第7話 もう一人の候補者

 定時のチャイムが鳴った。


 俺は日報を出して、パソコンを落として、鞄を持ってオフィスを出た。


 そして駐車場へ向かう――いつもどおりなら。


 だが今日の俺には、やるべき最優先事項があった。


 俺は社屋の角を曲がって、敷地の裏へ回り込んだ。


 夕方の林は昼とはまるで別の場所だった。


 日が傾いて、木々の影が地面に長く伸びている。空気がひんやりしていて、鳥の声がさっきより低い。


 昼にいたあの場所を目指して俺は枝を踏み分けていく。


 今度こそだ。今度こそ出す。


 ローラが言うには、あの赤髪モードになればエネルギーの弾を飛ばせるらしい。


 たしか怒りトリガーって言ったか。昼はなれなかったけど、何かきっかけが足りなかっただけだ。集中か、気合いか、あるいは腹の据わり方か。仕事を終えて、頭も切り替わっている今なら――


 ガサ。


 ……ん?


 俺は人の気配がして足を止めた。昼にいた場所のさらに少し奥。木の間からかすかに人影が見えた。


 俺はそっと近づいて、太い幹の陰に身を寄せた。


 女性が立っている。


 黒い装束。ところどころに赤いラインが入っていて、腰から下にはサイドスリット。体の線がはっきり出るタイトなシルエット。


 口元は布で覆っていて、見えているのは目元だけ。


 ……くノ一? コスプレか?


 こんな時間に、こんな場所で、随分と気合いの入った格好である。しかもクールでセクシーときた。悪くないな。


 彼女は何かをぶつぶつと呟いている。


 目を凝らして俺は気づいた。


 彼女の肩の上にもう一匹いる。白いドレスを着た手のひらサイズの何か。


 ……妖精だ。


「ありゃ、トゥルシーだな」


「うぉ!?」


 いつの間にか耳のすぐ横にローラがいた。


「静かにしろっての」


「お前が急に出てくるからだろ」


 声を殺して抗議する。


「あいつも今年のフェアグラには参加するってよォ」


 ……参加者なのか、あいつらも。


 というか、毎年こんなことやってんのかよ。


「妖精の方は知り合いか」


「まぁな」


 ローラが鼻を鳴らした。


「いい子ぶりっこの、いけ好かねぇやつよォ。すーぐ正論こねくり回してさぁ、『それは代理人の意思を尊重すべきよ』とか言うわけ。うっぜぇ〜」


 じゃあお前とは正反対だな。


 俺はもう一度、女性のほうを見た。あれが、俺と戦うかもしれない相手か。


 よく見ると、思っていたより若い。二十歳そこそこだろうか。俺より一回り近く下に見える。


 ……あんな子と、殴り合えと?


 無理だろ。倫理的にも、体力的にも。とりあえず退こう。見つかる前に、静かに――


「……いるわね」


 ぞくっとした。


 女性がこちらの方を向いていた。


「スズカ、気をつけて」


「えぇ、わかってるわ、トゥルシー」


 シュッ、と空気が鳴った。


「これでもくらいなさい!!」


 銀色が二つ、闇の中から飛んでくる。


「うぉっ! 危ねぇ!」


 考えるより先に体が動いた。腰を思いきり反らせる。


 ヒュンッ、ヒュンッ。


 鼻先を二本のクナイがかすめて通り過ぎていった。


 背後の幹に、ザクッ、と突き刺さる音。


「……」


 俺は反った腰をゆっくり戻して振り返った。柄まで埋まっていた。太い木の幹に、深々と。


 殺しにかかってんじゃん。


 急に膝が震えだした。


 今のはたまたま当たらなかっただけ。あと数センチ横だったら俺の顔面は今ごろ二枚おろしである。


 対話は無理だ。逃げよう。


 俺は鞄を抱えて全力で走り出した。


「おい、逃げんなっ!」


 ローラが横を飛びながら叫ぶ。


「あんな奴ら、トリガー引けゃ余裕で勝てっから!」


「いや、昼になろうとしたけど無理だったんだよ!」


「はぁ!? キレるだけの簡単なお仕事だろうがぁ」


「無茶いうな!」


 走りながら怒鳴り返す。


 キレるだけ、と言うが。


 俺は七年、社会人をやっている。理不尽を飲み込むのが仕事みたいなものだ。納期の無茶振りも、後輩の確認漏れも、取引先の急な仕様変更も、全部飲み込んできた。


 我慢強いからこそ七年も続いているのだ。


 つまり俺の性格はこの能力と絶望的に噛み合っていない。


 ……などと冷静に分析している場合ではない。


 枝が顔に当たる。革靴が落ち葉に滑る。スーツの背中が汗で貼りついている。


 そして何より息が続かない。


 三十手前。運動習慣なし。通勤は車。


「もう、無理……」


 俺は速度を落とした。


 地面が平らで少し開けた場所に出る。昼に構えていたあたりから、だいぶ奥まで来てしまったらしい。


 背後の気配がゆっくり近づいてくる。


「追いついたわ」


「はぁ、はぁ……あぁ、しんどい……」


 俺は膝に手を当てて肩で息をした。


 顔を上げると黒装束の女性が木の枝の上に立っていた。


 枝の上に人が立っている。


 ……あの、物理法則は……


「あなた」


 彼女の声が静かに落ちてきた。


「あたしのことナメてるわね」


「え」


「わたしはね――」


 スッ、と手が動いた。


「ナメられるのが、嫌いなのッ!」


 また銀色が飛んでくる。


「いや、まったくそんなつもりは――ないッ!」


 俺は横っ飛びに転がった。


 スーツの肘が地面を擦る。おろしたてじゃないのが救いだ。


 なんとか躱せたが、さっきから会話が成立していない。というかナメる以前にあなたが誰なのかも知らない。


「待って、スズカ」


 彼女の肩の上で白い妖精が身を乗り出した。


「あの男性の近くに妖精がいるわ――あなたはローラッ!」


 忍者の格好をした女の子は、スズカというのか。


「よォ、トゥルシー」


 ローラがやけに堂々と前に出た。


「アタシもフェアグラに出ることにしたぜぇ」


「あなたも出るのね……」


 白い妖精の声が少し硬くなった。


「アタシパートナーは――コイツだぁ!」


 大げさに俺に指を指してくるローラ。


「ちがいます」


 俺は即答した。


「おいっ! 大将そりゃねぇぜぇ」


 ねぇよ。こっちは命がかかってるんだよ。


 せめて、今はこいつらの誤解を解いてくれ。

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