第16話
第十六話:今川庵「湯殿」計画、そして奇言の主
「あ〜、お風呂に入りたいなぁ……」
今川庵の修繕が一段落し、畳の上で大の字に寝転がっていた莉子は、天井を見上げながら深く、深いため息をついた。
「莉子様、また何か奇妙なことを。先ほど盥にお湯を張り、体は綺麗に拭き上げたばかりではございませんか」
お茶の道具を片付けながら、藍が不思議そうに莉子を見つめる。
そう、この戦国時代には、現代のような「肩までたっぷりのお湯に浸かるお風呂」は存在しない。この時代で「風呂」と言えば、基本的に薬草を蒸した蒸気浴サウナのようなものか、そうでなければ藍の言う通り、温かいお湯で体を拭く「行水」が一般的なのだ。
「違うの、藍ちゃん! 拭くだけじゃダメなの! 温かいお湯の中に、こう、体をごぼーっと沈めて、一日の疲れをはぁぁ〜……って溶かすのが、現代の極楽なんだよ! 肩凝りも治るし!」
「お湯に、体を丸ごと沈める……?」
藍の目が、あからさまに「この人は何を言っているのだろう」という怪しむ光を帯び始めた。
「お湯に体を浸すなど、それではまるで、ご自身を大きな鍋の具材として煮込んでいるようなものではありませんか。やはり、現代の方々の考えることは、時に恐ろしすぎます」
「違うってば! 煮込まれるわけじゃないから!」
「ひゃぅっ! 莉子様、お湯でコトコト煮込まれちゃうんですか!? そんなのホラーです!」
海奈まで怯えだす始末。
「よし、こうなったら見せてあげるよ! 現代のお風呂の素晴らしさを!」
莉子の「お風呂に入りたい」という執念は凄まじかった。
さっそく近所の商人や職人を拝み倒し、手頃な大きさの鉄釜を調達。さらに、裏庭にレンガ代わりの石を積み上げ、簡易的なカマドを自作した。
「釜の底に直接足がつくと熱いから、この丸いスノコを沈めて、それを踏みながら入るんだよ。名付けて、莉子特製・五右衛門風呂!」
「ごえもん……? 誰ですかそれは。……莉子様、やはりどう見ても、人間を茹でるための大釜にしか見えないのですが……」
藍は、今川庵の裏庭に完成した「謎の茹で釜」を、五歩ほど引いた位置から、完全に不審なものを見る目で見つめていた。その視線は、もはや怪しい新興宗教の儀式を見守る信者のそれである。
「まあ見ててよ!」
薪をくべ、お湯がちょうど良い湯加減になったところで、莉子は簡易的なついたての向こうで着物を脱ぎ、いざ、大釜の中へ。
「ふぅ……あぁぁぁ…………極楽、極楽ぅぅぅ…………!!」
肩まで温かいお湯に包まれた瞬間、タイムスリップしてからのすべての緊張、箱根山での命がけの逃亡、ゴミ屋敷のDIYによる筋肉痛が、嘘のようにじんわりと溶けていく。莉子は釜の縁に頭をのせ、とろけるような笑顔で天を仰いだ。
ついたての隙間から、その様子を恐る恐る覗き込んでいた藍と海奈。
「……莉子様? 本当に、熱くはないのですか? 苦しくはないのですか? お肌が赤くなっていますが、茹であがっているわけではないのですか?」
藍の質問攻めが止まらない。その目は未だに疑念に満ちている。
「熱くないよ! すっごく気持ちいいの! 藍ちゃんも海奈ちゃんも、だまされたと思って一回入ってみてよ! 本当に、世界が変わるから!」
「い、嫌ですぅ! 私、お鍋の具材になるのは絶対に御免ですぅ!」
海奈は必死に首を横に振る。
「……私は、莉子様がただの奇行に走られたのではないと信じたいのですが。お湯をここまで無駄に使い、わざわざ薪を燃やして己を温めるとは……やはり、理解が追いつきませぬ」
藍は相変わらず冷ややかな、しかしどこか少しだけ「莉子が本当に気持ちよさそうにしている」ことに興味を引かれているような、複雑な視線を向け続けるのだった。
「もー、本当に最高なのに! いつか絶対に、二人もこの湯の虜にしてみせるんだからね!」
戦国時代の真ん中で、一人お風呂を満喫する12歳の今川当主。
その奇妙で温かいこだわりが、いつか今川庵の「当たり前」になる日を目指して、莉子は長湯を楽しむのだった。
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