【返ってきた本編】2日目:階段の下
前回までのあらすじ
22年前に貸し出されたまま戻らなかった『湯ノ木温泉史』が返却ポストに現れた。
奥付には鉛筆で「ごめん」。
母の柏木澄江は「悠の字ではない」と言い、いなくなった晩に悠が「肝試しに行く」と言ったことを話して、コピーを1枚持ち帰った。
翌朝、澄江は自宅の階段の下で死んでいた。
―――
その朝、町は薄く雪をかぶっていた。
志村は出勤の途中で、救急車と警察の車が坂を上がっていくのを見たという。
柏木澄江を見つけたのは、朝の見守りに来た町の福祉の担当者だった。
玄関は施錠されていて、呼んでも返事がない。
裏に回ると勝手口が開いていた。
廊下の奥、2階へ上がる階段のいちばん下に、澄江は横向きに倒れていた。
普段着のままで、2階の部屋の明かりは、朝になってもついたままだったという。
志村はそこまで話して、湯呑みを両手で包んだ。
カウンターの奥の給湯室で、あいは何も言わずに聞いていた。
湯呑みの湯気が志村の眼鏡を曇らせた。
志村は眼鏡を外さなかった。
あいは自分の手が冷えていることに気づいて、自分の湯呑みを持った。
「警察は、階段から落ちたんだろうと。夜のうちだそうだ」
「勝手口が、開いていたんですね」
「鍵のかけ忘れだろうと言っていた。年寄りにはよくある、と」
あいは、昨日の澄江の手つきを思い出した。
本を閉じ、両手でそっと押して返した手つき。
コピーを二つに折って、袋の奥へしまった手つき。
ガラス戸の外で、コートの前をかき合わせた手。
かけ忘れ、という言葉が、その手に似合わなかった。
似合わない、と思うのは私の勝手だけれど。
あいは、昨日の自分の言葉も思い出した。
免許は持っていますが、働いたことはありません。
あのとき澄江は、そう、と言った。
それが最後の会話だった。
もう少しましなことを言えなかったのか、と思う。
「私が電話をしなければ」
志村が、湯呑みを見たまま言った。
「本が戻ったと知らせなければ、あの人は昨日、坂を下りてこなかった」
「知らせない方がよかったとは、思いません」
「……そうかね」
「そう思います。知らないままの方がよかったかどうかは、あの人が決めることでした」
志村は、しばらくして頷いた。
頷いただけだった。
翌日の午後、警察が来た。
館長は、警察が来ると聞いて応接室を片づけ、自分は会議があると言って出ていった。
井口と名乗った刑事は50代の、冬なのによく日に焼けた人だった。
休みの日は川にいるのだと、あとで志村が教えてくれた。
コートの肩が濡れていて、玄関で雪を払ってから入ってきた。
手帳を開かずに話した。
「柏木さんが亡くなる前の日、最後に出かけた先がここだと伺いました。甥御さんが、電話で『図書館に行ってくる』と聞いていたそうで」
あいは、本のことを話した。
返却ポスト。
22年前の貸出票。
鉛筆の「ごめん」。
澄江がそれを見て「悠の字ではない」と言ったこと。
いなくなった晩に悠が「肝試しに行く」と言ったと、澄江が話したこと。
コピーを1枚取って持ち帰ったこと。
井口は本を手に取り、奥付の裏を長いこと見ていた。
「このコピーですが」
「はい」
「手提げ袋の中には、ありませんでした。家の中にも、今のところ」
あいは黙った。
井口は本を置いた。
「誤解のないように言っておきますが、今のところ事故です。争った跡はない。物も荒らされていない。あの家の階段は急で、手すりは片側だけです。73歳の方が夜中に踏み外すのは、残念ながら珍しいことじゃない。コピーも、本人がどこかに挟んだのかもしれない」
「本も、お預かりはしません。証拠品ではないので」
「勝手口は」
「かけ忘れ、でしょう。……ただ」
井口は手帳をようやく開いた。
「お隣の方が、前の日の夕方、柏木さんの家から電話の声が聞こえたと。窓が近いので、たまに聞こえるそうです。いつもは静かな人が、珍しく強い声を出していた。相手は分からない」
「何時ごろですか」
「5時過ぎ。暗くなりかけていた、と」
「電話は、固定電話ですか」
「家には固定電話しかありません。携帯は持っていなかったそうです」
あいは、澄江が図書館を出たのが3時前だったことを思い返した。
家に帰って、2時間。
コピーを袋から出して、何度も見て、それから誰かに電話をした。
強い声で。
あの小さな、落ち着きすぎた声の人が。
「柏木さんは、ここで誰かの名前を出しましたか」
「古瀬さんの名前は出ました。昌也くんが駅まで送ったと言ってくれた、と。悪く言う言い方ではありませんでした」
「ほかには」
「いいえ」
「あなたは、事故ではないとお考えですか」
「分かりません。見ていないので」
井口は、ほんの少しだけ口の端を上げた。
それから、志村の方を向いた。
「22年前のこと、覚えておられますか」
志村は覚えていた。
柏木悠がいなくなったのは1月の半ば。
澄江が捜索願を出したのは、10日ほど経ってからだった。
春に東京へ行くと言っていたこと、荷物をまとめていたこと、前の晩に母親と口論したこと。
それだけ揃えば、警察は家出と見る。
「澄江さんは、届けを出すまでの10日間、自分で探していた。駅、バス停、悠くんの友達の家。古瀬屋にも行った。夜だったそうだ。帳場に通されて、先代が、昌也に訊いてやると言った。澄江さんは帳場の上がり框に腰かけたまま、1時間、動かなかったと聞いた。先代が自分で車を出して、家まで送った」
「翌日に、駅まで送ったという話が出てきた」
「ああ。それで澄江さんは、ようやく届けを出す気になった。東京に行ったのなら、生きている。そう思えたんだろう」
「それに、古瀬屋の若旦那が証言した。あの晩、悠くんを車で駅まで送った。東京へ行く、母親には言うなと頼まれた、と。肝試しは、悠くんが行かないと言って取りやめになった、と。若旦那は悠くんの勤め先の息子で、幼なじみだ。疑う理由がない」
「それで家出、で決まりですか」
「その後も、古瀬屋はあの家を気にかけていた。盆暮れには先代が自分で挨拶に行っていたし、先代が亡くなってからは昌也さんが続けている。澄江さんは、恩人だと言っていた。働き先の息子に、そこまでしてもらって、と」
志村の声には、少しも疑いがなかった。
疑う理由がなかったのではなく、疑いたくなかったのだ。
たぶん、この町の全員が。
働き先の息子で、幼なじみで、町議の跡取り。
その人が嘘をつく理由を、誰も考えなかった。
考えなくて済む方が、楽だったから。
楽な方を選ぶ気持ちは分かる。
分かるから、嫌になる。
井口は手帳に何か書き、礼を言って帰っていった。
井口の車が出ていってから、志村はしばらく窓の外を見ていた。
「悠くんって、どんな子だったんですか」
あいが訊くと、志村は少し考えた。
「慎重な子だった。東京で料理をやりたいと言っていた。包丁は自分で研いで、研いだあとは新聞紙で巻いて、鞄のいちばん下に入れていた。古瀬屋の板長がそう言っていた。……そういう子が、黙って出ていくかね」
志村は自分の言葉に驚いたように、口をつぐんだ。
「22年前も、そう思いました?」
「……思わなかった。若旦那が駅まで送ったと言ったから、それで、終わりだった」
志村は、湯呑みを置いた。
「一つ、思い出した」
「はい」
「あの日、悠くんは郷土史を借りるとき、私に訊いたんだ。昔、人が死んだ場所のことは、この本に載っていますか、と。私は、湯治場の章だと答えた。それだけだ。なぜ訊くのかは、訊かなかった」
「湯治場の章」
「ああ。……22年、忘れていた。昨日、あの本を見るまで」
志村はそれ以上言わなかった。
あいも、訊かなかった。
訊けば、志村はたぶん、自分を責める言葉を探し始める。
探し始めたら、見つかってしまう。
閉館まで、あいは何度か奥付のページを開いた。
ごめん、の走り書き。
澄江はこれを見て、誰に、強い声で何を言ったのだろう。
戻ってこられる人は、いいですね。
責める声ではなかった。
けれど、あの人は何かを決めて帰っていったのだと、今になって思う。
決めた人の背中は、少し速く歩く。
ガラス戸の向こうの背中は、速かった。
その日の帰り、あいは坂を上った。
坂は図書館から15分。
途中に、かじか荘という古い民宿があり、その先に家が3軒、いちばん奥が柏木の家だった。
行き止まりの道の奥、柏木の家の門には、誰が置いたのか、花が一束あった。
包装紙のままの、駅前のスーパーで売っている花だった。
2階の窓に、カーテンが半分だけ引かれていた。
門の前に、男が立っていた。
着古したコートの背中。
あいが近づく気配に、男は振り向かずに坂を下りていった。
すれ違いざまに見えた横顔は、40前後。
目の下に深い影があった。
手袋をしていない手が、赤かった。
長いこと、そこに立っていたのだと思った。
「どこかで見た顔だ」
隣の家から出てきた志村が、小声で言った。
志村も花を持ってきていた。
隣の家の人は、原といて60代の女性で、志村とは町内会で顔見知りだという。
玄関先に、原さんも出てきていた。
「あの人、一昨日の晩もいたのよ」
原さんは、男の下りていった方を見て言った。
「8時ごろ。門の前に、ずっと。声も掛けずに。うちの窓から見えたから、気味が悪くて」
「澄江さんの家に、入りましたか」
「入ってないわ。10分くらいで、下りていった。……あの電話の声のあとだったから、余計に」
「電話の声は、何時ごろでしたか」
「5時過ぎ。澄江さんがあんな声を出すの、初めて聞いた。悠くんがいなくなったときだって、あの人は泣き声ひとつ、外に出さなかったのに」
原さんは、エプロンの端を握っていた。
「私、22年、隣にいて。あの人に、悠くんの話を一度もしなかった。してあげればよかった」
志村は、何も言わなかった。
あいも言わなかった。
3人で、門の前の花を見た。
「町の人ですかね」
「いや……。昔の、誰かに似ている」
志村は首をひねり、それ以上は思い出せなかった。
あいが図書館に戻ると、駐車場に井口の車があった。
ライトは消えていて、井口は車にもたれて立っていた。
息が白かった。
「もう一つ、伺い忘れたことが」
「はい」
井口は、あいの顔をしばらく見てから言った。
「真鍋、という男をご存じですか。真鍋聡」
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