第2話 篠崎葵
「……は? じゃあ何」
葵がタオルをベッドへ放った。玲司はスマートフォンに写真を出し、彼女の方へ向ける。葵は画面を見た途端に口を閉じ、次いで玲司へ険しい目を戻した。
「それ、どこで手に入れたの」
「お前の叔母さん。連絡が取れなくなったから、探してほしいって」
「誰だよ、お前」
「黒瀬玲司。探偵事務所で働いてる。まあ、便利屋もやるところだけど」
葵はベッド脇のバッグを掴んだ。さっきまでとは違う乱暴な動きで肩にかけ、玲司が立ち上がろうとすると、先に声を張った。
「帰らないからね。母さんとも話さないし、学校にも戻らない。あんたが何を言われて来たか知らないけど、無理だから」
「連れ戻せとは頼まれてない。無事かどうか確かめてくれって仕事だよ」
「じゃあ見たでしょ。生きてる。終わり」
玲司がスマートフォンに目を落とすと、葵はドアへ向かいかけた足を止めた。
「ちょっと、何を送る気?」
「見つけたって連絡」
「場所は言わないで。どうせ母さんにも伝わるんだから」
言いながら、玲司の手元を覗き込んでくる。話を終わらせようとする割に、何を報告されるかは放っておけないらしい。玲司は入力するのをやめ、スマートフォンをテーブルに伏せた。
「まだ送ってない。伝えたいことがあるなら聞く」
「帰らないって伝えて。話は帰ってからとか、そういうのもいらない」
葵は肩からずり落ちかけたバッグを持ち直した。開いたままの口から小さなケースと金属の塊がこぼれ、床へ落ちる。玲司の靴のそばで、四つの輪がつながった金属が止まった。
「……メリケンサック?」
葵は身をかがめ、玲司が触る前に拾い上げた。もう一方のケースも回収したが、半透明の蓋越しに、縁に切れ込みのある灰色の錠剤が見えた。
「そっちは何の薬だよ」
「ビタミン」
「ビタミン剤でよかったよ。それなら報告しやすい」
葵は答えず、二つともバッグへ押し込んだ。玲司は、自分の財布を見ていた彼女の顔を思い出した。男に声をかけ、ホテルへ連れていくことには慣れている。鞄には、人を殴るための道具が入っている。
「お前、男をここへ連れてきて、金を取ってるのか」
「だったら何」
予想していたのに、玲司は一瞬、返す言葉に詰まった。葵はそれを見て、むしろ開き直ったように顎を上げた。
「向こうだって下心があるからついてくるんでしょ。金ぐらい持ってるよ」
「殴って取ったら強盗だろ。相手の下心は関係ない」
「説教しに来たわけ?」
「財布を取られに来たわけでもねえよ」
葵は玲司から目をそらした。少なくとも、そんなつもりはなかったとは言わない。玲司は上着越しに財布の位置を確かめ、手を下ろした。ようやく見つけた相手に自分まで殴り倒されていたら、事務所へ帰って何と説明すればいいのか。
「叔母さんには言わないでよ」
「元気でした、だけで済む話じゃなくなってるだろ。薬まで持ち歩いて」
「それは平気。変になるようなもんじゃないから」
「何か分かって飲んでるのか」
「ギアっていうの」
「商品名?」
「この辺じゃそう呼ばれてる。箱も何もついてなかったし、詳しくは知らない」
だったらなおさら平気だと言えるわけがない。玲司の顔に出たのか、葵は苛立ったようにバッグをベッドへ置いた。
「飲むと力が出るんだよ。それだけ。ずっと使ってるわけじゃない」
「人を殴るときだけ使うなら安全ってことか?」
「何も知らないくせに」
「知らないよ。聞いてんだろ」
言い返すと、葵は唇を引き結んだ。出ていくかと思ったが、伏せたスマートフォンを見て、ベッドの端に腰を下ろし、バッグを膝へ抱え込んだ。
「最初は、勝手に飲まされたの」
玲司は口を挟まず、続きを待った。
「男とホテルに入って、飲み物を飲んだらさ。あいつ、急に押さえつけてきて。薬入れたから、じきに気持ちよくなるって笑ってんの」
葵はそこまで言うと、濡れた髪を肩の後ろへ払った。袖がずれた手首を自分で握り、玲司を睨む。こちらがどう反応するか、見張っているようだった。
「私はそんなつもりなかったから。金を取って帰るつもりで、ついてっただけ」
「……それで、どうやって逃げた」
「殴った。離せって言っても離さないから」
玲司がバッグを見ると、葵は首を振った。
「そのときは、こんなの持ってない。素手で一発。それだけなのに、男がベッドの向こうまで飛んだんだよ。壁にぶつかって、床に落ちて」
葵は右手を開き、握り直した。小柄な女の拳だった。玲司は向かいのベッドを見たが、これを越えて成人男性が吹き飛ぶところは、どうしても想像しにくかった。
「ベッドの向こうって……転がったんじゃなくて?」
「飛んだの。見てた私が一番びっくりしたって。昔、空手やってたから、人を殴ったことぐらいあるけど、あんなこと一度もなかった」
「空手?」
「小学校から中学まで。段も持ってる。あのときは、体がすごく軽くなったんだよ。殴った手もちゃんと戻せたし、頭も普通だった。なのに、男の方があんなに飛んで。最初、何が起きたか分かんなかった」
喋っているうちに興奮したらしく、声が大きくなっていた。玲司が信じたとは言わずにいると、葵は不満そうに鼻を鳴らした。それでも話をやめなかった。
男が起き上がれなくなったあと、葵はその持ち物から財布を抜いた。そのとき、残っていた錠剤も見つけて持ち出したという。飲み物に入れた薬だろうとは思ったが、確信したのは、後日、自分で飲んで同じ感覚になったときだった。
「それで、今も使ってるのか」
「これがあれば、私でも男に負けないから」
「そいつから逃げた話と、ほかの男から金を取る話は別だろ」
葵の表情が硬くなった。バッグの持ち手を握りしめ、口を開いたが、出てきたのは話を打ち切る一言だった。
「もういいでしょ」
玲司は背もたれへ体を預けた。無事な姿を確かめたら、あとは連絡をして終わり。そのつもりだったのに、聞けば聞くほど帰りにくくなる。目の前の女は、自分のやっていることが危ないと分かっていないのか、分かっていて認めたくないのか。
「今日はまだ飲んでないんだな」
「うん。あんたが変なこと言い出したから」
「殴られる前でよかったよ」
玲司は胸ポケットの煙草へ手をやりかけ、途中でやめた。
「薬なんかやるな。そんなもんやるくらいなら煙草ぐらいで抑えとけ」
葵がその手を目で追い、玲司の前へ掌を出した。
「じゃあ一本ちょうだい」
「ダメだ」
「なんで?」
「二十歳になってから吸え」
葵はしばらく掌を出したまま、玲司の顔を見ていた。
「……あんた、頭おかしくない?」
玲司が言い返す前に、部屋のドアが叩かれた。
葵の手が引っ込んだ。二度、間を置かずに続いたノックは、室内の返事を待っているようには聞こえなかった。玲司はテーブルのスマートフォンをポケットにしまって腰を上げたが、葵はバッグを抱えたまま動かない。
「何か頼んだ?」
「何も」
ドア越しに用件を聞いても返事はなく、もう一度、強く叩かれた。玲司はチェーンをかけたまま、細くドアを開いた。
隙間に現れたのは、黒いジャケットを着た四十前後の男だった。後ろにも二人いる。灰色のスーツを着た大柄な男と、首の細い、短髪の男。三人とも、部屋を間違えた客の顔ではなかった。
「その女を渡せ。お前には関係ない」
玲司はドアを閉めようとしたが、大柄な男の靴先が入ってきた。黒いジャケットの男は隙間から室内を見ている。その目が、玲司の背後で止まった。
「ミオだな」
「誰だよ、お前ら」
葵がバッグを肩にかけて近づいてきた。右手には、さっきのメリケンサックが嵌まっている。玲司が知り合いなのかと聞くと、知らない、と短く返した。
廊下で、首の細い男がスマートフォンに向かって喋っていた。
「いた。見張りの連絡どおり、この部屋だ」
玲司は入口へ押し込まれた靴を見下ろした。たまたま通りかかったわけではないらしい。背後から、葵の尖った声が飛んだ。
「誰に頼まれた? 金取られた奴か?」
「金の話じゃねえ。お前を連れてこいって言われてる」
「だから誰にだよ」
「来りゃ分かる」
黒いジャケットの男が、チェーンの向こうで葵を見据えた。
「傷つけるなって話だ。大人しく来い」
「それでついてくバカがいるかよ」
葵は吐き捨てたが、バッグの紐を持つ左手には力が入っていた。玲司の目にも、話を聞いてくれる相手には見えない。狭い隙間から見える男の顔を確かめながら、押されているドアへ肩を当てた。
「連れてく理由も、あんたらが誰かも分からない。渡せるわけないでしょう」
「お前は関係ない。帰れ」
男が顎で廊下を示した。葵を残して出れば、本当に通してくれるのだろう。玲司の中にも、ここで関わるのをやめたい気持ちはあった。金目当てで自分をホテルへ連れ込んだ女だ。助けてもらって当然という顔をされる筋合いはない。
それでも、ドアから肩を離せなかった。この男たちの間を抜け、一人でエレベーターを待つ自分を想像すると、ひどく嫌な気分になった。
「帰るのはそっちだろ」
丁寧な口調を保つのも面倒になった。黒いジャケットの男が顔をしかめると、大柄な男がドアへ体重をかけた。
肩に重さがのしかかり、玲司は足を踏ん張った。チェーンが引っ張られて金具が鳴り、葵が身を引いた。男が続けてドアへ体をぶつけると、固定金具が浮き上がり、短い音を立てて外れた。
開いたドアに押されて壁へぶつかり、玲司は息を詰まらせた。大柄な男は、そのまま玲司の胸ぐらを掴む。首の細い男が脇を抜け、葵へ腕を伸ばした。
「触んな!」
葵は伸びてきた男の腕を払うと、半歩踏み込み、右拳を相手の腹へ打ち込んだ。殴った手はすぐに引き戻され、体を折った男の胸を、今度は前へ突き出した足が押し返す。男はベッドへ倒れたが、すぐに起き上がろうとした。
玲司は胸ぐらを掴む手を外そうとしながら、葵の動きを見た。あれなら空手を習っていたという話は信じられる。感心している場合ではなかったが、助けを必要としているのは自分の方だった。
「離せって言ってんだろ!」
手を振りほどこうとした途端、頬を殴られた。ソファへよろめき、口の中に血の味が広がる。大柄な男が追ってきたので、玲司は脇の椅子を掴み、二人の間へ引き倒した。
男が蹴り飛ばした椅子がテーブルにぶつかり、グラスが床で砕けた。廊下から、何の音だと怒鳴る声がした。黒いジャケットの男はそちらを気にしつつ、部屋へ踏み込んできた。
「女の手を押さえろ」
「捕まえられるなら、やってみろよ!」
葵はベッドから立ち上がった男を牽制し、玲司のそばまで下がった。背後を取られないよう壁を背にしたが、黒いジャケットの男と首の細い男に左右から迫られ、どちらかへ踏み込めば、もう一方に掴まれそうだった。
二人の注意が葵へ向いた隙に、玲司は黒いジャケットの男の袖を掴み、引いた。振り向きざまに突き飛ばされ、ソファの肘掛けへ腰をぶつけたが、葵はその間に、伸びてきたもう一人の手をかわした。
「お客様、やめてください! 警察に連絡しました!」
開いたドアの外で従業員が叫んでいた。黒いジャケットの男が廊下を振り返る。その顔から余裕が消えたのを見て、玲司は血の混じった唾を飲み込んだ。
「聞こえたろ。帰れよ」
大柄な男は玲司を睨んだまま、拳を下ろさなかった。葵も右手を構えたままで、部屋には荒い呼吸と、床の破片を踏む音が続いた。ドアの外では、従業員が誰かに部屋へ戻るよう声を張っている。
遠くから、サイレンが聞こえた。
玲司が入口へ目を向けると、隣で葵がバッグを抱き寄せた。近づく音に耳を澄ますその顔から、さっきまでの強気が消えていった。
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