第2話 平日の水族館

 クラゲには、心臓も脳もない。

 それでも一日じゅう、水の中で同じ速さの拍を打っている。開館前の暗い展示室で、ミズクラゲの傘がひらいて閉じるのを見ているのが、俺は好きだった。


 火曜の朝は、いつもの順番で始まる。

 水温を見て、濾過槽の音を聞いて、傘の縁が欠けた個体がいないかを一匹ずつ確かめる。ミズクラゲの餌は、孵化させたばかりのブラインシュリンプだ。スポイトで落とすと、オレンジ色の粒が水の中にふわりと散って、傘の下へ吸いこまれていく。


 日曜も月曜も、遥に返事ができなかった。

 『待ってたんだよ』の吹き出しの下で、入力欄のカーソルだけが、二日間点滅していた。


 卒業式の日のことは、覚えている。

 式のあと、クラスの写真撮影に引き止められて、三十分遅れて図書室へ走った。ブレザーの内ポケットには、三日かけて書いた手紙が入っていた。

 図書室の鍵は、もうかかっていた。ドアのガラス越しに見えた貸出カウンターは暗くて、誰もいなかった。


 待っていたのなら、どうして。

 その先を考えようとすると、十年分の何かが喉につかえた。


「朝倉さん、クラゲの前で固まらないでください。怖いです」


 後輩の浜口が、バケツを抱えて後ろを通っていった。

 俺は水温計の数字を見て、それから、ようやくスマホを出した。


『返事、遅くなってごめん』

『俺も、あの日、図書室に行った。鍵がかかってた』


 送ってから、しばらく画面を伏せていた。

 昼の休憩に入る前に、短い返事が来ていた。


『そっか』

『行き違いだったんだね。十年前の話だもんね』


 その下に、もう一つ。


『クラゲ、元気?』


 元気だよ、と打って、少し迷って、ミズクラゲの写真を一枚だけ添えた。

 既読はすぐについた。返事は来なかった。


◆


 昼休み、事務室で弁当を広げていると、館長の宇佐美さんに呼ばれた。


「朝倉くん、東京の水族館から話が来てる。お台場のでかいところ。来年の春、クラゲの展示を一から立ち上げるから、担当が欲しいんだと」

「……俺に、ですか」

「学会で君のポスターを見たらしい。返事は年内でいいそうだ。考えといて」


 東京。

 宇佐美さんは、それ以上何も言わずに茶をすすった。窓の外で、千本浜の松林が風に鳴っていた。


 行けば、この町の誰とも、十年に一度の同窓会でしか会わなくなる。

 そう思ったとき、真っ先に浮かんだのが、取り皿を持ったまま「そっちのほうが、いい」と言った横顔だったことに、自分で少し驚いた。


 弁当に戻ると、柏木から個別のメッセージが来ていた。


『同窓会おつかれ。二次会、宮下がお前追っかけてったってみんな騒いでたぞ』

『あと噂な。一ノ瀬、東京で旦那と部屋分けてるらしい。芹沢は旦那が同窓会の帰る時間まで決めてたって』

『で、お前、柚木と何話してた?』


 最後の一行には、返さなかった。


◆


 十五時過ぎ、深海魚の水槽に餌を落としていたときだった。

 ガラスの向こうで、こつこつと小さな音がした。


 奈々だった。

 ドラッグストアの紺のポロシャツに、白いカーディガンを羽織っている。胸にはお店のロゴの刺繍があって、それが布ごと前に押し出されて、少し斜めに歪んでいた。


 口の形だけで、「きた」と言っている。

 俺は餌のピンセットを持ったまま、どんな顔をすればいいのか分からなかった。


「年パス買っちゃった。三千円。安くない?」


 作業を終えて表に出ると、奈々は展示室のベンチで足をぶらぶらさせていた。

 休憩は四十分しかないのだという。


「朝倉、仕事してるとき、顔違うね」

「どう違う」

「なんか、ちゃんと大人の顔してる。同窓会のときは、ずっと困った顔してた」


 奈々は立ち上がって、タカアシガニの水槽に額がつくくらい顔を寄せた。

 青い光が、頬と、カーディガンの隙間から覗く白い首に揺れていた。


「このカニ、何年生きるの」

「長いと、百年って言われてる」

「百年かあ。……百年、同じ水槽で、同じ相手と暮らすの、どんな感じなんだろ」


 冗談の声ではなかった。

 俺が何か言う前に、奈々は腕時計を見て「やば、戻る」と走っていった。


◆


 閉館後、職員用の駐車場を出たところで、水色の軽自動車がハザードを点けていた。

 運転席の窓が下りて、奈々が顎で助手席を指した。


「乗って。ちょっとだけ」


 車は沼津港の駐車場で止まった。

 フロントガラスの向こうに、展望水門の灯りが縦に並んでいる。エンジンを切ると、車の中が急に狭くなった。


 奈々のスマホが鳴った。

 画面に「拓海」と出ていた。奈々は一度俺を見て、それから、そのままビデオ通話に出た。


「あ、奈々? 連休の件なんだけど、帰れたら帰るわ。まだ分かんない」


 ホテルの部屋らしい白い壁と、ネクタイをゆるめた男の顔。

 奈々の顔は、ほとんど見ていなかった。


「うん。分かった」

「じゃ、忙しいから」


 通話は、三十秒で切れた。

 奈々は画面を伏せて、ダッシュボードの上にそっと置いた。


「……今の、声、入ってないよね。朝倉の」

「黙ってた」

「知ってる。見えてたし」


 奈々は笑おうとして、うまく笑えずに、俺の二の腕に額をつけた。

 ショートボブの毛先が、半袖から出た腕にくすぐったく触れた。カーディガン越しに、あのやわらかい重みが、肘のあたりにそっと寄りかかってくる。


「ごめん。ちょっとだけ、このまま」


 俺は動かなかった。

 腕を引くことも、肩を抱くこともできずに、フロントガラスの向こうの灯りを数えていた。


「……拓海ね、会社の先輩の紹介だったの。九つ上で、落ち着いてて、大人で」


 腕に額をつけたまま、奈々がぽつぽつと話した。


「二十三で結婚して、最初の一年はよかったんだよ。休みの日に二人でホームセンター行ったりして。子どもは、そのうちねって言ってて」

「うん」

「そのうちって、いつだったんだろ。転勤決まって、じゃあ落ち着いたらって言われて、落ち着く前に、触られなくなった」


 その声を聞きながら、俺は奈々の夫の顔を思い出していた。

 画面の向こうの男は、ネクタイをゆるめながら、一度も妻の顔を見なかった。


「朝倉は? 彼女」

「二年前に振られた。それきり」

「うそ。なんで」

「……まあ、いろいろ」


 奈々はそれ以上聞かなかった。

 代わりに、額をつけていた腕に、今度は頬を乗せた。


 奈々の手が、俺の膝の上に置かれた。

 熱かった。その指先が、ジーンズの布をきゅっとつかんで、それからゆっくり、力を抜いた。


 顔を上げた奈々と、目が合った。

 近かった。息がかかるくらいに。奈々の唇が、何か言いかけて、ひらいて、止まった。


「……だめだ。ここ、明るい」


 奈々は体を離して、ハンドルに両腕を乗せた。

 耳まで赤かった。


「ねえ朝倉。金曜の夜、水族館、やってるんでしょ。夜のやつ」

「二十一時まで」

「行く。車で行くから、飲まない。旦那には、言わない」


 そこで一度、言葉を切った。

 ハンドルに頬を乗せたまま、奈々はこっちを見た。


「嫌だったら、来ないでって言って。今、言って」


 港の灯りが、奈々の目の中で揺れていた。

 俺は、何も言わなかった。


「……言わないんだ」


 奈々は小さく笑って、エンジンをかけた。


◆


 アパートの前で降ろされたのは、二十時前だった。

 水色の軽自動車は、ハザードを二回だけ点滅させて、狩野川沿いの道を遠ざかっていった。


 部屋の灯りをつけると、水槽のベタが、ガラスのそばまで寄ってきた。

 餌を落としてやりながら、俺は膝の上に残っているものを考えないようにしていた。ジーンズの布をつかんで、力を抜いた指の熱さを。


 スマホが二回、続けて震えた。


『さっきはごめん。明るいとこで、変なことしかけた』

『金曜、閉館したあと、朝倉の部屋、見てみたい。水槽あるんでしょ』


 打ちかけた返事を、消した。

 三通目は、少し間をあけて届いた。


『断るなら、金曜の私の顔見て、ちゃんと言ってね』

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