第14話   県庁の廊下

東京を発つ朝、美月は前回より一つ大きなキャリーケースを持っていた。

 三か月前には、滞在日数に合わせて服を選び、仕事に必要なものだけを詰めた。今回は季節が一つでは終わらない。薄手のジャケットの下に、冬物のニットと厚手の靴下を押し込み、空いた隙間へ常備薬や化粧品を詰めた。

 それでも、すべてを持っていくことはできなかった。

 東京の部屋には、コートも食器も本も残っている。

 ここを引き払うわけではない。会社との雇用関係も、住所も変わらない。奈良へ行くのは、あくまで長期出張だった。

 だが、帰りの日付を決めずに部屋を出ると、玄関の鍵を閉める音が前回とは違って聞こえた。

 美月は一度だけ扉を振り返った。

 廊下には誰もいなかった。

 キャリーケースの上には、父が残した「みんなのいえ」を入れた段ボール箱を載せている。颯太からもらった杉の箱は、仕事用のバッグの中に入れた。

 東京駅へ着くと、出勤する人々が同じ方向へ流れていた。

 美月もその一人だったはずなのに、大きな荷物を引いて歩く自分だけが、流れから少しずれているように感じた。

 新幹線は午前七時三十分に東京を出た。

 窓の外を高層ビルが流れていく。

 三か月前、美月はこの景色を見ながら、清澄村の人口推移や空き家数を確認していた。今、膝の上に広げているのは、学校の平面図と改修費の概算表だった。

 旧清澄小学校の全面改修費は、現時点で一億八千万円から二億四千万円。

 体育館の耐震補強、防災設備、給排水設備まで含めれば、さらに増える可能性がある。

 川音の湯は、配管、脱衣所、床、手すり、換気設備の改修だけでも三千万円を超える見込みだった。

 村だけで負担できる金額ではない。

 会社も、すべてを出資するとは言っていない。

 国と県の制度を使う必要がある。

 だが、補助金は、足りない金を埋めるために自由に使えるものではなかった。

 学校を宿泊施設にする費用。

 住民が利用する集会室や図書室の費用。

 体育館を避難所として整備する費用。

 木工やわら細工を教える設備。

 高速通信回線。

 温泉の安全改修。

 それぞれ目的が違い、所管する部署も違う。

 美月は資料の余白へ、赤いペンで線を引いた。

『誰のための、何の費用か』

 その区分を曖昧にすれば、どの制度にも当てはまらなくなる。

 細かく分けすぎれば、一つの学校を直す計画なのに、ばらばらの事業に見える。

 新幹線が速度を上げる。

 東京の建物が減り、窓の向こうに畑が現れ始めた。

 美月はノートパソコンを閉じなかった。

     *

 午前十時四十分、美月は奈良県庁の正面玄関に立っていた。

 清澄村へ戻る前に、県との最初の協議を行うことになっていた。

 キャリーケースは駅の荷物預かり所へ置いてきた。紺色のスーツに着替え、黒いパンプスを履いている。

 三か月前、清澄村役場の裏口で泥に沈んだ靴は持ってこなかった。

 県庁の玄関は広く、磨かれた床に天井の照明が映っている。受付の横には、県内の観光地を紹介する大きな写真が並んでいた。

 桜、寺院、鹿、紅葉。

 清澄村の写真はなかった。

 美月は受付で名前と訪問先を告げ、入館証を受け取った。

 エレベーターで四階へ上がる。

 扉が開くと、長い廊下が左右へ延びていた。白い壁、灰色の床、等間隔に並ぶ蛍光灯。扉の横に、課の名前が記された札が掛かっている。

 地域振興課。

 市町村財政課。

 観光政策課。

 森林資源活用室。

 一つの階にすべてがあるわけではなかった。別の階にも、関係しそうな部署がある。

 廊下の先で、森下が手を振った。

「田中さん」

 紺色の作業着ではなく、黒いジャケットを着ている。隣には藤井と山根村長が立っていた。

「お待たせしました」

「こっちが早う着きすぎたんです」

 藤井が腕時計を見た。

「村長が、遅れたらあかん言うて、二時間も余裕見て出たもんやから」

「道で何があるか分からんからの」

 山根はそう答えたが、いつもより口数が少なかった。

 県との協議は、村にとっても軽い話ではない。

「会社の正式決定書はお持ちですか」

 森下が小声で尋ねた。

「はい。ただ、本格出資を決定した書類ではありません。事業化に向けた調査と協議を正式に進めるという決定です」

「承知しています」

「説明の時にも、そこは分けて伝えます」

 森下はうなずいた。

 山根が廊下の奥を見た。

「県は、どれくらい出してくれるもんでしょうな」

 美月は一度、言葉をのみ込んだ。

「今日は、金額を約束してもらう場ではありません。使える制度と、計画を進めるために必要な条件を確認する場です」

「何も決まらんということか」

「決めるために必要なものを確認します」

 山根は不満そうに眉を寄せた。

「東京の会社も、県も、確認ばっかりやな」

「村も、まだ何も決めていません」

 藤井が静かに言った。

 山根は藤井を見たが、反論しなかった。

 会議室の扉が開いた。

「清澄村の皆さん、お待たせしました」

 四十代半ばほどの女性が、廊下へ顔を出した。

 県地域振興課の高瀬理恵だった。

     *

 会議室には、長机がロの字に並べられていた。

 県側は、高瀬のほかに地域政策企画官の岸、市町村支援担当の若い職員が二人出席していた。

 机の中央には、清澄村が事前に提出した資料が置かれている。

 高瀬は名刺交換を終えると、美月へ視線を向けた。

「創生都市開発さんが、正式に事業として進めることを決定されたと伺いました」

「はい」

 美月は決定書の写しを配った。

「当社は本日までの現地調査を踏まえ、『奈良県清澄村地域活性化共同プロジェクト』を地域共創事業として正式に進めることを決定しました。ただし、施設改修への本格出資については、構造調査、住民合意、行政との費用分担を確認したうえで、段階的に判断します」

 岸が書類へ目を落とした。

「出資額は未定ですね」

「はい」

「学校の改修費が最大で二億四千万円。温泉が五千万円。合計すると、三億円近い規模になります」

「現時点の概算です。精密調査によって増減します」

「村の負担可能額は?」

 高瀬が山根へ尋ねた。

 山根は藤井を見た。

 藤井が資料を開く。

「単年度で負担できる金額ではありません。地方債と国、県の支援を前提にしても、議会の承認が必要です。ほかの公共事業との調整もあります」

「具体的な上限は出ていますか」

「まだです」

「住民合意は?」

「学校の活用に関する協議は始めています。ただし、宿泊施設の規模については意見が分かれています」

 高瀬は一つずつ確認した内容を、手元の紙へ書き込んだ。

「では、現時点で決まっているのは、民間事業者が正式に事業化検討へ進むことと、村が協議を継続すること。施設改修、財源、運営主体については未定。そういう理解でよろしいですか」

「はい」

 美月が答えた。

「その状態では、県として補助を約束することはできません」

 山根が椅子へ座り直した。

「約束せえとは言いませんけど、県が支援してくれんのやったら、村だけでは無理です」

「ですから、何を県へ求めているのかを整理する必要があります」

 高瀬の声は穏やかだったが、曖昧さはなかった。

「古い学校を残したいから改修費を出してほしい、では制度に乗りません。宿泊施設を作るためだけなら、原則として民間事業です。避難所を整備するのか、地域交流拠点を作るのか、移住雇用を生むのか。公共性を明確にしてください」

 美月は学校の平面図をスクリーンへ映した。

「校舎全体を宿泊施設にする計画ではありません」

 一階の図面を指す。

「旧職員室は管理事務所。図書室は住民と宿泊者が利用できる読書室。二つの普通教室を地域交流室と体験室へ改修します。宿泊室は二階の三教室から開始し、一室当たり一組、全三室です」

「全面改修が必要なのに、宿泊室は三室だけですか」

 岸が尋ねた。

「はい」

「採算が合わないのでは?」

「宿泊部門だけでは、初年度の黒字化は難しいと予測しています。体験、企業研修、物販を含めて収支を整えます」

「それでも、県の補助を使って民間事業の赤字を補うことはできません」

「そのつもりはありません」

 美月は次のページを表示した。

「公共利用部分と収益部分の費用を分けます。宿泊室の内装、家具、予約設備、宿泊者専用の備品は、民間事業側の負担とします。住民交流、防災、地域文化の継承に関わる部分について、適用可能な制度を相談したいと考えています」

「屋根や耐震補強は、どちらですか」

 若い職員が尋ねた。

「建物全体に関わるため、単純には分けられません」

「そこが問題になります」

 高瀬が言った。

「同じ工事費に、複数の補助金を重ねることはできません。公共施設として改修した建物を、民間事業者が収益目的で使う場合、使用料や契約期間も問われます。補助金で整備した部分を、あとから宿泊室へ変更することにも制限が出ます」

 美月はうなずいた。

「費用按分の基準を作ります」

「床面積だけでは認められない場合があります。利用時間、専用利用か共用か、施設全体に対する受益の割合も必要です」

「専門家の協力を得て整理します」

「それから、三室で始めて将来六室へ増やす計画なら、増室する可能性も最初に出してください。補助を受けた交流室を、二年後に客室へ変えることは簡単ではありません」

 美月の指が止まった。

 三室から六室へ増やせるように、配管や避難経路だけを先に整えるつもりだった。

 だが、将来の用途変更まで見込むなら、どの教室を公共利用として申請するかが重要になる。

「三室、六室、十室の比較案を用意しています」

「十室もあるんですか」

 高瀬が初めて表情を変えた。

「会社の収益性だけを見れば、十室案が最も優位です。しかし、運営人材と住民生活への影響を考え、当社の現時点の推奨は三室からの段階的な開始です」

「村は、どの案を希望していますか」

 美月は山根たちを見た。

 誰も答えなかった。

「決定には至っていません」

 森下が言った。

 高瀬はペンを置いた。

「では、県への相談より先に、村の方針を決めるべきではありませんか」

「方針を決めるためにも、どの案なら制度を活用できるか確認する必要があります」

 美月が答える。

「補助対象によって改修可能な範囲が変わり、村の負担も変わります。住民に選択肢を示すには、実現条件が必要です」

「制度に合わせて村の計画を変えるのですか」

「制度だけに合わせるつもりはありません。ただ、使えない金を使える前提で話し合うこともできません」

 高瀬は美月を見た。

「田中さんは、何を実現したいのですか」

 問いは短かった。

 美月は準備していた資料へ目を落とした。

 学校。

 温泉。

 宿泊。

 体育館。

 林業。

 体験教室。

 項目はいくつもある。

 だが、それらをすべて読み上げても答えにはならない。

「村の人が、自分たちの暮らしを削らずに、外から来る人を受け入れられる仕組みです」

「施設の話ではないんですね」

「施設は、そのために必要です」

「それなら、施設ごとに補助金を探す前に、村として何を維持するのかを決めてください」

 高瀬は校舎の図面を見た。

「この学校を全部残すことが、本当に村の暮らしを守ることなのか。体育館を避難所にすることが、ほかの防災施設より合理的なのか。温泉を改修したあと、誰が清掃し、誰が修理費を負担するのか。県は建物を直す支援はできても、毎日の運営まではできません」

「その点は理解しています」

「補助金が取れたから施設を作り、五年後に使われなくなる例は珍しくありません」

 山根が口を挟んだ。

「清澄は、そんな無駄なことはせん」

「どの自治体も、作る時にはそう言います」

 高瀬は山根から目をそらさなかった。

「だから、運営する人と金を先に決めていただきたいんです」

 会議室に沈黙が落ちた。

 美月は、高瀬が計画を否定しているのではないと気づいた。

 県も、失敗した事業を見てきたのだ。

 補助金を使って建物を直し、完成式典を開き、数年後には鍵が掛かる。

 その後に残る維持費を、住民と自治体が負担する。

 清澄村が過去のリゾート計画を警戒するように、県にも過去の失敗がある。

「運営主体は、延長期間の前半で決定します」

 美月は前を向いたまま言った。

「会社が直接運営する案、村と会社が共同出資する法人、地域事業者を中心にした運営組織の三案を比較します。補助制度を使う前に、責任者と費用負担を明確にします」

「期限は?」

「四か月以内です」

「十二月末までですね」

「はい」

 高瀬はもう一度ペンを取った。

「分かりました。県庁内の関係部署へ話をつなぎます。ただし、どこか一つの部署が全体を引き受ける事業ではありません。今日中にすべての答えが出るとも思わないでください」

「承知しています」

「午後から、観光政策課、県土防災課、森林資源活用室との個別相談を入れています。教育関係は、廃校後の施設なので直接の補助対象にならない可能性がありますが、資料保存と地域学習の部分は確認します」

 高瀬は席を立った。

「まずは、廊下を歩きましょうか」

     *

 最初に向かったのは、同じ階の観光政策課だった。

 会議室を出て、長い廊下を進む。

 藤井が美月の隣へ並んだ。

「県庁いうのは、同じ話を何回せなあかんのやろな」

「相手の担当が変わるので、説明する部分も変えます」

「学校は一つやのに」

「制度の中では、一つではありません」

「それが分からんのよ」

 藤井は小さく息を吐いた。

 観光政策課では、宿泊室の数と料金を細かく尋ねられた。

「三室では、県外へ向けた観光誘客事業として規模が小さいですね」

 担当者は資料を見ながら言った。

「年間の宿泊者数は?」

「初年度は五百人から七百人を想定しています」

「県の観光施策として支援するには、波及効果が弱いかもしれません」

「宿泊人数だけではなく、温泉、商店、林業体験への支出を含めて地域内消費を計測します」

「近隣地域への周遊は?」

「現在の公共交通では難しいです」

「レンタカー利用者を対象にすれば、広域観光と組み合わせられます」

「車を運転できない家族や高齢者も受け入れたいと考えています」

「送迎は?」

「予約制で検討中です」

「誰が運転しますか」

「未定です」

 未定という言葉が、何度も資料の余白に書き込まれた。

 温泉については、来訪者向けに営業時間を延ばし、貸切利用を設ける案を勧められた。

 美月は、地元の高齢者の利用時間を優先する方針を説明した。

「観光客の使える時間が限られると、宿泊商品の魅力が下がります」

「地元の方が使えなくなれば、改修する意味がありません」

「両立できる時間割を作る必要がありますね」

 担当者は否定しなかったが、補助の可能性については明言しなかった。

 次に、一階上の県土防災課へ移動した。

 階段を使うと、山根が途中で足を止めた。

「エレベーターにしたらよかったな」

 森下が山根の鞄を持とうとした。

「大丈夫や」

 山根は手すりを握り、ゆっくり階段を上がった。

 美月はその姿を見ながら、学校と体育館の間にある段差を思い出した。

 体育館を高齢者も利用するなら、入口の階段だけでなく、校舎からの動線も直す必要がある。

 県土防災課では、体育館を指定避難所として整備する条件を示された。

 耐震基準。

 非常用電源。

 飲料水。

 トイレ。

 高齢者や障害者が利用できる入口。

 毛布や食料を置く備蓄庫。

 停電時の照明。

「地滑りの際に避難所として使われた実績はあります」

 森下が説明した。

「現在も指定避難所ですか」

「名目上は。ただ、老朽化のため、大雨時には別の集会所を使うことがあります」

「では、今のままでは避難所機能を果たしていないということですね」

「そうなります」

「整備の必要性はあります。ただし、宿泊施設の付帯設備として体育館を直すのか、防災拠点として直すのかで扱いが変わります」

「両方にはできませんか」

 山根が尋ねた。

「平常時にスポーツや体験へ使うことは可能です。しかし、補助の主目的は防災です。宿泊客向けの有料施設として専用利用する時間が多いと、対象外になる可能性があります」

 美月は、体育館の利用予定を書き直した。

 予約制の軽スポーツ。

 村民によるわら細工と木工教室。

 災害時の避難所。

 三つの使い方を、時間と区画で分ける必要がある。

「わら細工教室は、無料ですか」

 担当者が尋ねた。

「参加者から料金を取り、講師へ報酬を払います」

「では収益事業ですね」

「利益の大部分は、講師報酬と材料費に充てます」

「利益額の問題ではなく、対価を得る活動かどうかです」

 また一つ、線を引かなければならない。

 どこまでが公共利用で、どこからが事業なのか。

 わらを編む手は同じでも、参加者から金を受け取った瞬間、制度上の意味が変わる。

     *

 昼食は、県庁の食堂で取った。

 山根は親子丼、藤井はうどん、森下は日替わり定食を選んだ。

 美月は食欲がなかったが、午後も協議が続く。小さなカレーを注文した。

 四人で窓際の席へ座る。

 山根は親子丼の蓋を開けながら言った。

「県へ来たら、もっと話が早いと思っとった」

「これでも、今日は関係部署を一日で回れるようにしてくれています」

 森下が答えた。

「普段なら、予約を取り直して何度も来ることになります」

「何を聞いても、対象になるかもしれん、ならんかもしれん、ばっかりや」

「計画が決まっていないので、県も判断できないんです」

 美月が言うと、山根は箸を止めた。

「計画を決めるには、金がどれくらい出るか分からんと困る」

「県も、計画が分からなければ金額を決められません」

「鶏と卵やな」

 藤井がうどんの湯気越しに言った。

「両方を少しずつ決めるしかないんでしょう」

 森下が食堂の入口を見た。

 県職員らしい人々が、入れ替わり立ち替わり出入りしている。

「でも、私、少し安心しました」

「何がや」

 藤井が尋ねる。

「高瀬さんたちが、作ることだけを考えてないからです」

「出したくないだけやないか」

 山根が言った。

「それもあると思います」

 森下は否定しなかった。

「でも、誰が掃除するのかまで聞かれるとは思いませんでした。私たちも、そこをまだ決めていません」

 山路館で澄江が一人分の夕食に費やした時間。

 体験家族を迎えるために、住民が行った無償の準備。

 数字へ入れなければ消えてしまう仕事。

 美月はカレーのスプーンを置いた。

「補助金を取ることを目的にしない方がいいと思います」

 山根が美月を見る。

「金がなかったら何もできんやろ」

「必要です。ただ、使える補助金を集めて、補助金に合わせて施設を作ると、最後に運営できない機能が残ります」

「ほな、どうする」

「最初に、村が自分たちで維持できる範囲を決めます。その上で、公共性のある部分を県と国へ説明します」

「会社は、どれくらい出すんや」

 山根の問いに、美月は答えを濁さなかった。

「まだ決まっていません」

「村に決めろ言うて、会社は決めてへんのか」

「会社も、村と県の負担が分からなければ決められません」

「それも鶏と卵か」

「はい」

 美月は認めた。

「ただし、会社は正式事業として進めることを決めました。調査だけして帰る段階ではありません」

 山根は親子丼へ視線を戻した。

「前の会社も、途中までは本気やった」

「知っています」

「金の話になって、村の言うことを聞かんようになった」

「同じことにならないとは、今の時点では言い切れません」

 森下が顔を上げた。

 山根も、美月を見た。

「言い切らんのか」

「会社と村の意見が分かれることはあります。会社が出せない金額もあります。村が受け入れられない条件もあります」

「それで、計画が止まったら?」

「止めるべき条件なら、止めます」

 山根はしばらく黙っていた。

 やがて、親子丼を一口食べた。

「田中さん、東京へ帰って、前より言いにくいこと言うようになったな」

「会社の責任者になりましたから」

「村の味方やと思ってたんやけどな」

 その言葉に、美月の胸がわずかに痛んだ。

「私は、村の代理人ではありません」

 言葉にすると、思っていた以上に冷たく響いた。

 森下が箸を止めた。

 美月は続けた。

「でも、会社の計画を通すためだけに戻ったわけでもありません。村と会社が、できないことまでできると言わないために戻りました」

 山根は何も言わなかった。

 食堂の窓から、午後の日差しが差し込んでいた。

     *

 午後最初の相談先は、森林資源活用室だった。

 担当者は、旧清澄小学校の写真を見ると、外壁と窓枠に使われている木材を拡大した。

「全面改修する場合、県産材を使う予定はありますか」

「可能な限り、清澄村の木材を使いたいと考えています」

 美月が答える。

「佐藤林業と、地元の製材所へ相談します」

「地元材の活用には支援制度があります。ただし、伐採した木をそのまま使えるわけではありません。乾燥、製材、強度確認が必要です。工期から逆算すると、今から材を確保しなければ間に合わない可能性があります」

「既存在庫の確認も必要ですね」

「それから、県産材を使えば必ず安くなるとは考えないでください」

 藤井が驚いた顔をした。

「地元の木やのに?」

「少量の特注材は、流通材より高くなることがあります。加工できる事業者も限られます」

 美月は颯太が話していたことを思い出した。

 山に木があっても、それだけで仕事にはならない。

 切る人、運ぶ人、乾かす場所、加工する設備、買う人。

 すべてがつながらなければ、木は商品にならない。

「学校の古材を再利用することはできますか」

「状態によります。構造材としての再利用が難しくても、内装、家具、案内板、小物には使えるかもしれません」

「廃棄せず、できる限り残したいです」

「残すことを優先しすぎると、工事費は上がりますよ」

 担当者は現実的に言った。

「解体して新材を入れた方が安い場合もあります。何を残すか、先に決めてください」

 その言葉を、美月は資料の一番上へ書いた。

『何を残すか』

 すべてを残すことはできない。

 古いから残すのでも、新しい方が便利だから替えるのでもない。

 誰にとって、なぜ必要なのかを一つずつ決める必要がある。

     *

 教育関係の部署では、廃校になった時点で学校施設向けの制度から外れていると説明された。

 ただし、卒業記念品や学校資料を保存し、地域の歴史を学ぶ場所として活用するなら、文化振興の事業と連携できる可能性があった。

「資料は、どれくらい残っていますか」

 担当者が尋ねた。

「卒業アルバム、校務日誌、古い写真、教材があります。整理はできていません」

 森下が答えた。

「個人情報を含むものもありますね」

「はい」

「宿泊者が自由に閲覧できる状態にはしないでください。公開範囲を決める必要があります」

 旧校舎の物置に積まれていた段ボール箱が、美月の頭に浮かんだ。

 住民にとっては思い出でも、外から来た客に見せるための展示物ではない。

「地域の方と整理委員会を作ります」

 美月が言った。

「何を公開し、何を保存だけにするかを決めます」

「それなら、専門職の派遣を検討できるかもしれません。予算は限られますが、資料整理の経験がある職員を紹介します」

 初めて、具体的な支援の言葉が出た。

 森下が小さく息をついた。

「ありがとうございます」

「まだ決定ではありません」

「分かっています。それでも、どこへ相談すればいいか分かっただけで助かります」

 担当者は少し笑った。

「行政の相談は、相談先を見つけるまでが長いですからね」

 会議室を出ると、また廊下が続いていた。

 同じような扉が並び、職員が書類を抱えて行き交っている。

 美月のファイルには、各部署から受け取った資料が増えていた。

 使えるかもしれない制度。

 対象外になる条件。

 申請期限。

 必要な計画書。

 相談窓口。

 金額が決まったものは一つもない。

 それでも、朝より道筋は見えていた。

     *

 最後の協議は、再び地域振興課の会議室で行われた。

 高瀬は、各部署からの聞き取り結果を一枚の紙へまとめていた。

「学校については、施設全体を一つの補助制度で改修するのは難しいと思います」

 山根の顔が曇った。

「やっぱり、あかんのですか」

「できないとは言っていません」

 高瀬は平面図の中央に線を引いた。

「建物全体の安全性に関わる工事と、各用途に必要な設備を分けます。耐震、屋根、外壁、共通の給排水、避難経路。これらは施設全体の基盤です。その上で、防災、地域交流、宿泊、体験の費用を区分します」

「基盤部分は、どこが出すんです?」

 藤井が尋ねた。

「そこをこれから協議します。公共施設として村が所有し続けるなら、村の負担が基本です。ただし、過疎地域の拠点整備や防災機能の強化に使える国の制度がないか、県も確認します」

「県の補助は?」

「制度要件に合う部分があれば検討します。ですが、村の負担がゼロになることはありません」

 山根が腕を組んだ。

「村議会へ、いくら出すと説明したらええんや」

「まず精密調査をしてください」

 高瀬は答えた。

「概算が一億八千万円から二億四千万円では、幅が大きすぎます。雨漏りの原因、構造材の腐食、耐震性能、アスベストの有無、給排水管。調査を終えなければ、どの制度へ出すとしても金額を決められません」

「調査費は当社の調査予算から支出します」

 美月が言った。

「建築士と構造設計者を選定し、二か月以内に結果を提出します」

「温泉も同じです」

 高瀬は別の資料を開いた。

「配管を替えるだけなのか、建物全体の改修が必要なのか。源泉設備に問題があるのか。利用者を増やす場合、排水能力は足りるのか。調査してください」

「はい」

「それから、計画全体の名前を決めた方がいいですね」

「プロジェクト名はあります」

「会社と村の共同プロジェクト名ではなく、施設整備の目的を示す名前です」

 高瀬は白い紙の上へ、四つの言葉を書いた。

『暮らし』

『仕事』

『交流』

『防災』

「学校、体育館、温泉を別々に直すのではなく、村の生活拠点を作る事業として説明できるかもしれません。ただし、言葉だけをまとめても意味はありません。各施設がどうつながるのかを示してください」

「学校に宿泊し、体育館で体験を行い、温泉を利用する。それだけでは足りませんか」

 森下が尋ねた。

「それでは来訪者の動線だけです」

 高瀬は言った。

「村の人が、宿泊客のいない日にどう使うのか。災害時にどう機能するのか。働く人の収入がどう生まれるのか。高齢者が参加できるのか。そこまで必要です」

 美月は四つの言葉を見た。

 暮らし。

 仕事。

 交流。

 防災。

 会社の収支表では、それぞれ別の項目になっている。

 村の生活では、分けられない。

 高齢者がわら細工を教えることは、体験事業であり、収入であり、誰かと話す機会でもある。

 体育館は、雨の日の遊び場であり、災害時の避難所でもある。

 温泉は観光資源である前に、村の人が顔を合わせる場所だった。

「村の人と、もう一度話します」

 美月が言った。

「施設を何に使いたいかだけではなく、誰が、いつ、どのように使うのかまで確認します」

「意見が割れた場合は?」

「割れたまま記録します」

 高瀬が美月を見る。

「まとめないんですか」

「反対意見を削って合意したことにはしません。どの条件なら受け入れられるのかを探します」

「時間がかかりますよ」

「忘れてはいません」

「国の制度には申請期限があります。来年度事業へ乗せるなら、遅くとも年内には基本計画が必要です」

「それまでに決められない場合は?」

「次年度以降になります」

 山根が声を上げた。

「一年遅れるやないか」

「期限に合わせて不十分な計画を出し、不採択になれば、もっと遅れます」

 高瀬の言葉は変わらず穏やかだった。

「申請を急ぐか、合意を優先するか。それも村が決めることです」

 山根は何も言わなかった。

 窓の外では、午後の光が傾き始めていた。

「県として、できることはあります」

 高瀬が続けた。

「関係部署との調整。国の制度の確認。計画書への助言。専門家の紹介。ただし、村の代わりに計画を作ることはできません。会社の事業計画を保証することもできません」

「十分です」

 美月はうなずいた。

「今日、何を決めなければならないかが分かりました」

「何も決まらなかった、と言われることも多いんですけどね」

 高瀬がわずかに笑った。

「決める順番が分かりました」

 美月は平面図を閉じた。

「まず、建物と温泉の精密調査。次に、施設ごとの利用者、運営者、費用負担を決める。その上で、公共部分と収益部分を区分し、県と国へ支援を申請する」

「もう一つあります」

 高瀬が言った。

「やめる場合の条件も決めてください」

「やめる条件……」

「改修費がいくらを超えたら中止するのか。運営者が見つからなければどうするのか。住民合意をどう判断するのか。進める条件だけでは、誰も止められなくなります」

 黒田からも、似た言葉を聞いた。

 始めない条件。

 撤退する場合の責任。

 美月は手帳に書き込んだ。

『止められる約束を、始める前に作る』

     *

 県庁を出た時には、午後五時を過ぎていた。

 玄関前の空が、薄い橙色に変わっている。

 朝から履いていたパンプスの中で、足が痛んだ。

 森下は駐車場へ向かいながら、大きく息を吐いた。

「疲れました」

「私もです」

「田中さんでも疲れるんですね」

「疲れます」

「顔に出ないから」

「森下さんも出ていません」

「私は、出す余裕がないだけです」

 藤井と山根は、少し離れたところを歩いていた。

 山根が何かを話し、藤井が短く答えている。

「村長、怒っているでしょうか」

 美月が尋ねると、森下は二人の背中を見た。

「怒っているというより、怖いんやと思います」

「何がですか」

「金額が大きすぎるんです。村長が判を押したあとで失敗したら、村に残るのは建物と借金ですから」

「それでも、進めたいんですね」

「学校を閉じた時、村長は議会にいました。最後まで反対した一人です」

 美月は山根の背中を見た。

 学校を残したい理由を、山根本人から聞いたことはなかった。

 村長として事業を進めたいのか。

 一人の元村民として学校を残したいのか。

 その二つも、同じではない。

「住民会議の前に、村長からも話を聞きます」

「お願いします」

 森下は駐車場の端に止めた軽自動車の鍵を開けた。

「清澄へ帰りましょう」

 帰る、という言葉が自然に使われた。

 美月は訂正しなかった。

     *

 県庁を出て二時間ほど走ると、周囲から店の明かりが減っていった。

 森下の軽自動車は、山と川の間を通る狭い道へ入る。

 後部座席には、美月のキャリーケースと、県庁でもらった大量の資料が積まれていた。

 窓の外は暗い。

 曲がり角でヘッドライトが木々を照らし、そのたびに太い幹が一瞬だけ浮かび上がる。

「三年、ほんまに山路館で暮らすんですか」

 運転しながら、森下が尋ねた。

「最初は、その予定です。会社からは賃貸住宅も検討するように言われています」

「空き家なら何軒かあります。でも、すぐ住める家は少ないです」

「水回りの修理が必要ですか」

「それもありますけど、仏壇や家具が残ったままの家もあります。持ち主さんが、貸してもいいけど物は動かしたくないと言うたり」

「使っていないのに?」

「使っていないのと、要らないのは違いますから」

 美月は湯呑みへ手を伸ばした。

 学校にも、同じことが言える。

 使われていない。

 けれど、要らないわけではない。

 だからといって、すべてをそのまま残せるわけでもない。

「田中さん」

「はい」

「今日、県の人に言われたこと、全部村の人へ話しますか」

「話します」

「補助が出ないかもしれないことも?」

「はい」

「改修をやめる条件を決めろと言われたことも?」

「それも話します」

 森下はハンドルを握ったまま、小さくうなずいた。

「また反対する人、増えるかもしれませんね」

「増えると思います」

「それでも?」

「都合の悪いことを伏せたまま賛成してもらっても、あとで続きません」

 森下は何も言わなくなった。

 車内には、エンジン音と、タイヤが路面を踏む音だけが残った。

     *

 山路館へ着いたのは、午後八時前だった。

 玄関の格子戸を開けると、澄江が奥から出てきた。

「おかえりなさい」

 三か月前には、「いらっしゃいませ」と言われた。

 美月は一瞬、返事が遅れた。

「ただいま戻りました」

「ずいぶん荷物が増えましたね」

「三年分ですから」

「三年分にしては少ないでしょう」

 澄江は笑い、美月のキャリーケースへ手を伸ばした。

「自分で持てます」

「前も、そう言うてましたね」

 森下と二人でキャリーケースを持ち上げる。

「夕食、置いてありますよ。県庁へ行く日は遅うなるやろうと思って」

「ありがとうございます」

「冷めてますけど、温め直します」

 部屋は、三か月を過ごした二階の角部屋だった。

 窓際の籐椅子も、小さな机も変わっていない。

 ただ、広縁のテーブルに、細い花瓶が置かれていた。

 白い野菊が二輪、挿してある。

 美月は段ボール箱から「みんなのいえ」を取り出し、花瓶の隣へ置いた。

 割り箸の柱。

 段ボールの屋根。

 大きさの違う窓。

 東京の部屋に置いた時より、この場所の方が家らしく見えた。

 仕事用のスマートフォンが震えた。

 颯太からだった。

『県、どうでした』

 美月は少し考えてから入力した。

『何も決まっていません。でも、決めなければならないことは分かりました』

 すぐに返信が来た。

『金、出るんですか』

『まだ分かりません』

『学校、全部直せそうですか』

『それも、まだ分かりません』

『分からんことばっかりですね』

 美月は窓を開けた。

 川の音が、部屋へ流れ込んでくる。

 三か月前には大きすぎると感じた音だった。

『県庁の廊下が長かったので』

 送信すると、少し間が空いた。

『学校の廊下も長いですよ』

 美月は画面を見たまま笑った。

『明日、見に行きます』

『朝から雨です』

『調査の日程を決めるだけです』

『雨漏り、増えてます』

 笑みが消えた。

『どこですか』

『二階の東側。前に見たとこより奥です』

『明日の朝、八時に行きます』

『七時半にはおると思います』

『では、七時半に』

 送信してから、杉の箱へスマートフォンを入れた。

 蓋を閉める。

 廊下の向こうから、澄江が食事の用意をする音が聞こえた。

 美月は県庁でもらった資料を机の上へ並べた。

 観光。

 防災。

 森林。

 文化。

 地域振興。

 それぞれの表紙に違う課の名前が印刷されている。

 一つの村を立て直すために、いくつもの扉を開けなければならない。

 その扉の間には、長い廊下がある。

 美月は白い紙を一枚取り出し、最初に四つの言葉を書いた。

『暮らし』

『仕事』

『交流』

『防災』

 その下に、もう一行を加えた。

『誰が、五年後も続けるのか』

 窓の外で、雨が降り始めた。

 川の音に混じって、屋根を打つ細かな音が聞こえる。

 旧清澄小学校の雨漏りは、朝まで待ってはくれない。

 美月は夕食へ呼ばれるまで、机に向かい続けた。


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