3


「こんなショウをやってて疲れるでしょう。だって、今回がもしうまくいっても次があるんだから。水槽の子は死ぬ。遅いか早いかの違いしかない。だったら早く終わらせたいと思ってしまう。あの子――ヴィーと言った? あの子はもう泳ぐ価値が分からない」

 ハンドベルの声でセシルが言った。

 青ざめたヴィーの顔を見つめながら。

 ベールの取れた金髪は水面に映える太陽のように輝いている。

 目立つ色の髪をヴィーはいつもは隠しているが、今はもう何も見えてないようだ。

 リラはモニカに視線を送る。しかし、彼女は片眉を上げただけだ――ショウを続けろ、と告げている。

 舞台の上、リラは神父である。役だけだったとしても。しかし、リラには役しか残っていない。だから、神父として問いかけた。

「セシル・レンは必ず懺悔します。その途中でショウが終わるのは……誰にとっても喜ばしいことではありません。ですから、せめて注ぐ水の量を半分にしてはどうでしょう」

 一等席を眺めるモニカの横顔に言った。

「おや、弱気な神父さま。まだ膝の高さなのに。でも、言いたいことは分かります。つまり……もっと面白くしたい。瞬きするのも惜しいほどに、ってことですね」

 違う、と喉が震えた。

 モニカが手をひらりと差し出し、指先をくるりとする。

 舞台袖で金属が軋む。続けて、笛のような細い悲鳴。

 リラは天井を仰いだ。音は上から降ってくるが、実際に震えているのは――。

 パイプ。

 水槽上部まで伸ばされた金属管が、おかしくなった心臓みたいに揺れている。

 落ちていた水が弾けた。

 スカートのように広がって散り、うな垂れたヴィーの姿を飛沫がのみ込む。

 ほとんど見えない。

「注水量を通常の二倍に上げました……。でも、これだと水槽がよく見えないか。……これでどうでしょう。一・七倍。さあ、神父さま。準備は万端でございます」

 ヴィーが垂れた髪をかき分けて、顔を上げる。どこを見るともなく天を仰いだ。

 小さな唇が何かを祈るように動いた。

 リラにはその言葉を聞き取れなかった――。

 ヴィーと同じにリラの全身が冷えてゆく。

 ひんやりとした喉が、澄んだ声を放った。

 この事件のほつれについて。

「あなたはなぜ七人を殺めたの? 六人や八人でなく」

「秘跡とか御霊の数を考えたわけじゃない。私は三錠ずつモルヒネを投与しただけ。」

 さらりとセシルが返事をした。

「もっと時間をかけたら、増えたでしょうね。でも、私が知っている患者でふさわしいのが七人だったということ」

 セシルはわずかに遠い眼をした。

〝祈らぬナース〟は二週間で七人を殺害した。

 リラは思った。なぜ二週間で七人なのか――。

 言葉の隙間にモニカが割り込む。

 幻灯機の光。

 リラが見えるのは鏡写しの文字。さっきの新聞記事とは違う。きっと子どもの書いたものだ。

〈月末までに死をください〉

 朗読台でモニカが言葉を添える。

「被害者で最も幼い少女が書いたもの。パン屋のフライヤーの裏に鉛筆で書かれた神様への手紙。彼女の名前はエマです……可愛らしい笑顔でしょう。子どもの祈りはまっすぐ。この子を殺めた罪は償うことは決してできない――陪審もそう思ったでしょうね。それで結果は死刑」

 モニカが視線をこちらに送る。

「エマは入院当初、読み書きを全くできなかったそうです。でも、このお手紙は、文字も綴りも間違っていない。ねえ、神父さま、誰かが文字を教えたのかもしれませんね。誰かさんが。ベッドから動けないエマのそばに一日に何度か訪れる誰かさんが。死を待つしかないエマに文字を教えた誰かさん」

 どこかで鼻をすする音がした。

 身体が冷えて感情が薄れている。リラは淡々と尋ねた。

「この手紙を見た覚えは?」

「患者のもの。裁判所でも同じこと言ったわ。これを続けると、小一時間かかる。あなたがいいのなら構わないけども」

 セシルはこちらを見つめたまま、細かな飛沫を頭から浴びて震えるヴィーのことを言った。リラは少し迷った後に、セシルとの視線を逸らさずに言った。

「モニカ、裁判での手紙に関する供述をまとめて」

「もちろんです。神父さま。正確に抜粋します。

 ・エマの眠る枕元に手紙が置かれていて、手紙とは気づかずに開いて読みました。

 ・月末の二週間前、月半ばのことです。

 ・夜勤のたびに、死を待つばかりの七人にモルヒネ錠を三錠投与するのを開始しました。

 ・エマの手紙を読んだ時、犯行を――死の手招きを決意したということになります。

 ・月末の深夜、エマに投与しました。七人のうち最後の患者です。

 この辺りですね。神父さま」

「月末?」

「貧しい家が頼る、あの保険の月末です。埋葬保険ですよ。月初に掛け金を支払って、月末までに亡くなったら保険金が下りる。翌月の掛け金を両親が支払えないことを聡いエマは気づいたのでしょうね。わずかな――エマにとっては大きな現金を残したいと願ったわけです。本件の連続慈愛殺人の計画の始まりはエマの手紙であり、月末のエマの死亡で計画は完遂された、ということです。合ってますかしら……」

 セシルは沈黙で返した。

 リラは思考に沈み、疑問への答えを確かめる。

 そして、声を発した。

「あなたが教えた文字でエマは書いた。縦線を傾けずに強く書くところとか、単語と単語の間に隙間を作っているところ……。きっと、あなたの書き方をエマは真似している」

「だったら何?」

 リラは繰り返す。かつてセシルが立てた誓いを。

「沈黙を守り、真実を曲げず、神の僕として、苦しむ者のそばに立つことを誓います。あなたは、エマの手紙を見た瞬間に、誓いを捨ててしまったの?」

 セシルの薄い唇が弧を描く。

「エマ」

 リラに向かって投げかける、幼い少女の呼び名。

「神さまは、〝死〟を願う祈りには答えません。〝死〟は、自分から選んではならないの。生きている理由を少しずつ見つけるのよ。あなたの苦しみは、ちゃんと神さまに届いています――。そう自分で言った後に、自分が言ったことが正しいのか分からなくなった。だから、犯行を決意したのは、手紙を読んだ時ではなく、手紙を読んだ後の、エマに語りかけた直後のことになるね」

「エマは何と?」

「何も。彼女の病状は重く、何かを考えたり、話をできるような状態じゃなかった。いつ死が訪れてもおかしくない患者。私が殺した七人と同じ」

〝祈らぬナース〟

 セシルと話をするたび、彼女が祈りたいという願いが削がれていったのが分かる。

 それでも、自分たちは彼女のことを〝祈らぬナース〟と呼ばないといけないのか――。

 違う。

 リラはセシルに共感しすぎている。

 今の言葉は彼女の本音に近かった。

 祈りと誓いを捨てた理由は、確かにエマの手紙だったのだ。

 じゃあ、セシルが隠しているのは、他の六人のことだろうか。

 リラは疑問を口にする――。

「エマ以外の六人は……本当にあなたが死を手招きしたの?」

 かちり、と鎖が鳴った。

 セシルはすぐに答えず言葉を選んでいる。

 水槽が彼女の横顔に波紋のような光を浮かべて揺らぐ――本当の病室の白い壁が、舞台の奥に重なって見えるようだ。

 舞台全体がかすかに揺れた気がした。ヴィーの震えで水が波打ったのか、セシルの呼吸の乱れか、それともリラ自身の鼓動がおかしいのか判別できない。

「三錠を投与して、死んだ。それだけ」

 短くハンドベルの声が答える。

 伏せられた睫毛の影が揺れる。

 モニカが朗読台から身を乗り出して、司祭控室の壁を示す。

 空気を切り裂くような軽やかな声で。

「では、ここで事実を見てみましょう。事件の月後半二週間の患者の死亡日を――」

 日付と氏名が並ぶ、冷たい表のカレンダー。

 黒い丸がひとつ、ひとつ。動かしようのない重たい丸だ。

 ――黒が並んでいる。

「セシルが夜勤に入っていた日、そのたびに死者が出ています。でも、事件が始まって終わるまでの二週間。夜勤じゃない日も七日。そしてその日にも、きっちり七人の患者が息を引き取っている」

 リラは水の中を歩いて近づくような気持ちで、ゆっくりと問いかけた。

「あなたが七人を殺害したとして……。なぜ、あなたの関わらない日に、同じ数だけ死があるの?」

 セシルが息を吸い込む。そして穏やかに問いに答えた。

「神父さま、お元気で何よりですけど、入院したことあるかしら」

 穏やかな声だ。

「……だったら知らないのも仕方がない。大事なことだから、覚えておくといい」

 セシルの瞳が水槽の形に光っている。でも、そこに彼女の熱がこもっている。

「神様が人を天に召すのは――早すぎるか、遅すぎるかのどちらかしかないの」

 水槽でヴィーの指がびくりとした。

「だから病院では、死者が多すぎる週もあるし、静かな週もある。

 この二週間は、静かじゃない方だっただけ」

 セシルの言葉は確かで、演技ではない感情がこもっている。

「私が夜勤の時には、投与を受けた者がなくなり、そうじゃない夜には、私とは関わりのない〝早すぎる死〟が訪れただけ。何もおかしくない。病院ではこれはよくあること」

 ――嘘のない声だ。

 彼女はほとんど本音を言っている。

 でも……。彼女が言わぬ――沈黙が軋む気配がした。

 リラは息を整え、次の問いへ進む。

 観客の一人があくびをする。モニカは気づいてないふりをするが、小さく合図してスライドを変えた。

 数字の不自然さだけでは、セシルの沈黙を破れない。

 モニカにしてみれば、おもしろくならない。

 いくつか別の写真が並ぶ。

 事件の説明の時に一度映された証拠物だ。

 透明な硝子瓶に四角いラベルが貼られている。

 中には白い錠剤がわずかに残されている。

 モルヒネ瓶。

 最初を見た時、何も感じなかった。

 瓶の蓋を開けて三錠だけを取り出すセシルを想像しようとしてうまくできなかった。

 だが今は違う。

 喉の奥がひゅう、と細く鳴った。知らずに急激に息を吸い込んだ音だ。

 瓶の側面、ラベルの下。

 小さな白い残滓。

 尖った紙片は小さく、鋭いのにやさしい心地を覚える。

 間隔を空けてその〝尖り〟はもう一つ続いている。

 二つ目の先端に向かう線が保つ水平が、これが遠くにあることを示している気がする。

 ――星形の紙片の痕。

 完全には剥がれない、糊のにじみと紙の繊維。

 誰かが貼って、誰かが剥がした痕。

 それが、幻灯の光に照らされて淡く浮かび上がっている。

 リラは指先が震えるのを感じた。

「モニカ。この瓶は押収されたそのままの姿なの?」

 モニカが視線だけで笑い、軽く指先を鳴らした。

「ええ。当然です。記事にもありましたね。

〈犯行に使われたモルヒネ瓶〉――〈残ったモルヒネ錠はわずか〉

 ……じゃあ拡大しますよ。真ん中でいい?」

 光が広がり、瓶が舞台の背景いっぱいに巨大化する。

 星の痕は、ごまかしようがないほど、そこにある。

 リラが持っているわずかなスクラップにも同じ――ほとんど同じものがある。

 観客にいる子どもは指を差して、隣の親に微笑みかける。

 セシルの肩がわずかに揺れた。

 水滴が弾けるような細い震えだった。

 リラは、一歩踏み込んだ。

「どうして、モルヒネ瓶に星のスクラップの痕があるの?」

 観客がざわつく。

 セシルは答えない。

 ただ、静かに目を伏せた。

 その沈黙が、数字の矛盾の時とは違う重みだ。

「モルヒネ瓶はしばらくの間、エマが持っていた……。でも、なぜ――」

 観客のざわめきが波のように押し寄せたが、飛沫を散らす水槽の光は、人の心を厳かにさせる。やがて静寂が訪れた。

 リラは思考を言葉にしながら、その先へ、その先へと向かう。

「あなたが簿外のモルヒネ瓶から二週間の犯行期間に使い続けたのなら、エマのスクラップが貼られることはない。あなたは――」

 枷で束縛されながらも、両手を握り込んだセシルの祈るように強く力をこめられている。

 しかし、彼女に祈る神はいない。

 リラは冷ややかな声で続ける。

「事件の二週間前、エマの手紙を読んだ後、あなたは何かをエマにしてあげた。彼女に読み書きを教えるのとは別に……」

 別に? 二週間に少なくとも七人が重い病で亡くなってゆく場所で、ゆっくりと教えたり、他に何かできる時間があっただろうか。――ない。

「あなたは、病院内でエマと文通をしながら、読み書きを教えていた」

 静寂はまだ続いている。

 リラの冷たい声だけが響き、観客は、朝の路上で凍えるような顔をしている。

 セシルがエマに読み書きを教えたのは間違いない。

 でも、モルヒネ瓶がなぜエマの手元にあったのか。胸がざわつく。

 迷っている余裕はない。リラが波紋の揺れる光を頬に浴びながら思考を進めようとした時にセシルの声が落ちる。

「……たしかに小さな星のスクラップを貼り付けて、剥がしきれなかったように見えるね。星じゃなくて全く別のもので、剥がし加減でこんな形に千切れただけかもしれない。……とにかく、全部あなたの勘違いの思い込み。私が七人殺しをしていない、祈りに満ちたナースだと思いたいんだね。ありがとう、優しい神父さま。だけど、あなたが思っているよりずっと極悪人なんです。申し訳ないのですが」

 セシルは瞼を伏せて、一瞬だけ思考した。

「正確にはこうです。簿外のモルヒネ瓶を二週間の間隠し続けなければならない。ロッカーには点検が入ります。薬品棚は論外でしょう。ナースバッグの中に入れるには日々の業務に差し使えます――私は七人以外を殺めるつもりはありませんでしたので。つまり、どこも危険。……だから、私は、エマのベッドの鞄の中に隠した」

 人殺し。

 観客から野次が飛んだ。

 セシルは喜ぶように続ける。

「夜勤の度に、鞄の中のモルヒネ瓶から三錠だけを取り出してエプロンのポケットへ。瓶はすぐにしまう。簡単で安全な方法です」

 セシルが唇を結び、胸を上下させてから言う。

「エマは眠っていると思ったけど、見られていた。子どもらしいイタズラですね。スクラップを貼って、怒られると気づいて剥がしたのでしょう。剥がされた痕は気づきませんでしたね」

 人殺し。

 再び野次が飛んで、観客席はざわめく。

 モニカは薄ら笑みを浮かべている。

 水中で両手を伸ばし、ヴィーは浮いている。そうするつもりはなくて、波が一つ寄れば、彼女は体勢を持ち直すことはできない気がした。

 耳鳴りの中でリラは思考を進める。

「手紙を読んで、投与するまでの二週間。エマはどんな様子でしたか」

「……痛みに耐えていた。それだけ。……神父さま、もうそろそろ終わりません?」

「では、先に進めます」

 一拍置いて告げる。

「瓶に星のスクラップを貼った。彼女の大事にしていたものです。私も持っているので分かります。瓶が星のスクラップを貼るに値するものだと知っていたから。

 エマは瓶のラベル――モルヒネが何なのか知らなかった。けれど、彼女はもう読み書きできた。モルピンと読んだかもしれないし、モルフォ蝶と同じ名前だと思ったかもしれない。エマは三錠で死に至ることを理解していた。

 だから。

 月末の深夜。あなたがエマのところに行く直前に、自分で三錠を取り出し、のんでしまって――」

「絶対に違う! 空想を語るのは止めなさい。エマはそんなことしないし、彼女の最後の姿は私が見た。あなたが勝手に想像していいことは何もない。神父さまはもう口を閉じるべきだわ」

 鎖を鳴らしながら、セシルは叫んだ。

 しかし、いたずらで星のスクラップを貼ることはない。

 瓶が、セシルの――いえ、エマ自身の大事なものだったから、彼女は丁寧に糊を付けて小さな指で擦った。

 リラは問いかける。

「セシル・レン。あなた自身が、瓶をエマに渡したのでは?」

 彼女は大きく息を吐いた。そのまま、うんざりした声で言う。

「空想を押しつけるショウはもう終わり。スクラップの痕は、単なる痕。何も変わらない。七人に投与した時のことを話しましょう。長い苦しみの最後、安らかな最後の祈りの様子を。それでいいでしょう」

 また息を吐き、続けた。

「まあいいよ。しつこい神父さまに教えてあげる。どうしても星のスクラップが気になるのね。どうでもいいことだけど……そう。瓶は上げた――空瓶をね。手紙を見た翌朝。彼女への投与は最後になるから待ち時間が長くなるでしょう。だから、ちゃんと死は訪れるって安心させるためにモルヒネの空瓶を上げたの。だから、小さな星のスクラップが貼ってあった。それだけ。終わり」

 セシルが瓶を渡した。それから二週間、瓶はずっとエマが持っていた。

「あなたはどうやって渡したの。何て言って? それとも何も言わずにそっと枕元に置いただけ?」

「しつこいよ。錠剤だけ取って、小さなポーチに入れて携帯していた。瓶がなくても全然困らなかったのだけど、最後の夜に瓶を回収したから、瓶に入っていたってことにしただけ。嘘じゃなくて、分かりやすい説明をしただけ」

 エマは空瓶に星を貼った?

 リラは首を振る。違う。空瓶に貼る理由がない。

「……セシル。あなたが渡したその瓶。中には、本当に何も入っていなかったのですか?」

 セシルの睫毛が、わずかに震えた。

「空っぽに決まっているでしょう」

 即座の否定。早すぎる。

 リラの胸の奥に、ひやりとした感覚が走る。

 嘘ではない。けれど――本当でもない。

「エマは、あなたの言葉を信じた。彼女は瓶の中身を確認したはずです。子どもですから、蓋を開けて、指を入れて、音で確かめる」

 セシルの肩が小さく揺れた。

 リラは続ける。

「空瓶なら、音で分かります。……シャラ、とも、コト、とも鳴らない。でも、星を貼ったということは、エマは宝物だと思ったということ。空のままで宝物にしますか?」

 セシルの喉元が、硬く上下した。

 リラは静かに告げる。

「あなたは空瓶ではなく、〝何か〟を入れて渡した。

 薬物じゃなくて、彼女が安心できる、安全なものを」

 セシルの枷が、かちりと鳴った。

「……違う」

 声が震える。

「違う……違う……違う!」

 否定は祈りのようだった。

 リラは一歩近づき、そっと言う。

「セシル。エマは、その〝何か〟をのんだのですか」

 ちゃぷん。

 水槽が揺れた――違う。

 ヴィーの細い腕がガラスを掴もうとして滑り、波が壁を濡らしたのだ。

 倒れ込んだ身体は、わずかな音しか立てない。

 胸まで迫った水位でパニックになったのか、緊張で気を失ったのか分からない。

 開いたままの眼に光は届かない。ヴィーがゆっくりと沈んでいく。

 セシルの喉が、音にならない声を漏らした。

 呼吸が乱れ、枷を胸に引く手が震えている。

「……違う……違う」

 否定が祈りのように漏れる。

 だがヴィーは沈む。

 リラは動かずにじっと眺めているだけ。神父の仮面もサープリスも脱ぎ捨てて、今すぐ水槽に飛び込むべきだ。そう分かっている。でもセシルを待っている――何を?

 解けた金の髪が水面に流れ、沈みゆくヴィーの顔を隠した。

 ヴィーはいつから息をしていない? 今から飛び込んで間に合うのかな。

 セシルの肩が跳ねた。

 キーンと鎖の高い音を鳴らせながら、彼女の叫びが舞台を貫いた。

「――泳ぎなさい!」

 彼女は枷を顔まで引く。鎖が張り、留められた排水口が激しく軋んだ。

 まだ動作を繰り返す。耳障りな金属音とともに水槽に確かな振動を伝えている。

 客席がざわりとして、立ち上がる者もいた。

 驚きとも歓喜ともつかない声。囚人が生贄のために鎖を鳴らしている。

 モニカは一瞬だけ目を細め、すぐに笑みに変える。

「おお……、魂まで震えるような音。いえ、魂が震える音です。これが死刑囚セシルの言葉のない懺悔。死の定めを早めた彼女は、眼の前の少女の死を先に伸ばそうとする。これが懺悔でなくて何でしょう。皆さま。彼女の枷と鎖が鳴らす音は心の震えでございます。 水槽の底で沈み切った少女に光を!」

 リムライトが最大の光量を浴びせる。

 水槽の四面の壁に反射して光の十字架が浮かび上がった。

「もっともっと! 光では足りない。彼女の美しい瞳に届かぬようです。他にに何があるかしら」

 顎に指を添えて思案するモニカ。

 セシルの引く鎖に別の音が加わる。

 ぱちぱち

 小さな音だ。

 隣へ。その隣へ。別の場所からも。

 ぱちぱちぱち。

 拍手が押し寄せた。

「ヴィー・グレイに皆さまの拍手を! もっともっと! 光の届かぬ彼女を拍手の音を届けて!」

 手と手を合わせる打音が響く。

 どこかで指笛も鳴った。

 ――モニカは水を止める気はない。

 鎖は鳴り続けている。

 観客も分かっている。モニカの仕立てではない――。

 セシルの叫びは、嘘じゃなく本物だ。

〈祈らぬナース〉が祈る姿に、興奮と呼ぶしかない熱気に包まれている。

 リラは水槽にそっと手を当てて呼びかける。

 ショウは偽物かもしれない。

 でも拍手はあなたを呼んでいる。

 起きて! 起きて!

 水中の指がゆっくりと握られる。

 再び鎖が排水溝を鳴らし、ヴィーはびくりと跳ねた。

 ゆっくりと水をかき、身体が浮き上がる。

 ヴィーが水を吐き出してから、空気と水を、半分半分で吸い上げた。

 ガラス越しに視線が合う。彼女は何かを言ったが聞き取れない。

 背後でセシルがため息を吐く。

 リラの眼は潤んで視界がぼやけている。

 ヴィーだけが気づいて、小さく頷いて見せてくれた。

 ありがとう。

 これから、セシルを赦します。

 そのためにしなければならないことを思うと、胸がぎゅうと縮み、潰れる音を立てた。

 ガラスに仮面を付けた神父が写っている。

 隠した真相を探り出して、無理矢理に晒し出す。

 なぜ? ショウが終わらないから。……違う。

 のままでは懺悔にならないから。

 ガラスの壁面で神父は震えている。

 でも、もうはじめないといけない。

 リラは振り返り、セシルと向き合う。

 彼女は小さくため息を吐いた――。

 その息は、叫びの後。沈黙は破られ、解れかけている。 進まないといけない。いけない? そうしようと思う。

 リラが息を吸うのをセシルはじっと見ていた。

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