第3話
それから何時間経ったのか、何日経ったのか、最初はよく分からなかった。
気づけば白い部屋に座らされていた。
机と椅子。壁。蛍光灯。
どこにでもありそうな部屋なのに、そこだけ時間が止まっているみたいだった。
「では、確認からいきます」
年配の男は小さく俯き、手元の書類を見た。
名前。住所。勤務先。生年月日。
聞かれるままに答える。
「昨日起きた事故について、お聞きします」
その言葉で、胃のあたりが縮んだ。
「橋の手前で、前方車両が減速した。そこでアクセルとブレーキを踏み間違えた。そういう認識でよろしいですか」
「……はい」
「なぜ踏み間違えたと思いますか」
「分かりません。気が動転して……」
「何に対して?」
「え?」
「何に対して、気が動転したんですか」
答えに詰まる。
事故の直前、自分が何を考えていたか。
思い出したくなかった。
「……前の車が急に止まって」
「それ以前は?」
「……覚えてません」
年配の男は淡々と頷いた。
若い警官がメモを取る音だけが、部屋に小さく響く。
「事故後、車から降りていますね」
「……はい」
「被害者を確認しています」
「……」
「その後、再び運転席に戻り、発進している」
そこで初めて、男は顔を上げた。
「なぜですか」
胸が詰まる。
「頭が真っ白で……その、逃げようとか、そういう……」
「逃げようと思った?」
「……」
「思ったんですね」
言葉が、罠みたいに感じた。
「違います。違うというか……そうじゃなくて……」
「では、どういう意味ですか」
汗が出てきた。
暖房が効いているわけでもないのに、首筋がじっとり濡れる。
「……その場に、いられなくなって」
「被害者を見たから?」
「……はい」
「ご自身が轢いたと認識した?」
「……」
分からない。覚えていない。気が動転していた。
年配の男は書類をめくった。
「現場にいた複数の証言では、被害者は車両前方に倒れていた。あなたはそれを見てから発進している」
一拍。
「二度、轢いています」
言葉が、机の上に置かれたみたいだった。
重くて、冷たい。
「……違う」
小さく漏れた。
「違う?」
「違う……そんなつもりじゃ……」
「事実を確認しているだけです」
足元で、誰かが揺れている気がした。
机の下。視界の端。黄色っぽい布が、一瞬見えた。
「どうされました?」
年配の男の声で我に返る。
「……いや」
「体調が悪いですか」
「……大丈夫です」
心臓が嫌な打ち方をしている。
「続けます」
やめてくれ、と思った。
「事故前に飲酒は?」
「前日の夜だけです」
「睡眠は?」
「……あまり」
「何時間ほど」
「二、三時間……」
「精神状態は?」
「普通です」
「不安や動揺は?」
「……少し」
「何に対して?」
またそこに戻る。
口の中が苦い。
「……変なやつに会って」
言ってしまってから、後悔した。
年配の男の眉がわずかに動く。
「変なやつ?」
「……昨夜、路地で」
「知人ですか」
「違います」
「特徴は」
「黄色い服着てて……なんか、揺れてて……」
「揺れていた?」
「……踊ってるみたいに」
若い警官が初めて顔を上げた。
その口元が、笑ったように見えた。
「アホウ、アホウ」
誰かが言った気がした。
反射的に椅子を蹴って立ち上がる。
「誰や!」
椅子が倒れる。
机の脚が鳴る。
二人の男が驚いた顔でこちらを見る。
「落ち着いてください!」
「今、言うたやろ!」
「何をですか!」
「アホ––––」
そこで止まる。
部屋は静まり返っていた。
蛍光灯の低い唸りしか聞こえない。
警官は困惑した顔でペンを持ったまま固まっている。
誰も何も言っていない。
自分の荒い呼吸だけが響く。
「……座ってください」
年配の男が、少しだけ声を強くした。
その言い方が、ひどく恥ずかしかった。
ゆっくり椅子を起こし、座り直す。
「……すみません」
声が掠れた。
「疲れているんだと思います」
慰めるような口調だった。
その優しさが、逆に惨めだった。
「先ほどの人物についてですが」
まだ続けるのか。
「その人物が、事故に関係していると思っていますか」
「……分かりません」
「見えた?」
年配の男が静かに聞く。
「事故現場で、その人物を見た?」
「……気のせいです」
「気のせい?」
「……たぶん」
「そうですか」
それだけ言って、書類を閉じた。
「本日はここまでにしましょう」
終わったと思った。
助かったとは思えなかった。
立ち上がろうとしたとき、部屋の隅が目に入った。
壁際に、誰か立っていた。
黄色い服。半ズボン。
首だけが、ゆっくり揺れている。
「アホウはええぞお」
口が動いた。
「––––っ!」
思わず振り向く。
何もいない。
「どうしました」
年配の男が立ち上がっている。
若い男もこちらを見ている。
壁際には、ただのコート掛けが一本あるだけだった。
膝から力が抜けた。
その場に崩れ落ちる。
笑い声が聞こえた気がした。
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