宇宙を箒で飛んだ最初の魔女
ネコチャン
宇宙を箒で飛んだ最初の魔女
月周回軌道――「第一期着工区域」。
のちに巨大なシリンダー居住区となり、何万人もの人々が暮らすことになる場所だ。だが今、そこにあるのは、組み上げられたばかりの鉄骨と、真空の静寂だけだ。
その凍てつく暗黒の中、淡い青光を放つ生体保護膜に包まれ、冷たい鉄骨の継ぎ目に箒をピタリと寄せ、フレームの接続部を寸分の狂いもなく噛み合わせている、ひとりの魔女がいた。
インナースーツの上に羽織った、分厚く無骨な試作型の防護コート――まだ規格化すらされていない、世界でただ一着の魔女用船外宇宙服だ。
そして彼女が跨がっているのは、愛用の箒に無骨な推進器をくくりつけた、機械箒。
『フレーム接続部、誤差〇・一ミリ。どんな精密スラスタより正確だし、バッテリーと違って君が元気な限り稼働限界がないんだから、本当に魔女様様だよ』
『魔女様様って言うなら早く終わらせなさいよ。もうお腹空いてきたんだけど、あと何箇所やるわけ……?』
魔法と科学が発展した遠い未来。ドローンや自動機械が当たり前になり、かつて魔力で奇跡を起こし、箒で空を飛んでいた魔女たちは、時代遅れの存在になっていた。
彼女たちに残された価値は、食事と睡眠で補える魔力――安上がりな動力だけだった。
だが、積載量の限られる宇宙では、その安上がりな力がまったく別の価値を持った。魔女一人と箒一本なら、大型の発電機も大量の推進剤もいらない。食事と寝床さえあれば機械を動かし、船外へ出れば、自らの魔力を動力にした箒で真空を自在に飛び回れる。
地上でただの動力と見なされた魔力は、宇宙ではまだ誰も手にしていない翼になり得た。
それは、人類史上初となる恒久宇宙居住計画だった。
一時的な前哨基地ではなく、一般の市民が暮らし、世代を重ねていける本物の「町」を月周回軌道に創り出す、壮大な大事業だ。
月面の資源を建材へ加工する技術は、すでにあった。だが、最初の工作機械だけは地球から運ぶしかない。
シャトルの貨物室を機材で埋めれば、大型発電機や施工用の燃料を積む余裕は消える。限られた積載量と予算の壁を前に、計画は着工を前にして完全に頓挫しかけていた。
その袋小路を打ち破ったのが、「魔女」の採用だった。
地上では安価な動力にすぎなかった魔力が、計画を再び動かした。
魔女が参加したことで息を吹き返したその計画には、いつしか魔女の守護女神の名が冠されることになった。
――「プロジェクト・ヘカテー(Project Hekate)」
抜擢されたのは、四人の技術者と、あらゆる魔力特性において世界最高位の能力を誇る、ひとりの魔女。
設計と施工管制、自律プラント、通信、生命維持。それぞれを受け持つ技術者たちに対し、魔女の仕事は船外での組み立てと、設備が立ち上がるまでの動力供給だった。
「……ライン接続、完了! 魔導変換炉の同調率、九十八パーセント……九十九……安定!」
船内の簡易管制席で、主任設計技官を務める科学者が叫んだ。ライトブラウンの髪を後ろで束ね、作業着の袖は肘までまくっている。モニターの電圧グラフが、規定値に揃っていく。
「いける。君の魔力、きれいに全部通ったよ! 第一自律プラントへ送電開始!」
『了解。……ふぅ、やっと終わったわね』
無線から返ってきたのは、息を乱しながらも、どこか呆れたように笑う女の声だった。
『それと、図面に「上から差し込む」って書いたの誰よ。宇宙のどこが上なの』
「ああ……私だ。地上で設計してると、どうしても上下があるつもりで考えちゃうんだよね」
科学者は感心したようにうなずき、端末へ修正点を書き込んだ。
「船外施工の設計基準に追加しておくよ。君が見つけた、記念すべき第一号の不具合だ」
ゴウン、と鈍い振動が、建造中のステーション全体を揺らした。
鉄骨からシャトルの接続部を伝わってきた振動が、足元で低い音になった。
組み立てられたばかりの巨大な工作アームが、自律制御の青いランプを順に灯して動き始める。月面から運ばれてきた金属インゴットが加工機へ送られ、別のアームが出来上がった部材を骨組みへ運ぶ。継ぎ目で溶接光が瞬いた。
シリンダー外殻の自律施工が始まった。
「……動いた」
三人の技術者の声が重なった。ほとんど同時に息を吐き、隣の肩を叩く。
「現地電源へ切り替え。全系統、オールグリーン!」
プラント担当が声を上げた。魔女からの供給を絞っても、出力グラフは規定値に張りついたままだった。
「よし……みんな、本当にお疲れさま。監視は本局へ引き継ごう。三人とも、先に休んで。私は最終ログを送ってから行くよ」
科学者が告げると、三人は互いにねぎらいながらシャトルの仮眠区画へ向かった。
「船外作業も終了。帰っておいで、相棒」
科学者はヘッドセットを外し、連絡通路へ出た。その先には、完成したばかりの小さな気密ブロックがあった。
月と地球の光をそのまま受ける外壁沿いの真新しい休憩室だ。
擦り傷ひとつない、艶やかなリノリウムの床。
白く塗られたばかりの壁には、まだ硬化剤の独特な匂いがかすかに残っている。
エアロックの分厚い扉がプシューと音を立てて開き、魔女が機械箒を抱えて入ってきた。
低めにまとめられた艶やかな黒髪に、涼しげで知的な紫の瞳。
魔女は箒を壁に立てかけ、重い防護コートをパイプ椅子に放り出した。インナースーツの襟元を緩め、大きく息を吐く。
「どうだった? 宇宙を箒で飛んだ、世界で最初の魔女の気分は。もう少し感動してもいいんじゃないかな」
パイプ椅子に腰を下ろした科学者が、額に張り付いた前髪をかき上げ、期待に目を輝かせる。
「寒くて凍えそうだったわよ。宇宙って、あんなに体の芯まで冷えるものなの?」
「そうか、そこまで冷えたんだね。防護コートと生体保護膜の連動が甘かったかな。作業中の体温ログ、あとで見せて。保温制御を見直すよ」
科学者は返事も待たず、手元の端末へ素早く修正点を書き込んだ。
「それにしても、お疲れさま。君がいなきゃ、今頃このステーションは冷たい鉄くずのまま軌道を漂ってたよ」
「口先だけの感謝ならいらないわよ。それより、喉がカラカラ。何か飲むものないの?」
「あるよ。ほら、そこの壁」
科学者は立ち上がり、部屋の隅を親指で指した。
塗装の剥げも、傷ひとつもない、ピカピカの自動販売機だった。
赤と青のサンプルランプが鮮やかに灯り、無機質な部屋の中で、そこだけが地球の街角のような明かりを落としている。
科学者は作業着のポケットに手を突っ込み、ジャラリと金属の擦れ合う音を響かせた。
「この自販機、ちょっと面白いんだよ」
科学者は指先で摘み出した丸い金属片を、魔女に見えるよう掲げた。
「電子トークンが主流の時代に、これは硬貨だけ。ずいぶん前時代的だろう?」
「アンタが作ったんでしょ、それ」
魔女が呆れたように眉を寄せる。
「うん。通信が切れても飲み物は買える。宇宙では、こういう単純な機械が最後まで役に立つんだよ。……小銭を持ち歩く面倒さを除けばね」
「現場のリアリティってやつね」
科学者は自販機の前に立ち、投入口へ金属のコインを二枚滑り込ませた。
チャリン、チャリン、と澄んだ金属音が静かな部屋に響く。
赤いランプが灯るボタンを押すと、ガコン、と取り出し口へ缶が落ちてきた。
「ほら」
科学者は取り出し口から温かい缶を拾い上げると、壁に寄りかかっていた魔女へ放ってよこした。
「いつもの、ミルク多めの甘いやつ」
「わかってるじゃない」
魔女は片手で器用に缶を受け止めると、両手で包み込んで指先の冷えを温めた。
プルタブを起こし、ひと口飲む。続けて喉を鳴らし、「生き返る……」と息を漏らして、窓際の低い機材箱へ腰を下ろした。
「世界最高位の魔女を生き返らせるんだから、甘いコーヒーも侮れないね」
科学者は笑いながらパイプ椅子へ戻った。
「うるさいわね。芯まで冷え切った体には、このくらい甘いのが一番効くのよ」
魔女はふんと鼻を鳴らし、残りの缶を両手で大事そうに包み直した。
「……アンタは自分の分、買わないの?」
「私はいいよ。小銭もう一枚しかないし、座ったらもう二度と立ち上がりたくないくらい疲れた」
科学者は情けない声を漏らして椅子に深くもたれかかった。
強化ガラスの窓の向こうでは、工作アームが次の部材を運んでいた。溶接光が消えるたびに、骨組みが少しずつ先へ延びている。
「一般市民の恒久宇宙居住計画、か……」
科学者が、パイプ椅子の背もたれに頭を預けたまま窓の外を見上げた。
「これが完成したらさ。内壁に土を入れて、人工太陽を灯して、空気を満たして……ここに『町』ができるんだよ」
「町ねぇ」
魔女は紫の瞳を細め、遠くの火花を眺めた。
「うん。住宅ブロックが並んで、学校ができて、通りに明かりが灯って……何万人もの日常がここで営まれるんだよ。食事をして、恋をして、子どもたちが走り回ってさ。……今はこんなに静かで、冷たい鉄の匂いしかしないけれど」
「信じられないわね。こんな真っ暗な宇宙の真ん中で、人間が暮らすなんて」
魔女の声には、からかいと、どこか深い感慨が混ざっていた。
「その頃には、この部屋もどうなってるかしらね。第二期、第三期のブロックが外側に増築されていったら、ここは一番底の、誰にも見向きもされない暗い通路になっちゃうんじゃない?」
「かもね。保守作業員が油まみれで通り過ぎるだけの、薄暗い物置部屋になってるかもしれない」
科学者は笑って、部屋の隅の自販機をあごでしゃくった。
「こいつも、その頃には塗装が剥げてるかな。……町ができて人が増える前に、電子決済ユニットも後付けで設計しとかないと、みんなに怒られそうだな」
「その前に、お釣りがちゃんと出るか確かめときなさいよ。アンタの設計、いつもどこか抜けてるんだから」
「それは大事だ。あとで一緒に試そう」
ふたりで顔を見合わせ、静かに笑い合った。
張り詰めていた数ヶ月の激務が、このどうでもいい雑談の中に溶けていくようだった。
ふと、科学者が真面目な顔をして、魔女の横顔を見つめた。
魔女は缶を両手で包んだまま、窓の外を見ていた。
「……ひとつ、聞いておきたいことがあったんだ」
「何よ、改まって」
「君くらい魔力が強いと、寿命も桁違いに長いんだろう? 体内の魔力が、細胞の劣化を防ぐとかで」
「まあね。普通の人間の何倍かは生きるんじゃないかしら。病気もしにくいしね」
「この居住区が本当に完成して、町になって、人が溢れて……何十年も経って、私たち四人が年老いて、みんないなくなったあとも、君は生きていくんだろう?」
「……そうなるかもね」
「その頃、君は何をしてるのかな」
科学者は少しだけおどけたように、あごに手をあてて胸を張った。
「……町長にでもなって、偉そうにしてる? それとも、おとぎ話の英雄として教科書に載ってふんぞり返ってる?」
「ぷっ、なによそれ!」
魔女は笑いながら、壁に立てかけた愛用の箒を手元へ引き寄せる。柄に後付けされた剥き出しの魔導回路を避け、冷えた木肌を指先で撫でた。
「ふんぞり返る気なんてないわよ。……そもそも、私がここまで来た理由、知ってる?」
「やっぱり、人類のフロンティアのためかな」
「バカね。箒で宇宙を飛ぶ、最初の魔女になりたかったのよ」
「地上の空なら、何百年も前からみんな飛んでる。でも、宇宙を箒で飛んだ魔女は、まだいなかったでしょ。だから来たの。……さっき、叶っちゃったけどね」
彼女は窓の外の星空を見つめ、静かに息を吐いた。
「だからね、きっと百年経っても……私はやっぱり、宇宙を箒で飛んでると思うわよ」
「百年後も? 君は本当に、飛ぶのが好きなんだね」
「当たり前じゃない。その頃には、もっと乗り心地のいい量産型の箒ができてるはずでしょ? 安全リミッターとか積載ラックとかつけられて、窮屈になってるかもしれないけど……。でもね、さっき飛んでみて分かったのよ。寒くて死にそうだったけど、星の間を飛ぶのって、信じられないくらい気持ちよかったわ」
「あはは、ならよかった。この居住区ができたら、君だけじゃない。もっとたくさんの魔女が宇宙へ来るよ。君が最初の道を作ったんだから」
「へえ。じゃあ、未来は後輩たちがたくさん宇宙を飛ぶことになるわけね」
魔女は楽しそうに笑って、それから、ちらりと科学者の座る椅子に視線を落とした。
「……それなら、アンタみたいに管制室の椅子に座って、後輩たちに無線で檄を飛ばすオペレーターをやってみるのも、悪くないかもしれないわね」
「それ、きっと似合うよ」
科学者は楽しそうに笑った。
「『無線くらいちゃんと聞きなさい!』ってさ。新人に怖がられるんじゃない?」
「アンタほど口うるさくはならないわよ」
魔女は最後の一口を喉へ流し込むと、空になった缶をコトリと床に置いた。
科学者はそれを見て満足そうに笑い、作業着の胸ポケットから小型の業務記録端末を取り出した。
プロジェクトの完了報告を本局へ送信するための端末だ。
「よし、プロジェクトの最終ログだけ録音しちゃおう。これ送ったら、私も仮眠室で死んだように眠る」
「……ちょっと。そんな歴史的な大事な記録、こんな缶コーヒーが転がってるような場所で、簡単に済ませていいわけ?」
「いいんだよ。現場で一番頑張った君が、ここで聞いててくれるんだからさ」
「……ふん。バカ言ってないで、早く終わらせなさい」
科学者は端末の録音スイッチを入れた。
ピピッ、と短い電子音が鳴り、赤いインジケーターが点滅を始める。
科学者は背筋を伸ばし、マイクへ向けて報告を始めた。
『――月周回軌道第一期着工区域、初期起動プラント正常稼働を確認。これをもって「プロジェクト・ヘカテー」の初期設営工程を完了とし、以降の居住区建造をオートメーションへ移行します』
淡々と業務報告を読み上げる。
けれど、規定の文言を終えたあと、科学者は端末を口元から少し離し、壁際に座る魔女を見た。
魔女は何も言わず、ただ穏やかな紫の瞳で、友人を見守っている。
科学者はふっと口元を緩め、再びマイクへ視線を戻した。
録音ランプは、まだ点滅している。
『……追記。
本計画の初期動力供給と船外施工を担った魔女に、感謝を。
百年後、ここが町になって、私たちがいなくなったあとも、彼女と、彼女に続くたくさんの魔女たちは、この宇宙を当たり前に飛んでいると思います。
そのとき、仕事を終えた魔女たちが、安心して戻ってこられる場所が、ここにありますように』
科学者は息を吸い、窓の外の漆黒を見つめた。
いつかこの暗闇を、無数の箒が、それぞれの日常を乗せて駆け抜ける未来を信じて。
『――未来に生きるすべての魔女に、幸あらんことを』
カチリ、と静かな操作音が鳴り、録音の赤ランプが消えた。
換気扇の低い唸りが、また耳に戻ってきた。
窓の外では、自律施工ラインの溶接光が瞬いている。
真新しい自販機の赤い明かりが、魔女の足元に置かれた空き缶を照らしていた。
宇宙を箒で飛んだ最初の魔女 ネコチャン @nekochan0221
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