第3話 初デート、本丸にて
初めてのデートで、お城に行きたい。
そんなことを言える女ではなかった。
栞奈、二十五歳。
歴史好き歴、十五年。
恋愛経験、二週間。
正確には、彼氏ができてから二週間だった。
悠斗とは同じ職場で、知り合って一年ほどになる。
最初は、休憩時間がよく重なるだけの同僚だった。
栞奈が本を読み、悠斗が隣で昼食を食べる。
「今日も本?」
「うん」
「何読んでるの?」
「普通の本」
「普通の本って何」
「普通は普通」
栞奈はいつも、本にカバーをかけていた。
別に歴史が好きなことを隠しているわけではない。
ただ、わざわざ人に言うことでもないと思っていた。
それに。
戦国武将だの城郭だのを語り始めると、自分が少々――いや、かなり面倒な人間になることは自覚していた。
悠斗はそれ以上聞かなかった。
だから栞奈は、知られていないと思っていた。
そのうち仕事帰りに駅まで一緒に歩くようになった。
何度か食事もした。
話していると楽しかった。
悠斗からメッセージが来れば嬉しかった。
でも、それが恋なのかと聞かれると、栞奈にはよく分からなかった。
二十五年間、一度も経験したことがなかったからだ。
一か月ほど前。
仕事帰りに、悠斗が言った。
「俺、栞奈のこと好きなんだけど」
「……え?」
「付き合ってほしい」
栞奈は黙った。
嫌ではなかった。
むしろ、嬉しかった。
ただ、二十五年間一度も使ったことのない答えを、突然求められている。
「……ちょっと考えてもいい?」
「もちろん」
それから数日間、栞奈は考えた。
悠斗と付き合っている自分。
悠斗と休日に出かける自分。
悠斗のことを彼氏と呼ぶ自分。
どれも少し恥ずかしくて、でも嫌ではなかった。
むしろ、想像すると少し嬉しかった。
数日後。
仕事帰りの駅で、今度は栞奈から悠斗を呼び止めた。
「この前の話なんだけど」
「うん」
「……私でよければ」
そうして栞奈は、二十五歳にして初めて彼氏というものを手に入れた。
そして二週間後。
恋人になってから初めて、二人きりで休日に出かけることになった。
「どこ行きたい?」
そう聞かれて、栞奈は三秒考えた。
本当は三秒も必要なかった。
行きたい場所なら、いくらでもある。
城。
城跡。
天守。
櫓。
石垣。
堀。
なんなら土塁でもいい。
だが、それらをすべて飲み込んで、
「どこでもいいよ」
と答えた。
*
「ここ、来たことある?」
駅を出たところで、悠斗が聞いた。
「ないよ」
嘘だった。
三回来たことがある。
しかも、そのうち一回は一人で。
「城あるらしいよ」
「へえ」
知っている。
「結構有名みたい」
「そうなんだ」
知っている。
「行ってみる?」
「うん、いいよ」
行きたい。
ものすごく行きたい。
栞奈は平静を装いながら、心の中で小さく拳を握った。
初デート。
緊張する。
昨夜は服を三回着替えた。
メイクの動画を二時間見た。
会話が途切れたとき用の話題を、スマートフォンに十個メモした。
その結果、選ばれた場所が城。
ホームだった。
いや、デートとしては完全アウェーなのだが、歴史的にはホームだった。
「おお、石垣すごいな」
悠斗が言った。
「うん」
栞奈は短く答えた。
――そこ、もっと見て。
心の中で思う。
――その角度からじゃない。もう少し右。
「昔のままなのかな」
「どうだろうね」
知っている。
めちゃくちゃ知っている。
今すぐ説明できる。
石垣の積み方から、修築された年代まで説明できる。
でも、しない。
今日の自分は歴史好きの栞奈ではない。
彼氏と初デートに来た、普通の二十五歳の女なのだ。
「あれ、何だろ」
悠斗が建物を指差した。
「櫓」
反射的に答えた。
「あ、櫓なんだ」
「……多分」
危ない。
栞奈は口を閉じた。
石垣沿いを歩いていると、制服姿の少女とすれ違った。
少女は少し先で足を止め、石垣の隙間を覗き込んでいた。
栞奈は気にも留めず、悠斗の隣を歩いた。
*
「天守って、昔からこれなのかな」
来た。
難問である。
いや。
栞奈にとっては簡単すぎる。
だからこそ難問だった。
「どうだろうね」
「栞奈、歴史とか興味ない?」
「まあ……普通かな」
普通。
自分で言って胸が痛んだ。
家の本棚二段を戦国時代関連で埋めている女が、普通を名乗っていいのだろうか。
「俺、全然分かんないんだよな」
「そうなんだ」
「有名な武将くらいしか知らない」
「それで十分じゃない?」
笑いながら答えた。
その直後、案内板を見て悠斗が言った。
「この人って、ここで戦ったの?」
栞奈の足が止まった。
違う。
ものすごく違う。
その人物が城主だった時期と、ここで大きな戦いがあった時期はずれている。
訂正したい。
訂正したい。
訂正したい。
「……違うよ」
負けた。
「そうなの?」
「この人が城主になるのは、その戦いより後だから」
「へえ」
「そもそも、この辺りって当時は――」
そこまで言って、栞奈は止まった。
「……まあ、いいや」
「なんで?」
「長くなるから」
「いいじゃん」
「いいの?」
「うん」
栞奈は迷った。
「じゃあ、ちょっとだけ」
五分後。
「――っていう事情があって」
「なるほど」
「それで、この城が重要になってくるんだけど」
「うん」
そこまで話して、栞奈は我に返った。
「……ごめん」
「何が?」
「ちょっとじゃなかった」
悠斗が笑った。
「確かに」
栞奈は消えたくなった。
初デートである。
もっと可愛い話をする予定だった。
好きな食べ物とか。
旅行したい場所とか。
子どもの頃の話とか。
なぜ自分は城主交代の経緯を熱弁しているのだろう。
*
天守を出て、売店へ入った。
栞奈はなるべく歴史関係の商品を見ないようにした。
見たら欲しくなる。
欲しくなったら買う。
買ったら、ばれる。
「栞奈」
「ん?」
「あれ何?」
悠斗の目線の先を追った。
売店の一角に、御城印の見本が飾られていた。
終わった。
「……御城印」
「ごじょういん?」
「うん」
「御朱印みたいなもの?」
栞奈は唇を噛んだ。
「似てるけど、厳密にはちょっと違う」
「どう違うの?」
罠だ。
これは罠だ。
しかし聞かれた以上、間違った認識のまま帰すわけにはいかない。
「御朱印は神社とかお寺で参拝の証としていただくもので、御城印は登城記念として販売されてるものなの。城名とか家紋が入ってたりして、基本的には紙でいただくことが多くて――」
止まらなかった。
城ごとのデザイン。
家紋。
限定版。
季節限定。
気づけば栞奈は、壁に飾られた見本を指差しながら、悠斗に説明していた。
「それでね、御城印をまとめておける御城印帳もあって、私も――」
止まった。
私も。
言ってしまった。
「持ってるの?」
「……うん」
「何枚くらい?」
「……四十七枚」
「……そんなに?」
ほら。
引いた。
絶対に引いた。
「引いた?」
「いや」
「今、一瞬引いたでしょ」
「びっくりはした」
「同じじゃん」
「違うって」
悠斗が笑った。
栞奈は、さっきまで指差していた御城印からそっと目を逸らした。
「ごめん」
「なんで謝るの?」
「こういうの、興味ないよね」
悠斗は少し黙った。
「まあ、城については栞奈ほど詳しくないけど」
「ほら」
「でも」
悠斗は栞奈を見た。
「今日、一番楽しそうな顔してる」
「……え?」
「ずっと緊張してたでしょ」
図星だった。
「してない」
「してた」
「してない」
「俺が何か聞くたびに、三秒くらい考えてから答えてる」
ばれていた。
栞奈は何も言えなくなった。
「でもさ」
「なに」
「御城印、買わないの?」
「……買う」
「やっぱり」
そこで、栞奈はふと思った。
「もしかして」
「ん?」
「私が歴史好きなの、知ってた?」
「うん」
「……いつから?」
「結構前から」
「なんで?」
「本」
「カバーつけてたけど」
「うん」
「じゃあなんで分かるの」
悠斗が少し気まずそうな顔をした。
「……たまに見てた」
「何を?」
「ページ」
「覗いてたの?」
「覗いてたっていうか、見えたっていうか」
「覗いてたんじゃん」
「ちょっとだけ」
栞奈は悠斗を睨んだ。
「で、何が見えたの」
「城の見取り図みたいなのとか」
「縄張図」
「それ」
「ほかは?」
「鎧着たおじさん」
「誰?」
「分からない」
「顔は?」
「髭あった」
「それだけじゃ分かんないよ」
「だから分からないって」
思わず栞奈は笑った。
「じゃあ……今日ここにしたのも?」
「歴史好きなら、城は好きかなって」
「違ったらどうするつもりだったの」
「そのときは普通に観光する」
「適当」
「でも当たってたじゃん」
当たっていた。
思っていたより、ずっと深いところまで。
「御城印も知ってたの?」
「それは本当に知らなかった」
「天守は?」
「よく分かってない」
「櫓は?」
「今もよく分かってない」
「何なら分かるの?」
「栞奈が楽しそうってこと」
不意打ちだった。
栞奈は何も言えなくなった。
今日一日、自分は悠斗の目線ばかり気にしていた。
変な女だと思われていないか。
喋りすぎていないか。
引かれていないか。
けれど、その目線の先に何があったのかを、栞奈は一度も考えていなかった。
「……性格悪い」
「なんで?」
「なんとなく」
「理不尽だな」
栞奈は笑った。
それから少しだけ迷って、売店の人に声をかけた。
「すみません。御城印、一枚お願いします」
受け取った御城印を眺めていると、悠斗が横から覗き込んだ。
「それで四十八枚目?」
「そう」
「あと何枚くらい欲しいの?」
「いっぱい」
「いっぱい?」
栞奈は御城印を大事にしまった。
「じゃあ次」
「ん?」
「次のデート、私が決めていい?」
「いいよ」
「犬山城」
「即答じゃん」
「その次は彦根城」
「もう次の次?」
「その次が松本城で――」
「ちょっと待って」
「姫路城も行きたい」
「待って待って」
栞奈は止まらなかった。
城なら、十五年分の知識がある。
恋愛は、まだ二週間分しかない。
未経験なことは、今でも緊張する。
それでも。
次のデートの行き先くらいなら、もう三秒も考える必要はなかった。
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