、契約書の横に置いた。
「私が?」
セリーヌは、ペンと空いた欄を見比べた。
小さな四角だった。名前を一つ書けば埋まる、それだけの場所に見えていた。
ペンを取る。インク壺に浸して、欄の上まで持っていく。
そこで、手が止まった。
ここに自分の名を書いたら、何が起きるのか。殿下が払えなかった月に、花屋と酒商と肉屋が、この商会の扉を叩く。父の倉庫の品が、王子宮の夕食の代わりに運び出されていく。
その順番が、初めて頭の中で一列に並んだ。
ペン先から、インクが一滴だけ落ちそうになって、セリーヌは慌ててペンを戻した。父は何も言わなかった。
「……私には、そのようなお金は」
「だから、書かない」
父親は契約書を畳んだ。
「払える人間が書く欄だ。仲のいい人間が書く欄じゃない」
セリーヌは、しばらく黙っていた。
窓の外を荷車が通っていく。一階から、店の者が客を呼ぶ声が上がってきた。
「殿下に、何と申し上げれば」
「そのまま言えばいい。納品は断っていない。掛け売りを断った」
「……同じことでは」
「違う。商売では、かなり違う」
父親は、もう次の書類を取り上げていた。
同じ日の夕方、リディアは父と連れ立って、王都の商いの通りに来ていた。
王子宮の仕事ではない。侯爵領の使用人たちの冬の外套に使う布を、取引先と決めるためだった。三年間、王子宮の帳簿ばかり見ていたせいで、家の仕入れは父に任せきりになっていた。
毛織物の店の奥で、主人が反物を二つ並べた。
一つは、厚手の灰色。丈夫で、汚れが目立たず、値も手ごろだった。
もう一つは、深い青に染めた織物。少しだけ柔らかく、灰色より二割ほど高い。
「どちらになさいます」
「灰色を」
答えは、考えるより先に出ていた。
枚数と、着られる年数と、一着あたりの値。頭の中で並べ終えるまでもない。使用人の外套なら、灰色だった。
「お前は、どちらがいい」
父が言った。
「ですから、灰色を」
「どちらが要るかを訊いたんじゃない」
リディアは、口を開きかけて止まった。
青い反物が、灯りの下で少しだけ光っている。店に入ったとき、最初に目が行ったのはそちらだった。そのことを、自分でも今まで忘れていた。
「……青のほうが、きれいだと思います」
「そうか」
父は主人に向き直った。
「外套は灰色で頼む。それとは別に、青を一反。娘の分だ」
「お父様、それは」
「何に使うかは、お前が決めろ」
包まれていく青い布を、リディアは黙って見ていた。
何に使うのか。訊かれても、すぐには一つも浮かばなかった。外套、ドレス、膝掛け。並べてみても、どれが自分の欲しいものなのか分からない。王子宮の夜会なら、三百本の花の色まで一晩で決められたのに。
店を出ると、通りの向こうで侯爵家の馬車が待っていた。
乗りこもうとしたところへ、反対側から別の馬車がやってくる。扉に商会の紋章が入っていた。すれ違う直前にその窓が開き、乗っていた男がこちらに気づいたらしく、帽子を取った。深く、ていねいに頭を下げる。
父が軽く帽子を上げて返し、リディアも会釈を返した。
「お知り合いですか」
「商会の主人だ」
父が店の名を告げた。聞き覚えがあった。セリーヌの家だった。
なぜあれほどていねいに頭を下げられたのか、以前のリディアなら、少しは考えたかもしれない。けれど、もう自分の受け持ちではなかった。
手の中の青い包みのほうが、よほど難しかった。
「乗るぞ」
「はい」
リディアは馬車に乗った。
それきり、振り返らなかった。
「できない?」
アルベルトの声は、自分で思ったより低く出た。
翌朝の王子宮の応接室で、セリーヌは膝の上で指を組んでいた。
「品物をお届けすることは、できるそうです」
「なら、できるだろう」
「先にお代をいただければ、と」
アルベルトが黙った。
「それでは、今までの店と同じではないか」
「……はい」
「君の父上は、私との取引を望んでいたのではないのか」
「望んでおりますわ」
「ならば、なぜだ」
セリーヌは、昨日の父の言葉を思い出した。そのまま口にするには強すぎる。けれど、ぼかして伝えれば、殿下はまた同じところでつまずく気がした。
「父が申しますには、保証というのは、殿下がお支払いになれなかった月に、名前を書いた者が代わりに払う、ということだそうです。ですから、商会としては」
「保証」
「はい」
アルベルトは椅子から立ち上がった。
窓のそばまで歩き、また戻ってくる。
「結局、そこか」
誰に向けた言葉なのか、セリーヌには分からなかった。
壁際には、今日も帳簿を抱えたオスカーが控えている。
「オスカー」
「はい」
「残りは」
「三十九枚です」
アルベルトは一度だけ目を閉じ、すぐに開けた。
「今月は抑えろ。来月になれば、また二百枚入る。それまで持たせればいい」
「はい」
セリーヌが、少し身を乗り出した。
「殿下。名前を書くというのは、その家の倉庫や、蓄えまで差し出すということで、ですから父は」
「分かっている」
アルベルトは遮った。
怒鳴りはしなかった。セリーヌを責めもしなかった。ただ、机の上に積まれた契約書の山を見ていた。
セリーヌは口を閉じた。言いかけた言葉が、喉の奥に残った。
婚約破棄の夜、印箱を開けて、本日以降の保証もすべて外すのかと静かに確かめていた人の手を、セリーヌは思い出していた。あの人は、自分が何を外すのか分かっていた。花、酒、食材、馬車、蝋燭。どの紙にも同じ欄があり、どの紙も、そこだけが空いていた。
「一つ、確かめたい。オスカー」
「はい」
「以前は、ここに全部、リディアの名があったのか」
「すべてではございません」
「では」
「保証していたのは、エルヴェール侯爵家でございます。商人たちがその保証を安心して受けられるよう、発注と支払いを毎月揃えていたのが、リディア様のお仕事でした。侯爵家の保証が要る契約には、そのお名前と、預かっておられた代理印がございました」
アルベルトは、空いた欄をしばらく見ていた。
それから、ゆっくりと椅子に戻った。
「殿下?」
セリーヌが顔を上げる。
「……なら」
アルベルトは言った。
「元に戻させればいい」
オスカーの手が、帳簿の上で止まった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます