第26話 家

 カタリナは、サン・ヴァレリオの街を見下ろす山腹行きのバスに乗った。

 窓の外には、赤茶けた岩肌と、古い石積みの壁。かつて鉱山で働く人々が暮らしていた集落の跡がみえた。


 バスを降りると、少し先に金色の三つの大きなドームと東国正教会式の十字架が見えた。

 カタリナは祈りを受け止めてきたその石造りの建物に思いを馳せた。


 彼女は扉を押し開けた。

 中はひんやりとしていた。壁には聖人たちのイコンが掲げられ、燭台には幾本もの蝋燭が灯っている。奥の祭壇には、金色の装飾が施された十字架があった。

 カタリナは後方の椅子に腰を下ろし、祭壇を見つめていたが、やがて胸の前で手を組み、目を閉じた。


 何を祈ればいいのか、すぐには思いつかなかった。

 エミリオが帰ってきますように。

 まず、その言葉が浮かんだ。


 それから、少し間を置いて、別の思いが胸の奥から湧き上がってきた。

 どうして一緒にいるのが私ではないのだろう。

 カタリナは目を開いた。

 祈りの最中に、そんなことを考えてしまった自分が嫌だった。


「何か、お困りですか?」


 声のした方を見ると、黒い修道服をまとったシスターが立っていた。年齢は四十代ほどだろうか。穏やかな顔をしている。


「いえ……少し、お祈りを」

「どうぞ、ごゆっくり。ここは、そういう場所ですから」


 シスターは微笑んだ。


「私はエウドキアと申します。この聖堂の世話をしております」

「カタリナです」


 エウドキアは、カタリナの隣に腰を下ろした。


「何か、心にかかることがおありのようですね」

「そんなに顔に出ていますか?」

「祈りに来られた方の顔は、よく見ていますから」


 カタリナは小さく笑った。


「……嫉妬しているんです」


 エウドキアは、何も言わずに彼女の言葉を待った。


「恋人がいるんです。軍人で、今は任務でこの街に来ています。彼と一緒に行動している女性がいて……その人のことが気になってしまって」

「その方は、恋人の方と親しいのですか?」

「軍の上官です。仕事ですし、私だってそれは分かっています。でも、二人が一緒にいるところを見ると、胸が苦しくなるんです」


 カタリナは膝の上で指を組み直した。


「自分でも、馬鹿げていると思います。彼女は仕事をしているだけなのに。私だって、彼の仕事を理解しているつもりなのに」

「嫉妬してしまうご自分が、嫌なのですね」


 カタリナは、エウドキアに紡ぐ言葉を探すうちに、自分が何に嫉妬しているのかに気づいた。


「彼は、自分を顧みないで無茶をする人なんです」

「それは……お仕事である以上、覚悟が必要ですね」

「側にいることができないから、私には止められない。でも彼女はできるんです」


 エウドキアは、祭壇の十字架に目を向けた。


「失うことが怖いから、自分の手の届くところにいて欲しいのですね」


 カタリナは、祭壇の蝋燭を見つめた。


「無事に私のところに帰ってきてほしい。でも、それを望むことが、枷になるのではないかとも思うのです」

「帰る場所があることは、枷になるとは限りません」


 エウドキアは、静かに言った。


「この山で鉱山が営まれていたころ、働く人々は危険を承知で坑道へ入りました。落盤もあれば、地下水に呑まれることも、大怪我で動けなくなることもありました。彼らを送り出す家族は、毎日ここで祈っていたのです」

「家族のために、ですか」

「そうです。亡くなった人のためにも、生きて帰ってきた人のためにも。そして、帰りを待つ人のためにも」


 カタリナは、古い石壁を見回した。


「この聖堂は、そういう人たちが建てたんですね」

「ええ。ここは、帰ってこなかった人を悼む場所であると同時に、帰ってくる人を待つ場所でもありました」


 カタリナは、もう一度、胸の前で手を組んだ。


「私、もう一度祈ってもいいですか」

「もちろんです」


 彼女は目を閉じた。

 今度は、嫉妬を消してくださいとは祈らなかった。

 ただ、エミリオが帰ってきますように。

 それだけを祈った。

 しばらくして目を開けると、エウドキアがそっと微笑んでいた。


「少し、楽になりましたか?」

「はい。答えが見つかったわけではありませんけど」

「祈りは、いつも答えを得るためのものとは限りません」


 カタリナは立ち上がり、深く頭を下げた。


「ありがとうございました」

「どうか、お気をつけて」


 聖堂の扉を開くと、明るい陽光が差し込んできた。

 外の空気は暖かく、少し汗ばむほどだった。

 カタリナは、ふと空腹を覚えた。

 せっかくここまで来たのだ。この街のおいしいものを探してみよう。

 彼女は、バス停へ向かって歩き出した。


          ◆


 夕暮れ。紙袋二つを抱えたカタリナがホテルのツインルームのドアを開けると、真剣な顔をした二人がいた。


「すまない。お邪魔している」


 アイシャは少し困惑したような顔をしていた。

 エミリオは、カタリナに気づくと眉を上げた。リールから伸びた道糸を、ちょうど留め終えたところだった。

 畳まれたパラソルが横にあり、テーブルの上には釣り竿やリール、クーラーボックスなどが並んでいる。


「いや、これは……説明するわけにはいかないのだが、作戦の一部でな」

「はい。お二人とも、遊びに行くような顔はしていませんし」


 アイシャとエミリオは山裾に赴き、複数の水路を双眼鏡で確認した。当然ながら内部に侵入可能かの判別はできない。直接探索を行うべきであるが。山裾を歩き回っていては怪しまれる。そこで、釣り人を装うことにしたのだ。


「お仕事のお話があるなら、私はあちらのお部屋に」

「いや、もう終わったところだ」

「じゃあ、こういうのはいかがですか」


 カタリナは、店で持ち帰りにしたピザやソーセージをテーブルに並べ始めた。リキュールのグラッパとグラスも置く。


「お仕事中のお二人にも、少しでもこの街を味わっていただけるように、おいしいものを探してきました」

「おおっ。すごい豪華」

「カタリナさん、お気遣い感謝する」


         ◆


 酒に強くないエミリオは、早々ベッドへ横になり、鼾をかいていた。


 アイシャとカタリナは二人、グラスを傾けている。


「……今日、アモルハルコン山の中腹にある聖堂へ行きました」


 アイシャの手が、グラスの上でわずかに止まった。

 夕刻、無線で聞いた放射線モニタリングの警報を思い出したのだ。白い兵器が放つものと同じスペクトルが観測されたという。


「聖堂におられたシスターに、悩みを聞いていただいたんです」

「そうか」

「私の愚かさも、軍人の恋人がいることも、みんな打ち明けて」

「……」

「覚悟が必要と。そう言われました」

「おっしゃるとおりだ」


 カタリナはグラスを見つめたまま、話を続けた。


「そう聞いて、私は、エミリオにとっての家を作ればいいのかもしれないと思い至りました」

「……家か、そうだな。あいつは危ういからな」

「危うい?アイシャさんの目からみても?」

「エミリオの家は代々軍人の家系でな。父親も兄も、名誉の戦死をしている」

「……」


 カタリナは、眠っているエミリオの方へ目を向けた。


「確かに、あいつには帰るべき場所が必要だと思っていた」


          ◆


 夜が明けた。

 朝まずめの釣り人を装った二人は、港で借りた小型モーターボートで山裾の水路群を探索していた。

 途中、土砂や崩落した岩で塞がれた排水路をいくつも見つけ、そのたびに引き返した。

 やがて、藪の奥に、ほかとは明らかに様子の違う開口部を見つけた。

 幅の広い開口部の奥には、石造りの階段が続いていた。水際の石段には、長い年月を感じさせる苔が厚く張りついている。

 その足元を、細い水流が絶え間なく流れていた。


 アイシャがエミリオに目配せをする。

 エミリオが頷いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録(無料)

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る