第21話

# 第21話 返ってくるもの


 和解協定書に、悠人と美波の署名が入った日、千尋は高城の事務所へ向かった。


 電車の中で、千尋は資料を見返していた。


 和解協定書。


 悠人が、七百八十万円を返す。


 家の名義を、母に戻す。


 母の介護にも、参加する。


 千尋は、それを望んでいた。


 母を守るために。


 そして、自分を守るために。


 事務所に着くと、高城と藤原が待っていた。


 「早瀬さん。おはようございます」


 「おはようございます」


 「和解協定書が、正式に締結されました」


 高城は、静かに言った。


 「悠人さんから、第一回目の返還があります」


 千尋は、息を止めた。


 「……いつですか」


 「今日です」


 千尋は、椅子に座った。


 手が、震えた。


 今度は、安堵の震えだった。


 「いくらですか」


 「三百万円です」


 千尋は、息を呑んだ。


 「三百万円……」


 「残りの四百八十万円は、今後、分割で返還されます」


 藤原は、静かに言った。


 「また、家の名義の戻し手続きも、今週中に行われます」


 千尋は、頷いた。


 「ありがとうございます」


 「それと、早瀬さん」


 高城は、少し声を落とした。


 「ご家族との関係は、今後、さらに変化する可能性があります」


 「わかっています」


 「それでも、進めますか」


 千尋は、少し黙った。


 そして、答えた。


 「進めます」


 「理由を、聞いてもいいですか」


 千尋は、母の顔を思い出した。


 「千尋ちゃんは、知らないほうがいいの」


 「ごめんね」


 「千尋ちゃんは、いい子だから」


 千尋は、静かに言った。


 「母が、何かを隠していました。母は、何かを恐れていました。そして、母は、私に謝っていました」


 高城は、頷いた。


 「母を守りたい。母のお金と家を守りたい。そして、自分の人生を取り戻したい。それが、私の理由です」


 高城は、頷いた。


 「十分です」


 その日の午後、千尋は母のデイサービスへ迎えに行った。


 澄江は、千尋を見て、少しだけ笑った。


 「おかえり」


 「ただいま。母さん」


 「今日はね、楽しかった」


 「そう? 何したの?」


 「花の名前を覚えたの」


 「いいね」


 「千尋ちゃんも、知ってる?」


 「何の花?」


 澄江は、少し考えてから言った。


 「……忘れちゃった」


 千尋は、笑った。


 「いいよ。また、覚えればいいから」


 帰り道、千尋は母に話しかけた。


 「母さん。聞いてほしいことがあるの」


 「なあに」


 「悠人が、母さんのお金を返し始めた」


 澄江は、少し不安そうな顔をした。


 「そう……」


 「家の名義も、母さんに戻すって」


 「そう……」


 「母さん、安心して」


 澄江は、千尋の手を握った。


 「ありがとう」


 千尋は、その言葉に、少しだけ胸が熱くなった。


 母は、千尋を信じている。


 今は、信じている。


 それだけで、千尋は強くなれた。


 家に戻ると、玄関に見知らぬ靴があった。


 千尋は、少し警戒した。


 リビングに入ると、叔母の佐和子と従兄の健吾がいた。


 悠人と美波もいた。


 千尋は、少し驚いた。


 「どうしたの」


 佐和子が、口を開いた。


 「千尋ちゃん。みんなで話そうと思って」


 「話す?」


 「お母さんのこと。家族で話さないと」


 千尋は、静かに言った。


 「昨日も、話しました」


 「でも、弁護士を連れてきて、家族を追い詰めたでしょう」


 千尋は、少しだけ笑った。


 「追い詰めた、ですか」


 「悠人が、かわいそうだわ。お母さんのお金を使っただけで、訴えられるなんて」


 千尋は、佐和子を見た。


 「佐和子さん。母のお金を、三年で七百八十万円も使ったのは、悠人です」


 「でも、お母さんが自分で決めたことなんだから」


 「母は、贈与契約書に署名していない」


 佐和子は、黙った。


 千尋は、続けた。


 「筆跡鑑定の結果が出ています。贈与契約書の署名は、母のものではない」


 佐和子の顔色が、変わった。


 「そんな……」


 「それに、取引明細も確認しました。三年間、すべて悠人が窓口で出金しています」


 悠人は、顔を上げた。


 「お姉さん、俺は……」


 「あなたは、何も言わなくていい」


 千尋は、静かに言った。


 「今日は、あなたたちの言い分を聞く日じゃない」


 佐和子は、口を開いた。


 「千尋ちゃん。あなた、変わったわね」


 千尋は、少しだけ笑った。


 「変わりました」


 「昔の千尋ちゃんは、もっと優しかった」


 「優しかったですか」


 「ええ。いつも、みんなのために頑張ってた」


 「そうですね」


 千尋は、静かに言った。


 「でも、佐和子さん。優しいことは、何でも我慢することじゃありません」


 佐和子は、黙った。


 千尋は、続けた。


 「母のお金が消えています。家の名義が、勝手に変わっていました。私は、それを確認しているだけです」


 「でも、家族なのに」


 「家族だからこそ、確認するんです」


 佐和子は、何も言えなかった。


 千尋は、静かに言った。


 「佐和子さん。もし、あなたが同じことをされたら、どうしますか」


 佐和子は、答えられなかった。


 千尋は、それ以上、追及しなかった。


 佐和子と健吾は、帰っていった。


 悠人と美波も、帰っていった。


 千尋は、リビングに残った。


 一人になった。


 千尋は、ソファに座り、深く息を吐いた。


 今日も、千尋は「家族」を守った。


 けれど、それは、今までとは違った。


 千尋は、自分を守った。


 母を守った。


 千尋は、窓の外を見た。


 夕方の光が、差し込んでいた。


 千尋は、その光の中で、少しだけ笑った。


 今日、千尋は、初めて自分を守った。


 まだ、終わりではない。


 けれど、始まった。


 千尋は、自分の人生を取り戻すために、動き始めた。


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