第11話 戻ってきてくれないか 

 鷲尾から連絡が来たのは、それから二週間後だった。

 業務の質問ではなく、一度話を聞いてほしいという依頼だった。

 紗和は断ってもよかった。

 それでも、昼休みの十分だけ、電話で話すことにした。もう、自分の答えが揺らぐ気はしなかった。

「久しぶり。元気そうでよかった」

 鷲尾の声は、以前より少し低かった。

「ご用件は何でしょうか」

「そんなに構えないでくれよ。俺も反省してるんだ」

 紗和は黙って続きを待った。

「君が、あんなにいろいろやっていたとは思わなかった」

「業務一覧は、以前から提出していました」

「そうなんだけど、実際にやると大変でさ」

 電話の向こうで、椅子がきしんだ。

「戻ってきてくれないか」

 紗和は公園の木を見上げた。

 葉の間から、明るい光が落ちている。

「会社からのお話ですか」

「いや、まず俺から。君がその気なら、上にも相談できるし」

 人事権を失った鷲尾には、待遇を約束する権限もない。

 それでも、まず紗和が動けば何とかなると思っている。

「今の職場で働き続けます」

「給料だって、相談すれば」

「戻るつもりはありません」

 鷲尾はしばらく黙った。

 次に出てきた言葉は、紗和の予想どおりだった。

「みんな、困ってるんだよ」

 風で枝が揺れた。

 紗和は、その揺れが収まるのを見てから答えた。

「皆さんで、相談してください」

「長年、一緒にやってきたじゃないか」

「はい。だから、十分な引き継ぎ期間を設けました」

「君は、そんなに冷たい人だったかな」

 昔なら、この一言で折れた。

 冷たい人だと思われたくなかった。面倒な人、感じの悪い人にもなりたくなかった。

 そのために、いったい何度、自分の予定を取り消しただろう。

 紗和は、静かに息を吸った。

「断ると冷たいと言われる関係には、戻れません」

 電話の向こうが静かになった。

「私がいなくても働けるようにするのが、管理職の仕事だったと思います」

 鷲尾は何も答えなかった。

 紗和は時計を確認した。約束した十分が近づいていた。

「これで失礼します。今後、個人的な復職のご連絡は不要です」

 通話を終える。

 指先が、少し震えていた。

 怖くなかったわけではない。

 切ったあとで失礼だったかと考え、もう一度かけ直したくなった。断った理由を、もっと柔らかく言い直すこともできる。

 紗和はスマートフォンを鞄にしまった。

 答えは、もう伝えた。

 相手が納得するまで説明し続けなくても、退職した事実も、新しい職場を選んだ気持ちも変わらない。

 けれど、怖いままでも断れた。

 紗和は鞄から小さな水筒を出し、お茶を飲んだ。

 会社に戻ると、律が新入社員向けの案内を抱えて待っていた。

「汐見主任、ちょっといいですか」

「はい」

「相談先の一覧を作ったんですが、僕も担当に入れてください」

 案内には、手続きごとの相談先と、代替担当者の欄があった。

「いいんですか」

「できるものは増えたので。わからないものまで、引き受けるつもりはないですけど」

「それで十分です」

 紗和は笑った。

 その日の打ち合わせで、新入社員への説明役は三人に分かれた。

 環が日程を確認し、誰か一人に負担が偏っていないか尋ねる。

 紗和は予定表を見て、正直に答えた。

「水曜日だけ、一本移していただきたいです」

「では、そこは私が」

 環が予定を引き取った。

 相談は、それだけで終わった。

 頑張れる理由を説明しなくてもいい。

 できない理由を、大げさに作らなくてもいい。

 席に戻った紗和は、昔の会社の番号を着信拒否にした。

 会社の正式な連絡窓口は、メールで残っている。

 スマートフォンを置くと、目の前の案内の修正に取りかかった。

 新しく来る人の名前を、一字ずつ確かめながら。

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