第9話 出てこられる顔

佐伯は笑って部屋を出た。学生会館の階段を下りると、外の空気は少し冷えていた。美容院は大学から二駅先にある。普段行く千円カットではなく、予約画面で適当に選んだ駅前の小さな店だった。


入り口のガラス越しに観葉植物と雑誌が見えた。明るい店内から知らない音楽が聞こえ、シャンプーの匂いがする。佐伯は一度店の前を通り過ぎてから戻った。ワンピースを着るわけでも、メイクをされるわけでも、澪と呼ばれるわけでもなく、ただ髪を切るだけなのに、何を緊張しているのか分からなかった。ドアを開ける手が少し湿っていた。


「いらっしゃいませ」


受付の女性が笑った。佐伯は名前を言った。


「佐伯です。予約してます」


「佐伯様ですね。カットとスタイリングでお取りしています」


スタイリングという言葉が少し恥ずかしかった。案内された鏡の前の席へ座り、黒いクロスをかけられると、急に逃げ場がなくなった。担当する三十代くらいの男性美容師は、柔らかい雰囲気で話し方が軽かった。


「今日はどんな感じにしましょう」


佐伯は鏡の中の自分を見た。伸びた前髪は目にかかり、横は耳に、後ろは襟に触れている。邪魔で暑く、中途半端なので切る理由はあるが、短くしたいわけではなかった。


「えっと」


佐伯は言った。


「長さは、あんまり短くしすぎない感じで」


「整える感じですか?」


「あ、はい。整える感じで」


「伸ばしてる途中?」


佐伯は一瞬詰まった。伸ばしているわけではない。でも、切りたいわけでもない。


「まあ、そんな感じです」


「なるほど。前髪は?」


「流せるくらいで」


「耳まわりは出します? 残します?」


佐伯は少し考えた。澪の時は耳を少し出したが、全部出すと佐伯すぎる気がして、隠れすぎても重かった。


「出せるけど、隠せるくらいで」


美容師は少し笑った。


「いいですね。出せるけど隠せる」


「すみません、曖昧で」


「全然。分かりますよ」


本当に分かっているのかは分からなかった。でも、分かりますよ、と言われるだけで少し楽になった。


「後ろは襟につくくらい残します?」


「はい」


「全体に軽くして、セットしやすいようにしますね」


「お願いします」


ハサミの小さく乾いた音が始まり、鏡の中で髪が少しずつ落ちていった。大きく変わるわけではない。耳まわりの重さが消え、前髪の先が揃い、後ろが少し軽くなる。短くなるというより形が出てくるのだと気づき、佐伯は落ち着かなくなった。美容師が言った。


「髪、やわらかいですね」


「そうですか」


「流しやすいです」


「ああ」


「普段、セットします?」


「ほぼしないです」


「もったいない」


「もったいないんですか」


「ちょっと整えるだけで、だいぶ変わるタイプですよ」


佐伯は鏡を見た。だいぶ変わるという言葉が変に響いた。変わりたいわけではないのに、もう変わり始めている気もした。


「今日は軽くセットしてみますね」


「はい」


ワックスではなく軽いオイルをつけられ、前髪を横へ流された。耳まわりが整い、首元が少し見える。鏡の中にいるのは佐伯だったが、昨日までより清潔で、柔らかく、ちゃんとして見えた。そして、澪が出てこられそうだった。


「こんな感じでどうですか」


美容師に聞かれ、佐伯はすぐに答えられなかった。短くはなっていなくても確実に変わっていて、切ったのではなく整えたという言葉が一番近かった。


「いいです」


佐伯は言った。


「これでお願いします」


「よかったです。セット、難しくないですよ。前髪は乾かす時に流したい方向に」


美容師が簡単にやり方を教えてくれたので、佐伯はうなずきながら聞いた。衣装合わせで杉浦がピンで留めた方向と、今日、美容師が自然に流した方向は同じだった。


会計をして店を出ると、外はもう夜に近かった。駅前のガラスに映る佐伯透は、少しだけ違って見えた。澪になったわけではなく、澪が出てこられる場所が整ってしまったのだ。その時、スマホが震えた。杉浦からだった。


〈終わったか〉


佐伯は少し笑った。たぶん監視されているわけではないが、タイミングが良すぎた。返信を打った。


〈終わりました〉


すぐに返ってくる。


〈短くした?〉


駅前のガラスを見ると、短くはしていなくても切ってはいた。何と答えるか少し迷ってから、佐伯は打った。


〈整えただけです〉


既読がついて、少し間があった。


〈了解〉


それだけだった。杉浦は、助かったとも、見たいとも、写真を送れとも、澪に使えるとも言わなかった。佐伯は少しほっとすると同時に物足りなさを覚え、それに気づいて自分が嫌になった。


駅ビルのドラッグストアの前で、一度足を止めた。家にはシャンプーがあり、ワックスもたぶんどこかにある。昨日のメイク落としも残っていて、用事はないはずなのに、足が店の中へ向いた。


棚に並ぶヘアピン、コットン、メイク落とし、リップ、化粧水、制汗シートをしばらく眺めた。知らない商品ばかりだが、全部を知らないわけではなくなっている。下地やコンシーラー、リップ、メイク落とし、コットンと、昨日までただの棚だった場所に意味が生まれていることが少し怖かった。


メイク落としシートと小さなヘアピンのセットを取り、迷ってから透明なリップクリームも手に取った。化粧品ではなく、ただのリップクリームだと自分に言い訳した。


レジへ向かう途中、靴下や肌着、インナーが並ぶ衣料品のコーナーで足が止まった。そこへ行くつもりはなかったが、杉浦の姉が選んだ白い袋の中身を思い出してしまった。裾や透けを気にし続けずに済む衣装の安全装備は、昨日、確かに役に立った。気にしなくていいことがどれほど楽か、佐伯は知ってしまった。


棚の前でしばらく迷った。白い袋に入っていたものと同じ種類ではあっても、同じものが欲しいわけではなかった。一日座ってみて、裾の中で布がもたつくことや、立つ時に膝の上を一度見てしまうこと、汗をかくと背中のあたりが急に気になることが分かった。白よりも、肌に近い色の方が目立たないことも知った。


縫い目の出にくい薄手のインナーと、静電気を防ぐ短いキュロット型のペチコートを手に取り、サイズと素材、色を確かめた。派手でもいやらしくもなく、昨日より少し自分に合いそうだった。


隣にカップ付きのインナーが並んでいて、手が一瞬止まった。昨日、ワンピースを着た時、胸元だけが落ち着かなかった。襟の下の布が浮き、自分の身体と服の形が合っていない感じを思い出す。「カップ付き」「ラインを整える」「薄手」「響きにくい」という棚の言葉が、一つずつ自分に近づいてきた。


手を伸ばしかけて、途中でやめた。まだ違うと思ったが、買うことなのか、選ぶことなのか、それを必要だと思ってしまうことなのか、自分でも分からなかった。目を逸らし、今はまだいいと言い聞かせてカゴを見た。


ヘアピン、メイク落としシート、透明なリップクリーム、薄手のインナー、短いキュロット型のペチコート。それだけでも十分に多かった。杉浦が用意したのでも、杉浦の姉が選んだのでもなく、誰にも頼まれずに佐伯が自分で選んだ。澪として座る自分のためだった。


会計はあっさり終わった。店員は何も言わず、品物を袋に入れて金額を告げ、レシートを渡した。店を出て駅へ向かうと、軽い袋が妙に重かった。最初の白い袋は澪を守るために用意されたが、今日の袋は佐伯が澪を守るために自分で選んだ。その違いは小さくなかった。


電車の中でスマホを開くと、グループチャットにホワイトボードの写真が届いていた。杉浦が撮ったらしい。「澪運用(仮)」の文字の横に、野島が返信している。


〈見出しだけ何とかしたい〉


久野が続けた。


〈澪さん当番?〉


佐伯は思わず打った。


〈それは嫌です〉


すぐに久野が返す。


〈すみません〉


続けて、三谷から届いた。


〈姫当番みたい〉


画面にある「姫当番」という言葉が、少し胸に引っかかった。当番なら交代でき、今日の誰かと明日の誰かを入れ替えられる。しかし、佐伯の髪と顔、身体で少しずつ出てくる澪は、交代できない。


膝の上の袋を見た。ヘアピンもリップクリームもメイク落としも、薄手のインナーや短いペチコートも小さなものだが、全部、澪が出てくるための道具だった。その袋を持っているのは佐伯だった。


家に帰ると買ったものとレシートを机に並べた。杉浦に言えば衣装費としてサークルの予算から出せるのかもしれないが、少なくとも今は言いたくなかった。澪のためのものを、自分で選び、自分で買ったのだった。


新しいヘアピンを一つ取り出して洗面所の鏡の前に立ち、美容院で教わったように前髪を少し濡らして流した。耳まわりを手で整え、ピンで軽く留める。メイクもワンピースもなく、ただの部屋着なのに、鏡の中にはほんの少し澪がいた。


すぐにピンを外して洗面台に置いた。心臓が少し速かった。杉浦も久野も野島も三谷も、ゆめさんも見ていない場所で、澪を呼びかけてしまった。それが一番怖かった。スマホが震えた。杉浦からだった。


〈明日、無理に来なくていい〉


〈疲れてるなら休め〉


佐伯は画面を見た。それから返信した。


〈行きます〉


少し迷って、続けた。


〈佐伯として〉


すぐに既読がついた。


〈分かった〉


〈佐伯として来い〉


昨日と同じような返事なのに、昨日とは違った。昨日は澪から戻り、佐伯として打ち上げへ行った。今日は佐伯として美容院へ行き、買い物をして、澪の準備をしてしまった。誰かに頼まれたからでも、断れなかったからでもなく、自分で整えてしまった。


洗面台の小さな黒いヘアピンを見た。何でもないものなのに、胸の奥の水路がまた少し深くなる気がした。ピンをケースに戻し、買ったものをまとめて机の引き出しの奥へしまった。隠したつもりでも、そこにあることを自分だけが知っている。それは隠したのではなく、持ったということだった。


引き出しを閉じると、鏡の中に髪を整えた佐伯透がいた。澪ではないけれど、もう澪が出てこられると知っている顔だった。


* * *


翌日、佐伯は学生会館へ行った。休むつもりで、杉浦にも疲れているなら来なくていいと言われていたのに、大学の三限を終えると、気づけば階段を上っていた。


髪は昨日より少し整っていた。美容院で教わった通りに前髪を乾かす時に横へ流し、耳まわりも手で整えた。まだワックスまでは使えなかったが、何もしない時とは違った。今日も開いている小会議室へ入ると、中にいた杉浦、久野、野島、三谷の四人が同時にこちらを見た。佐伯は少し身構えた。


「お疲れさまです」


佐伯が先に挨拶すると、久野が口を開いた。


「髪――」


そこで止まった。佐伯は指を一本立てた。


「言い方に気をつけてください」


「まだ何も言ってないです」


「言う前の顔がだめでした」


「顔で罰金取られるんですか」


「取ります」


野島が、佐伯の髪を見て、ゆっくりうなずいた。


「整った」


「それはセーフです」


「澪さんが出やすくなった」


「アウトです」


「あ、だめか」


「だめです」


三谷が小さく言った。


「音が変わりそう」


「それはもう意味が分からないので、逆にセーフです」


「よかったです」


杉浦はノートパソコンから顔を上げた。


「座れ」


「今日もですか」


「今日も」


「理由は?」


「立ってると全員が髪を見る」


「最悪の理由ですね」


「だから座れ」


佐伯は丸椅子に座った。昨日、美容院へ行き、ドラッグストアで買い物をし、家でヘアピンを試した。髪を少し整えただけなのに全員が気づき、部屋の中での見られ方が変わっている。少し嬉しかったが、その嬉しさがすぐに嫌になった。



次回「写真の中の澪」

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