第6話

ドォォォォンッ!


崖の岩肌が凄まじい軋みを上げて爆ぜた。

切り立った断崖から谷底上空へ向けて、一本の鋭利な岩の槍――急勾配の射出台が、弾かれたように突き出す。


エリックの足が、その岩肌を蹴った。

一歩、二歩。加速のすべてを跳躍の力へと変換し、体ごと虚空へと投げ出される。


「落ちるぞ、小僧がァッ!」

谷底の審問執行官・バルタザールが狂笑した。頭上の火と風の精霊が激しく咆哮し、空中に躍り出たエリックめがけて、荒れ狂う火炎球と不可視の真空刃が殺到する。


――その瞬間、風を裂く乾いた弦鳴りが三度重なった。


バツンッ! バツンッ! バツンッ!


崖の上から放たれたリディの矢は、もはや神技だった。

一本目の矢が、エリックの鼻先を掠めるように飛び、突風の障壁の「結節点」を正確に穿って風の渦を破裂させる。

二本目の矢が、火炎球の中心核――霊的エネルギーが凝縮した核を撃ち抜いて宙で暴発させ、炎の帳を吹き飛ばす。

そして三本目の矢が、迎撃のために杖を構えていた法術士の手首を貫いていた。


エリックの視界から、障害のすべてが消え失せた。

切り拓かれた「無風の回廊」を、落下する弾丸となってエリックは突き抜ける。


「な……ッ!?」

見上げたバルタザールの瞳に、落下してくる黒い影が映り込んだ。


空中で、エリックは両手で直剣(ロングソード)を握り直した。

呼吸が止まる。

心臓の鼓動が、世界から色を奪っていく。

直剣の刀身が、日光を拒絶するような完全な虚無の闇を纏った。


(――終わりだ)


バルタザールが絶望に顔を歪め、己の頭上に展開していた精霊の三重絶対障壁を全力で押し上げる。

だが、落下傘のように振り下ろされたエリックの刃にとって、そんなものは薄紙の厚みすら持たなかった。


音はなかった。

激突の衝撃も、火花の散華もない。

直剣の切先は、絶対障壁を、渦巻く煉獄の火炎を、そしてバルタザールの豪奢な法衣と肉体を――最初からそこに何も存在しなかったかのように、ただ滑らかに両断した。


ズザザザッ!


谷底の泥を抉りながら、エリックが着地する。

背後で、天を衝く勢いだった炎の竜巻が、プツリと糸が切れたように霧散した。

そして、二つに分かたれた審問執行官の肉体が、音もなく左右へと倒れ伏す。生命の火は、傷口から血が吹き出す間もなく、絶対の即死によって掻き消されていた。


「し、執行官様が……!?」

「化け物だ……退け! 退けェッ!」


指揮官と大魔法を一瞬で喪失した教会の精霊騎士たちは、恐慌をきたして蜘蛛の子を散らすように敗走を始めた。


だが、エリックにはその背中を追う余力など微塵も残されていなかった。


「が、はッ……!」


直剣が手から滑り落ち、硬い石の上に転がる。

着地と同時に、全身の骨が軋み、激痛が内臓を雑巾のように絞り上げた。喉の奥から熱い鮮血が噴き出し、エリックの膝が力なく泥に折れる。視界が急速に黒く染まり、呼吸の仕方を肺が忘れていく。


(くそ……やっぱり、一発でこれかよ……)


意識が途切れかけた刹那、柔らかな腕がエリックの倒れ込む体を抱き止めた。


「もう大丈夫です」

トーラの声だった。ジークが大地の精霊で瞬時に切り拓いた岩の坂道を、滑り降りるように駆けつけてくれたのだ。

彼女の細い手が、エリックの血まみれの胸元へと重ねられる。

春の陽だまりのような温かな光が、エリックの傷口、砕けかけた内臓、千切れかけた血管の隅々にまで染み渡っていく。

死の淵から強引に引き戻される感覚。肺が大きく息を吸い込み、エリックは泥の上に仰向けになって激しく咳き込んだ。


「……生きてるか、相棒!」

メイスを肩に担いだジークが、大股で駆け寄ってくる。その後ろから、長弓を背負い直したリディが、静かに歩み寄ってきた。


谷底を吹き抜ける風が、焦げ臭い熱気を運び去っていく。

西の山並みの向こう、崖の裏道を見上げていたリディが、ふっと肩の力を抜いた。


「……抜けたわ」

リディの魔眼が、夕暮れの尾根を越えていく荷馬車と非戦闘員たちの姿を捉えていた。

「みんな、無事に山を越えた。……もう、追手は届かない」


リディは向き直り、泥だらけで倒れているエリック、汗を拭うジーク、そしてエリックの治療を終えて立ち上がったトーラを、じっと見つめた。

その黄金色の瞳には、もう警戒の色はなかった。


「命拾いした。……感謝するわ」


「礼なら後で美味い飯でも奢ってくれや」

ジークが笑いながら、地面に座り込んだ。

「それにしてもよ。命懸けで背中を預け合って大立ち回りを演じたってのに……そこの凄腕の弓使いの姉ちゃんとは、まだ名乗り合ってすらいねえぞ」


その言葉に、エリックは泥だらけの顔で小さく噴き出した。

胸の痛みが引き、ようやく体が動くようになったエリックは、足元に転がっていた直剣を拾い上げる。――刀身の半ばに、髪の毛ほどの細い亀裂が幾筋も走っていた。金属疲労の限界。もう一度あの力を宿せば、確実に砕け散るだろう。

エリックは小さく息をつき、剣を鞘へと収めて立ち上がった。


「違げえねえな」

エリックは革鎧の埃を払った。

「エリックだ。……エリック・フォン・アルフィナーデ。精霊も魔眼も持たない、ただの食い詰め者さ」


「アルフィナーデ……没落した名門貴族の出か」

リディが小さく呟き、それから自らの胸に手を当てた。

「私はリディ。『見えざる手』の弓使い。教会の連中からは『禽の目』って呼ばれてる」


「俺はジーク・ヴァン・ベルシュタイン」

ジークがニヤリと笑う。

「見ての通り、実家を飛び出してきた落ちこぼれの元貴族だ。旅の飯炊きと土木作業なら任せてくれ」


最後に、トーラが灰色のローブの裾を正し、静かに一礼した。

「トーラと申します。……この世界で迷子になっている方々の痛みを、少しでも癒やせればと願って歩いています」


リディは三人を順番に見渡し、それから風通しの良い、乾いた笑みをこぼした。


「没落貴族の剣士に、家出息子の精霊使い、精霊もなしに奇跡を使う謎の娘……。本当に、変な奴らの集まりね」

リディは背の弓を直すと、夕暮れに染まる街道の先を見据えた。

「仲間を逃がしたから、私のここでの役目は終わり。……あんたたち、これからどこへ行くの? もし宛てがないなら、しばらくついて行ってもいい?」


「大歓迎だぜ」

ジークが立ち上がり、腹をポンと叩いた。

「腕の立つ弓使いがいりゃ、狩りの獲物にも困らねえ。飯の食い手が増えるのは大歓迎だ」


エリックも肩をすくめ、夕陽の沈む西の空を見上げた。

「好きにしろよ。……退屈だけはしない旅になりそうだからな」


冷たい風が、四人の外套の裾を吹き抜けていく。

それぞれの重荷を背負った奇妙な一行は、夕闇の迫る街道へと、静かに歩み出した。


――その、遥か東。

ディフレーノ王国の王都にそびえ立つ、豪奢を極めた聖血教会の大聖堂。


ステンドグラスから差し込む薄暮の光の下、何十人もの信徒や修道女たちが、狂信的な恍惚を浮かべて石畳の上に平伏していた。

その中心、豪奢な白銀の祭壇の上に、一人の美しい青年が立っていた。


神々しいまでの美貌。慈愛に満ちた佇まい。教会から「生きる聖者」として崇められるその男――ミラール。


祈りを捧げていたミラールが、ふと、西の空を見据えてピクリと眉を動かした。


その瞬間。

大聖堂を包む空気が、目に見えない重力の底へと沈み込むように軋んだ。祭壇を取り囲んでいた何百本もの蝋燭の炎が、まるで目に見えない巨人に押し潰されたかのように、一斉に石床へと平伏するようにひれ伏す。


「……あぁ」


ミラールの喉から、甘く、熱を帯びた吐息が漏れ出た。

その黄金の瞳の奥で、無数の感情が濁流となって渦巻いている。激しい渇望、捨てられたことへの怒り、そして狂おしいほどの承認の欲求。


「感じます……。あの冷たく、残酷で、懐かしい痛み」


ミラールは自らの頬に手を当て、美しくも歪んだ笑みをその唇に刻んだ。


「お目覚めになられたのですね、我が主。……私を切り捨て、置いていかれた、愛しい方」


大聖堂の信徒たちが、ミラールの漏らす魔力の重みに耐えかねて、息を詰まらせて震えている。

ミラールはその虫けらどもを見下ろすことすらなく、ただ遠い西の空――エリックのいる方角へ向けて、甘美に囁いた。


「今度は、私を置いていかせはしません。……私の前に、その高貴な膝を折らせて差し上げます」

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