第5話 初めての言葉

一歳を過ぎてから、俺の世界は少しずつ広がっていった。


まず、歩けるようになった。

とはいっても、最初から自由自在に歩けたわけじゃない。

一歩進んでは転ぶ。

二歩進んでは座り込む。

調子がいいと五歩くらい歩ける。

そして、調子に乗ると転ぶ。

「……」

俺は床に座り込んだまま、自分の足を見つめた。


痛い。

とはいえ、大泣きするほどではない。

俺はゆっくり立ち上がった。

そして、もう一度歩く。

一歩。

二歩。

三歩。

「レント」

母さんがこちらを見ている。

「こっちよ」

「……あ」

母さんが両手を広げる。

俺はそちらへ向かって歩く。

四歩。

五歩。

六歩。


そして――。


「おっと」

母さんの胸に飛び込んだ。

「よくできました」

 母さんが俺を抱き上げる。

俺は得意げに母さんの顔を見る。

この頃になると、歩くことが楽しくなっていた。


はいはいよりも速い。

視線も高い。

そして何より。

自分の意思で好きな場所へ行ける。

ただし。

「レント、そこは駄目よ」

母さんに捕まる。

「……」

台所。

火を使う場所。

「そこも駄目」

父さんの仕事道具。

「それも触らない」

農具。

「…………」

この家、触っちゃいけないもの多くない?

俺はそんなことを考えながら、また別の場所へ歩いていく。

「レント!」

母さんの声が飛んでくる。

逃げる。

俺はまだ一歳児だが、母さんとの追いかけっこだけは毎日のように行われていた。

     

一歳を過ぎた頃から、もう一つ大きな変化があった。


言葉だ。


赤ん坊の頃から、両親が何を言っているのかは理解できていた。

《言語理解》のおかげなのか。

それとも前世の記憶があるからなのか。

詳しいことは分からない。

だが、自分で言葉を話すとなると話は別だった。


頭では分かっている。

けれど、口が思うように動かない。

「ま……」

口を動かす。

「まー」

違う。

もう一度。

「ま……ま」

母さんが振り返る。

「……?」

俺は母さんを見る。

「ま……」

「どうしたの?」

「……」

俺はもう一度頑張った。

「ママ」


――言えた。


「…………」

母さんが固まった。

俺も固まった。

数秒後。

「……あなた!」

母さんが叫んだ。

「どうした?」

畑から戻ってきた父さんが駆け込んでくる。

「この子が!」

「レントが?」

「今、ママって……!」

「…………」

父さんが俺を見る。

「もう一回言ってみろ」

無茶を言う。

俺は母さんを見る。

「ママ」

「……!」

母さんの顔が一気に明るくなる。

「もう一回!」

「ママ」

「レント!」


母さんが俺を抱きしめる。

ぎゅっと抱きしめられて、少し苦しい。

でも。

嬉しそうな母さんを見ていると、俺も嬉しくなった。


「すごいな……」

父さんも笑っている。

「もう言葉を話せるようになったのか」

「まだ一つだけよ」

「それでも十分だ」

父さんが俺の頭を撫でる。

そして。


「じゃあ、次は父さんだな」

父さんが期待に満ちた顔で俺を見る。

「父さん」

「……」

「父さんって言ってみろ」

「…………」

俺は父さんを見る。

「……」

「ほら」

「……」

「父さん」

「…………」

「レント」


父さんが真剣な顔で俺を見る。

「父さん」

俺はしばらく黙っていた。

そして。

「……パパ」

「…………」

父さんが固まった。

母さんが吹き出す。


「ふふっ」

「おい」

「パパですって」

「いや、分かってる。分かってるが……」

父さんが少しだけ肩を落とす。

「俺は父さんなんだけどな」

「パパ」

「…………」

 父さんは苦笑した。

「まあ、いいか」

 そう言って、俺の頭を撫でる。

 俺は笑った。

 家の中に、三人の笑い声が響いた。

    

それから少しずつ、言葉が増えていった。

「ママ」

「パパ」

「ごはん」

「みず」

「おいしい」

簡単な言葉だけ。

それでも、言葉が話せるようになると、両親とのやり取りが一気に増えた。


「レント、おいで」

「いや」

「……」

母さんが固まる。

「今、嫌って言った?」

「いや」

「…………」

母さんが苦笑する。

「ちゃんと覚えてるのね」

前世の記憶がある俺としては当然なのだが。

それを説明するわけにもいかない。


だから。

「おいで」

「いや」

俺は首を横に振る。

「…………」

母さんがじっと俺を見る。

「レント?」

「……」

「お母さん、悲しいわ」

「…………」

ずるい。

それはずるい。

「……ママ」

「おいで?」

「……うん」

俺は母さんのところへ歩いていった。

「ふふ」


抱き上げられる。

俺は思った。

――母親って強い。

     

ある日の昼。

父さんが畑から戻ってきた。

「ただいま」

「おかえりなさい」

「今日はどうだった?」

「順調よ」

「そうか」


父さんが手を洗う。

そのまま食卓へ向かおうとして――。

俺は父さんの後ろについて歩いていた。

「レント?」

「パパ」

「どうした?」


俺は父さんの手を掴む。

そして。

畑の方を指差した。

「はたけ」

「畑?」

「うん」

「行きたいのか?」

「うん!」

父さんが少し驚いた。

「畑に?」

「うん!」

俺は何度も頷く。

父さんは母さんを見る。

「どうする?」

「少しくらいならいいんじゃない?」

「そうだな」


こうして。

俺は初めて、父さんと一緒に畑へ行くことになった。

     

「ほら、レント」

畑に着く。

土の匂いがする。

前世では、こんな土の匂いを感じることはほとんどなかった。


父さんが畑を耕している。

鍬を持ち上げる。

振り下ろす。

ザクッ。

土が掘り返される。

「これが畑仕事だ」

「……」

俺はじっと見ていた。

「大変だけどな」

父さんが笑う。

「土を耕して、種をまいて、水をやる」

「みず」

「ああ」

父さんが頷く。

「水は大事だ」

その言葉を聞いて。


俺は少しだけ胸がざわついた。

水。

海。

海洋支配。

俺の中にある力。

そして。

この世界から失われた海。

まだ一歳の俺には、それがどう繋がっているのか分からない。


でも。

父さんが畑に水を撒く。

土が湿る。

植物が水を吸う。

その光景を見ていると。

水というものが、この世界でどれだけ大切なのかが少し分かった気がした。


「レント」

 父さんが呼ぶ。

「やってみるか?」

「うん!」

父さんが小さな木製の道具を渡してくれた。

子ども用らしい。

俺はそれを握る。

土に当てる。

ザッ。

少しだけ土が動いた。

「おお」

父さんが笑う。

「上手いじゃないか」

「ほんと?」

「ああ」


俺は嬉しくなった。

もっとやってみる。

ザッ。

ザッ。

ザッ。

土を掘る。

別に大したことではない。

けれど。


父さんと一緒に畑に立っている。

それが妙に嬉しかった。

「大きくなったら」

父さんが言う。

「この畑を一緒にやろうな」

「うん!」

俺は元気よく返事をした。

その言葉を聞いて。

父さんは嬉しそうに笑った。

    

 その日の夜


俺はベッドの上で一人、今日のことを思い返していた。

畑。

土。

水。

家族。


俺は異世界に来た。

チート能力もある。

いつか魔法を学ぶだろう。

冒険者になるかもしれない。

海の謎を追うことになるかもしれない。

でも。


今はまだ、この生活が好きだった。

父さんと畑に立つ。

母さんの料理を食べる。

家族と笑う。

そんな普通の日々。

前世では、それが当たり前すぎて気づかなかった。


でも今は分かる。

幸せって。

案外、こういうものなのかもしれない。

そんなことを考えていると。

ふと。

窓の外に何かが見えた。

青い光。

前にも見た。

月明かりの中。

森の方で、ほんの一瞬だけ光った。

「…………」

俺はベッドから起き上がる。

窓へ近づく。

もう光はない。

ただの森。

静かな夜。

「……気のせいかな」

そう呟いた。

しかし。

窓の外。


畑の端に置かれた水桶の中で――

水が、誰にも触れられていないのに。

ほんの少しだけ。

波打った。

そして。

その水面に一瞬だけ浮かんだのは――

魚の形をした青い光だった。

「…………」

俺はそれを見つめる。

だが、次の瞬間には消えていた。

まだ一歳。

俺には何も分からない。

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