二章 クズ夫かく語りき

 「……はあ~。やっと、寝てくれたあ」

 タールのように重く、粘ついた口調でそう言いながら、冴香(さえか)は居間に戻ってきた。

 やつれた顔。

 ぼさぼさの髪。

 落ちくぼんだ目。

 フラフラの足取り。

 まだ、買って間もない新品パジャマでさえ、主(あるじ)の疲れに引きずられて色合いがくすんで見える。まるでもう一〇〇回も洗濯して色褪せた古着のよう。

 その姿、まさに、

 『パジャマを着たゾンビ』

 と銘打たれた絵画そのもの。

 それも無理はない。

 ふたりの幼児を寝かしつけるのはまさに戦争。五ヶ月の娘を床に座らせて遊ばせておいて、まずは三歳の息子を寝かしつける。

 「まだあそぶ!」

 と、寝る気の欠片もない翔人(しょうと)を、

 「お布団に入ったら、お話ししてあげるから!」

 と、なだめて、すかして、どうにか布団に寝かせて絵本の読み聞かせ。それから、子守歌を歌って、ようやくウトウトしはじめる。

 その頃には冴香(さえか)の方が眠くなっているのだが。

 しかし、これで終わりではない。難関がもうひとつ。五ヶ月の長女、つばさの寝かしつけがまっている。

 こちらもまだまだ遊ぶ気満々。抱いて、あやして、子守歌を歌う。どうにか、ウトウトしたところで布団に寝かしつける。

 その途端――。

 背中スイッチが入って、ぱっちりお目覚め。ギャン泣きしまくる。その声を受けて三歳の翔人(しょうと)も起きだし、一緒になって泣き叫ぶ。

 母はすでに発狂寸前。

 それでも脱兎のごとくに部屋を飛びだし、心のなかで一から六まで数字を数えて間をおいて、心を落ちつかせる。

 それから戻って、寝かしつけに再挑戦。

 翔人(しょうと)を寝かしつけ、絵本を読んで、子守歌を歌って……どうにかこうにか寝入ったところでつばさを抱いて……そして、またもや背中スイッチ発動。

 この無限ループを繰り返す。

 何度も繰り返してようやく、ふたりとも寝かしつけることに成功する。

 その頃には冴香(さえか)はもう心身共にボロボロ。

 ――あたしが寝たいわ!

 と、全力で叫びたい。

 しかし、母たるものはまだまだ寝れない。これから、明日の準備がまっている。

 子どもふたりのために着替えの準備やら、保育所への連絡帳の記入やらを行わなくてはならない。もちろん、自分のための支度だってあるわけで……。

 「母親はいつ寝ればいいのよ⁉」

 と、子どもが生まれてこの方、毎日のように繰り返している叫びを、今日も放つ羽目になる。

 それでも、とにかく、支度をすませ、フラフラになりながら居間に戻る。

 疲れた!

 とにかく、ダルい。

 お腹も減った。

 夕食で摂取したカロリーなんて、壮絶な子育てでとっくに消費済み。胃袋がカロリーを求めて泣いている。だけどもう、カップ麺ひとつ作る気力もない。

 いまは、ただただ寝たいだけ。

 そんな冴香(さえか)の視線の先に写るもの。

 それは、いまだに床に寝転がってスマホをいじっているクズ夫の姿。

 ――この姿を見て殺意のわかない女房がいたら出てこい!

 心のなかでそう叫ぶことをいったい、誰が非難できるだろう。

 ――実行しないだけ、褒めてほしいもんだわ。

 真剣にそう思う冴香(さえか)であった。

 冴香(さえか)はスマホに夢中のクズ夫の前に座り込んだ。というより、ぺたんと音を立てて座る形に倒れ込んだ。

 「ねえ。本当に、子どもの相手ぐらいしてよ。あなただって親なんだから」

 「だ~か~ら~。おれは仕事で疲れてるんだって」

 スマホから目もそらさずにそう言う野木男(のぎお)であった。

 「男は大黒柱として働き、家計を支え、女は家事と育児。それが、効率的な分担ってもんだよ」

 「その台詞、あたしが専業主婦になれるぐらい稼いでから言えやあっ! フルタイム勤務のくせして時短勤務のあたしより少ない給料しか稼いでないくせして言えた義理か、ごらあっ!」

 ――って、言えたらなあ。

 魂の奥底からあふれた叫びを飲み込んで、両拳を握りしめ、心で血の涙を流しながら思う冴香(さえか)であった。

 「男に対して稼ぎを持ち出してはいけません。それをしては夫婦仲は修復不可能になります」

 結婚前にカウンセラーにそう言われたので、野木男(のぎお)の稼ぎを問題にすることだけは避けてきた。

 言えたらどんなに気持ちいいだろうとは毎日、思うのだが……。

 ――子どもさえいなければこんなやつ、すぐに捨ててやるのにっ! でも、こんなやつでも翔人(しょうと)とつばさにとってはたったひとりの父親だし。子どもから父親を奪うのは……。

 そう思うと、どうしても離婚を言い出せずにいる。

 「あ、そうだ」

 野木男(のぎお)が『名案!』と言わんばかりの態度で言った。

 「仕事代行ロボット、買おうよ」

 「はい?」

 「家事代行ロボットがいるのに、仕事代行ロボットがいないのはおかしい! そう言われて開発されてから、もうけっこう立ってるじゃん。その辺の会社でも見かける程度には普及したしさ。うちも買ってもよくない?」

 「なに言ってるの。仕事代行ロボットなんてまだまだ高いのに、どうやって買うのよ?」

 「たしかに高いけどその分、きっちり稼ぐから自分で自分のローンを払ってくれるしさ。だいたい、三〇年ほどで元をとってくれるらしいよ。それからあとは純益になるし。おれたち、まだ三〇そこそこだから、いまのうちに買っておけば六〇以降はロボットに働かせて悠々自適の暮らしが送れるってわけさ。それがいい。そうしよう、そうしよう」

 「ちょっとまってよ。それだって、最初の頭金を用意できれば、の話でしょ。うちの家計でどうやって、そんな頭金を用意しろっていうのよ?」

 「そこはほら。冴香(さえか)の独身時代の貯金があるじゃん」

 「あたしの貯金を当てにしてるの⁉」

 「いいじゃん。家族の将来のためなんだからさ」

 「……あんたが、きっちり働いてくれればすむ話なんですけど?」

 「だからあ~。家事代行ロボットがいればいけ好かないパワハラ上司や、役立たずの同僚は全部、そいつに任せて、おれは家にいられるし」

 「あんたが家にいて、なんの役に立つのよ? 家事も育児もやったことないくせに」

 「それは、大黒柱として働かなきゃいけなかったからで、仕事せずにすむなら家事も育児もバンバンやるって」

 どこまでも極楽とんぼな野木男(のぎお)の言葉に、冴香(さえか)はもはや目眩しか感じない。

 ――こいつの言うことなんてとうてい信用できないけど……でも、たしかに、こいつの稼ぎに頼るよりは将来、安心かも。

 ――いっそ、家事代行ロボットを買おうか。

 そう思ったことは何度もある。

 しかし、そのたびに自分の給料と、野木男(のぎお)の安月給ではローンの負担が大きすぎると断念してきた。

 仕事代行ロボットは家事代行ロボット以上に高価だがその分、自分で稼いで、自分でローンを払ってくれる。野木男(のぎお)の言うとおり、長い目で見ればお得なのはまちがいない。

 ――だったら、思いきって買ってもいいけど。

 それにしたって、妻の貯金頼みで自分は一円も出そうとしない態度は腹立たしい。

 「ねえ……」

 「なに?」

 「仕事代行ロボットがきたら本当に、家のこと、やってくれるの?」

 「もちろんだって! おれを信じな。おれがいままで約束を破ったことがあるか?」

 ――破ったことしかないわ!

 その叫びを喉の奥に封じ込め、冴香(さえか)はようやく言った。

 「……わかった。お金、出すわ」

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