第2話 母
凛が生まれた日、私はこの子だけは守ろうと思った。
病院の白い天井を見ながら、小さな手を握った。
こんなに小さい。
何も知らない。
何も選べない。
だから、私が選ばなければいけない。
この子のために。
*
凛が生まれた年、救命ID制度は大きな節目を迎えていた。
五年間の実証実験を終え、対象が全国民へ拡大されたのだ。
実証実験の対象だったのは、希望する子どもと高齢者。
迷子、誘拐、徘徊、遭難、災害。
テレビでは毎日のように、救命IDによって助かった人たちが紹介されていた。
「災害時の捜索を迅速化」
「迷子や誘拐への新たな対策」
「有事のみ位置情報を取得」
専門家たちは安全だと言った。
政府も安全だと言った。
チップには個人情報は保存されていない。
平時には位置情報を取得しない。
災害や重大事件など、法律で定められた場合に限って起動する。
そう説明していた。
五年間の実証で大きな問題は確認されなかった。
救助実績も積み上がった。
だから、全国民への拡大が決まった。
成人は原則加入。
未成年は保護者の同意。
凛を出産した病院でも、退院前に説明を受けた。
「お子さんの救命ID登録について、ご希望を確認します」
小さな凛を抱いたまま、私はパンフレットを読んだ。
周囲では、もう迷う人の方が少なかった。
「うちはお願いしました」
「すぐ終わったよ。予防接種より楽だった」
「これで何かあっても安心だよね」
みんな、安心したようだった。
私は怖かった。
どうしてみんな、そんなに簡単に信じられるんだろう。
一度、体の中に入れたものは戻せない。
今は「有事だけ」と言っている。
でも、十年後は?
二十年後は?
法律なんて変わる。
政権だって変わる。
誰がこの子の位置情報を見るのか。
誰がこの子を管理するのか。
そんなものを、どうして他人に渡せるのだろう。
母親なのは、私なのに。
*
夫はパンフレットを読んで、最初にこう言った。
「入れてもいいんじゃない?」
「迷子とか怖いし」
私は怒った。
「その“怖い”につけ込んでるんだよ」
夫は黙った。
「子どもを守るためって言われたら、親は断れないでしょ。それを利用してるんじゃない」
「でも有事だけだろ」
「そう言ってるだけじゃない」
夫は面倒そうな顔をした。
私は余計に確信した。
こうやって、みんな考えるのをやめる。
便利だから。
安心だから。
周りもやってるから。
それだけで。
私は違う。
私はこの子のことをちゃんと考える。
嫌われても。
変な親だと思われても。
凛を守るのは私しかいない。
*
保育園から何度か確認された。
救命ID未登録。
最初は書面だった。
翌年からはアプリになった。
「現在、お子様は救命ID未登録です」
毎年表示された。
私は毎年、
《登録しない》
を押した。
そのたびに少しだけ緊張した。
本当にいいのか。
もし何かあったら。
そんな気持ちが頭をよぎることもあった。
でも、そのたびニュースを見た。
救命IDで助かった子ども。
救命IDで発見された高齢者。
救命IDで瓦礫から救出された一家。
テレビは成功例しか流さない。
当たり前だ。
国の制度なのだから。
「ほら、やっぱり入れなくてよかった」
私は自分に言った。
*
制度はどんどん広がった。
外国人旅行者用の一時ID。
救命IDと本人確認制度の連携。
病院での身元照合。
大規模施設の災害時在館者確認。
便利になればなるほど、私は怖くなった。
みんな、気づいていない。
人間が番号になっていく。
ある日、凛が駅のポスターを見ながら言った。
「これ、私も入ってるんだよね?」
心臓が跳ねた。
「え?」
「救命ID。学校で習った」
凛は何でもないことみたいに言った。
「みんな入ってるって」
私は少し笑った。
「そんなこと気にしなくていいのよ」
「入ってる?」
「凛はお母さんがちゃんと守ってるから」
答えになっていなかった。
でも凛はそれ以上聞かなかった。
私は安心した。
まだ十五歳。
こんな難しい問題を理解できる年齢ではない。
大人になったら話せばいい。
自分で判断できるようになってから。
それまでは、私が守る。
*
事故の日、凛は友達と大型商業施設へ行っていた。
夕方、テレビに速報が出た。
爆発。
建物の一部倒壊。
私は最初、凛がそこにいるとは思わなかった。
LINEを送った。
既読がつかなかった。
電話をした。
つながらなかった。
十回。
二十回。
夫が帰ってきた。
「凛は?」
「わからない」
ニュースでは、救命IDによって七人の位置を確認したと言っていた。
七人。
その言葉を聞いた瞬間、体が冷たくなった。
夫が私を見た。
何も言わなかった。
言わなくてもわかった。
凛には入っていない。
*
現場へ行った。
警察に写真を見せた。
制服姿。
十五歳。
身長。
髪型。
最後に連絡が取れた時刻。
「救命IDは?」
聞かれた。
「……ありません」
担当者の顔がほんの少し変わった気がした。
責められたような気がした。
「入っていないんです」
もう一度言った。
「そうですか」
それだけだった。
でも私は言わずにはいられなかった。
「あれは任意ですよね」
「はい」
「国もそう言ってましたよね。強制じゃないって」
「はい」
「私たちは、ちゃんと考えて選んだんです」
担当者は黙っていた。
私はだんだん腹が立ってきた。
何なの、その顔。
選ぶ自由があると言ったのはそっちでしょう。
だったら、選んだ親を責めないで。
*
十時間後。
七人全員救出。
テレビ速報が流れた。
私は画面を消した。
夫は何も言わなかった。
「まだいる」
私は言った。
「凛はいるから」
夫は頷いた。
「絶対いる」
私は繰り返した。
救命IDがなくたって、人間は昔から人を助けてきた。
IDがなかった時代だって救助はあった。
みんな、機械に頼りすぎている。
本当の救助は人がするものだ。
人が、人を見つける。
凛は大丈夫。
私たちはちゃんとつながっている。
*
二十四時間。
三十時間。
四十時間。
夫が一度だけ言った。
「もし入れてたら」
私は遮った。
「今それ言う?」
「いや」
「今それ言うの?」
「ごめん」
私は泣いた。
悔しかった。
どうして今になってそんなことを言うんだろう。
私だって怖い。
私だって考えている。
でも、ここで救命IDのことを考えたら、全部が崩れる。
私は間違っていない。
間違っていない。
凛を守るために選んだ。
国に管理されないように。
この子の自由を守るために。
その私が、凛を危険にしたなんて。
そんなことあるはずがない。
*
五十八時間後。
電話が鳴った。
「娘さんと思われる方を発見しました」
私はその場に崩れた。
生きている。
生きていた。
夫と抱き合った。
「ほら」
私は泣きながら言った。
「帰ってきた」
夫は何も言わなかった。
「ちゃんと帰ってきたじゃない」
救命IDなんてなくても。
国に位置を知られなくても。
私たちのところへ。
凛は帰ってきた。
*
病院で見た凛は小さくなっていた。
顔色は悪かった。
何本もの管につながれていた。
でも生きていた。
私は手を握った。
「凛ちゃん」
反応はなかった。
「本当によく頑張ったわね」
涙が止まらなかった。
「私たちのもとに、自力で帰ってきてくれたのよね」
夫がこちらを見た。
私は続けた。
「国に無理やり戻されたんじゃなくて」
それを言った瞬間、胸の奥に何かが刺さった。
でも止められなかった。
「私たち家族の絆こそ本物だって、凛ちゃんが教えてくれたのよね」
凛のまぶたが少し動いた。
聞こえている。
そう思った。
「ありがとう、凛ちゃん」
*
医師は厳しいことを言った。
脱水。
圧迫。
神経障害。
腎機能。
運動機能。
今後どこまで回復するかわからない。
私は聞きながら考えていた。
でも生きている。
生きていればいい。
体が動かなくても。
学校に戻れなくても。
何ができなくなっても。
生きていてくれれば。
そう思った。
母親なら誰だってそう思う。
なのに、看護師たちの声が聞こえた。
廊下の向こう。
「IDなかったんだって」
「他の人、十時間だったでしょ」
「親の選択って怖いよね」
私は息を止めた。
何それ。
何を知ってるの。
私たちがどれだけ考えたか。
どれだけ怖かったか。
どれだけこの子を守ろうとしたか。
何も知らないくせに。
救命IDを入れれば正解なの?
国が言う通りにすればいい親なの?
私は違う。
私は考えた。
考えて、守った。
*
数日後、救命ID制度のニュースがまた流れた。
事故を受け、未成年の未登録制度を見直すべきだという議論が始まったらしい。
「保護者の思想により、子どもの救命機会が損なわれる可能性」
そんな字幕が出た。
私はテレビを消した。
思想。
その言葉が嫌だった。
思想じゃない。
愛情だ。
親として当然のことをしただけだ。
凛を、国家の管理から守った。
それだけだ。
*
夜、凛の呼吸状態が悪くなった。
医師や看護師が何人も入ってきた。
私は病室の隅へ下がった。
「凛ちゃん」
声をかけた。
「お母さんここにいるからね」
モニターが鳴っていた。
「大丈夫だから」
自分に言っているのかもしれなかった。
「ずっと一緒だから」
そのとき、凛の右手が動いた。
ほんの少し。
人差し指。
私は息をのんだ。
「先生!」
叫んだ。
「今、動きました!」
医師が確認した。
「凛ちゃん、もう一度できますか」
しばらくして。
また。
ほんの少し。
動いた。
私は泣いた。
「ほら!」
夫の腕をつかんだ。
「凛ちゃん、生きようとしてる!」
嬉しかった。
心の底から嬉しかった。
「私たちの声、聞こえてるんだよ」
夫は凛を見ていた。
何も言わなかった。
私は凛の耳元で言った。
「大丈夫」
「お母さんがずっと守ってあげる」
その瞬間。
凛の目から、
一筋だけ、
涙が落ちた。
私はそれを見て、
安心した。
届いている。
ちゃんと、この子に届いている。
そう思った。
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