銀河の涸れるまできみを想ふ

青出インディゴ

序 章 イブとユーマ

 はじめに言葉ありき。

 光の中に満ち足る言葉が、雨のごとく降り注ぐ。

「おめでとう」

「まあ、かわいい」

「女の子ですよ」

 子にとって、言葉は粒子であり、波動であり、実体であり、虚構であった。子は世界にあった。あるいは世界は子にあった。世界は渾沌であった。子は渾沌であった。

 言葉が光の線分を描く。


 お、め、で、と、う


 ま、あ、か、わ、い、い


 お、ん、な、の、こ


 名詞に、感動詞に、助詞に、形容詞に、線分が渾沌を切り刻んでいく。

「イブはよく笑うね」

 主語が生まれ、不可分の状態にあった世界と子を切り分けようとしている。子は初めての喪失を味わおうとしている。


 子は乳を飲む。乳は子であった。子が望めば、乳は補給されたから、子は乳を「イブ」の内にあるものと認識した。

 子は手を見た。手は子ではなかった。手は子の思う通りには動かなかったから、「イブ」の外にあるものと認識した。

 世界はもはや渾沌ではなかった。言葉が絶えず世界をかたち作り続けていた。

 どうやら世界には「イブ」という装置が存在し、それを通して世界は認識されるらしい。光を感知しはじめてから、子の意識は指数関数的に成長し続けている。


 異変は、大地が百五十回ほど回ったある日の夕暮れに訪れた。どんなに望んでも、乳の補給がされない。なにが起こっているのかわからなかった。いままで乳は眼球と同じように、足と同じように、イブの望み通りに稼働できるものだった。空腹でたまらなかった。なぜ今日に限って動かないのか理解できなかった。イブは泣きわめき、眼球をぐりぐりさせ、足をばたばたさせた。

 やっとベビーベッドの上に人影が来た。「パパ」だ。パパは泣いていた。イブと同じくらいの激しさで。

「かわいそうに!」

 とパパは叫んだ。かわいそう、という言葉をイブはそれまで聞いたことがなかったが、なにかよくないことだという感じがした。湿疹で首元が痛痒くなるとか、ガラガラおもちゃがベッドから落ちて取れなくなるといった類いの。

「かわいそうに」パパはもう一度言った。イブというより自分に話しかけているようだった。「さあ行こう」

 どこに? イブは思う。望み通りに抱き上げられたから、パパはまだイブの一部なのだろう。天井が近くなり、視界が揺れる。抱っこ紐に入れられる。珍しくパパがうさぎのリュックサックを手にしている。中にはおむつに粉ミルクセット、着替えなんかが入っているやつだ。長時間の外出になるのだろうか?

 パパの尻から耳障りなメロディが流れた。パパの尻は時おりこのメロディを出す。のっぺりした、脳を直接叩きつけるような機械音。パパが薄い板を持ち出して耳と肩のあいだに挟んだ。これは知っている。スマートフォン。家の中でよく名前が挙がるから。

「あ、あー母さん……おれもまだわからない。これから病院に行く。だからそっちで……知らないよ、なにがなんだか! 信号待ちだったらしい……どっちにしろ……まさか! とにかく行ってみないと……じゃ」

 どういうこと? イブはいぶかしむ。さっきと情報の深度が違うじゃない。かわいそうに、は言わないの? おばあちゃんにははっきり言えないけど、本当は知ってるのね。知ってて、言えないのね。いまから病院に行けば、きっと全てが判然とするのね。そこにはパパのおじいちゃんおばあちゃん、ママのおじいちゃんおばあちゃん、ミカおねえちゃんが集まってるんだわ。そしてママがいるのね。

 その日以降、私という主体から乳が消えた。


◇◇◇


 私がここに来たのは今朝八時。透明な自動扉の向こう側は白い陽光でいっぱいで、たくさんの人間が行列を作っているのが見えた。ほとんどが年寄りだったけれど、中には子供や若者もいた。

 白と言ったら、ご覧なさいよ、私の花びら。この絹のような白。瑞々しい緑の茎。大きくてつやつやとした陶器の鉢。私は胡蝶蘭。この総合病院のエントランスホールのプリマドンナよ。

 八時半。

 待ちかねた群衆が、ドアめがけて波となって押し寄せる。波は一瞬だけ漏斗に注がれるようにくびれ、やがて怒濤のごとく拡散していく。まったく呆気に取られる光景ね!

「ママー、注射しない?」

「しないよー」

 心配げな子供に、とぼける母親。

「こっちは七時から並んでるのになんで二番なんだ!」

 荒ぶる老人。

 大した喧騒だった。温室育ちの私には、なにもかもが興味深い体験だわ。

 十時。

 人の流れも途切れがちになったころ、自動ドアの開く空気音が聞こえて、若いカップルが入ってきた。なんだか深刻げな顔つき。若いといっても、そうだな、どちらも三十代半ばくらいかしら。男のほうはスーツ姿。仕事を抜けてきたのかな。女のほうは灰色の綿地のロングワンピース。ほっそりしてるのにおなかが出てる。ゆっくりゆっくり歩くふたり。この時間までにエントランスを通るこういう組み合わせのふたりは大抵、この世の全てを手中にしたってみたいに幸せそうだったから、そうじゃないのを見てなんだか不思議に思った。

 外気が入ってきて、すかさず花びらをそよめかせる。動きに気づいた女が私を振り向いた。

「あら、胡蝶蘭。きれい」

「そういう名前なの?」

「うん。ランって名前はどうかな」

「最近名前のことばっかりだねえ」

「あなただって」

 和やかな戯れは、だけどすぐに不安げな表情に戻る。ふたりは通りすぎる。とぼとぼと。

 光栄だわ。私の名前を付けてくれるとしたら。ある意味では名付け親よね。病院エントランスの主としてこれ以上誇らしいことってないわ。

 だけど彼らはいったいどうなるのかしら。なにを聞きに来たのかしら。あんなにも肩を落として、手を震わせて。ランはどうなるの? 知りたいけど知る術はない。ああ、私に足があったなら。

 正午。

 ドアのすぐ横にワゴン車が止まった。後部トランクの閉まるバタンという音が、こちらの空気まで震わせる。私の鉢が少しだけ跳び跳ねた。ほどなくして、宅配業者が荷台いっぱいにランチボックスを積み重ねて入ってきた。あんなもの定期的に摂取しなきゃ生きていけないなんて、動物って滑稽ね。

 午後二時。

 背の高い白髪の老人が入ってきて、私の横にキャリーバッグを置いた。壁に掲示された案内図を見ているみたい。人差し指で文字をなぞる。

「えーと、入院病棟……」

 受付ロビーのほうから白い上下の制服を着た女がやってきて、老人の隣で立ち止まった。

「あら、オーノさん、こんにちは」

「あっ、どうもお世話になります」

「入院、今日からですよね」

「ええ。病棟の場所を見てるんですが、どうも複雑で」

「広いですからね。私も行くところだったんで、ご一緒しましょう」

「すみません」

「付き添いのかたは?」

「ぼくは独り身ですので」

「ああ、それじゃなにかと不便でしょう」

「ずっとそうやってきましたから。ご迷惑はかけないようにします」

 看護師は笑いながら頼もしげに、なんでも言ってくださいね、と言う。痩せこけた老人は曖昧に笑いを返している。彼が気の毒で居たたまれなくなった。いままで何度こんな場面をやり過ごしてきたのだろう。「なんでも言って」はなんでも言うべきではないことを味わってきたのだろう。その笑みにはそんな人生全てが込められていた。手があったらそっと背中を支えてあげたかった。そのピンと伸びた背中を見ると、かつて彼は軍人だったのではないかという空想がよぎった。

 ドアがあいて男の子が駆け込んできた。風が吹き抜け、私はそよいだ。

 老人と看護師がこちらを見下ろした。老人が私の花びらを指で弾くのでくすぐったくなる。硬くてしわしわの指。

「きれいな花だ」

「ね。ずっと切らさないんですよ。院長先生が花がお好きでね」

「ショーン、待ちなさい!」

 疲れはてた顔の母親が追いかけていく。子供はもうロビーのほうへ行ってしまっている。つむじ風をやり過ごしたあとのように、老人と看護師は目をしばたいた。

「じゃ、行きましょうか」

「すみません」

 キャリーバッグを引く控えめなカラカラという音が遠ざかっていく。

 またドアがあき、製薬会社の社員たちだろうか、スーツ姿の見映えのする男たちがアタッシュケース片手に歩いていく。こちらには目もくれず、いかにも健康そうなせかせかとした足取りで有能さを装っている。

 その男たちとすれ違うようにして、カップルがホールに向かって歩いてくる。あのふたりだわ。ランの両親。男はいっそう青い顔で、女の頬には隠そうともしない涙の跡が幾筋もついている。ふたりはまたとぼとぼと私の前を通りすぎる。

 不意に男の子がふたりの前に回り込んできて、両手をピストルの形にして撃つ真似をし始めた。

「これでもくらえ、アルタイル星人!」

「ぐわー、やられたー!」

 男が大げさに胸を押さえる。母親があわてて駆けつける。

「ショーン!」

 男の子は母親に引っ張られて行ってしまった。ふたりはその様子を見送り、また歩を進めた。

 ドアがあく。女が足を止めた。男を見上げて唇をひらこうとしている。午後の陽差しが、ふたりの横顔のシルエットを浮かび上がらせる。

「覚悟はできてる?」

 男がきつく目をつぶる。

「覚悟はできない。これはたぶん運命で、受け入れるか受け入れないか、なんだと思う」

「運命か……そうだよね」

 ドアが閉じる。ガラスの向こう、ふたつの背中が遠ざかる。

 午後四時。

 外来受付時間は終わり、ほとんど出入りする人もいなくなった。静謐さが場を覆っている。ロビーはときどき医療従事者や入院患者が通りすぎるだけ。こうして、ゆっくりと夜に向かっていくのね。なかなか興味深い一日だった。明日もエントランスホールの主役は私よ。

 遠くからサイレンの音が聞こえてきた。葉脈がざわつく不協和音。エントランスホールもロビーもなにひとつ変わらない。誰も急ぎもしない。だけど、空気に静かな緊張が生まれ始めている。

 サイレンの音量は徐々に高まっていき、聴覚を支配し、耐えきれないほどになって、唐突に止まる。

 きっと到着した患者は、救急搬入口から運び込まれるんでしょうね。私の管轄外だわ。だから大丈夫。葉のざわつきよ、静まって。

 どれくらい経ったのかわからない。サイレンが止まったのと同じくらい唐突にドアがあき、人々がなだれ込んできた。老夫婦がふた組、若い男と女。男は抱っこ紐で赤ちゃんを抱えている。赤ちゃんはすやすやと眠っているみたい。だけど大人たちは誰も彼も全身に絶望が取り憑いたみたいだった。

「こっちでいいの? 兄さん」

 若い女が早口で男に問う。男はあやふやな口調で答えている。

「違ったかも。救急口かも」

「救急のほうでしょう、そりゃあ」

 老いた女が刺々しく口を挟む。たぶん彼女の夫と思われる老いた男が、私のほうへ駆けよって案内図を指差す。

「中からも行けるみたいだぞ」

「なら早く行こう。ほら、兄さん」

「う、うん」

 いきなり衝撃が走る。男の靴先が鉢に当たったのだ。土がこぼれ落ちる。

「大丈夫?」

 ええ、大丈夫よ。見上げると、女の視線は彼女の兄にあった。失礼しちゃう。家族連れはもう私に背中を向けていた。男の声が小さく聞こえる。

「大丈夫」

「イブの抱っこ代わる?」

「大丈夫」

 どこもなにもなってないわよね。私が自分の体を点検しているあいだに、彼らは慌ただしくホールの奥へ行ってしまった。残響のようにしばらく花びらが震えていた。

 ロビーの反対側から白衣をなびかせた壮年の男が悠然と歩いてきた。

 男は私の前で立ち止まった。こぼれた土を見て眉を上げると、両手でかき集めて鉢に戻し、時間をかけて丁寧に整えてくれた。それから顔を近づけたり遠ざけたりして観察されるものだから、気高くも私は相手に負けないくらい悠然として咲いていたわ。

 そのまま身を起こしてロビーのほうへ行ってしまう。彼、きっと院長先生ね。

 窓の外はもう夕暮れ。

 どこからか、泣き声が聞こえてきた。


◇◇◇


 ハッと目が覚めた。

 いつの間にかデスクで寝ていたみたい。やばいやばい。在宅勤務でよかった。時計を見る。なんてこと。就業時間を過ぎている。とっとと退勤処理しなくちゃあ。

 シャワーを浴び終わるころにはユーマも帰って来た。いつものごとくふたりで食卓に着く。

「在宅はどう? 順調?」

 ペーパーボックスの中の中華デリをつつきながら、上目遣いに尋ねられる。私は手をひらひらさせる。

「まあまあって感じ。今日はうたた寝しちゃった」

 ユーマは眉を曇らせる。

「やっぱりまだ具合悪いんじゃない? 無理しないで」

「うーん、まあ大丈夫。産休まであと少しだし」

「ならいいけど」

「それより聞いて。寝てるときに変な夢見たの。私はその夢の中で、鉢植えの胡蝶蘭なの」

「胡蝶蘭って? 花?」

 私はうなずいた。このエビチリ、ちょっと辛味が強い。ユーマは笑っている。

「変なの」

「変でしょ。で、私はどこかの大きな病院のエントランスホールに置いてあるの」

「ほう、具体的」

「で、一日中そこを通り過ぎる人々を観察してる」

「ありそうな話だ」

「ちゃかさないでよ。でね、言いたいのは、私はその夢を見てるとき、夢を見てるとは一度も思わなかった」

「夢ってそんなもんだろ」

「うん、そう。私は胡蝶蘭そのものだった。それで見たものに興味を持ったり、同情したり、喜んだりしてて、胡蝶蘭としての自分の生き方に満足してた。ねえ、どう思う?」

「うーん?」ユーマはスプーンを持ちながら天井を見上げる。「誰だって、自分の生き方に満足してるってことはいいことなんじゃないかな」

「あなたは? 満足してる?」

「うーん……まあまあね」

 歯切れが悪いな。

「きみは?」

「私もまあまあかな。イブとしての私に」

「そりゃなにより」

 私は一瞬だけ笑顔になったけれど、すぐに身を乗り出した。

「だけどね、いま胡蝶蘭が私の夢を見てるのかもしれないよね?」

「言いたいことはわかるよ……」彼はゆっくり言った。「だけどさ、そしたら、おれも夢の登場キャラってこと? そいつはちょっと傲慢じゃないかなあ。世界にはきみしかいないわけじゃないぜ」

「もちろん。でも、それって実感できないじゃない?」

 だから……だから……私は言い淀んだ。言葉が私を切り刻んでから、私は私という枠組みの中でしか存在できなくなってしまった。乳児のときは、世界もパパもママも私だったのに――ああ、ママも。

 ユーマはあきれたように首を振ると、再びペーパーボックスに注意を向けた。口をもぐもぐさせながら片手でリモコンを操作し、テレビを点けた。浮遊感のあるメロディが空間に溶けていく。それはこんな歌詞だった。

 Connecting to process

「あ」

 お腹が蹴られている。内側から。ユーマは一瞬だけこちらを見たけれど、すぐに視線を下げて、サラダからキュウリを選り分け始めた。私はなにも伝えなかった。

 テレビの中では、スパンコールの光をまとった誰かが歌い続けている。

 System is born

 Hello, world

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