この物語で印象的だったのは、記憶喪失そのものよりも、「誰の目線から、記憶を失った夫を見るのか」という構造でした。
物語の軸にいるのは澪。夫・慧は事故によって、澪をもっとも愛していた頃の記憶で止まります。だから読者の前には、かつて自分を愛してくれた「昔の慧」が再び現れる。けれど澪だけは、その後の十年間――夫に裏切られ、愛人までできた時間をすべて覚えています。
慧にとっては「愛していた妻との時間」が現在として戻ってきたのに、澪にとってはそれがもう過去でしかない。この時間のずれが、物語全体を切なくしています。
さらに、慧が記憶を取り戻して自分の裏切りを理解した後も、澪の十年間が消えるわけではありません。記憶を失えば愛情まで消えるわけではなく、記憶が戻れば失われた時間が返ってくるわけでもない。その残酷さが、この作品の核だと感じました。
そして番外編の「急ぎさえすれば、いつだって間に合う」という記憶が、物語全体を静かに締めます。かつては間に合った愛情表現も、最後にはもう届かない。「昔の自分に戻った夫」と「もう昔には戻れない妻」の対比が、最後まで心に深く残る作品です。