第2章 名前の抜けた場所
第9話 保留の箱
二月二十日、凪が封筒から紙を引き出すと、二枚目に畳まれた新聞の切り抜きがついてきた。
机の向こうで、久世が手を伸ばしかけた。凪は自分で開いた。折り目に沿って紙の色が濃く、片側には別の記事の写真が半分だけ残っている。
上秋線、列車脱線。十月十八日午後十時十六分。
死亡した乗客の一人は、上秋町の汐見凪、二十四歳。
凪は、その行をもう一度読んだ。
自分と同じ名の人がいる、と考えた。住所を見ても、別の人の可能性を探していた。けれど町名のあとに続く番地は、夜勤明けに帰っていたアパートのものだった。
「私のことですね」
「はい」
凪は新聞を机へ置き、曲がっていた端を撫でた。うまく伸びなかった。もう一度、爪の腹で押した。
「私、今日も電車の音を聞きました。梶本さんのところまで歩いて、時計を運んで」
「ええ」
「それは、どういうことなんですか」
久世は答えようとしたが、凪は先に新聞を裏返した。文字のない側には、菓子の広告があった。安いから買おうと考えたあと、何を考えているのか分からなくなった。
死んだと言われて泣くのか、怒るのか、自分でも知らなかった。いまは紙の端が曲がっていることだけが気になり、押さえる指を止められない。
久世は湯呑を寄せず、机の上を空けていた。
「この取扱所では、凪さんは人の姿で過ごせます。生きている方と話せる条件は、お伝えしたとおりです」
凪は顔を上げた。
「母に電話をかけたときも、知っていたんですね」
「はい」
「最初に、そう言ってくれればよかった」
言い終えたあと、胸元へ手をやった。名札を確かめる癖だった。上着には何もなく、手を下ろすと、箱のラベルに書かれた自分の字が見えた。凪は申出書へ目を戻した。
十二月三日、午後十時十六分。汐見凪。
署名の最後の払いに、いつも自分がつける小さな曲がりがあった。死亡した人の名と、ここにいる自分の字が、同じ机に並んでいる。
「これ、いつ書いたんですか」
「この駅へ来られた晩です。休憩室へご案内する前に」
「私が、何をお願いしたんです」
久世は申出書の見出しを示した。
自己の返却を保留し、遺失物係として働くことを申し出る。
凪は一行ずつ読んだ。途中で字が滑るようになり、指を行の下へ置いた。
亡くなった時から四十九日。それが自分にも当てはまる。十二月三日には四十六日が過ぎ、残っていたのは七十二時間だった。
保留を申し出ると、その残り時間は止まる。凪を知る人の記憶が薄れていくことも、同じところで止まる。
箱のラベルには、自分の名の下に「保留中・残り三日」と書かれていた。誰か別の人の期限を扱うときと同じように、凪はその数字を帳面へ写しかけた。鉛筆を取る前に手を戻す。
「母は、いま私を忘れているんですか」
「ご家族を訪ねて確かめたことはありません。止まっているのは、十二月三日の状態です。それまでに薄れた分が戻ったわけではありません」
「声が届かなかったのも、忘れたから?」
「声が届くかどうかと、覚えておられるかどうかは、別のことです。覚えていても、凪さんの声を聞けるとは限りません」
凪は受話器を置いた母の音を思い出した。あのとき、母が自分を忘れたのだと、半ば決めていた。分からなかったことが、分からないまま一つ戻った。
「忘れられているところは、返せば戻るんですね」
「はい」
申出書には、保留に伴って記憶を封じる範囲も書かれていた。亡くなった当日から、この申出まで。
凪は九月の勤務表を思い浮かべた。右から三番目の改札機だけ切符を読み損なうこと、点検のとき緩めるねじの位置。そんなものは、頼まれなくても出てくる。ところが、十月十八日にどのホームへ立ったかは、何度考えても出てこない。
「新聞を読んでも、思い出さないんですか」
「記録から事実を知ることはできます。封じた晩のことを、ご自身の経験として取り戻すには、保留を終える必要があります」
箱へ目が行った。
「これを開ける」
「凪さんが開けると決めたときに、開きます。封じた記憶が戻り、残っていた七十二時間が進み始めます」
「また閉じれば?」
久世は首を振った。
「一度終えた保留には、戻せません」
凪は箱の蓋へ指を掛けた。開かなかった。どうしてなのかを聞こうとして、まだ開けたいとは思っていないことに気づいた。中身を見てから決めることは、できない。
七十二時間。由佳に会ってもらえなかった日数より短い。その間に母へ事情を伝え、自分が何を返したいかを知り、引き受けてもらう。父の時計を持っていったときのように、自分が戸口へ立って話せるわけでもない。
「届けてもらう人も、必要なんですね。自分の忘れ物だから」
「はい。凪さんに代わって、ご家族へ届ける人が必要です。頼んでいただけるなら、私がお手伝いします」
凪は久世を見た。母への電話を止めず、何週間もこの紙を机に残した人だった。それでも、ここへ戻るたび戸を開けてくれたのも久世だった。どちらか片方だけを考えたかったが、彼は同じ椅子に座っていた。
「働くと申し出たとき、私はこの説明を聞いたんですか」
「聞いておられます」
「封じたら忘れることも、知っていたんですか」
「はい。だから、そのあとで、改めてお話ししなければなりませんでした」
久世は申出書から手を離した。
「私は待ちすぎました。凪さんが仕事の話へ移ると、今日でなくてもよいことにしてしまった。ご自身が望まれたことだから、とは申しません」
凪は新聞の折り目を見た。何度も机から遠ざけた封筒だった。そのことを久世に言われるのが嫌だったのに、言われないと、怒りを続ける言葉が見つからなかった。
「今日は、開けません」
声は、自分が思っていたより小さかった。
久世は頷いた。凪は箱を抱えたまま棚へ目を向け、傘の管理タグを読んだ。
「明日、これを調べるなら」
「その件は、私が先方へ伺う約束をしています」
時計の受付票も、記録は終わっていた。今日中に片づけなければならないものは、机にある自分の紙だけだった。
箱を棚へ戻すと、肩の辺りが少し緩んだ。それが嫌で、凪は蓋をもう一度押さえた。
「新聞と、この申出書は、部屋へ持っていってもいいですか」
「どうぞ。分からないところがあれば、お尋ねください」
久世は立入禁止の表示を戻さなかった。凪の箱を置いた場所まで、手前の箱を寄せ直している。
その夜、休憩室の寝台へ腰を下ろし、凪は新聞を広げた。自分の名を指で隠すと、運休と復旧見込みの記事になった。指をどけると、そこで亡くなった人が自分になる。
廊下で杖の音が止まった。
「お話ししたいときは、起きていますから」
久世の声がした。
凪は返事をせず、申出書の署名を撫でた。さっきまで曲がった紙ばかり押さえていた指が、今は自分の字から離れなかった。
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