球場の誤表示で“148キロの怪物”にされた控え投手の俺、みんなが信じるほど本当に速くなるから、128キロだと言い出せない
タコス
第一部 高二の夏
第1章 148キロの怪物
第1話 初球、148
七回表、八点リード。俺に回ってきたのは、そういうマウンドだった。
県大会二回戦、県営緑ヶ丘球場。スコアボードには「柏木 8-0 朝霧」と白い数字が並んでいる。
この回を0点で抑えれば、七回七点差でコールドが成立して、試合はそこで終わる。
つまり、ここで投げる投手に求められているのは、何も起こさないことだけだった。
「日向。最後、いってこい」
野々村監督は、ベンチの端で腕を組んだまま言った。社会科の先生で、試合中も黒板の前に立っているときと同じ声で話す。淡々としているのに、なぜか逆らう気をなくさせる声だ。経験を積ませる、という意味なのは分かっていた。エースの大島が六回まで投げ切って、あとは誰が投げても勝てる。背番号10の控え投手にちょうどいい、消化試合の一イニングだった。
「はい」
返事が、自分でも分かるくらい裏返った。隣でスパイクの紐を結び直していた犬飼が、「声、声」と肩を揺らして笑った。
正直に言うと、こういう場面は嫌いじゃない。勝ちの決まった試合の、最後の一イニング。打たれても試合は壊れないし、抑えても誰も覚えていない。誰も俺に何も期待していない。その軽さが、俺にはちょうどよかった。
ベンチを出ると、七月の日差しが首の後ろに張りついた。マウンドの土は昼の熱をたっぷり吸い込んでいて、スパイクの底から、じわじわと温度が上がってくる。
三塁側のスタンドが目に入った。応援席の端で、母さんが日傘を差している。その隣で、中学二年の妹のひよりが、スマホを横向きに構えている。試合前の場内アナウンスで、撮影した写真や動画をインターネットに無断で掲載するのはご遠慮ください、と二回も流れていた。あいつは、絶対に聞いていない。
投球練習の五球で、指先の感覚はだいたい戻った。
俺の球は、部のスピードガンで128キロ。遅くはないけれど、誰かが振り返るような数字でもない。同じ二年の大島は138を投げるし、バックネット裏でスピードガンを構える大人たちが手帳に何かを書くのは、140を超えてからだ。
俺にあるのは、狙ったところに投げられることだけだ。中学最後の大会のあと、二年間、毎晩近所の公園の壁にチョークで四角を描いて、その中にだけ投げ続けてきた。球はたいして速くならなかった。そのかわりに、四角の中に投げる腕が残った。それだけは、誰が何と言おうと、俺が自分で作ったものだった。
マスクを上げて、捕手の柴崎がマウンドまで歩いてくる。同じ二年で、チームでいちばん口数が少ない。必要なこと以外はしゃべらないし、必要なことも半分くらいしかしゃべらない。
「普通に投げろ。ミットだけ見てればいい」
「分かってる」
「分かってる顔じゃない」
それだけ言って、柴崎はホームへ戻っていく。図星だ。言い返す言葉が見つからない。
先頭打者が、左打席に入る。
柴崎のミットは、外角の低め。俺は息を一つ吐いて、セットポジションから足を上げた。踏み込んだ左足の下で、乾いた土がわずかに崩れる。腕を振る。指先にボールの縫い目が引っかかって、きれいに離れていく感触があった。悪くない、と思った。
ボールは、ミットの真ん中に収まった。打者のバットは、ぴくりとも動かない。
「ストライク!」
球審のコールから一拍遅れて、まばらなスタンドが、ざわっと揺れた。
なんだ、と思った。見逃しのストライク一つで沸くような場面じゃない。八点差の七回で、投げているのは名前も知られていない控えだ。返球を受けながら柴崎を見ると、柴崎はマスク越しに一瞬だけバックスクリーンのほうへ目をやって、すぐにミットを構え直した。
俺は振り返らなかった。振り返る余裕なんてない。どよめきが何に向けられているのか分からないのに、背中に何かが集まってくるのだけは分かる。首筋のあたりが、むずむずした。
二球目も、真っ直ぐ。今度はスタンドのどこかから、「あれ?」という声が聞こえた。何が「あれ」なのかは分からない。分からないまま、三球目を外の低めに投げて、打たせた。二塁手の犬飼が軽く捌いて、一塁へ送る。一死。
「ナイスピッチ! ナイスピッチ日向ぁ!」
犬飼は、ベンチでもグラウンドでも、とにかく声がでかい。家は近所だが、中学は学区が違って、話すようになったのは高校に入ってからだ。アウトを取るたびに叫ぶ。今のは俺が打ち取ったというより、打者が勝手に引っかけてくれただけなのに、それでも叫ぶ。叫ばれると、肩に入っていた力が、少しだけ抜けた。
二人目には、外の真っ直ぐをセンター前に運ばれた。一死一塁。
三人目の打者に、ボールが二つ続く。三球目は内角に決まってストライク。四球目は、指から抜けた。高く浮いた球を柴崎が伸び上がって捕り、カウントはスリーボール・ワンストライク。
手のひらが、急に冷たくなった。
七月の昼なのに、指先から熱が引いていく。ロジンバッグを拾っても、白い粉が指に乗らない気がした。
中学最後の大会のことを、思い出していた。同点の七回。監督に「頼むぞ」と肩を叩かれて、マウンドに上がった。あの手のひらの重さを、今でも覚えている。誰かに期待されたのは、あれが初めてだった。そして俺は、四者連続で四球を出した。最後の一人のとき、三塁走者が歩いてホームを踏んで、それで試合は終わり。ベンチに戻った俺を、誰も責めなかった。責めないでいてくれる顔を見るのが、いちばんきつかった。
期待されるのは、あれで最後にするつもりだった。
その代わりに、一つだけ自分で決めたことがある。もう二度と、四球で試合を終わらせない。打たれるのはいい。打たれたら、打った相手がうまかったと思える。でも、自分から一塁を差し出して、ベンチに戻ってみんなに責めない顔をさせるのだけは、もう嫌だった。公園の壁の四角は、そのためにあった。
スリーボール・ワンストライク。あと一つ外れたら、一塁が埋まる。俺はロジンバッグを拾って、マウンドの土に叩きつけた。白い粉が、スパイクの先に散った。歩かせるくらいなら、真ん中に投げて打たれろ。二年間、そのためだけに投げてきたんだろう。冷たいままの指を握りしめて、プレートに足をかけ直した。
柴崎がタイムを取って、マウンドに来た。
「真ん中でいい。打たせろ。後ろに七人いる」
「……真ん中」
「お前の真ん中は、低めに行く。いつもそうだ」
本当かどうかは知らない。自分の真ん中が低めに行くなんて、一度も考えたことがなかった。ただ、真ん中に投げると決めたのは、柴崎が来る前の俺だった。柴崎は、その決めたことを、あとから確かめに来ただけだ。
五球目。逃げずに、真ん中を狙った。
ボールは、柴崎の言ったとおり、打者の手元で少しだけ沈んだ。打者は上から叩きつけるように振って、打球はショートの正面に転がった。ショートから犬飼へ、犬飼から一塁へ。六-四-三の併殺。
試合が、終わった。
整列して、礼をして、ベンチに戻る。グラブを外した手のひらに、まだ冷たさが残っていた。それをごまかすようにタオルで顔を拭いていると、犬飼が後ろから肩に腕を回してきた。
「お前さ、初球で148出てたぞ」
「は?」
「スコアボード。148って出てた。スタンド、ざわってなったろ。俺、守りながら二度見したもん」
バックスクリーンを見上げたときには、もう表示は消えていた。
柴崎がプロテクターの留め具を外しながら、こちらを見もせずに言った。
「誤表示だ。この球場のガンは簡易式だから、たまに変なものを拾う。二球目は126だった」
「だよなあ」犬飼はあっさり笑った。「日向が148とか、天地がひっくり返るわ」
俺も笑った。本当に、そうだと思ったからだ。
◇
その夜、玄関を開けると、リビングからテレビの音がしなかった。
ソファの上で、ひよりが正座していた。その前に、母さんが腕を組んで立っている。何かあったときの、うちのいつもの配置だった。
「おかえり。誠、ちょっとそこ座って。ほら、ひより」
「……お兄ちゃん、ごめん」
ひよりは、膝の上で両手を握りしめている。陸上部で日に焼けた腕が、蛍光灯の下でやけに細く見えた。
話を聞くと、ひよりは試合のあと、俺が投げた場面の動画をSNSに上げたらしい。文面は「兄、148出てて草(たぶん壊れてる)」。
「お母さんもね、全然知らなかったのよ。夕方にパートの山本さんからLINEが来て、『高校野球の動画って、ネットに上げちゃいけないんじゃなかった?』って。山本さんの旦那さん、昔野球やってたから詳しいの。それでひよりに聞いたら、上げたって言うでしょう。お母さん、もう血の気が引いちゃって。すぐ消させたけど。美咲ちゃんからも、消したほうがいいよって連絡来てたんでしょ」
「……来てた」
「アナウンスでも言ってたのに。お母さん、隣でちゃんと聞いてたのよ。あんたにも聞こえてたでしょう」
「聞こえてたけど、上げるつもりなかったんだもん。お兄ちゃんが初球で148とか出すから、つい」
「出してない」と俺は言った。「誤表示だよ。二球目、126だったし」
「知ってる。だから『たぶん壊れてる』って書いたじゃん」
ひよりは唇を尖らせて、それから急にしぼんだ。
「……ごめん」
「消したなら、いいよ」
俺はそう言って、二階に上がった。後ろから母さんが、「ご飯温めとくからね。お風呂も沸いてるから、先に入っちゃいなさい。汗くさいまま布団に入らないでよ」と言った。
部屋のドアを閉めてから、スマホに通知が二十件以上たまっているのに気づいた。ほとんどが犬飼だった。
〈お前バズってる〉
〈これ見ろ〉
〈やばいやばいやばい〉
送られてきたリンクを開く。高校野球の切り抜き動画ばかりを上げている、フォロワーが何万人もいるアカウントが、ひよりの動画を転載していた。ひよりは、大会のハッシュタグをつけて上げていたらしい。消すまでの数時間のうちに、そこから拾われたのだ。
画面の中で、細い俺が足を上げる。腕を振る。ボールがミットに収まって、スコアボードの端に「148」が灯る。そこで動画は切れていた。二球目の126は、映っていない。
添えられた文面は、「無名の県立2年、148キロ」。
再生回数は、もう十万を超えている。
ひよりの「たぶん壊れてる」は、どこにも残っていなかった。
引用欄をスクロールする。「この細さで148は草」「フォームきれいすぎん?」「県立の進学校ってマジ?」。面白がられているのは、俺の体の薄さと、148という数字の落差だ。誰かが「誤表示じゃないの」と書いて、その下に「夢のないこと言うなよ」と返されていた。
地元の高校野球の掲示板にも、もう話が流れ込んでいた。
【夏の高校野球】県大会総合スレ Part31
412: 名無しの高校野球ファン
柏木の2年が緑ヶ丘で148出したってマジ?
413: 名無しの高校野球ファン
動画回ってきた 背番号10の細いやつ
415: 名無しの高校野球ファン
柏木って進学校だろ 隠し玉やんけ
416: 名無しの高校野球ファン
緑ヶ丘のガンは昔から怪しいぞ
417: 名無しの高校野球ファン
朝霧の3年、コールドの最後まで声出してたのよかった 整列のとき泣いてたな
418: 名無しの高校野球ファン
現地いたけど2球目126だった
419: 名無しの高校野球ファン
>>418
誤表示確定じゃん 解散
420: 名無しの高校野球ファン
148の話もいいけど第三試合のタイブレーク見たやついないの? 今日のベストゲームはあれだろ
421: 名無しの高校野球ファン
配信の見逃しで見たけどスピード表示映ってないから分からん
422: 名無しの高校野球ファン
初球だけ指にかかったって可能性もあるだろ
423: 名無しの高校野球ファン
鳳凰台のシード初戦は木曜か 伊吹見に行きたいけど平日なんだよな
424: 名無しの高校野球ファン
フォームは綺麗だった 腕の振り速い
425: 名無しの高校野球ファン
148が本当なら県の勢力図変わるぞ
426: 名無しの高校野球ファン
>>425
本当ならな
427: 名無しの高校野球ファン
夢あっていいじゃん 次の登板で分かる
誤表示だと言う人がいる。現地で二球目の126を見た、という人もいる。それなのに、レスが伸びるにつれて、信じたい側の声が少しずつ増えていく。
風呂に入っても、母さんの温め直した唐揚げを食べても、落ち着かない。食卓の向かいでは、ひよりが一言もしゃべらずにご飯を口に運んでいる。母さんだけが、山本さんの旦那さんの昔の野球の話を、誰も聞いていないのにずっと続けていた。
布団に潜り込んでも、眠れなかった。
月曜、学校で何と言えばいいのか。誤表示だよ、と笑えばいい。それだけのことだ。そのはずなのに、目をつぶると、スタンドのどよめきと、中学の監督の手の重さが、交互に戻ってくる。右の肩の上に、まだあの手が載っている気がした。
眠れたのは、三時を過ぎてからだった。
◇
翌朝。
目を開けると、天井と俺のあいだに、半透明の板が浮かんでいた。
【日向 誠】 投手 / 県立柏木高校2年 / 背番号10
球速 128km/h(+13)→ 141km/h
コントロール D(52)
スタミナ E(41)
変化球 スライダー2/カーブ1
疲労度 0
期待の中身 「剛速球」
補正の内訳 世間 +11 / 場 ±0 / 仲間 +2
「……なにこれ」
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