夏の光の裏側

まれえ

1 届かない光


 最近、小さい頃の記憶が夢にしばしば出てくる。


 あのときはまだ、森柊一(もりしゅういち)は秋田にある父の実家に預けられていた。


 その日彼は病気で学校を休んでいた。布団を敷いた床の間からは、広い廊下が見えた。昔ながらの広いガラス窓に、日よけのレースカーテンが引かれていた。


 夏の入りくらいで、雨の上がった後だった。薄く窓が開いているらしく、草木の匂うような穏やかな風が吹きこんで、白いレースを揺らしていた。


 柊一はそれを熱で滲むような目でぼんやり見ていた。


 窓の外は白く明るい。

 レースが揺れて、ちらり、ちらりと見えそうで見えない光の奥。

 その先に何があるのか。


(おれには知らないことがある)


 ふと、彼はそんなことを思った。


 熱で膿んだような頭の中に、一瞬だけ母の顔が浮かぶ。クオーターの美しい顔立ち。機嫌がいいと祖母から習ったというフランス語の古いシャンソンを歌ってくれた。彼女は柊一を置いて、海の向こうへ渡り、今はほかの男と暮らしている。

 

 柊一は寝苦しくて寝返りを打った。

 天井を見上げると、板の目が何か恐ろしい生き物の目玉に見える。


 次に浮かぶのは、伯父、恵理也(えりや)の顔だった。母と似て背が高く、魅力的な笑顔を浮かべる男。デザイナーをしており、いつも洒落ている。時折会いに来ては柊一にも画材をくれた。


 柊一はその頃絵を描いていたが、興味は車や、建物といった無機物にあった。父は建築士をしているから、興味が似たのかもしれない。


 柊一は寝返りを打って、揺れるカーテンに視線を戻す。

 雨上がりの晴天らしく、ますます外が明るくなってきた。

 カーテンは真っ白に光って、その先の景色を隠す。


 光のなかに、痩せた男の背中を思い出す。森誠(もりまこと)。柊一を実家に預けたきり海外に仕事に出ている父。『次の戻りは秋田に来るよ』と眼鏡の奥の目を細めて笑った。


 恵理也はわざわざ海外まで誠に会いに行く。二人は大学時代からの友人同士だった。

『柊一も行きたかったか?』

 連れていく気も無いくせに、恵理也はそんなことを言った。柊一は静かに首を振った。

『誠は早くお前に会いたいって』

嘘だと思いつつ、『そう……』と柊一は答えた。


 強い風が吹き、大きく揺れたレースのカーテンの向こう。

 人の姿が見えた気がする。


 (おれには知らないことがある)


 曖昧に笑う父親の、少し悲しそうな口元を思い出した。




一、


 汗ばむ様な寝起き。毛布にくるまって寝ていたせいだ。


 クーラーが効いているはずなのに、Tシャツや、下着に触れる皮膚がわずかに汗でじっとりする。


 デジタル時計を見て、昼過ぎになったのに気づく。


 柊一のベッドの下で、正岡尚央(まさおかひさお)が「起きたか」とこちらを向いた。スポーツ刈りの日焼けした顔に、困ったような微笑みが浮かぶ。


 正岡は「寝るのはいいけど……お前って寝てる時に脱ぐ癖あるの?」と言いながら、床からズボンを拾い上げる。わざわざ畳んであるのが、正岡らしいと思う。実家の総菜屋の手伝いをしながら、弟妹四人の面倒を見る世話焼きな男だ。


「うん……たまにそういうことある」

 柊一はまた寝転がって窓から空を見あげた。雲一つない晴天が白々しく見える夏の日照り。

 

 ぎしっとベッドがきしんだ。正岡がベッドに膝をついて下の方の景色を見ていた。


「相変わらずすごい光景だな……おれの家は……やっぱ見えないけど」

「あそこらへんに新しいマンションが立つまでは商店街の方まで見えたって、恵理也……伯父さんが言ってた」

柊一は、そんなことを言いながら、ベッドに上がった正岡の太腿に目を落とす。無駄のない筋肉質な脚。高校では水泳部に入ったらしい。肩や背中が広くなったと思う。


 柊一は起き上がって、床に足をついた。正岡もベッドから降りる。そして、柊一の脚を見て「白くなったな」と呟いた。

「そうかな?」

 柊一は昨年高校を留年し、公立の通信制へ転校してから、ますます外へ出なくなった。中学では正岡と同じ野球部だった。とはいえ、幽霊部員だったから色白なのは昔からだと思う。正岡が柊一の顔を見る度に『部活来いよ』と言っていた頃が懐かしい。


「そういえば、最近野球は全くしてないの?」

 あれだけの野球少年が水泳に転向したのが気になった。正岡は照れたように頷いて「弟が中学に入ったから野球は譲ったんだ……母さんも洗い物大変だろうし。水泳なら、そんなに洗わないだろ」

「そういう理由なんだ」

 正岡が軽い口調なので、柊一も軽く受け流す。一人っ子の柊一には兄弟がいる感覚は分からない。いたらいたで、考えるところは多いのだろう。


 柊一は素足のままペタペタとフローリングを歩いて部屋を出た。

「おい、ズボンはけって」

正岡が背後で騒ぐ。

「トイレいってくる。後でいいだろ」


「全く……」

 正岡はあきれたように言った。




二、


 トイレから出ると、玄関のドアの開く音がした。チャイムを鳴らせと言っているのに『お前が出てくるのを待っていたら日が暮れちまう』と言って、恵理也はいつも勝手に入ってくる。


「よお柊一。全然電話に出ないから来たぞ」


 伯父は玄関で靴を脱ぎながら言った。四十代中程にしては相変わらず若々しい。今日のヘアセットは念入りなセンターパートだった。外出する気なのだと分かる。


「何の用?」

  柊一がそっけなく答えても、恵理也は爽やかな笑みを崩さない。彫り深く、明るい二重の眼元に、すっと笑い皺ができる。柊一は、自分や父親の誠みたいな性格の人間には無縁の皺だと思う。

「だから、この前連絡しただろ?……ようやく既読になったのは昨日だけど。今日の夜、誠が帰ってくるから、迎えに行って三人で飯でも行こうって」

「……そのあとどうせ二人だけで飲みに行くんでしょ」

 柊一が壁にもたれて首の後ろを掻きながら言う。いつもこういう時、二人は朝帰りになる。


 恵理也は近づいてきて柊一の頭をクシャっとやった。仄かに香る樹木のような香り。いつもの香水より自然な感じだ。神経質な誠でも気に入りそうだ。

「お前も早く飲めるようになるといいな」

 誠は下戸だし、どうせ飲みに行くのは建前だろう、と柊一は思っている。

「最初から二人で行きなよ」

 柊一はつまらなさそうに恵理也の手を払った。



「誰か来たのか?」

 話し声が聞こえたのか、柊一の部屋から正岡が出てきた。

「友達?……ああ、正岡くんか」

「伯父さん、お久しぶりです」

 柊一を挟んで二人が挨拶をする。正岡はしばしば遊びに来ていて、恵理也とも何度か顔を合わせている。


「ところで柊一はなんでズボンを履いてないんだ?」

 恵理也が正岡の手前ようやく気になったらしい。ボクサーパンツからすらりと伸びた柊一の素足を指さす。正岡が慌てたように顔の前で手を振る。

「おれも言ったんですよ。ズボンを履けって」


柊一は二人のやり取りを遮るように言った。

「汗かいたし、シャワー浴びてくる」


「……さっきまで、柊一は寝てたんです」

言い訳のような、弁明のような感じで正岡が言うのを背に、柊一は浴室に向かった。



 シャワーの湯が、汗を流していく。柊一はなんとなく胃のあたりがむずむずするのを感じた。夏バテなのか、ここの所ろくなものを食べていなかった。『外食する』と恵理也は言っていたが、そんなに食事ができる気はしない。


 シャワーを止めて、鏡を見る。

 不安そうな自分がこちらを見返してきた。色の白い覇気のない顔だ。しかし、恵理也には『顔立ちはきれいだ』と言われる。実はこの前絵のモデルもした。こういうのが好きな人間もいるのは事実らしい。


 中学では告白されて彼女ができたこともある。何度か一緒に出かけたけれど、友達の距離にすらなれなかった。受験を控え『勉強に集中したいから』と手頃な言い訳で別れた。


 けれども高校に受かってから、昨年の夏くらいに、彼女のことをふと思い出した。映画館でのデート。少しだけ柊一の肩に、頭をもたれかけさせた彼女。その気配を感じ、身を離しそうになるのを懸命にこらえた記憶。それが、生々しくよみがえってきた。柊一は吐き気を感じた。


 その頃から、繰り返し夢を見るようになった。 


 柊一の沈む気持ちとは裏腹に、周囲の同級生は将来の夢に向かって努力したり、スポーツや趣味に興じたり、青春を自由に楽しんでいる様子だった。段々と柊一は周囲との間に、何か見えない、白くて薄い膜のようなものを感じるようになった。勉強には不自由しなかったが、その違和感に耐えかねて、学校を休むようになった。


 恵理也はなんとか柊一を学校に引っ張っていこうとして、車で送り迎えまでしてくれたが、それでも出席日数が足りなかった。


 転校することになり、学校から三者面談で呼び出された。そのために誠が帰国してきた。柊一はてっきり恵理也が来るものと思っていたから、それは意外に思った。

 

『柊一がやりたいことをやっていいんだよ』

 帰り道、誠は静かに言った。柊一は何も答えなかった。

 誠はわざわざ東京のマンションに柊一を呼び戻して受験させた。そのくせ高校に合格した時にも静かに笑って『おめでとう』と言っただけだった。

 その時と同じような穏やかな口調で言うので、その真意を測りかねた。


 正岡にもすぐ留年の話をした。

 誠と同じようなことを言われたが、それはすんなりと腹に落ちた。

『通信いくなら時間も増えるだろうし、また中学ん時みたいに、おれに勉強教えてくれよ』と冗談めかすので、柊一も口角を上げて、『授業料取るか』と返した。

『……飯作るから、それはまけてくれ』

 そんなやり取りをしたからか、定期的に正岡は柊一のマンションを訪ねてくる。それが正岡なりの気の配り方なのだと思う。そして、それに甘えている自分自身に、薄々気がついてはいる。


 鏡に映る少し痩せた身体から、柊一は目を逸らした。





三、


 浴室を出て、着替えてからリビングに戻るとソファーで正岡と恵理也が待っていた。

「おお、ようやくズボンはいたな」

恵理也が言いながらソファーから立ち上がった。

「おれはそろそろ帰るよ」

正岡も同じく立ち上がる。

「せっかくだから、一緒に降りるか……ほら柊一、おれたちも出るぞ」

 恵理也に言われて、しぶしぶ柊一は玄関に向かう。寝起きで長湯したからか、ふらつくような感覚があった。それよりも、行きたくないという気持ちが強い。


 玄関で二人が先に靴を履いているのを見て、柊一は軽い動悸を感じた。外出するのは一週間ぶりくらいだった。外の強い日差しを思い出す。


「柊一……?」

 正岡が振り返った。

 柊一は床にしゃがみこんでいた。正岡は靴を脱いですぐに傍に寄る。


「おい、どうした」

恵理也も慌ててドアを閉めた。


「大丈夫か?」

正岡は静かに柊一の耳元で聞いた。ようやく柊一は首を振った。それを見て正岡が言った。

「伯父さん、しばらくおれが付き添うんで、出かけてもらって大丈夫ですよ」

 それは柊一が最も望んでいた言葉だった。正岡は続ける。

「体調が悪いわけじゃないんです……最近こういうことがたまにあって」



「まぁ、おれも何度かこういうのには遭遇しているよ」

恵理也も、呆れたような声で返す。


「でも、さすがに……」と、恵理也が何か続きを言う前に、柊一はどうにか力を振り絞って、正岡のシャツの裾を掴んだ。


恵理也はため息をついた。

「……わかったよ。……柊一、休んで調子整えとけよ。……じゃあ、正岡君すまないね」



ゆっくりとドアの閉まる音が、柊一の耳にやけに大きく聞こえた。


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