無駄

さかがみまさひろ

 

 玉が落ちていく。


 一つ、二つ、三つ。


 いや、そんな数ではない。


 数えることなど最初から不可能なほどの銀色の玉が、盤面を跳ね、釘にぶつかり、右へ左へ進路を変えながら、結局は下へと落ちていく。


 俺はそれを眺めていた。


 四十八歳、独身。


 金曜の午後七時十二分。


 駅前のパチンコ店。


 今日も俺は負けていた。


 すでに二万六千円が消えている。


 正確には消えたわけではない。俺の財布から店の売上へと移動しただけだ。金は消滅しない。ただ所有者が変わる。


 そう考えれば、世の中の大抵の喪失には説明がつく。


 では、この玉たちはどうなのだろう。


 俺は盤面を見つめた。


 一個の玉が釘に当たった。


 右へ弾かれる。


 さらに釘に当たる。


 左へ。


 もう一度、右へ。


 おっ。


 いけ。


 俺はわずかに身を乗り出した。


 いけ。


 いけ。


 いけ。


 玉は穴の脇をかすめ、そのまま落ちていった。


「……惜しい」


 誰に聞かせるでもなく呟いた。


 そして、その瞬間だった。


 俺の脳裏に、まったく関係のないものが浮かんだ。


 精子である。


 なぜ精子だったのかは分からない。


 銀色の小さな玉が大量に流れていく様子と、昔どこかで見た顕微鏡写真が結びついたのかもしれない。


 あるいは四十八歳という年齢が、俺の中の何かにそういうことを考えさせたのかもしれない。


 俺は結婚していない。


 子供もいない。


 つまり、これまで俺の体内で製造され、体外へ旅立っていった彼らの中に、卵子と結びついた者は一人もいない。


 全滅である。


 俺はハンドルを握ったまま、しばらく動けなかった。


 玉が落ちていく。


 次々と。


 無数に。


 ――お前たちもか。


 妙な親近感が湧いた。


 俺は流れ落ちていく玉を見つめた。


 こいつも駄目。


 あいつも駄目。


 そいつも駄目。


 何千、何万という玉が送り出され、そのほとんどが何も成し遂げることなく消えていく。


 考えてみれば、俺の精子たちもそうだった。


 彼らには可能性があった。


 理論上は。


 卵子と出会い、受精し、細胞分裂を繰り返し、やがて人間になる可能性。


 男だったかもしれない。


 女だったかもしれない。


 野球が得意だったかもしれない。


 ピアノが好きだったかもしれない。


 数学者になったかもしれない。


 コンビニの店長になったかもしれない。


 俺と同じように四十八歳でパチンコを打っていたかもしれない。


 だが、誰もならなかった。


 俺のせいである。


 急に責任の重さを感じた。


 すまない。


 俺は心の中で謝った。


 何に謝っているのか、自分でもよく分からなかった。


 隣の台では若い男が連チャンしていた。


 派手な音が鳴る。


 光る。


 キャラクターが叫ぶ。


 ドル箱に玉が積み上がっていく。


 俺はその男を見た。


 若い。


 二十代だろう。


 生命力に満ちている。


 精子も元気なのだろう。


 腹が立った。


 完全な言いがかりだった。


 俺は再び自分の台を見た。


 玉が一つ、妙な動きをした。


 左の釘に当たり、右の釘に当たり、普通なら落ちるはずのところで踏みとどまった。


「おっ」


 頑張れ。


 俺は思った。


 そいつは他の玉とは違った。


 何度も弾かれながら、それでも中央へ向かっていく。


「お前……」


 声が出た。


 いける。


 お前ならいける。


 俺には分かった。


 根拠はなかった。


 だが、分かった。


 こいつは選ばれた玉だ。


 何万という仲間たちが果たせなかった使命を、こいつなら果たせる。


「いけ」


 俺は小さく言った。


 玉が跳ねる。


「いけ」


 もう一度跳ねる。


「いけ……!」


 穴へ向かう。


 俺は息を止めた。


 落ちた。


 普通に下へ。


「ああ……!」


 思わず声が出た。


 隣の若者がこちらを見た。


 俺は何でもないふりをした。


 だが、胸の中には喪失感があった。


 名前をつけてやればよかった。


 そんなことまで思った。


 いや、やめよう。


 名前をつけていたらもっとつらかった。


 俺は残りの玉を見た。


 まだいる。


 まだ大勢いる。


 可能性は残されている。


 俺はハンドルを握り直した。


 送り出す。


 玉を。


 次々に。


 頼む。


 誰でもいい。


 一人でいい。


 たどり着いてくれ。


 俺はいつの間にか、大当たりを願っているのか、受精を願っているのか分からなくなっていた。


 そもそもパチンコ玉と精子には何の関係もない。


 冷静に考えれば当たり前だ。


 パチンコ玉は生殖細胞ではない。


 釘は卵管ではない。


 中央の穴は卵子ではない。


 そして俺は今、二万六千円を失った中年男性である。


 そこだけは間違いない。


 それでも、玉は流れていく。


 大量に生まれ、大量に送り出され、そのほとんどが目的地へ到達しない。


 俺は考えた。


 人生というものは、案外こういうものなのかもしれない。


 俺はこれまで、いくつの可能性を送り出してきただろう。


 高校時代、漫画家になろうと思った。


 三日でやめた。


 二十五歳のとき、資格を取ろうと思って参考書を買った。


 四十二ページでやめた。


 三十一歳のとき、同じ部署の女性を食事に誘おうと思った。


 結局、誘わなかった。


 三十七歳のとき、転職を考えた。


 求人サイトを眺めて終わった。


 四十三歳のとき、健康のために走ろうと思った。


 シューズを買った。


 シューズは今も玄関にある。


 俺の人生にも、無数の玉があった。


 放たれてすらいない玉もあった。


 盤面の途中で落ちた玉もあった。


 惜しいところまで行った玉もあった。


 そして、穴に入った玉は――。


 あっただろうか。


 俺は考えた。


 何も思いつかなかった。


 悲しくなった。


 そのとき、台がけたたましい音を立てた。


「うおっ」


 画面が光った。


 何かが揃った。


 俺は演出の意味を理解するより先に、台の上部から祝福するような音楽が流れ出すのを聞いた。


 当たった。


「……当たった」


 俺は呟いた。


 玉が出てくる。


 大量に。


 俺はしばらく、その光景を見ていた。


 やがて笑った。


「なんだよ」


 ちゃんと当たるじゃないか。


 四十八歳。


 独身。


 金曜の午後七時四十六分。


 俺の人生にも、まだ穴は開いているらしい。


 その後、俺は全部飲まれた。


 三万八千円負けた。


 人生とパチンコを一緒にしてはいけない。


 俺はそう学んだ。

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