第三話:初陣②
地下二階の執務室に戻った佑有梨は、柴崎から業務にかかわる書類の整理を頼まれ、黙々と作業していた。
デスクの上の時計は、十六時四十五分を指している。佑有梨はホッと小さく胸を撫で下ろした。今日も、無事に定時を迎えられそうだ。
「よし……書類の整理も終わったし、あとはパソコンを落とすだけですね」
「お疲れ様です、佐々木査定員。初日から完璧な手際でした」
「いえ、柴崎調査員の迅速な現場保全があったおかげです。それでは私、明日の準備をして——」
佑有梨が満足げにマウスを握り、画面上の『スリープ』にカーソルを合わせた、まさにその時だった。
『ウー――! ウー――!』
天井の赤色灯がけたたましく回転し、部屋中に合成音声のアラートが響き渡った。空気が、一気に張り詰める。
『緊急入電。管内にて未来技術を用いた物損事故が発生。至急、現場に調査員と査定員を出動させてください』
「事故……? いま、このタイミングで……!?」
佑有梨の動きがピタリと止まる。デスクの時計の針は、すでに十六時五十分を回っていた。残り時間は、わずか十分弱。
「出動ですね、佐々木査定員。現場はここから徒歩で三分、駅前の歩行者天国です」
柴崎が何事もないかのように平然と立ち上がり、スーツの上着を羽織る。その背中は、いつも通り落ち着いている。
「……柴崎さん」
「はい?」
「定時まで、あと十分なんですけど」
「損害査定に定時はありません。現場が私たちを呼んでいます」
佑有梨の額に、青筋がピキリと浮かび上がった。
さっきまでの爽やかな笑みは完全に消失し、瞳の奥にはメラメラと怒りの炎が燃え上がる。腹の底では、どす黒い感情が渦を巻いていた。
ありえない……! あと十分で、私は地下鉄に揺られて帰宅して、疲れを癒すべくドラマの配信を観ながら、のんびり湯船に浸かる未来が待っていたのに……! この定時直前に事故を起こした愚かすぎる未来人は、どこのどいつ!?
ユラリ、と佑有梨の身体が立ち上がる。その佇まいは、もはや査定員ではなく修羅のそれだった。空気が、彼女の怒りに反応するように揺らいだ気がした。
「柴崎さん、急ぎますよ!」
「えっ、あ、はい」
般若のような凄まじい相貌で執務室を飛び出す佑有梨に、さすがの柴崎も一瞬圧倒されながら後に続いた。
現場は、夕方の買い物客で賑わう駅前の商店街だった。
路面店の精肉店の看板が派手に
「だーから、おっちゃん! 俺のホバーの『緊急減速フィールド』がちょっとバグって、看板に接触しただけだって! 怪我人はゼロなんだから、そんな怒るなって!」
「そういう問題じゃねえだろ! 店の看板壊しておいて、その浮いてる板は何なんだよ!」
警察が到着する前の大混乱の中、人混みを強引に押し分けて佑有梨が突進した。
その手には、起動状態の査定端末。画面の光が、彼女の怒りの表情を照らしていた。
「おい、そこの浮遊物体乗り!!」
「うおっ!? なんだよお姉さん、急に大声出して――」
「本日十六時五十二分! 帰宅ラッシュ帯の第一種歩行者天国エリアにおけるホバーボードの無許可走行! 未来技術機器の滑走および飛行制限! 歩行者天国、商店街、住宅街等の密集地帯における無許可滑走は、第四種時空航空法違反および本約款違反とし、事故の有無を問わず査定およびペナルティの対象とする!」
佑有梨は端末の画面を爆速でフリックしながら、マシンガンのような早口で未来人へ詰め寄った。その間に柴崎が無言で素早くホバーボードに触れ、佑有梨に頷いた。ホバーボードの解析をし、佑有梨の端末にデータを転送する。青い粒子が、空中を舞った。
「さらに減速時の慣性制御失敗に伴う店舗備品の損壊!」
「なんだよお前、さっきからペラペラと!」
「何が『接触しただけ』ですか! あなたのその安物のホバーボード、緊急減速フィールドの出力設定が法定制限を三十パーセント超過しています! 事故について、あなたの過失は百パーセントです!!」
佑有梨のあまりの迫力と超高速の正論に、未来人は気圧されて後ずさる。周囲の買い物客たちが、遠巻きに見守っていた。
「な、なんだよお前……! 俺はただ、二〇二六年のレトロな商店街で映え動画を撮ろうと――」
「映えとか、心底どーでもいい!! 言い訳は不要!!」
佑有梨の一喝が商店街に響き渡った。声は、夕暮れの空気を裂くように鋭い。
「あなたの過失割合は百対ゼロ! 店舗看板の全損交換費用、および本日分の商品滅失・夕刻ピーク帯の営業損害見込み分、合わせて日本円で五十万円! ならびに歩行者密集地帯での不法滑走に伴う歴史改変リスクペナルティ、ランクB!」
端末を未来人の目の前にビシッと突きつけ、そこに表示されている数字を一息で読み上げた。
「被害店舗への損害賠償、および時空歪み補正費用!! 合計一千五百万クロノス!! 事故発生時刻の時空為替TTM適用により、一億五千万円! 加えて店舗損害五十万円、総額一億五千五十万円のご請求となります!!」
「い、一億五千万だあ!? 浮き板で看板倒しただけだぞ!?」
「不法跳躍者が文明品で現代に与えたインパクトの代償です! 物損の対物賠償だけでなく、時間軸への影響に対する歴史改変リスク違約金が含まれています! 文句があるなら時空裁判所へADR、裁判外紛争解決の申し立てをどうぞ! ただし不服申立期間は二か月、その間あなたの違法ホバーは押収されますが!!」
佑有梨は胸ポケットからペンを引き抜くと、佑有梨に圧倒されている未来人の手に強引に握らせた。
「さあ! 示談書に電子サインを! 早く!! 私の時間がなくなります!!」
「何がだよ! 無茶言うなよ、払えるわけねえだろ!!」
「問答無用! サインしなければ時空警察に引き渡して、裁判です!!」
「なんだよ、この女!!」
未来人が涙目になりながら端末の液晶に署名した瞬間、電子音が『ピコン』と鳴り、示談完了の通知が表示された。
「処理完了! 柴崎さん、撤収指示と現場のスモーク、よろしくお願いします!」
「えっ、あ、はい。手配します……」
手際が良すぎるどころではない、嵐のようなスピード処理。柴崎は「時空警察やら、スモークなんて、さっき一度しか教えていないし、実戦でも使っていないのに……」と驚きが勝っていた。その表情には、わずかな畏敬の念さえ混じっている。
「お肉屋さん、大変失礼いたしました。帝都火災の佐々木と申します。こちらから詳細をご連絡いたしますので、明日またお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「お、おう……」
精肉店の店主は呆気にとられた状態で、佑有梨が差し出した名刺を受け取った。散乱したコロッケの匂いが、まだ路上に残っている。
一方、佑有梨は査定端末をカバンに叩き込むと、左手首の腕時計を見た。
針は、十七時を指している。
勝った……! 完璧なロジックと超速査定で、示談成立まで所要時間七分……!!
「では、私は定時なので帰ります。お疲れ様でした」
「お、お疲れ様です」
柴崎にお辞儀をして、佑有梨は地下鉄の駅まで全力ダッシュし、ホームへ滑り込む電車に乗り込み、ドアが閉まると同時に、深く、深く勝利の溜息をついた。
「ふう……今日も無事に、定時退社完了です」
まだ人がまばらな車内で、佑有梨は満足げに、本日一番の美しすぎる笑顔を浮かべていた。
仕事は好き。でも仕事だけの人生にはしたくない。だからこそ佑有梨は、定時帰宅にこだわっている。
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