第11話 三十歳のお姉さんも、電池切れするらしい
金曜日、午後六時二十分
「森川、今日の商談どうだった?」
「無事決まりましたよ、来月から三人採用する方向で話がまとまったんで、月曜に正式な求人票もらう予定っす」
「お、やったじゃん!」
真奈美ちゃんが椅子を回し、こちらへ親指を立ててくる
今日訪問した企業は、先月から採用計画を見直していた取引先だ
最初は一人だけ採用する予定だったんだけど、現場の責任者と話をしているうちに、今後の事業拡大を考えると三人は必要だという結論になった
当然、採用条件や予算の調整も必要になる
そこをうまくまとめられたのは、我ながら上出来だったと思う
「英ちー、最近仕事も調子いいじゃん」
「まあな、今月は数字もいいし」
「先週からずっと機嫌よくない? 何かいいことあった?」
「商談がまとまったんだから、そりゃ機嫌もよくなるだろ」
「んー、それだけかなあ」
「仕事の成果を素直に喜ばせろって」
「あははっ! それもそうか!」
真奈美ちゃんが笑いながら、手元の資料をまとめる
オレも商談記録の入力を終え、パソコンの時計を確認した
午後六時二十五分
……さて
そろそろ帰るか
今日は櫻子さんと夕飯を食べに行く約束をしている
先週の土曜日、初めてオレの家へ遊びに来てくれた櫻子さんとは、その後も何度か一緒に帰ったり、仕事終わりに飯を食べたりしていた
さすがに毎日会えるわけじゃないけど、メッセージはほとんど毎日やり取りしている
最初の飲み会から二週間ちょっと
あの時は三十歳なんてないと思っていたのに、今じゃ櫻子さんから連絡が来ないと、何となくスマホを確認してしまう
……いや、別に依存してるわけじゃないっすよ?
ただ、彼女から連絡が来たら嬉しいじゃないっすか
「英ちー、今日もまっすぐ帰るの?」
「いや、今日は飯の約束がある」
「えっ、誰と?」
「そこまで報告しなきゃ駄目なのかよ」
「うわ、またそれ! 先週からずっと教えてくれないじゃん!」
「真奈美ちゃん、オレの予定より自分の予定を気にした方がいいぞ」
「えー、あーしも誰かに美味しいもの奢ってもらいたーい!」
「自分で払えよ」
「そこは英ちーが奢ってくれるって言うところじゃない?」
「前に奢った時、お前デザート二つ頼んだだろ」
「だって美味しそうだったんだもん!」
「だから今日は奢らないって」
そう返すと、真奈美ちゃんが一瞬黙った
それから、机に突っ伏して笑い始めた
「……っはは! 英ちー、最近ガード堅くなったねえ!」
「何だよ、急に」
「前だったらさ、『真奈美ちゃん、そんなに気になるなら今度一緒に飲む?』とか言ってたじゃん」
「……あー」
確かに、そんな軽口はよく叩いてたな
別に真奈美ちゃんとどうこうなろうと思っていたわけじゃないが、誘われれば気軽に飲みに行っていたし、こちらから声をかけることもあった
今は櫻子さんとの約束があるから、そっちを優先したい
もちろん、それを真奈美ちゃんへ説明するつもりはない
「今日は先約があるってだけだろ、またみんなで飲む時にでも誘ってくれよ」
「ふーん、先約ねえ」
「……その言い方、何だよ」
「別にー? 英ちーに何かありそうだなって思ってるだけ!」
「勝手に想像してろよ」
「じゃあ想像しとく! そのうち答え合わせするからね!」
……まったく
こいつ、いつまで探るつもりなんだよ
そんなことを考えていたところで、スマホが震えた
【櫻子さん】
『英二くん、ごめんね、今日、ちょっと遅くなりそうなの』
……おっと
珍しいな
『仕事っすか?』
『うん、来月の合同説明会の準備で、確認することが増えちゃって』
『了解っす! 全然大丈夫ですよ!』
『せっかくお店探してくれたのに、ごめんね』
……ああ、なるほど
今日は前に見つけた居酒屋を予約しようと思っていたんだけど、幸いまだ予約前だった
仕事なら仕方ないし、別の日にすればいいだけだ
『店はまた今度行きましょう! 仕事頑張ってください!』
『ありがとう、英二くんも気をつけて帰ってね』
……さて
予定がなくなったな
金曜だし、久しぶりにジムでも行くか?
いや、今日は結構歩いたし、家でゆっくりするのもいい
「英ちー?」
「ん?」
「さっきのご飯の約束、なくなった?」
「相手の仕事が長引くんだって、また今度にした」
「あー、そっか、金曜なのに大変だね」
「まあ、仕事なら仕方ないだろ」
「そういえば企画部も今めっちゃ忙しそうだよ、さっき瀬戸さんが資料抱えて走ってたし」
「ああ、来月の説明会の準備があるもんな」
「そうそう、出展企業が増えたんでしょ?」
……なるほど
そういや、今週は櫻子さんも結構残業してたな
いつも帰り際には笑って連絡してくれるから、あんまり気にしてなかったけど
「ま、今日は先帰るわ」
「おつー! 英ちー、よい週末を!」
「おう、お疲れ!」
鞄を持って営業部を出た
◇
午後八時四十分
自宅でシャワーを浴び、適当に夕飯を済ませた頃だった
ソファへ座ってゲーム機の電源を入れようとしたところで、スマホが震えた
【櫻子さん】
『英二くん、今お家?』
『帰ってますよ! 櫻子さん、仕事終わりました?』
『うん、今終わったところ』
……おお
もう九時近いじゃないっすか
『遅くまでお疲れさまっす!』
『ありがとう、さすがに今日は疲れちゃった』
……ん?
櫻子さんが自分から疲れたって言うの、珍しいな
普段は仕事が忙しくても、あんまり弱音を吐かない人なんだけど
『もう飯食いました?』
『ううん、まだなの』
……マジか
午後九時近くまで仕事して、飯も食ってないのか
そりゃ疲れるだろ
オレは立ち上がり、冷蔵庫を開けた
卵、豚こま、長ネギ、冷凍うどん
……うん
これならすぐ作れるな
『櫻子さん、よかったらウチ来ます?』
送信してから、続けて入力する
『簡単なもんなら作れるんで、まだ飯食ってないなら、一緒にどうっすか?』
しばらく既読がつかなかった
電車へ乗ってるのかな、と思っていると、ようやく返事が来た
『……いいの?』
『もちろんっすよ!』
『でも、英二くんも疲れてるでしょう?』
『オレはもう飯も食ったし、シャワーも浴びたんで、めっちゃ元気っす』
『ふふっ、そっか』
……ああ
ようやくいつもの笑い方が戻ってきたな
『じゃあ、お言葉に甘えてもいい?』
『大歓迎っす! 駅まで迎え行きましょうか?』
『ううん、大丈夫、ちゃんと行けるわよ』
……まあ、そりゃそうか
三十歳の社会人女性だしな
ただ、遅い時間ではある
『駅着いたら連絡ください、迎え行きますから』
『……ありがとう、英二くん』
よし
じゃあ、準備するか
◇
午後九時二十分
最寄り駅の改札から、櫻子さんが出てきた
今日はクリーム色のブラウスに、黒のスラックス
肩まで伸びた赤茶色の髪も綺麗に整っているけど、いつもより歩く速度が遅い
「あ、英二くん」
「お疲れさまっす!」
「ふふっ、迎えに来てくれたの?」
「そりゃ来ますよ、遅い時間ですし」
「ありがとう、嬉しいな」
……おお
笑ってくれた
でも、やっぱ疲れてるな
普段ならこの辺りで腕を絡めてきたり、何かからかってきたりするんだけど
今日はそんな余裕もなさそうだ
「荷物持ちますよ」
「あら、大丈夫よ?」
「いいっすから、オレ、手空いてますし」
「……じゃあ、お願いしちゃおうかな」
櫻子さんが肩に掛けていたバッグを渡してくる
……結構重いな
仕事の資料でも入ってるのか?
「櫻子さん、今日何時から仕事してたんすか?」
「いつもどおりよ、朝九時前には出社してたかな」
「そこから今までっすか?」
「うん、途中で休憩はしたけどね」
「そりゃ疲れますって」
「ふふっ、そうよねえ」
櫻子さんが笑う
ただ、そのあと小さく欠伸を噛み殺していた
……ああ
今日は本当に疲れてるんだな
並んで歩きながら、オレは少し考えた
いつもは櫻子さんのほうが元気で、オレが振り回されてばかりだ
金曜日の朝なんてゾンビみたいになってたし
でも、今日は逆
櫻子さんにも、こういう日があるんだな
「英二くん?」
「はい?」
「どうしたの?」
「いや、今日はオレが甘やかそうかなって」
「あら」
櫻子さんが目を丸くする
「……ふふっ、そうなの?」
「はい、飯も作りますし、あとはゆっくりしてくださいよ」
「……いいの?」
「何言ってるんすか、彼氏なんですから、それくらいしますって」
櫻子さんが足を緩めた
「……そっか」
それから、オレの空いている手をそっと握ってきた
「じゃあ、今日はいっぱい甘えちゃおうかな」
「もちろんっすよ」
「……ふふっ、ありがとう」
……うん
これはこれでいい
いつもからかわれてばかりだけど、たまにはオレだって頼ってもらいたいっすからね
◇
午後九時四十分
「お邪魔します」
「どうぞどうぞ、まだそんなに片付けてないっすけど」
「あら、全然綺麗じゃない」
櫻子さんが玄関へ入る
靴を脱ぎ、前に買ったベージュのスリッパへ足を通した
「……ふふっ」
「何すか?」
「ううん、私のスリッパ、ちゃんとあったなって」
「そりゃありますよ、櫻子さん用ですから」
「……そっか」
櫻子さんが嬉しそうに笑う
……ああ
そういや、この前もマグカップで同じような反応してたな
何なんだろう
こういう専用のものがあると、結構嬉しいんすかね
「とりあえず座っててください、すぐ飯作るんで」
「うん、ありがとう」
櫻子さんはバッグを置くと、ソファへ腰を下ろした
普段ならキッチンまでついてきて、後ろから抱きついてきそうなところだけど
今日はそのまま背もたれへ身体を預けている
……よし
今日は本当に休ませてやろう
キッチンへ入り、鍋に水を張る
出汁を取り、醤油とみりんで味を整えたら、豚肉と長ネギを加える
火が通ったところで冷凍うどんを入れ、最後に溶き卵を回しかければ完成だ
生姜も少し入れておこう
身体温まるし
「……よし」
我ながら、結構いい感じだな
器へ盛り付け、リビングへ運ぶ
「櫻子さん、できましたよ」
「……ん」
……あれ?
返事が妙に小さい
顔を覗くと、櫻子さんはソファへ身体を預けたまま目を閉じていた
……寝てる?
「……櫻子さん?」
「……んぅ」
……おお
これは完全に寝てるな
しかも、めっちゃ気持ちよさそう
……いやあ
いつもあれだけ元気なお姉さんが、こんな無防備に寝ちゃうんすね
何だか、ちょっと新鮮だ
まあ、起こさないと飯が冷めるしな
肩へそっと手を置く
「櫻子さん、飯できましたよ」
「……あら」
櫻子さんがゆっくり目を開けた
「……英二くん?」
「はい、うどん作ったんで、食べません?」
「……うん」
身体を起こし、目元を軽く擦る
「……ごめんね、寝ちゃった」
「全然いいっすよ、疲れてるんでしょ?」
「……ふふっ、そうみたい」
……いや
そうみたいじゃなくて、完全に疲れてますよ
「ほら、温かいうちに食べましょう」
「うん、ありがとう」
◇
「……美味しい」
「よかったっす」
櫻子さんがうどんをひと口食べ、ほっと息を吐いた
温かい出汁の香りが、テーブルの上に広がる
「……すごく美味しいわ、英二くん」
「いや、簡単なもんっすよ、冷蔵庫にあったもので作っただけなんで」
「……ううん」
櫻子さんが首を横に振る
「今日ね、お昼もあんまり食べられなかったの、午後からずっと確認作業で、気づいたらこんな時間になっちゃって」
「マジっすか」
「うん、だから、温かいもの食べられて嬉しい」
……ああ
そりゃそうか
忙しい時って、飯食うのも適当になっちゃうんだよな
オレも営業で外回りしてる時は、コンビニのおにぎりだけで済ませることがあるし
「明日は休みっすよね?」
「うん、仕事は持ち帰ってないから、大丈夫」
「じゃあ、今日はゆっくりしてってくださいよ」
「あら、いいの?」
「もちろんっす」
櫻子さんは嬉しそうに笑った
それから、もう一度うどんへ箸を伸ばす
……うん
ちゃんと食べてくれてるな
ちょっと安心した
「英二くん」
「はい?」
「……今日ね、英二くんに会えてよかった」
「……おっ」
「夕方、約束守れなくなっちゃったでしょう?」
「ああ、そんなの気にしなくていいっすよ、仕事なんですから」
「……でも、楽しみにしてたから」
櫻子さんが小さく笑う
「今日は一緒にご飯食べられないと思って、ちょっと残念だったの」
……おお
それは
結構嬉しいこと言ってくれますね
「オレも楽しみにしてましたよ、だから、こうして会えてよかったっす」
「……そっか」
櫻子さんが嬉しそうに笑う
「……ありがとう、英二くん」
……いやあ
今日の櫻子さん、いつもより素直だな
普段ならもっとからかってくるのに
まあ、疲れてるからかもしれないけど
……悪くない
こういう櫻子さんも、普通に可愛いっすね
◇
午後十時半
食器を片付け、温かいお茶を淹れた
青色のマグカップと、桜色のマグカップ
櫻子さんは自分のカップを両手で包み、ソファへ座っている
……ああ
この光景、結構好きだな
先週買った時は、ただ二つ並べてみたいと思っただけだった
でも、今こうして普通に使ってもらえている
何だか、ちゃんと役に立ってる気がする
「英二くん」
「はい?」
「……隣、来て?」
「もちろんっす」
ソファへ腰を下ろすと、櫻子さんが自然に身体を寄せてきた
頭をオレの肩へ預け、小さく息を吐く
「……ふぅ」
「今日、相当疲れたんすね」
「……うん、ちょっと頑張りすぎちゃったかな」
「仕事、大変だったんすか?」
「そうね、説明会の会場側から変更の連絡が来て、出展企業への案内も直すことになっちゃったの」
「……ああ、そりゃ面倒っすね」
「うん、でも、何とか今日中に終わらせられたから」
……なるほど
仕事はちゃんと片付けてきたわけか
さすが櫻子さんだな
「お疲れさまでした」
「……ふふっ、ありがとう」
櫻子さんが肩へ頬を寄せる
「……ねえ、英二くん」
「はい?」
「私、会社だと結構しっかりしてるでしょう?」
「そうっすね、普通に頼りになりますよ」
「……うん」
櫻子さんはカップをテーブルへ置いた
「だからね、あんまり疲れたとか言わないようにしてるの、後輩の前で、私が疲れたって言ってばかりじゃ格好つかないもの」
「……ああ」
そういうことか
瀬戸さんたちをまとめる立場だし、櫻子さんだっていろいろ気を使うんだろうな
「でも、英二くんには言っちゃった」
「……別にいいんじゃないっすか?」
「あら、そう?」
「そりゃ、仕事中は主任ですけど、今は普通に櫻子さんでしょ?」
そう言うと、櫻子さんが顔を上げた
「……英二くん?」
「はい?」
「……ふふっ、そっか」
……おっ?
何か、今のよかったっすか?
「じゃあ、今日は主任じゃなくて、英二くんの彼女でいようかな」
「もちろんっすよ」
「……いっぱい甘えても?」
「いいっすって、さっきも言ったじゃないっすか」
「……ふふっ」
櫻子さんが笑った
それから、オレの胸元へ顔を埋めてくる
「……じゃあ、ぎゅってして?」
……おお
今日は本当に甘えん坊っすね
まあ、いいか
彼女なんだし
腕を回して抱き寄せると、櫻子さんが嬉しそうに身体を預けてきた
「……あったかい」
「櫻子さんもっすよ」
「……英二くん」
「はい?」
「……大好き」
……
……おお
また来たな
この人、時々こういうのを不意打ちで言ってくるんだよな
心臓に悪いっすよ、ほんと
「オレも好きっすよ」
「……ふふっ、ありがとう」
……うん
今日はこのまま、ゆっくりしてもらおう
◇
午後十一時過ぎ
「……英二くん」
「はい?」
「……今日、泊まってもいい?」
……おっ
櫻子さんがオレを見上げている
まだ眠そうだけど、さっきよりは元気になったようだ
「もちろんっすよ、明日休みですし」
「……本当?」
「いいっすって、今から帰るのも大変でしょ?」
「……ふふっ、ありがとう」
……ああ
よかった
今日は泊まってってくれるんだな
ただ、一つ問題がある
「着替えとか大丈夫っすか?」
「あら、そうね」
「オレの服でよければ貸しますよ」
「……いいの?」
「もちろんっす、大きいと思いますけど」
「ふふっ、英二くんの服、着てみたいな」
……おお
何か、いいっすね
彼女が自分の服を着るって
いや、別に変な意味じゃないっすよ?
ただ、ちょっと嬉しいというか
クローゼットから洗濯済みのTシャツとスウェットを取り出す
「これ、使ってください、タオルも新しいのありますから」
「……ありがとう」
「先にシャワーどうぞ、オレ、片付けとくんで」
「あら、いいの?」
「いいっすよ、ゆっくり入ってきてください」
「……ふふっ」
櫻子さんが嬉しそうに笑った
「……英二くん、今日は本当に優しいね」
「いや、いつも優しいつもりなんすけど」
「あははっ、そうだったね」
……おお
ようやく普通に笑ってくれたな
ちょっと安心した
◇
午後十一時四十分
シャワーを終えた櫻子さんが、リビングへ戻ってきた
オレのTシャツを着て、スウェットの裾を少し折り返している
袖も長いらしく、手の甲まで隠れていた
「……どうかな?」
……
…………
……おお
何だこれ
めちゃくちゃ可愛いじゃないっすか
「……似合ってますね」
「あら、本当?」
「はい、すげえ可愛いっす」
「……ふふっ、よかった」
櫻子さんが嬉しそうに笑う
「英二くんの服、ちょっと大きいね」
「そりゃ、オレのほうがでかいっすからね」
「うん、でも、何だか落ち着く」
……おお
何か、いいこと言うじゃないっすか
「櫻子さん、眠くないっすか?」
「……うん、ちょっと眠いかな」
「じゃあ、もう寝ましょうよ、今日は本当に疲れてるみたいですし」
「……そうね」
櫻子さんが頷いた
それから、オレの手を握ってくる
「……英二くん」
「はい?」
「……今日は、ほんとに寝るだけでもいい?」
……
……おお
何だよ
そんなこと気にしてたんすか?
「当たり前じゃないっすか」
「……そう?」
「そりゃ、オレだって櫻子さんと一緒にいたいっすけど、疲れてる時まで無理することないっすよ」
そう答えると、櫻子さんがじっとこちらを見た
「……英二くん」
「はい?」
「……ふふっ、ありがとう」
……ああ
今日は何回ありがとうって言われたんだろうな
別に大したことしてないんだけど
まあ、いいか
彼女が嬉しそうなら、それで十分だ
「じゃあ、寝室行きましょう」
「……うん」
手を引くと、櫻子さんが素直についてきた
……いやあ
普段なら完全に逆なんだけどな
今日はオレが引っ張る側だ
何だか、ちょっと新鮮っすね
◇
土曜日、午前八時十五分
目が覚めると、隣で櫻子さんが眠っていた
赤茶色の髪が枕へ広がり、オレの腕に抱きつくような格好で寝息を立てている
……おお
昨日は本当に疲れてたんだな
いつもなら先に起きて朝飯を作ってたり、起きた瞬間からからかってきたりするのに
今日はまだぐっすりだ
……まあ、昨日は遅くまで仕事してたしな
起こさないように腕を抜こうとしたところで、櫻子さんが小さく身じろぎした
「……んぅ」
……おっと
起こしちゃったか?
「……英二くん?」
「おはようございます」
「……おはよぅ」
……おお
寝起きの声、めっちゃ可愛いな
「まだ寝てていいっすよ、オレ、朝飯作ってくるんで」
「……ん」
櫻子さんが頷く
……と思ったら、腕をぎゅっと抱きしめてきた
「……櫻子さん?」
「……もうちょっと」
「……はい?」
「……もうちょっと、一緒にいて?」
……
…………
……いやあ
何だよ、それ
可愛すぎません?
「……じゃあ、あと十分だけっすよ」
「……ふふっ」
櫻子さんが嬉しそうに笑う
それから、オレの胸元へ顔を寄せた
「……英二くん、あったかい」
「櫻子さんもっすよ」
「……うん」
……ああ
こういう朝、いいな
昨日は仕事で疲れてたみたいだけど、今日はゆっくり休める
せっかくだし、朝飯食ったらどっか出かけてもいいし、家で映画見てもいい
櫻子さんが元気になったら、一緒に考えよう
そんなことを思っていると、胸元から声が聞こえてきた
「……英二くん」
「はい?」
「……昨日ね、すごく嬉しかった」
「……おっ」
「……ご飯作ってくれて、迎えに来てくれて、疲れてるって言ったら、いっぱい甘やかしてくれたでしょう?」
「……まあ、彼氏なんで」
「……ふふっ」
櫻子さんが顔を上げる
「……私ね、英二くんと付き合えてよかったなって思った」
……
……おお
朝からそういうこと言います?
いや、嬉しいっすよ
めちゃくちゃ嬉しい
「……オレもっすよ」
「あら、本当?」
「もちろんっす、櫻子さんと付き合えて、毎日楽しいんで」
「……ふふっ、嬉しい」
櫻子さんがオレの頬へ軽くキスをした
……おっ
今朝は元気そうじゃないっすか
「櫻子さん、体調どうっすか?」
「……うん、もう大丈夫よ」
「よかったっす」
「……昨日いっぱい寝たもの」
……おお
確かに
昨日は普通に寝たな
いつものお泊まりとは違って、本当に寝ただけだった
おかげでオレも元気だし、櫻子さんも回復したみたいだ
……いやあ
たまにはこういうのもいいっすね
「じゃあ、朝飯作ってきますよ」
「あら、私も手伝おうかな」
「今日は休んでていいっすって」
「……ふふっ、そう?」
「はい、今日はオレが甘やかす日なんで」
そう言うと、櫻子さんが楽しそうに笑った
「……じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな」
「任せてくださいよ!」
ベッドから起き上がる
……よし
今日は体力十分
しかも、櫻子さんにもちゃんと頼ってもらえた
彼氏としては、かなりいい感じじゃないっすか?
そんなことを考えていると、背中から声がかかった
「……あ、英二くん」
「はい?」
「……昨日のTシャツ、洗って返すね」
「ああ、別にいつでもいいっすよ、何なら置いといてください」
「……あら?」
櫻子さんが目を丸くする
「……いいの?」
「もちろんっす、どうせまた泊まりに来るでしょ?」
「……ふふっ」
櫻子さんが笑った
それから、嬉しそうに頷く
「……じゃあ、置いていこうかな」
「いいっすよ、櫻子さん用にしときます」
「……うん」
……ああ
そういや、前にマグカップも専用にしたんだよな
スリッパもあるし、タオルも買ったし
今度は部屋着まで増えるのか
……まあ、いいか
櫻子さんが泊まりに来るなら、そのほうが便利だろ
そう思っていると、櫻子さんがベッドから身体を起こした
「……ねえ、英二くん」
「はい?」
「……今度、お着替えとか置いていってもいい?」
……おっ
そう来ましたか
「いいっすよ、何なら引き出し一つ空けときます?」
「あら、いいの?」
「もちろんっす、毎回持ってくるの面倒でしょ?」
「……ふふっ」
櫻子さんが嬉しそうに笑う
「……じゃあ、お願いしちゃおうかな」
「了解っす!」
……よし
今度、収納もちょっと整理しないとな
そういや、クローゼットの下の段なら結構空いてたはずだ
あそこに櫻子さんの着替えを入れてもいいか
「英二くん」
「はい?」
「……ありがとう」
「いいっすって、彼女なんですから」
櫻子さんがふわっと笑う
それから、両腕を広げてきた
「……じゃあ、最後にぎゅってして?」
……おお
朝から甘えん坊っすね
まあ、今日はいいか
ベッドへ戻り、抱き寄せる
櫻子さんが嬉しそうに身体を預けてきた
「……ふふっ、大好き」
「オレもっすよ」
……いやあ
こういうの、いいな
昨日は櫻子さんが珍しく疲れてたけど、今日は元気になってくれたみたいだ
しかも、今度から着替えまで置いていくことになった
……あれ?
そういや、オレの部屋
最初は一人暮らしだったよな?
マグカップが二つになって、スリッパが増えて、今度は着替えまで
……
…………
……まあ、いっか!
櫻子さんが喜んでくれるなら、それでいいっすよね
そんなことを考えていると、櫻子さんが耳元で小さく囁いた
「……英二くん」
「……はい?」
「……私の場所、どんどん増えちゃうね?」
……おお
そうっすね
何か、気づいたら増えてますね
「……まあ、櫻子さん専用ですから」
「……ふふっ」
櫻子さんが満足そうに笑った
「……じゃあ、これからもよろしくね?」
「もちろんっす!」
……いやあ
三十歳のお姉さんって、ほんと可愛いっすね
……
…………
……オレの部屋、あとどれくらい収納空いてたっけ?
─────────
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