おとぎ話の、そのあとで。

もちむぎ

第1話 求人票

# 第一章 求人票


 三崎奈津が昼休憩に入れたのは、午後二時を少し過ぎてからだった。


 休憩室の冷蔵庫から弁当を取り出し、電子レンジに入れる。四十秒。待っている間に、制服のポケットから小さなメモが落ちた。


 午前中に終わらせるはずだった記録の、書き忘れ防止のメモだった。


 奈津は拾って、またポケットに戻した。


 今日の受け持ちは七人。そのうち二人が検査、一人が退院。午前中に緊急入院が入り、予定していた処置の途中で呼ばれた。


 点滴を交換している間にナースコールが鳴り、戻ってきたら電話が待っていた。家族への説明を終えて時計を見ると、昼を回っていた。


 特別なことがあった日ではない。


 だいたい、毎日こうだった。


 電子レンジが鳴った。


 弁当を取り出して椅子に座る。蓋の裏についた水滴が、指に落ちた。


 向かいでは、先に休憩に入っていた同僚がスマートフォンを見ていた。


「今日、忙しい?」


「まあ、いつもどおり」


「私、午後の入院は無理って言っといた。昨日も取ったし」


 奈津は箸の袋を破った。


 昨日の入院は、奈津も取った。


「三崎さんのところ、退院したんでしょ?」


「うん」


「じゃあ、そこに入るんじゃない?」


 そう言って同僚は立ち上がった。空の弁当箱を袋にしまい、時計を見上げる。


「じゃ、お先」


「お疲れさま」


 扉が閉まった。


 奈津は、まだ一口も食べていない弁当を見下ろした。


 退院すれば、ベッドは空く。


 でも、その患者の記録が終わるわけではない。家族への連絡も、返却する薬の確認も、片づけも残っている。


 空いたベッドだけを見れば、確かに奈津のところには余裕があった。


 箸で卵焼きをつまむ。


 朝、慌てて焼いたものだった。少し甘くしすぎたと思ったのに、今は味がよくわからなかった。


     *


「三崎さん、悪いんだけど」


 その言葉を聞くと、奈津は反射的に顔を上げるようになっていた。


「新しい入院、お願いできる?」


 午後のリーダーが、書類を持って立っていた。


 壁の時計は三時半を示していた。


「まだ午前の記録が残っていて」


「ああ、そうだよね。でも、ほかも手がいっぱいで」


 奈津は受け持ち表を見た。


 誰が何人持っているか。誰の患者に処置があるか。誰がいま、何をしているか。


 数だけでは測れないことは、わかっている。


 それでも、今日も自分なのかと思った。


「お願いします。三崎さんなら安心だから」


 褒められたような言い方だった。


 奈津は書類を受け取った。


「……わかりました」


 リーダーの肩が、目に見えて下がった。


「助かる」


 助かった人がいる。


 その代わりに、自分の帰る時間が遅くなる。


 書類を開きながら、奈津はさっきの同僚の声を思い出していた。


 無理って言っといた。


 言えば、通る。


 もちろん、何でも通るわけではない。奈津だって、どうしても難しいときは断る。


 ただ、断ったあとに残る仕事が気になった。誰かがやらなければ、患者が待つ。その誰かを決める時間さえ惜しくて、結局、自分が引き受けることが多かった。


 そうしているうちに、頼めば引き受ける人になっていた。


     *


 病院を出たとき、外はもう暗かった。


 更衣室で見たスマートフォンには、給与明細が届いたという通知があった。


 駅へ歩きながら開く。


 基本給。各種手当。控除。


 最後に振り込まれる金額を見て、奈津は画面を閉じた。


 安い、と口に出すほどではないのかもしれない。


 看護師として働けている。毎月、決まった日に給料が入る。有給休暇だって、制度としてはある。


 けれど、今日の一日を思い返すと、どうしても釣り合っているとは思えなかった。


 患者に聞かれたことは忘れられない。薬は間違えられない。忙しかったので確認できませんでした、では済まされない。


 その重さは、毎日同じように肩に乗っている。


 看護師になったのは、資格があれば仕事に困らないと思ったからだった。人を救いたいという夢があったわけではない。生活できる給料をもらって、長く働ければよかった。


 けれど、そういう理由で選んだ仕事でも、目の前で困っている患者を見れば手は動いた。必要なことを覚え、任されたことを済ませているうちに、仕事は少しずつ増えていった。


 なのに仕事を引き受ける人と、断る人の差は、給与明細のどこにも出てこなかった。


 電車が来るまで、あと六分。


 奈津は求人サイトを開いた。


 最初に見始めたのは、比較するためだった。


 ほかの病院では、どのくらいもらえるのだろう。


 休みは何日あるのだろう。


 いまの職場が、特別に悪いわけではないのかもしれない。


 そう思うために開いたはずの画面を、最近は毎晩見ていた。


 給与の高い順。


 年間休日の多い順。


 残業少なめ。


 指で条件を選ぶたびに、検索結果が減っていく。


 知っている病院の名前を見つけると、そこで働く知人の顔が浮かんだ。聞いてみようかと思って、やめた。話がどこまで広がるかわからない。


 退職するつもりなのかと聞かれたら、まだ答えられなかった。


 電車に乗り、つり革につかまった。


 片手で画面を送っていると、見覚えのない病院名が出てきた。


 通勤できる距離だった。


 奈津は募集要項を開いた。


 月給の欄を見て、指が止まる。


 夜勤を含む金額だろうと思ったが、夜勤手当は別途支給と書いてあった。


 年間休日も、いまより多い。


 時間外勤務は原則なし。


 もう一度、給与の欄に戻った。


 小さな文字で条件が付いていないか、画面を拡大する。試用期間中だけ金額が変わるということもない。


 看護師免許必須。病棟勤務経験のある方。


 応募資格は満たしていた。


 奈津はその求人を、お気に入りに登録した。


     *


 それから一週間、応募はしなかった。


 毎晩、求人票を開いた。


 朝にも開いた。


 まだ募集していることを確認して、閉じた。


 条件がいいからといって、働きやすいとは限らない。


 人間関係は、入ってみなければわからない。いまの病院なら、少なくとも仕事の流れはわかる。どこに何があり、誰に聞けばよくて、誰に頼むと嫌な顔をされるかも知っている。


 転職したら、また一からだった。


 名前も顔も覚えていない人たちの中で、やり方を教わる。経験者として期待されながら、できないことを尋ねる。


 想像しただけで疲れた。


 応募画面には、氏名と連絡先を入力する欄があった。


 奈津は名前だけ打って、消した。


 まだ、今日でなくてもいい。


 そうやって閉じるたびに、少しだけ安心した。


 その安心が、翌日の出勤までしかもたないことも知っていた。


     *


 転職を決めた日は、大きな失敗をした日でも、誰かに怒鳴られた日でもなかった。


 いつもどおり、仕事が終わらなかった日だった。


 日勤の終了時刻を過ぎて、奈津はナースステーションで記録をしていた。


 廊下からナースコールの音がした。


 担当の看護師が動くのを見ても、身体が先に椅子から浮いた。


「三崎さん、もう上がっていいよ」


 声をかけられて、座り直す。


「あ、はい。記録だけ終わらせます」


 画面に向き直った。


 書こうとしていた文章が、頭から抜けていた。


 手元のメモを見る。自分の字だった。今日、何をしたかは書いてある。


 それなのに、どの順番だったか、すぐに思い出せなかった。


 奈津は両手を膝の上に置いた。


 少し休めば戻る。


 実際、数十秒たつと、思い出した。


 でも、その数十秒が怖かった。


 家に帰って、鞄を置いた。上着を脱ぐ前に、椅子に座る。


 疲れた。


 今日も疲れた。


 明日も、たぶん疲れる。


 仕事だから仕方がないと、何度も思ってきた。


 けれど、いつまでなら仕方がないのだろう。


 潰れてしまってから辞めても、誰かが自分の代わりに元気になってくれるわけではなかった。


 奈津はスマートフォンを取り出した。


 あの求人は、まだ出ていた。


 応募画面を開く。


 氏名。連絡先。資格。勤務経験。


 今度は消さなかった。


 送信ボタンに指を置く前に、一度、息を吐いた。


 面接を受けるだけだ。


 話を聞いて、違うと思えば断ればいい。


 そう自分に言い聞かせながら、奈津はボタンを押した。


 応募を受け付けました。


 短い表示を、しばらく見ていた。


     *


 面接の日、奈津は約束の二十分前に病院の近くへ着いた。


 早すぎると思い、角の手前で立ち止まる。鞄の中の履歴書を確認した。昨夜も、家を出る前も確かめたのに、また封筒の端を指で触った。


 落ち着いた外観の建物だった。


 玄関のガラスはきれいに拭かれていて、入口の脇には手入れされた植え込みがある。


 少なくとも、外から見て不安になるところはなかった。


 十分前になって、奈津は玄関へ向かった。


 受付で名乗ると、職員は予定を確認し、椅子を勧めてくれた。


「担当の者が参りますので、少々お待ちください」


「ありがとうございます」


 座って、鞄を膝に置く。


 廊下を、看護師が二人歩いていった。一人が何かを尋ね、もう一人が足を止めて答えている。


 その様子を、奈津はつい見てしまった。


 急かすような声ではなかった。


 それだけで、少し肩の力が抜けた。


 ここなら、と考えて、まだ早いと自分に言う。


 しばらくして、一人の看護師が受付の奥から現れた。


 奈津より年上に見える、穏やかな顔の女性だった。


「三崎奈津さん?」


「はい」


「お待たせしました。こちらへどうぞ」


 奈津は立ち上がり、女性のあとを歩いた。


 途中、女性は振り返って尋ねた。


「道、わかりにくくなかったですか?」


「大丈夫でした。少し早く着いてしまって」


「よかった。初めてのところは、緊張しますものね」


 奈津は小さく笑った。


「……はい。久しぶりの面接なので」


「大丈夫ですよ。こちらも、お話を伺いたいだけですから」


 女性は部屋の前で立ち止まり、扉を開けた。


 長机と椅子。窓際の鉢植え。机の上には、奈津の応募書類が置かれていた。


 院長だという男性が立ち上がる。


「本日はありがとうございます。どうぞ、おかけください」


 奈津は頭を下げた。


「三崎奈津です。よろしくお願いいたします」


 椅子に座ると、案内してくれた女性が隣の席についた。


 院長は書類に目を落としてから、奈津を見た。


「まず、転職を考えられた理由を伺ってもよろしいですか」


 奈津は膝の上で、指を揃えた。


 用意してきた答えはあった。


 これまでの経験を生かして。


 新しい環境で。


 長く働ける職場を探して。


 どれも嘘ではなかった。


 けれど、それだけでは、ここへ来た理由にならない気がした。


「今の働き方を、この先も続けていけるか、不安になりまして」


 言ってから、顔を上げた。


 二人とも、奈津の話を待っていた。


「仕事は続けたいんです。ただ、続けられる働き方をしたいと思っています」


 声に出してみると、自分が望んでいたことは、それほど大げさなものではなかった。


 働いて、給料をもらう。


 休みの日には、休む。


 明日も行けると思えるくらいの余力を残して、家に帰る。


 奈津はようやく、その希望を人に話した。


 院長は頷いた。


「勤務中は忙しいですよ。ただ、交代の職員が来たら帰ってください。残った仕事は、次の人に任せていただきます」


「……本当に、帰っていいんですか?」


 聞いてから、妙な質問をしたと思った。


 けれど院長は笑わなかった。


「そのための交代ですから」


 隣の看護師も頷いている。


「お休みも、募集要項に記載したとおりです。休む人がいる前提で勤務を組みますので」


 奈津は膝の上の指を、少し緩めた。


 これが本当なら、随分と助かる。


 給与や勤務時間について説明を受けた。どれも、求人票に書かれていた内容と同じだった。


 奈津がメモを取り終えるのを待って、院長が続けた。


「それから、患者さんについてお伝えしておきたいことがあります。当院は、再入院される方が非常に多いんです」


「慢性疾患の方が多いということでしょうか」


「いえ。治療を終えて退院された方が、同じような傷で戻られます」


 奈津のペンが止まった。


「同じ傷、ですか」


「ええ。何度もお会いする方もいらっしゃいます」


 隣の看護師が、穏やかに付け足した。


「早い方だと、その日のうちに」


 奈津は二人の顔を見た。


 冗談を言っている様子はなかった。

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