第16話 音楽とダンス

中学校に入って何日か経った。


授業が始まる。


教科ごとに先生が変わる。


休み時間になると教室の人間が動く。


小学校と違うところもあるけれど、困るほどではなかった。


授業で出された問題は普通にやる。


説明を聞けば分かる。


早く終わったら、残っている宿題を進める。


それも終わると暇になる。


だから、窓の外を見たり、教室の音を聞いたりする。


「鳴海」


昼休み、相沢が前の席を後ろ向きに使って座った。


「なに?」


「お前、部活決めた?」


「決めてない」


「見学は?」


「してない」


「初日に校内ぐるぐるしただけ?」


「うん」


相沢は呆れた顔をする。


本当に呆れている。


「なんか興味あるのねえの?」


「音」


「それ自己紹介でも言ってたな」


「うん」


「じゃあ吹奏楽とか?」


考える。


吹奏楽部の練習は聞こえる。


まだ全員が一緒に合わせている時間は少なくて、別々の音を出していることが多い。


楽器そのものは面白い。


でも、部活へ入ると決められた時間に毎日行くことになる。


「別に入らなくても聞こえるし」


「そういう問題?」


「何が?」


「いや……いいけど」


相沢は机に頬杖をついた。


「俺もまだ入ってねえんだよな」


「運動部見るって言ってたじゃん」


「見た。見たけど、なんか違う」


言葉の通りだった。


やりたいのに迷っているというより、見てみたら思っていたのと違ったらしい。


「相沢、何したいの?」


「ダンス」


すぐ答えた。


音もまっすぐだった。


「ダンス部ないよ」


「そうなんだよ」


相沢が机へ額をつける。


「別に部活じゃなくても踊れるんだけどさ。家だと狭いし、外だと場所によっては邪魔だし」


「体育館は?」


「部活が使うだろ」


「校庭」


「地面でやりたくない動きもある」


「廊下」


「怒られる」


「じゃあ教室」


「もっと怒られるだろ」


全部だめだった。


「場所探してる?」


「そう」


相沢が顔を上げる。


「学校って無駄に部屋いっぱいあるじゃん。あんま使ってないとことか貸してくれねえかなって」


「聞けば?」


「聞いた」


「どうだった?」


「空いてて、邪魔にならない使い方なら先生に確認してからって」


「じゃあ使えるじゃん」


「だから探してるんだよ」


相沢は少し楽しそうだった。


ダンスをする場所が欲しい。


ただそれだけ。


「鳴海もなんか見つけたら教えて」


「何を?」


「空いてる部屋」


「分かった」


昼休みが終わる。


相沢は前を向く。


その日の最後の授業が始まった。


 

 

 

〓〓〓

 

 

 


放課後。


特に予定はなかった。


相沢は何か先生に聞きに行っている。


俺は鞄を持って教室を出た。


帰ってもいい。


でもまだ明るい。


家に帰れば父さんが仕事をしている。


宿題も終わっている。


少し暇だった。


廊下を歩く。


部活が始まっている。


体育館からボールの音。


外から走る足音。


別の棟から管楽器。


階段を下りようとして、止まる。


遠くにピアノがある。


誰かが弾いているわけではない。


人の声もない。


でも、一度場所を知ってしまえば、そこにあるものの音は分かる。


初日に相沢と歩いた時には入らなかった廊下の奥。


多目的室と書いてある部屋。


扉は閉まっていた。


近くにいた先生へ聞く。


「ここ、今日使ってますか」


「多目的室?」


「うん」


「今日は使わないと思うけど。何かある?」


「ピアノ弾きたい」


先生が少し驚く。


「ピアノ?」


「あるよね」


「あるけど……使えるの知ってるのか?」


「たぶん」


「壊すなよ」


「壊さない」


「一人で使うなら、終わったらちゃんと閉めて職員室に声かけて」


「分かった」


許可が出た。


扉を開ける。


中は教室より少し広い。


机や椅子が壁際へ寄せられている。


前には黒板。


窓。


棚。


そして端に古いアップライトピアノ。


新しくない。


表面に細かい傷がある。


水原の教室にあったピアノとも、コンクールで弾いたものとも違う。


椅子を引く。


座る。


蓋を開ける。


鍵盤の色も少し変わっている。


押す。


ぽん。


少し鈍い。


もう一つ。


高い方。


今度は少し硬い。


全部同じ状態ではない。


古いから、一つ一つに癖がある。


それが面白い。


俺は何音か鳴らした。


強く。


弱く。


短く。


長く。


ペダルも踏む。


響きは大きくない。


部屋もホールとは違う。


音が近い。


壁に当たって戻ってくる。


「これ、結構好きかも」


誰もいないから、そのまま言った。


曲を弾く必要はない。


水原のところへ行かなくなってからも、学校で触れる時はピアノを弾いていた。


でも毎日ではない。


弾きたい時だけ。


今日は暇だから弾く。


一つ音を置く。


次。


教室の窓から入る夕方の光。


外の運動部の声。


遠いボール。


廊下を走った誰かの足。


全部そのまま音になる。


鍵盤へ移す。


低いところを少しだけ。


右手で短く。


間を空ける。


また鳴らす。


決まった曲ではない。


今そこにある音を使う。


古いピアノは、強く叩くより少し抑えた方がきれいだった。


だからそうする。


弾いているうちに、廊下から足音が近づいた。


知っている。


相沢だった。


止まる。


少しして扉が開いた。


「え」


俺は弾きながら見る。


相沢が立っていた。


「相沢」


「鳴海?」


「うん」


「何してんの?」


「ピアノ」


「それは見りゃ分かる」


相沢が部屋へ入ってくる。


「ここにいたのかよ」


「うん」


「俺、ここ使えるって聞いて来たんだけど」


「ダンス?」


「そう」


同じ場所だったらしい。


相沢はピアノを見る。


俺を見る。


またピアノを見る。


「ていうか、お前」


「なに?」


「弾けんの?」


「弾けるよ」


「前に習ってたとは言ってたけど」


「うん」


「そのレベル?」


何のレベルか分からない。


「どの?」


「いや、今の。なんか曲?」


「違う」


「適当に弾いてた?」


「適当ではない」


「じゃあ何?」


「今聞こえるの鳴らしてた」


「……またよく分かんねえこと言ってる」


でも相沢は嫌がっていない。


むしろ興味が強い。


俺の近くまで来る。


「なんか普通の曲弾ける?」


「弾ける」


「有名なやつ」


「何が有名?」


「それ俺に聞く?」


「相沢が聞きたいんでしょ」


「じゃあ……なんか俺でも知ってそうなの」


難しい。


相沢が何を知っているか、俺は知らない。


少し考えて、学校でも聞くことがありそうな曲を短く弾く。


相沢の顔が変わった。


「あ、それ知ってる」


「よかった」


そのまま少し弾く。


途中でやめる。


「え、終わり?」


「知ってるか確認しただけだから」


「最後まで弾けよ」


「なんで?」


「そこまで聞いたら気になるじゃん」


相沢は本当に続きを聞きたがっている。


仕方ないから、もう一度最初から弾く。


今度は最後まで。


古いピアノに合うように音を変える。


相沢は黙って聞いていた。


弾き終わる。


「……鳴海」


「なに?」


「お前、ピアノめちゃくちゃ上手くね?」


「上手いよ」


「自分で言うんだな」


「上手いから」


「その返し前も聞いた」


相沢が笑う。


「どれくらいやってた?」


「小一から小六の秋まで」


「結構長いじゃん」


「そうだね」


「なんでやめたんだっけ」


「父さんがもう習わなくていいって言ったから」


「ああ、それか」


前に話したことを覚えていた。


「もったいなくね?」


「何が?」


「そんな弾けるのに」


「今も弾いてるよ」


「習うのやめただけ?」


「うん」


相沢が少し考えてから頷く。


「まあ、それなら別にいいのか」


前と同じだった。


本人がいいならいい。


そのまま受け取る。


「相沢は踊るんでしょ」


「そうだった」


相沢が部屋を見回す。


机は端。


真ん中は空いている。


「ここならいけそうだな」


鞄を置く。


靴を確認する。


少し伸びをする。


俺は椅子に座ったまま見る。


「踊るの?」


「そのために来たんだから」


「見ていい?」


相沢がこっちを見る。


「別にいいけど」


少しだけ緊張が混ざる。


『こいつの前でやんの、なんか変な感じするな』


でも嫌ではない。


俺は鍵盤から手を離した。


「音ないの?」


「今日はある」


相沢が鞄からスマートフォンを出す。


「普段これで流してる」


曲を出す。


スマートフォンのスピーカーだから音は小さい。


音質もよくはない。


でも踊るためなら十分らしい。


相沢が少し場所を取る。


再生。


音楽が始まる。


相沢も動いた。


最初の一歩で、普段歩いている時とは身体の使い方が違った。


重心が落ちる。


膝。


腰。


肩。


腕。


全部が音に合わせて動く。


ただ拍に乗っているだけではない。


少し遅らせる。


止める。


次で速く動く。


身体の一部だけを先に動かして、後から別の場所がついてくる。


面白い。


相沢は上手かった。


でも、完成しているわけではない。


一度だけ足の位置が少しずれる。


次では直す。


同じ動きをもう一度やる。


今度は前より近い。


その次。


さらに良くなる。


「何回もやるんだ」


曲が止まったところで言う。


「練習だからな」


相沢が息を整える。


「さっきのところ、三回やった」


「見てたの?」


「見てたよ」


「どうだった?」


「三回目が一番よかった」


「マジ?」


「うん。二回目は右足がちょっと外」


相沢が自分の足を見る。


「……分かる?」


「見れば」


「ダンスやってた?」


「やってない」


「じゃあ何で分かんの?」


「動き違ったから」


「そういうの普通そんな見てねえだろ」


相沢は驚いている。


少し嬉しくもある。


「三回目は狙った形に近かった?」


俺が聞く。


「そう。そこ、ずっと直してんだよ」


やっぱり。


一回目。


二回目。


三回目。


相沢の中で、したい動きがある。


それへ身体を近づけている。


水原に指使いを教わった時とは少し似ている。


でも違う。


俺は音を先に知っていた。


欲しい音があれば、身体をそこへ合わせればよかった。


相沢は、自分の身体そのものを何度も使って形を作っている。


「相沢」


「ん?」


「それ楽しい?」


「楽しいよ」


即答だった。


疲れている。


汗も少しかいている。


さっきの失敗は悔しい。


でも、楽しい。


全部一緒にある。


「何で?」


「何でって……できなかったのができるようになると気持ちいいじゃん」


「そうなんだ」


「鳴海は違うの?」


「できないことあんまり繰り返したくない」


「ムカつくな、お前」


言いながら、本気で嫌ってはいない。


ただ少し腹が立った。


「ごめん」


「謝るなら最初から言うなよ」


「でも本当だし」


「そこだよ」


相沢は笑った。


それからスマートフォンを見る。


「もう一回やる」


「同じとこ?」


「そう」


曲が始まる。


相沢が踊る。


俺は今度は音楽より相沢の動きを見た。


足。


膝。


腰。


背中。


肩。


腕。


頭。


全部が別々に動く。


でも別々ではない。


一つ動くと、次がつながる。


今度はさっきより良かった。


「今のいい」


終わった瞬間に言う。


「マジ?」


「うん」


「よし」


嬉しそうだった。


そのまま床に座る。


「休憩」


「疲れるんだ」


「当たり前だろ」


「何分くらいやるの?」


「その日による。家でやる時もあるし」


「家狭いんでしょ」


「だから小さい動きとか。あと外とか、借りられる場所とか」


「ずっとやってるの?」


「小学生から」


「何で始めたの?」


相沢がスマートフォンを振る。


「動画」


「動画?」


「短いやつとか、踊ってみたとか見て。やってみたら面白かった」


「相沢も出してる?」


聞くと、一瞬だけ音が変わった。


嬉しい。


恥ずかしい。


見てほしい。


でも見られて下手だと思われるのは少し嫌。


全部分かりやすい。


「……出してる」


「見せて」


「今?」


「うん」


「お前、即答だな」


相沢は迷ってから画面を操作する。


「別にそんな見られてないからな」


「何人?」


「そこはいいだろ」


少し恥ずかしいらしい。


動画を見せてもらう。


画面の中で相沢が踊っている。


今より少し前。


場所も違う。


動きも今より少し下手だった。


でも、何本か続けて見ると変わっていく。


「上手くなってる」


俺が言う。


「どれと比べて?」


「最初の方」


「そりゃまあ」


「今の方がもっと上手い」


相沢が一度止まる。


それから、少し照れたように笑った。


「ありがと」


そのままだった。


俺が褒めたから喜んでいる。


変に否定しない。


でも自分がすごく上手いと思っているわけでもない。


「まだ全然なんだけどな」


それも本音だった。


「もっと上手い人いる?」


「いる。普通にいる」


「じゃあその人見れば?」


「見るよ。見て、真似して、できないとこ練習する」


「へえ」


俺は動画をもう一度見る。


相沢は画面の中で、音楽に合わせて動いている。


「相沢」


「なに?」


「さっきの曲、もう一回流して」


「踊る?」


「いや」


俺はピアノへ向く。


「これで鳴らしてみる」


「ピアノで?」


「うん」


相沢がさっきの曲を流す。


一度聞いたから、音は分かる。


そのまま全部ピアノへ移す必要はない。


踊る時に必要な音。


拍。


動きが変わる場所。


相沢が強く使っていたところ。


それを拾う。


スマートフォンの音を止めてもらう。


俺が弾く。


最初。


相沢が立った。


「ちょ、待って」


俺も止める。


「なに?」


「今ので踊っていい?」


「いいよ」


「最初から」


「うん」


もう一度。


弾く。


相沢が動く。


さっきとは少し違う。


スマートフォンから流した音とは違うから、最初は探している。


でもすぐ合う。


俺も相沢を見る。


一歩。


次。


腕が来る。


ここは少し強い方が動きやすそうだ。


変える。


相沢の動きが変わる。


次は止まる。


なら音も少し空ける。


相沢がこっちを見る。


驚いている。


でも止まらない。


俺も続ける。


これは面白い。


ピアノだけを弾いている時とは違う。


俺が音を出す。


相沢が動く。


相沢が少し変える。


それを見て俺も変える。


また相沢が動く。


何回か続いた。


最後。


音を切る。


相沢も止まった。


少し息をしている。


「……鳴海」


「なに?」


「今、俺に合わせて変えた?」


「うん」


「曲、さっき初めて聞いたよな?」


「うん」


「何で弾けんの?」


「聞いたから」


「いや、それ説明になってねえって」


久しぶりに言われた気がする。


水原にも似たような顔をされた。


「でも踊りやすかった?」


聞く。


相沢は少し黙る。


「……めちゃくちゃ踊りやすかった」


「じゃあよかった」


「何なんだよ、お前」


相沢は笑った。


驚いている。


でも、それ以上に楽しんでいる。


『もう一回やりたい』


その音が強い。


言う前に答えるのはやめる。


相沢がピアノの横まで来る。


「なあ、もう一回いい?」


「いいよ」


「今度ちょっと変えるから」


「分かった」


俺は鍵盤へ手を置く。


「相沢」


「ん?」


「さっきの動き」


「どれ?」


俺は椅子から立つ。


さっき気になった、足から身体をずらしていく動きをやってみる。


見た通りに動かしたつもりだった。


でも、何か違う。


相沢がすぐ笑った。


「違う違う」


「どこ?」


「そこ、足だけ真似しても駄目。重心から入んの」


「重心?」


「そう。あと膝」


俺は自分の足を見る。


見れば分かると思ったけれど、相沢が何を意識しているのかまでは知らない。


「相沢の方が詳しいね」


「そりゃ俺、ダンスやってるし」


少し得意そうだった。


でも、自慢したいだけではない。


教えたくなっている。


「知りたい?」


相沢が聞く。


「うん」


「じゃあ今度教える?」


俺は頷いた。


「教えて」


相沢が笑う。


「いいよ」


ピアノの音と、相沢のダンス。


入学初日に同じクラスになった時には、まだそれだけだった。


でも、二つを一緒にすると、思っていたより面白かった。

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