第二章 朝市、祖母の遺した写真

店の定休日の朝、店の奥で丸くなっていたニュイが、大きく背伸びをしてから起き上がった。前足を伸ばし、腰を高く持ち上げる伸びをひとつしたあと、のそのそと歩いてきて、芽衣の足に体をすり寄せる。喉の奥で小さくゴロゴロと鳴らしながら、二度、三度と頭を擦りつけてきた。


「はいはい、わかったから」


芽衣は苦笑しながら、カウンターの下からキャットフードの袋を取り出した。器に注ぐ音を聞きつけるなり、ニュイはぴたりと甘えるのをやめ、器の前で行儀よく座って待っていた。


身支度を整えると、芽衣は歩いて函館朝市へ向かった。散歩は昔からの趣味で、特に朝の空気の中を歩くのが好きだった。写真館からは徒歩三十分ほどの距離だが、坂を下りながら少しずつ街が目を覚ましていく様子を眺めるのが、このところの楽しみになっていた。写真館を出た頃、坂道にはまだ朝の薄明かりが残っていた。


坂を下りきり、十字街の交差点に差しかかったところで、芽衣はふと足を止めた。坂本龍馬の像が、右手を高く天に突き上げるようにして立っている。もう一方の手には、分厚い書物を抱えていた。高知の桂浜にある、懐手で太平洋を静かに見つめる像とは、まるで違う。ここの龍馬は、今にも歩き出しそうなほど、全身で未来を指し示していた。


龍馬は、蝦夷地の開拓を志しながら、その夢を果たす前にこの世を去ったのだと、いつか宗一から聞いたことがあった。自らが切り開こうとした新しい時代の幕開けさえ、見ることは叶わなかったのだという。志を継いだのは、龍馬の甥にあたる人々だったという。本人が辿り着けなかった場所に、血の繋がった誰かが代わりに立つ。そんな話を思い出しながら、芽衣はしばらく、その凛々しい横顔を見上げていた。誰かの見た夢が、時間をかけて、別の誰かの足でこの街に届く。そういうことも、あるのかもしれない。


* * *


三十分ほど歩いて着く頃には日もすっかり昇り、朝市はもう活気に満ちていた。


市場に入ると、磯の匂いが真っ先に鼻を打った。氷の上に並べられた魚の白い腹、イカの墨の生臭さ、炭火で炙られるホッケの香ばしさ。威勢のいい呼び声が、店と店のあいだを跳ね返りながら行き交っている。芽衣はその匂いと声の重なりに包まれたとき、ようやく本当に函館へ帰ってきたのだと思った。景色よりも先に、身体のほうが思い出すものがある。気づけば、祖母がよく口ずさんでいた「津軽海峡・冬景色」の一節が、無意識に鼻歌になって漏れていた。


「亜矢さんの、お孫さんだべ」


海鮮丼の店先で、割烹着姿の女将が声をかけてきた。祖母に手を引かれて朝市を歩いていたころ、何度も顔を合わせた人だった。芽衣の記憶には名前までは残っていなかったが、笑うと片方だけ深く寄る目尻の皺に、かすかな懐かしさがあった。


「あ……はい。ご無沙汰してます」


芽衣は少し戸惑いながら、頭を下げた。


「こんなに、大きくなって……亜矢さんの面影があるわ」


「よく言われます」


芽衣が少し照れて笑うと、女将も釣られたように笑った。


「写真館、また開けたんだってねえ。そりゃよかった。亜矢さん、朝市のこともよう撮ってくれたから」


「そう聞いていました。私、まだちゃんと全部は見られてなくて」


「うちにも一枚あるよ。見ていくかい」


女将に手招きされて店の奥へ入ると、壁に古いモノクロ写真が飾られていた。若い女将と、その隣に腕組みをして立つ夫。背後には木箱が積まれ、まだ今より少し雑然としていたころの市場の空気が、そのまま写り込んでいる。二人ともぎこちない顔で立っているのに、間に流れるものだけは、妙にやわらかかった。


「これ、祖母が」


「そう。結婚して間もないころだよ。店なんて、毎日食ってくだけで精一杯だったのに、亜矢さんが急に来てね。『いまの顔を撮っておきましょう』なんて言うんだもの」


女将は写真を見上げながら、少し照れくさそうに笑った。


「不思議な人だったよ。観光客を撮るんじゃなくて、こういう、なんでもない日の顔ばっかり撮りたがるんだ。けど今になると、そういうのほど残してもらってよかったって思うねえ」


芽衣は写真の前に立ったまま、しばらく見入っていた。光の当たり方のせいなのか、あるいは古い印画紙の粒子のせいなのか、二人の輪郭は少しだけ滲(にじ)んで見えた。今この瞬間の像というより、ほんの少し前までその場にあった時間ごと写しているようだった。


「この写真、時間が止まってるみたいですね」


ぽつりとそう言うと、女将は首を横に振った。


「止まってるんじゃないよ。たぶん、まだ届ききってないんだわ」


芽衣は顔を上げた。女将は自分で口にした言葉がおかしかったのか、照れたように肩をすくめた。


「ほら、今の世の中、光が遅いだろう。亜矢さんの写真もね、昔から、ちょっとそんな感じだったのさ。今だけじゃなくて、少し前の気持ちまで一緒に残るみたいな」


* * *


店を出ると、朝市の通りはいっそう賑やかになっていた。観光客が丼の看板をのぞき込み、店先では水しぶきが跳ね、氷の上の魚が鈍く光る。以前なら一瞬で目を滑っていったはずの色や水しぶきが、今は少しだけこの場所に留まる。呼び込みの声が通路の端で反響し、その上を遅れて届く朝の光がなぞっていく。市場全体が、ひとつの生き物みたいに脈打っていた。


朝市の奥へ進むと、軒先に活きの良いイカを並べた店が目についた。透き通った身が、朝の光を受けて淡く光っている。


「函館のイカは、獲れたてを刺身で食べるのが一番だよ」


近くの店主が、芽衣の視線に気づいて声をかけてきた。


「昨日の夜、獲れたばかりのやつも混じってるはずだ。この時期は、沖に漁火がたくさん出るからね」


「漁火……」


「ああ。夜になると、湾の向こうに小さい光がいくつも浮かぶんだ。あれが全部、イカを集める船の灯りだよ」


芽衣は、その言葉を聞きながら、まだ見ぬ夜の海を思い浮かべた。函館山から見下ろす夜景の中に、きっとその光も混じっているのだろう。


店の軒先には、開いたイカが何十杯も、ロープに吊るされて風に揺れていた。まだ水気の残るものもあれば、すっかり干からびて飴色になったものもある。天日と潮風だけで、時間をかけてゆっくりと乾いていくのだという。


「これ、どのくらいで乾くんですか」


「日にもよるけど、何日もかけてじっくりとね。急いで乾かしたやつは、味が全然違うんだ」


芽衣はその一枚一枚を見上げながら、時間をかけて姿を変えていくものの静けさを思った。急がず、日と風にゆだねられて、少しずつ、確かなものになっていく。


そのとき、後ろから声をかけられた。観光客らしい外国人の夫婦が、店先に並んだイカを指さしている。


「スミマセン。コレ、ドウヤッテ タベマスカ?」


芽衣は店主の言葉を思い出して、少し考えてから答えた。


「サシミ、です。とれたてだから、おいしいですよ」


夫婦は顔を見合わせて、うれしそうに笑った。


「観光ですか?」と、芽衣が尋ねてみる。


「ハイ。ハナビ、ミニ キマシタ。ヒカリ、オソイ。ハナビ、ゼンゼン チガウ、ト キキマシタ」


光が遅くなったこの街の花火を、わざわざ見に来る人がいる。芽衣は、数日後の夜を、少しだけ楽しみに思った。


* * *


市場の外へ出ると、朝の光は駅前の舗道に細長く伸びていた。人の影が少し遅れて地面を渡り、ガラス越しの反射が、まるで別の時間の通行人のように揺れている。


芽衣はそこで立ち止まり、しばらく駅の方角を見た。


函館に着く列車、函館を発つ列車。旅の始まりと終わりが、昔からこの駅前では何度もすれ違ってきたのだろう。朝市の賑わいも、そのすぐ脇で続いてきた。誰かが来て、誰かが去り、誰かが残る。港町というのは、きっとそういう場所なのだ。


祖母も、この街を出ていく人、戻ってくる人、そのどちらにも同じようにカメラを向けていたのかもしれない。特別な瞬間ではなく、その人がその人としてこの街に立っていた証を、ただ黙って残すために。


芽衣はふと、写真館に眠る古いアルバムのことを思い出した。あの中には、今日この朝市ですれ違った誰かの若いころの顔も、きっと混じっているのだろう。


そう思うと、この街は思っていたよりずっと狭く、同時に、思っていたよりずっと深い場所に感じられた。


潮風がひとつ吹き抜けて、芽衣は思わず身をすくめた。


写真館へ戻るにはまだ少し早い。坂へ向かう前に、もう少しだけ、この街の続きのような場所を歩いてみたくなった。


芽衣は駅前を離れ、大門の方へゆっくりと足を向けた。

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