メロディーの余白に

佐倉詩乃

notitle

愛を数えるには遅すぎて

**

​水仕事をする手元で、古いスマホの画面が薄暗く光っていた。水流の音と、スポンジが泡を立てる乾いた音の隙間に、ぽつりと紛れ込むようにして、そのメロディーは流れてきた。

​——遠い昔、何度も聴いたはずの歌。

​ふいに耳に飛び込んできたフレーズに、動作がわずかに止まる。


「愛してるが足りない

なんてもう言えない」


​その歌詞が耳をかすめた瞬間、心の奥底で、乾いた土の表面がパリパリと音を立てて割れるような感覚がした。あぁ、私の中はいつの間にか、こんなにも乾いてしまっていたんだ。年齢という名の歳月が、いつの間にか熱っぽい感情の尖った部分をすっかり削ぎ落とし、何事もなかったように日々のルーティンへと溶け込ませていた。

​「もうそんなことを口にする歳じゃない」

いつの間にか身につけてしまった大人の予防線。誰かに愛を求めることも、その足りなさに焦がれることも、とうに卒業したはずだった。

​それなのに。

たった数小節のメロディーと、あまりにもまっすぐな言葉の響きが、心のなかにしまっていた蓋をそっと押し上げる。あふれ出してきたのは、満たされない寂しさか、それとも、かつては確かに熱を帯びていた自分の心の温度を思い出した戸惑いか。

​泡の消えていく流し台の前で、彼女はただ小さく息をつく。

乾いた心の隙間に、冷たい夜風がそっと吹き抜けていった。



名前を呼ばない恋

**

​春の異動を知らせる新聞の隅を、無意識に指でなぞっていた頃の名残がまだどこかにある。

在職中だった彼なら、転勤があればその名前が活字になり、今どこでどんな風に過ごしているのかを辛うじて知ることができた。たとえ交わす言葉がなくても、同じ空の下で、同じように時間を重ねているという確証だけが、心のよりどころだった。

​けれど、彼はもう退職した。

どこへ去ったのか、今どんな暮らしをしているのか、もう知る術はない。世界からふっとその足跡が消えてしまったかのように、糸がぷつりと音を立てて切れた。

​「探せなくなったあなたを

私は今も忘れることができない」

​許されない恋だとわかっていたから、あの頃もまっすぐに想いを告げることなんてできなかった。ただ遠くから背中を見つめ、声を聞くだけで精一杯だった。それなのに、関係が完全に途絶え、もう二度と出会うこともないと分かった今になって、その存在は一層鮮やかに心のなかで疼き始める。

​忘れてしまえたらどれほど楽だろう。新しい季節が巡り、日常がどれだけ形を変えても、あの日の教室の空気や、ふと向けられた優しい視線は、色褪せるどころかむしろ深みを増していく。

​もう名前を呼ぶことも、姿を探すこともできない。

それでも私は、この胸の奥のいちばん静かな場所に、あなたを閉じ込めたまま、今日も生きていく。



白いため息の行き先

**

18歳の頃、未来の輪郭を思い描いていた自分に教えてあげたい。

プロポーズといえば、ドラマや小説のように、真紅の薔薇を年の数だけ抱えてひざまづくものだと、本気で信じて疑わなかったあの頃。それは甘やかな幻影であり、いつか必ず訪れる美しい儀式のようなものだと思い込んでいた。

「プロポーズは真紅の薔薇を年の数

そんなのは夢物語

ため息が白い薔薇に変わりゆくだけ」

けれど、時間はすべての熱を少しずつ削ぎ落していく。訪れた現実は、映画のワンシーンのようなどこか遠い世界の話ではなく、あまりにも生活の匂いに満ちたものだった。

「生活のために結婚しよう」

告げられたその言葉には、華やかな装飾も、心躍るような魔法の響きすらなかった。ただ、目の前の日常を共にサバイブしていくための、生々しい決意だけがあった。

それを聞いたとき、胸の奥からこみ上げてきたのは、怒りでも失望でもなく、ただ静かな乾いたため息だった。

あんなにも鮮やかに思い描いていた赤い薔薇の幻影は、生活という冷たい現実の風にさらされて、みるみる色を失っていく。そして冬の夜気に溶けるように、口元からこぼれた白いため息が、まるで代わりの白い薔薇のように儚く宙に散っていった。

夢から覚めたあとの世界は、驚くほど静かで、そして少しだけ切ない。

それでも私たちは、鮮やかな赤を失ったこの白い風景の中で、今日もそれぞれの日常を重ねていく。



小さな海が還る場所

**

秋の冷たい空気がゆっくりと街に降りてくる頃、小さな命が腕のなかにやってきた。

名前を呼べば、しっぽをちぎれんばかりに振って駆け寄ってきてくれる。その温もりは、いつだって私の世界の中心だった。

​季節が巡り、どれだけの時間が経っても、その子がくれた愛の量は少しも減ることはなかった。むしろ私が不安なときも、孤独だったときも、ただそこにいてくれるだけで、私の乾いた心をいつでも満たしてくれた。

まるで、すべてを受け止めてくれる広大な海のように。

​——「私の海は小さなわんこ

秋の終わりに生まれたのにね

私に溢れんばかりの

愛を注いで旅立っていった

ごめんねとありがとうを

この詩にのせて今届けるよ」

​もう、あの小さな体を抱きしめることはできない。

あんなにしてあげたかったこと、もっと優しくしてあげられたんじゃないかっていう、消えない後悔の欠片――「ごめんね」が、ふとした瞬間に胸をかすめる。

​けれど、それ以上に胸を満たしているのは、あの小さな瞳で見つめ返してくれた日々のすべてがくれた、どうしようもないほどの感謝だ。

あなたが私にくれた海のような愛は、今でもこの胸のなかで、静かに、そして温かく満ち続けている。

​遠くへ旅立ったあなたへ。

届くかどうかなんて分からないけれど、今夜はこの詩にのせて、めいっぱいの「ありがとう」を空へ放り投げるよ。



桜が咲く前の温もり

**

夏が過ぎ、季節が足早に巡る中で、宣告された余命の時間は容赦なく過ぎていった。

延命治療ではなく、緩和ケアという穏やかな道を選んだ病室の窓辺。そこには、いつだって私の手をしっかりと包み込んでくれる、大きくて温かい父の手があった。

​「春までだね」

​医師のその言葉が静かに落とされたとき、私たちはもう、来るべき季節の向こう側をどこかで覚悟していた。

そして迎えた3月9日。父は静かに、すべての痛みから解放されるように旅立った。

​父がこの世を去ってから、まだ1週間ほどしか経っていないというのに、街の公園では、毎年一緒に並んで見上げていた桜の木が、まるで待ちかねていたかのように蕾をほころばせ、ぽつりぽつりと花を咲かせ始めた。

​「春が連れて行った大きな手

大好きだった桜

小さな頃は毎年一緒に見たね

天国には咲いていますか?

今日はとても暖かいね」

​もう、あの大きな手に触れることはできない。一緒に並んで桜の木の下を歩くこともない。

それなのに、肌をなでる今日の空気は驚くほど優しく、まるで父が背中をそっと包み込んでくれているかのように、あたたかい。

​涙がこぼれそうになりながら、私は咲き始めたばかりの桜の木を見上げる。

ねえ、お父さん。そちらの世界にも、あのときと同じ綺麗な桜は咲いていますか?

あなたが遺してくれたこの温もりを胸に、私は今日も、ちゃんと春を生きていくよ。



初めて知った感情のいろは

**

​世界がまだ自分の部屋のなかの狭い輪郭だけで完結していた頃、私の殻をこじ開けるように現れたのは、ひときわ気が強く、太陽のように明るい女の子だった。

​控えめで人見知りだった私にとって、彼女の存在はまるで眩しすぎる光のようで、最初はちょっと圧倒されてばかりだった。けれど、彼女は私に遠慮なんてしてくれなかった。泣きたいときは一緒に泣き、嬉しいときは自分ことのように跳びはね、ときには激しくぶつかり合って、本気の怒りや悔しさすらも教えてくれた。

​「私の初めての友達は

気が強くて明るい女の子

たくさんの感情を

私にくれてありがとう

今はもう会えないけれど

この詩で幸せを祈ります」

​それまでの私は、感情の起伏なんてなるべく波風を立てないように平らに生きることが正解だと思っていた。だけど彼女は、喜ぶことの眩しさも、悲しみに暮れることの痛みも、心の底から何かを愛おしく思う温もりも、その豊かな感情のすべてを私に教えてくれた。人生の「いろは」の最初のページをめくってくれたのは、間違いなく彼女だった。

​時の流れとともに、それぞれの道へと進み、今はもうお互いの日常を確かめ合うこともなくなってしまった。連絡を取ることもない遠い距離のなかで、姿形を思い出すことも減ったかもしれない。

​それでも、私の心の奥底には、あのとき彼女にもらった色鮮やかな感情の欠片が、今でも大切に息づいている。

どこかで元気に生きているだろうか。同じ空の下で、あの頃と同じように笑っているだろうか。

​今はもう会えなくなったあなたへ。

今日という静かな夜に、この詩の魔法を借りて、あなたのこれからの毎日がたくさんの幸せに包まれますようにと、そっと祈りを捧げるよ。



膝には乗らない君と

**

我が家の小さな王様である愛犬は、今日もマイペースの極みを行く。

ソファに座って「おいで」と両手を広げても、膝の上には決して乗ってこない。どれだけ甘やかしたって、その小さな体が私の膝の上で丸くなることは、まずないのだ。

​けれど、部屋の空気が少し冷え込んできたその瞬間から、彼女の塩対応はふっと甘いデレへと切り替わる。

「寒いな」と感じ始めた背中に、ちゃっかりと前足をかけ、ピタッと重なって温もりを分け合いにやってくる。膝の上には乗らないくせに、背中なら特等席だと言わばかりに陣取るその図々しさすら、愛おしくてたまらない。

​「膝のうえにぬくもりはない

寒くなったら背中で暖を取り

勝手気ままに一日を過ごす

散歩は手のなかにおさまる

いつまでもそのままでいてね」

​朝から晩まで、自分の気の向くままに自由気ままに一日を過ごし、いざ外へお散歩に行こうとリードを手にすれば、自分の足で歩く気なんて最初からサラサラない。私の腕のなかに、すっぽりとぬいぐるみのように収まって「はい、抱っこでおねがいします」と澄ました顔をする。いわゆる、贅沢な「抱っこ散歩」の完成だ。

​歩かない。膝にも乗らない。

それなのに、こんなにも愛おしくて、私たちの世界を優しさで満たしてくれる。

​側から見たら、完全に甘やかされすぎた我が子に振り回されているだけの、どうしようもない親ばかかもしれない。

それでもいい。どうかその勝手気ままなままで、いつまでも私のそばで温もりを預けていてね。



劣情という名の切なさ

**

​理性なんてものは、あなたに出逢った瞬間に音を立てて崩れ去った。

正しく生きること、穏やかに日常を重ねること、そんなものに何の意味があるというのだろう。あなたの瞳に捕らえられたときから、私のなかの時間はすべて狂い始めてしまった。

​抑えられない想いが、とめどなく胸の奥で暴れ回り、心をぐちゃぐちゃにかき乱していく。

それでも――

​「抑えられない想いが

理性を壊していくけれど

​出逢ったことに

後悔など有り得ない

​貴方が教えてくれたのは

狂おしいほどの切なさ

​たとえ劣情でも構わない」

​世間がどれほどそれを不条理だと笑おうとも、道を踏み外した歪んだ感情だと蔑もうとも、そんなことはどうだっていい。あなたが私に教えてくれたのは、こんなにも痛くて、こんなにも胸が張り裂けそうなほどの、狂おしい切なさなのだから。

​綺麗事の愛なんていらない。たとえそれが、身を焼き尽くすような生々しい劣情と呼ばれようとも構わない。

あなたを知ってしまったこの深い闇のなかで、私はあなたを求め続ける。後悔など、最初から一塵も有り得ないのだから。



幸せな結末のあとで

**

リビングの片隅に置かれた小さなスピーカーから、聞き慣れたイントロが流れてくる。

大瀧詠一さんの『幸せな結末』。

父が生前、人生でたったの2回だけ、カラオケで照れくさそうにマイクを握って歌ってくれた、特別な歌だ。

​「繰り返される同じフレーズ

​ちょっと照れた父が

誰を想って歌っていたのか

私に知るすべはないけれど

​同じくらい愛されたい 

そう思ったのは私のひみつ」

​少し喉を鳴らすように、でもどこか気恥ずかしそうに目を伏せてあのフレーズを口ずさんだ父の横顔を、今でも鮮明に思い出すことができる。あのとき、父は一体どんな景色を見ていて、誰の面影を心に浮かべながらあの歌声を響かせていたのだろう。もちろん、娘である私にそれを知るすべなんてあるわけがない。

​それでも、その優しいメロディーの波に揺られながら、ふと胸の奥がキュッと締め付けられたのだった。

私もいつか、誰かからこれほどまでに深く、同じくらいの温度で愛されてみたい。そんな切実で、ちょっぴり切ない憧れが胸のなかに芽生えたことを、私は誰にも言えずにずっと大切にしまっている。

​お父さんが残してくれたその歌の記憶は、今でも私にとって、少しだけ切なくて、最高に愛おしい秘密の宝物だ。



星空に届かない願い

**

​テレビから流れてくる『You're the Only...』の突き抜けるようなハイトーンボイスが、リビングの空気を一瞬でドラマチックに変えていく。

「君だけを愛しているのさ」

そんな圧倒的な愛の言葉を真っ直ぐにぶつけ合える関係に、どれほどの人が辿り着けるのだろう。

​「こんなふうにストレートに

感情をぶつけて欲しかった

​条件で結婚をした自分を

この曲を聴くたび恥じている

​夜空に輝く星のように

補い合える二人でいたかった

​今更言っても仕方がないけど」

​若い頃に描いていた理想の恋なんて、生活という名の現実のなかにすっかり埋もれてしまった。お互いの条件や安定を秤にかけ、納得した上で選んだはずの結婚生活。なのに、こうしてふと素敵なラブソングに出会うたび、胸の奥の澱のような感情がざわめき出す。

​私は、愛されたかった。綺麗事ではなく、計算もなく、ただお互いの存在そのものを星のように求め合い、補い合える関係でいたかった。

そんな満たされない思いを抱えている自分を、この歌を聴くたび、どこか滑稽で、少しだけ恥ずかしく思う。

​今更、過去の選択を悔やんでも仕方がない。選んだ道を歩いてきたのは、他でもない自分なのだから。

それでも、夜空の星を見上げるたび、どうしても届かない眩しい光にそっと手を伸ばしてしまう――これが、私の偽りのない結婚生活のリアルだ。


【end】





**





作品を読んでくださった皆様、本当にありがとうございます。


​改めまして、現在の私の創作スタイルについてお伝えさせてください。


私の作品は「AIとの対話を通して物語を紡いだもの」や「過去の自分の作品をAIとの共創によってリライトしたもの」が中心です。


これまで「AIの補助的な利用」と表現してまいりましたが​、どこまでを「自分の創作」とし、どこからが「AIの出力」なのか、その線引きを明確にすることは非常に難しい問題だと感じています。


今後はAIと共に歩むこのプロセスを含めて私の表現であると受け止め、これらを「AI生成作品」として明確に発表していくことにしました。


​AIを活用した創作に対して様々なご意見があることは理解しております。


それでも、AIという新しいパートナーと共に創り出すこの世界観を「面白い」「好きだ」と感じてくださる方がいれば、これほど嬉しいことはありません。


​これからも、私らしい物語を丁寧に形にしていきたいと思っています。引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。


佐倉詩乃


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

メロディーの余白に 佐倉詩乃 @s_utano

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画