神殺しのアルシス 〜偽悪執政官の反逆叙事詩〜

ましま みはる

第1話

 熱い風が巻き上げた砂ぼこりが、旧王都ラバンの石畳を白くかすませていた。

 三年前の戦火で崩れた回廊に、かつての美しい海の街の面影はない。続く飢饉に耐えかねた民衆が、食糧倉庫を取り囲んでいた。錆びたクワやこん棒を握る男たち、泣き叫ぶ女たち。その怒りと絶望が、陽炎のように空気を揺らしている。


「蜂起の反乱分子ども、そこまでだ!」


 倉庫の鉄扉の前に並ぶ審問兵たちが、一斉に黒い盾を打ち鳴らした。

 構えられた何十本もの魔導槍が青白い光を帯び、群衆を狙う。一歩でも踏み越えれば虐殺が始まる――その瞬間、低く通る声が張り詰めた空気を切り裂いた。


「下がれ」


 審問兵たちが息を呑んで列を割る。歩み出たのは、帝国筆頭執政官ルシアン・アルトマン。

 黒いマントを翻し、腰に佩いた大型佩刀の柄へ、手袋越しにそっと指を添える。


「……執政官閣下」

「聞こえなかったのか。槍を引けと言ったのだ」


 ルシアンは兵士に視線すら向けず、感情のない横顔のまま言い捨てた。


「ルシアン……! 帝国の悪魔め!」


 群衆の先頭を突き破り、一人の少年が飛び出してきた。

 ツギハギの革鎧を纏った十五歳のアラン。ボサボサの茶髪の下、両目の奥に不気味な青い燐光を宿し、手には刃こぼれした短剣が握られている。


(……魔力の脈動がおかしい。この燐光は――)


 少年の胸当ての隙間から漏れ出す青白い光。心臓と同期して脈打つその輝きを見た瞬間、七年前の血生臭い記憶が脳裏をよぎった。

 帝都の皇宮、神殿の冷たい石畳の上。同じ青い光を目に宿し、神威に脳を焼かれて発狂した二人の実兄の姿が、目の前の少年に重なる。


「死ねッ、暴君!」


 アランが絶叫し、砂を蹴って突進してくる。常人離れした速度が空気を引き裂いた。

 兵士たちが槍を構え直すよりも速く、ルシアンが踏み込む。

 カチリ、と硬質な金属音。鞘を滑り出た大型佩刀が白銀の弧を描く。だが、ルシアンは刃を返していた。分厚い峰の鉄塊が、突っ込んでくる少年の頸部を電光石火で捉える。


「が――っ」


 アランは前のめりに崩れ落ちた。

 石畳の上に甲高く転がった短剣。その柄には、羽を広げた鳥の紋章が粗っぽく削り取られた痕があった。旧ナブラの武門、ダルク公爵家の刻印。ルシアンは、その微かな痕跡を見逃さない。

 同時に、少年の懐から砕けた青白い結晶が滑り落ち、砂の上で怪しく光った。

 周囲の空気が凍りつくような、禍々しい冷気が走る。

 だが、ルシアンは眉一つ動かさず身をかがめた。長衣の奥に忍ばせた魔導具がかすかに熱を帯び、冷気を遮断している。手袋をはめた手でその破片を拾い上げると、何事もなかったかのように内ポケットへしまい込んだ。


「……騒ぐな、この街の民よ」


 ルシアンは立ち上がり、刀を一息で鞘へと戻した。

 石畳をゆっくりと踏みしめ、倉庫の前の石段へと上がる。黒いマントを翻し、広場を埋め尽くす飢えた群衆を見渡し、穏やかで圧倒的な声を響かせた。


「そなたたちの怒り、悔しさ、そして飢えの苦しみ。私は決して否定せぬ」


 広場の全員が、予想もしなかった言葉に呆然と動きを止める。


「三年前、祖国の旗を失い、長引く飢饉に苦しみ、怒りに身を任せて武器を手に取った。その悔しさを、誰が責められようか。だが――あえて問おう。燃え上がる憤りが、そなたたちの飢えた腹を満たしてくれるのか? 復讐の叫びが、腹を空かせた子供たちに一切れのパンを恵んでくれるのか?」


 男たちが言葉を失い、女たちが子供を抱きしめたまま顔を上げる。ルシアンはその瞳を、慈愛すら滲ませた静かな眼差しで見つめ返した。


「この少年のように、感情に任せて帝国の兵士に刃を向けたとて、何が残る? 残された家族を待つのは、さらなる絶望と飢えだけだ。そなたたちが選ぼうとしたのは、誇りある自由ではない。ただの無意味な死だ」

「私は、そなたたちを滅ぼしに来たのではない。無駄な血を流させず、明日のパンと、確かな秩序をもたらすために来たのだ。命を捨ててはならぬ。土を耕し、家族を養い、歯を食いしばって生き延びよ。生き抜くことこそが、いつかそなたたちの未来を創るのだ」


 群衆から殺気が消え去り、代わりに戸惑いと、抗いがたい安堵が広がっていく。

 ルシアンは足元に倒れるアランを見下ろし、群衆の中の大人たちへ視線を向けた。


「法を破り、凶器を振るった罪は重い。……だが、見よ。この者はまだ子供だ。首謀者など、初めからこの広場のどこにもおらぬ。飢えに耐えかねた子供が一人、取り乱したにすぎぬ」


 捕縛しようと踏み出した審問兵を手で制し、ルシアンは言い放った。


「連れて行け。二度と子供に錆びた刃など握らせるな。みなのもとへ帰し、温かい麦の粥を食わせてやるがいい」


 信じられないものを見るような空気の中、駆け寄ってきた町の大人たちが、気絶したアランを抱き起こして群衆の奥へと連れ帰っていく。

 ルシアンは横に控える審問騎士長へ視線を移した。


「倉庫を開けよ。備蓄の三割をこの広場に放出し、小麦配給を下す。飢えた人々に分け与えてやれ」

「し、しかし閣下! こやつらは反逆の企てを――」

「民を飢えさせることこそが、真の失政だ。帝国が求めるのは、飢餓に泣く属州ではなく、豊かに潤う領土である。私の言葉が理解できないのか」

「は、はッ……! ただちに!」


 重い鉄扉が開け放たれ、麦袋が次々と運び出される。先ほどまでの敵意は消え、広場には驚きと感嘆、そして嗚咽の混じったざわめきが広がっていった。

 ルシアンは民の視線に振り返ることもなく、冷然と踵を返す。

 歩き出したその先、護衛隊列の一角に十六歳の実弟テオドールが直立していた。

 固く握りしめられた両の拳。その瞳には、隠しようもない憤りと警戒の色が滲んでいる。


「……見事な手際でしたね、兄上」


 すれ違いざま、テオドールが低く張り詰めた声で呼び止めてきた。


「力で脅し、偽りの慈悲で手懐ける。恐怖で縛るより、よほど残酷なやり方だ。兄上はそうやって、この街の民の心まで飼い慣らすおつもりですか」


 ルシアンは足を止めない。視線すら合わせず、淡々と告げる。


「現実を見ろ、テオ。彼らが今日求めていたのは、お前の言う誇りではない。明日のパンだ」

「だからといって、あんな欺瞞が許されるはずがない! 兄上は――」

「ここは皇宮の温室ではない。飢えも泥も知らぬ子供が、軽々しく正義を語るな」


 ルシアンの言葉が、弟の反論を遮った。


「言いたいことがあるなら、艦に戻ってからにしろ。……続きは私室で聞く」


 ルシアンは弟の横を一度も振り返ることなく、無言で通り過ぎていく。

 見上げる空には、青空を切り裂くように浮かぶ巨大な黒い影――帝国が誇る最新鋭魔導戦艦〈グラディウス〉が、砂塵の街を見下ろすように影を落としていた。

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