2026年10月5日 21:59 編集済
絡繰り法師への応援コメント
これでお終いなのは残念です。仏教の難しい問答の意味は分かりませんが、名前からして頑固そうな厳徹のその後を知りたいです。追伸:答え合わせをありがとうございます。正直なところ半分も理解できませんが、厳徹が自分の行いを冷静に見つめ直すことができたことは理解しました。人生をかけて何かを突き詰めるのはなかなかにしんどそうです。
作者からの返信
コメント、ありがとうございます。言い訳でありますが、当方の作風とか、禅問答を模倣した形式のため、結ぶことはできなかったのです。しかし残念がらせてしまったのも事実で、前提のため、本文中に付け加える事はできませんが、ここで回答させていただきます。” 厳徹は明朝、寺へ帰ってきた。顔は満面の自信に満ちあふれていて、きっと絡繰りでの客寄せは成功したのだろうと、予測はついた。「言ったでしょう、師匠」 厳徹は懐から、書状を出した。その書状には、商人の小太郎、と一筆したためてあり、城下で食い物を卸している者の名だと、恒音にも分かった。そして厳徹がのたまうには、この小太郎という商人が、今度は寺のタニマチにでもなろうと、話を持ち掛けてきたらしい。 恒音はやるも良し、やらぬも良しと、それだけを厳徹に伝えた。厳徹は鼻を鳴らして、ついに小太郎から金銭を貰おうと、勝手に話を進めたのである。 蔵は潤沢になった。それで、新たに社だとか、古びた門扉とかは修理した。しかし恒音は、暮らしぶりを変えず、朝に境内を掃ったし、昼からは、絡繰りを作ることに専念していた。そして作った絡繰りは、厳徹に差し渡すよりも、近隣の子供が来た時に出して、ただ安穏と、何の説諭も無しに、勝手に楽しませるのみであった。 厳徹は、そんな恒音という師匠の事を半ば軽蔑もしたし、半ば不気味にも思った。絡繰りの為に、別に小さな蔵を建ててやったりもしたが、恒音は感動するよりも前に「絡繰りは、絡繰りである」としか、言わなかった。 そのまま、ついに恒音の寂静に至って、厳徹は師匠に、多少は理解してもらえたかとか、なぜ己を軽んじたのかとか、そういう事を聞けようという気分にはなっていた。それでも恒音が、瞑目前に放ったのは「手は手なのだ」という、まったく抽象な言葉のみであった。 この時の厳徹は、もう絡繰り読経の流行も過ぎて、次に何をするべきなのかも分からなかったし、もっと言えば仏教熱心であった分、思ったよりも、己が悟りに近付いていない気もして焦っていたから、何らかの答えは欲しかった。その厳徹にとって、恒音の辞世の語は、けっきょく己を捨てるために吐いたのではないかと、その時は、思った。 後年、厳徹も立派に住職になった。そして恒音と同じように、弟子を取るようになった。客寄せに使っていた絡繰りは、歯車の摩耗もあったし、何より人口に膾炙しすぎて、すでに記憶に古びたものになっていた。 ゆいいつ、修理に多識だったのは栗心だったが、その栗心は、師匠の心を知りたい、と言って剃髪を止めて、遊説しながら、諸国に仏法を教えるようになっていた。だから、絡繰りを直す手立てを立てられなかった厳徹は、師匠恒音の作った絡繰り百基近くを、蔵の奥に仕舞い込むようになっていた。 厳徹が弟子に、説教をするある時、こう言った。「我は絡繰りを使い、人を集めた。人を集め、その中で読経をすれば、きっと仏法を広め、人民を安んじようと、そのことを決心していたし、実際に行ったのだ。 師匠の絡繰りだった。我は蔵を開けて、城下に持っていったのだ。最初は珍重され、新妙なりと誉めそやされたが、一年も経てば人々は口にもしなくなった。隣の国から来た絵草紙が、かわりに流行った。そして我の立場が無くなって、それでも当時に入ってきた者も多くいて、それを我は己の本義として、役割が果たせたのだという、自尊心の代わりとしていたのである。 ただ、絡繰りに知識が無かったし、師匠や栗心に頼もうとも、それを直すのは本分で無いと拒まれて、そして行き所が無くなって、絡繰りは蔵に仕舞わざるを得なくなった。それから後、広める手立ても知らず、修身するしかなく、それでも我がやったことは、どこぞに正義が在ったと、思うしかなかった。しかし考えようと、考えようと、結局は、経典を読んでみるには如かざるものだったし、絡繰りの客寄せで仏門に入ってきた者も、殆どがすぐに飽いて、ツラいツラいと弱音をすぐに吐いて、出て行ってしまった。 今のうぬらは、そういうことを止めて、というよりも師匠の恒音が寂静してから、やっと気がついて、そこから集めた信徒である。 何をしたか。経典を読み込み、読経を何万と繰り返して身に落とし込み、そして己から説法するようになって、本当に付いてくる者が現れるようになったのだ。 今でも思うが、師匠は一方に合っていたが、一方に間違っていた。あんな事をして、仏教徒を増やすことはできなかったのだ。 しかし一方で、我も一方で合っていようとも、他で間違っていた。一方にだけでなく、多方に間違っていた。 師匠の言う木霊とは、結局は己の色相そのものであって、絡繰りもまた、己自身というよりは、己の心が一点においてのみ、そしてごくボンヤリとした形で現れたものに過ぎなかった。だからいっそ、捨てても良い物だった。それでも子供を選んで聞かせていたのは、もし真心が有るとするならば、そちらに使っておくべきだろうと、そういう事だったのだ。 きっと何かに頼らなくても、それこそ絡繰りへ、のめり込まなくても、師匠の恒音はとっくに、おのずと仏の道を歩けるようになっていた。それでも絡繰りに邁進したのは、きっと好奇心とか趣味とかではなくて、もしかしたら戒厳の心が、有ったのかもしれなかった。我はそれを、師匠恒音の寂静以後もしばらく、掴めなかった。 器は器、手は手である。手は己であり、己は己である。 器たる絡繰りは、ついに亡びた。そして己は今、生きながらに己の口舌を使っているのだ。われは一端に、愚鈍であった。 よくよく、我の覚えていた恒音の言を、信用し、信心したまえ」”
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絡繰り法師への応援コメント
これでお終いなのは残念です。仏教の難しい問答の意味は分かりませんが、名前からして頑固そうな厳徹のその後を知りたいです。
追伸:答え合わせをありがとうございます。正直なところ半分も理解できませんが、厳徹が自分の行いを冷静に見つめ直すことができたことは理解しました。人生をかけて何かを突き詰めるのはなかなかにしんどそうです。
作者からの返信
コメント、ありがとうございます。
言い訳でありますが、当方の作風とか、禅問答を模倣した形式のため、結ぶことはできなかったのです。
しかし残念がらせてしまったのも事実で、前提のため、本文中に付け加える事はできませんが、ここで回答させていただきます。
” 厳徹は明朝、寺へ帰ってきた。顔は満面の自信に満ちあふれていて、きっと絡繰りでの客寄せは成功したのだろうと、予測はついた。
「言ったでしょう、師匠」
厳徹は懐から、書状を出した。その書状には、商人の小太郎、と一筆したためてあり、城下で食い物を卸している者の名だと、恒音にも分かった。そして厳徹がのたまうには、この小太郎という商人が、今度は寺のタニマチにでもなろうと、話を持ち掛けてきたらしい。
恒音はやるも良し、やらぬも良しと、それだけを厳徹に伝えた。厳徹は鼻を鳴らして、ついに小太郎から金銭を貰おうと、勝手に話を進めたのである。
蔵は潤沢になった。それで、新たに社だとか、古びた門扉とかは修理した。しかし恒音は、暮らしぶりを変えず、朝に境内を掃ったし、昼からは、絡繰りを作ることに専念していた。そして作った絡繰りは、厳徹に差し渡すよりも、近隣の子供が来た時に出して、ただ安穏と、何の説諭も無しに、勝手に楽しませるのみであった。
厳徹は、そんな恒音という師匠の事を半ば軽蔑もしたし、半ば不気味にも思った。絡繰りの為に、別に小さな蔵を建ててやったりもしたが、恒音は感動するよりも前に
「絡繰りは、絡繰りである」
としか、言わなかった。
そのまま、ついに恒音の寂静に至って、厳徹は師匠に、多少は理解してもらえたかとか、なぜ己を軽んじたのかとか、そういう事を聞けようという気分にはなっていた。それでも恒音が、瞑目前に放ったのは
「手は手なのだ」
という、まったく抽象な言葉のみであった。
この時の厳徹は、もう絡繰り読経の流行も過ぎて、次に何をするべきなのかも分からなかったし、もっと言えば仏教熱心であった分、思ったよりも、己が悟りに近付いていない気もして焦っていたから、何らかの答えは欲しかった。その厳徹にとって、恒音の辞世の語は、けっきょく己を捨てるために吐いたのではないかと、その時は、思った。
後年、厳徹も立派に住職になった。そして恒音と同じように、弟子を取るようになった。客寄せに使っていた絡繰りは、歯車の摩耗もあったし、何より人口に膾炙しすぎて、すでに記憶に古びたものになっていた。
ゆいいつ、修理に多識だったのは栗心だったが、その栗心は、師匠の心を知りたい、と言って剃髪を止めて、遊説しながら、諸国に仏法を教えるようになっていた。だから、絡繰りを直す手立てを立てられなかった厳徹は、師匠恒音の作った絡繰り百基近くを、蔵の奥に仕舞い込むようになっていた。
厳徹が弟子に、説教をするある時、こう言った。
「我は絡繰りを使い、人を集めた。人を集め、その中で読経をすれば、きっと仏法を広め、人民を安んじようと、そのことを決心していたし、実際に行ったのだ。
師匠の絡繰りだった。我は蔵を開けて、城下に持っていったのだ。最初は珍重され、新妙なりと誉めそやされたが、一年も経てば人々は口にもしなくなった。隣の国から来た絵草紙が、かわりに流行った。そして我の立場が無くなって、それでも当時に入ってきた者も多くいて、それを我は己の本義として、役割が果たせたのだという、自尊心の代わりとしていたのである。
ただ、絡繰りに知識が無かったし、師匠や栗心に頼もうとも、それを直すのは本分で無いと拒まれて、そして行き所が無くなって、絡繰りは蔵に仕舞わざるを得なくなった。それから後、広める手立ても知らず、修身するしかなく、それでも我がやったことは、どこぞに正義が在ったと、思うしかなかった。しかし考えようと、考えようと、結局は、経典を読んでみるには如かざるものだったし、絡繰りの客寄せで仏門に入ってきた者も、殆どがすぐに飽いて、ツラいツラいと弱音をすぐに吐いて、出て行ってしまった。
今のうぬらは、そういうことを止めて、というよりも師匠の恒音が寂静してから、やっと気がついて、そこから集めた信徒である。
何をしたか。経典を読み込み、読経を何万と繰り返して身に落とし込み、そして己から説法するようになって、本当に付いてくる者が現れるようになったのだ。
今でも思うが、師匠は一方に合っていたが、一方に間違っていた。あんな事をして、仏教徒を増やすことはできなかったのだ。
しかし一方で、我も一方で合っていようとも、他で間違っていた。一方にだけでなく、多方に間違っていた。
師匠の言う木霊とは、結局は己の色相そのものであって、絡繰りもまた、己自身というよりは、己の心が一点においてのみ、そしてごくボンヤリとした形で現れたものに過ぎなかった。だからいっそ、捨てても良い物だった。それでも子供を選んで聞かせていたのは、もし真心が有るとするならば、そちらに使っておくべきだろうと、そういう事だったのだ。
きっと何かに頼らなくても、それこそ絡繰りへ、のめり込まなくても、師匠の恒音はとっくに、おのずと仏の道を歩けるようになっていた。それでも絡繰りに邁進したのは、きっと好奇心とか趣味とかではなくて、もしかしたら戒厳の心が、有ったのかもしれなかった。我はそれを、師匠恒音の寂静以後もしばらく、掴めなかった。
器は器、手は手である。手は己であり、己は己である。
器たる絡繰りは、ついに亡びた。そして己は今、生きながらに己の口舌を使っているのだ。われは一端に、愚鈍であった。
よくよく、我の覚えていた恒音の言を、信用し、信心したまえ」”