第7話
三歳になっても、天野香菜の世界は部屋の四隅と白い紙の境界線から一歩も外へ出ようとしなかった。
日当たりの良い庭からは、近所の子どもたちの甲高い歓声や、小鳥のさえずりが聞こえてくる。近所の公園へ連れ出そうと、母の琴音は何度も可愛いフリルのついた帽子や靴を用意した。だが、香菜は玄関のタタキに座り込み、両手を畳の縁に突っ張って絶対に靴を履こうとしない。
(外など行けるか……! 日光を浴びて健康的に泥遊びをしている暇があるなら、一秒でも多くデッサンの骨格比率をこの幼い手先に叩き込まねばならんのだ!)
中身は四十五歳の引きこもり職人である。
青空の下で他者と交わるなど苦痛以外の何物でもなく、香菜にとっての「至高の遊具」は、ローテーブルの上に山積みにされた安価なスケッチブックと、使い古されて丸くなったクレヨンだけだった。
「香菜ちゃん、今日もいいお天気よ? 天音ちゃんたち、もうお砂場にいるって」
「……おうち。かく」
香菜は前髪の隙間から頑なな眼差しを向け、短い指でスケッチブックを抱え込んだ。
その頑固さに、琴音は困ったように眉を下げつつも、「本当に描くのが好きなのねぇ……」と、結局は苦笑いしながら麦茶を差し出すのだった。
居間に陣取った香菜は、狂気的な反復練習に没頭していた。
現在の最大の課題は、「クレヨンという鈍器で、いかに繊細な感情曲線を刻むか」だ。
前世で使っていた丸ペンやGペンのような、筆圧ひとつで髪の毛の先まで細る極細の線は望めない。クレヨンの先端はすぐに潰れ、油分で紙がベタつく。
だからこそ、香菜は「線の太さの制御」と「擦り(ボカシ)」の技術を三歳児の指先で開拓していた。
画用紙の端を使い、クレヨンを垂直に立ててエッジだけで引く極細の輪郭線。
腹を寝かせて均一な圧で滑らせる中間トーンのハッチング。
そして、人差し指の腹を使って油分を紙の繊維へ擦り込み、皮膚の柔らかい陰影を作り出すグラデーション。
(……くそ、指の皮が薄くてすぐ痛む。だが、この擦りの質感……前世のスクリーントーンのボカシ処理より、遥かに生々しい『肉の温度』が出るぞ)
紙の上に立ち現れるのは、記号化されたアンパンのような幼児の顔ではない。
光の当たる角度によって頬骨のラインがわずかに浮き上がり、唇の端に落とされた影が、冷笑とも諦念ともつかない複雑な表情を浮かべる――得体の知れない「誰か」の横顔。
さらに香菜は、絵の練習と並行して「物語のプロット構築」の実験を繰り返していた。
三歳の語彙力では文字によるシノプシスは書けない。そのため、彼女が編み出したのは「記号と構図によるプロット曼荼羅」だった。
中央に主人公を示す「歪んだ楕円」。
そこから伸びる無数の矢印は、対立するキャラクターの視線とエゴのベクトル。
破線で囲まれたブロックは「偽りの日常」、塗り潰された黒い円は「不可避の破滅」、そしてページを跨ぐように引かれた太い赤線が「読者の感情を抉るカタルシスの導線」。
香菜は前歯をギリと噛み締め、唸りながら赤と黒のクレヨンを交互に叩きつけていた。
(ここで主人公のプライドを一度完全にへし折る……。読者に『もう救いがない』と思わせておいて、前フリとして撒いておいた『香りの記憶』の伏線をここで回収するんだ。ページをめくった瞬間の見開き、視線は左上から右下へ雪崩のように落とす……!)
三歳児の小さな身体から、およそ幼児とは思えない濃密な殺気と情念が立ち上る。
床に散らばる幾十枚ものスケッチブックのページは、もはや子どもの落書き部屋ではなく、連載ネームに命を削る週刊少年誌の修羅場そのものだった。
「――お邪魔するけんねー!」
ガラリ、と無慈悲に引き戸が開く音がした。
香菜の肩がビクッと跳ね上がる。
「香菜ちゃん! 今日も引きこもっとーと!? よか天気やのに!」
土足同然の勢いで居間に躍り込んできたのは、汐野天音だった。ツインテールを跳ねさせ、泥のついたスコップを手に持ったまま、燦々とした太陽の熱気を全身から放っている。
「ほんまやで、香菜! うちがせっかく山作ったのに、壊す係がおらへんやんか! なんでやねん!」
続いて設楽梓が、これまたズレたイントネーションの関西弁を響かせながらドカドカと踏み込んできた。二人の放つ圧倒的な陽のオーラに、陰キャの香菜は思わずスケッチブックの陰に頭を引っ込める。
(来やがった……光の暴力団どもめ……! 頼むからその泥の手で俺の伏線回収シートに触るな……!)
「あー! 香菜ちゃんまた難しか絵ば描いとる!」
天音がテーブルに身を乗り出し、身を乗り出してきた。
「これなん? 迷路? ここ、落っこちる穴やろ? 天音、ここジャンプして飛び越えるけん!」
「ちゃうわ天音、これは陣取り合戦や! うちの陣地がここやから、香菜のこれは負けや!」
梓が勝手にプロットの核心部分を指でベタベタと触りながら、出鱈目な解釈を下していく。
(ぎゃあああ! 触るな! そこは主人公のトラウマの核だ! 陣地でも落とし穴でもない!!)
香菜は「うー! あー!」と抗議の声を上げながら、必死に短い腕で画用紙を覆い隠そうとした。だが、三歳児の非力な防御など、二人の暴風の前には木の葉同然だった。
その喧騒の後ろから、泥のついていない長靴を綺麗に揃えて脱ぎ、静かに入ってきた影があった。
岬翔だった。
翔は天音や梓のように騒ぐこともなく、床に散らばる紙の隙間を器用に縫って歩き、香菜の正面にすとんと腰を下ろした。
手には、どこから拾ってきたのか、鋭く尖った一本の木の小枝を握っている。
翔の静かな瞳が、香菜の腕の隙間から覗く「プロット曼荼羅」へと向けられた。
「……翔、なんば見よると?」
天音が不思議そうに覗き込む。
翔は答えず、持っていた小枝の先を、香菜が描いた「黒い円」――破滅のポイントにトン、と当てた。
そして、そこから赤線が伸びる「カタルシス」の地点へと、小枝を滑らせた。
「……ここ、痛ぇな」
低く、濁りのある青森訛り。
翔の言葉に、香菜はハッと息を呑んだ。
翔は小枝を離し、真っ黒に汚れた香菜の指先をじっと見つめた。
「……こごさ行ぐまで、すんげぇ苦しぇ。……ばって、この赤ぇの、逃げ道でねぇべ。……戦うんだべ、香菜」
文字も読めない。
三歳児同士の、言葉足らずの空間。
それなのに、翔の指し示した視線の軌跡は、香菜が脳内で何時間もかけて構築した「絶望からの逆転劇」の感情曲線と、寸分の狂いもなく完全に一致していた。
(……なんなんだ、こいつの鑑賞眼は……)
前世の雨乃哉太の机に、たまに現れたあの「狂信的な読者」たち。
言葉を交わさずとも、線の一本、トーンの削り一つでこちらの意図をすべて汲み取っていった、あの恐るべき理解者の眼差しが、目の前の幼馴染の少年に宿っていた。
香菜の胸の奥で、ぞくぞくと甘い戦慄が走る。
外遊びなど、やはりどうでもよかった。
この泥臭い画用紙の上で、他者の心を極限まで揺さぶり、支配する。その快楽を、この幼い手で絶対に手放すものか。
香菜はぷいと顔を背け、翔に向かってクレヨンの黒を一本、無言で差し出した。
「……ん」
翔はそれを受け取り、小さく頷いた。
「……おぅ。手伝うべ」
「えーっ! 翔ばっかりずるいー! 天音も赤いの塗るー!」
「うちも! 全部ピンクにしたるわ!」
阿鼻叫喚の嵐が再び巻き起こり、香菜は心の中で「ピンクにするなボケェ!」と絶叫しながら、必死に自らの物語の防衛戦へと突入していくのだった。
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