第九話 純喫茶まりも 煙草の匂い 受 壱

 客用のパイプ椅子は、みんなが見る。

看板は見ない。テーブルに並べた厄除けの札も見ない。店番の顔も見ない。それなのに、空いた椅子にだけは目が落ちる。座る人もときどきいて、座ってから、なんで座ったのかが分からなくなって帰っていく。

その日の昼過ぎに座った人は、名刺を持っていた。

四十くらいの女の人だった。紺の上着に、白いシャツ。手にした名刺の角が、少し丸くなっている。

「元祖天神大上屋さん、ですか」

「はい」

「これ、どこでもろうたとか、思い出せんとですけど」

「よう言われます」

座った拍子に、煙草の匂いがした。上着に染みついた、古い匂いだ。俺は、この人は吸う人なのだろうと思った。それだけのことだった。


 「拝み屋さん、ち書いてありますね」

「怪異の引き取りと、厄除けと、ご相談ば承っとります」

「怪異」

その人は繰り返して、少し笑った。笑ってから、笑い方が済まなそうになった。

「うちの店、朝、煙草くさかとです」

「煙草」

「うち、禁煙にしとるとですよ。五年前から、一本も吸わせとらんとです。それでも朝、店ば開けると煙草くさかとです」

桜坂さくらざかで喫茶店をやっている。父親の代から数えて四十年になる。名前は梶原かじわらさんといった。

「掃除もします。窓も開けます。消臭剤も焚いてみました。次の朝、また煙草くさかとです」

「同じところがですか」

「日によって違うとです」

姿は出ない。音もしない。物も動かない。ただ、匂いだけがある。

「実害は」

「お客さんが、煙草くさか、ち言うて帰らすとです」

それが実害だった。この人は怖がっていなかった。困っているのは売上のほうだ。

「先に、お代の話ばさせてください」

見に行くだけで五千円。引き取ることになったら、そこから別に二万五千円。締めて三万円になる。調べて何もできなければ、五千円だけもらって帰る。

「三万」

梶原さんは口の中で繰り返した。

「うちの、一日の売上ぐらいです」

「高かと思わすなら、断ってもろうてよかです」

「いえ」少し置いて、「お願いします」と言った。


 天神南から七隈線ななくませんで四つ目、桜坂で降りた。地上に出ると、交差点から南に入る道が上がりはじめる。

山手の通りは、両側に飲食店がぽつぽつある。夜にならないと開かない店ばかりで、昼のうちは暖簾も出ていない。上がりきった先は丘で、その向こうに動植物園と公園がある。人の流れが天神とはまるで違う。用のある人しか通らない道だ。

純喫茶まりもは、道が一段折れるところにあった。白い庇に、木枠のガラス戸。戸に小さく屋号が入っている。二階が住まいで、窓に洗濯物が見えた。

戸を開けると、コーヒーの匂いがした。それから、たしかに煙草の匂いがした。

中はカウンターに五席、四人掛けが三つ。床は茶色いタイルで、天井が薄く煤けている。奥の隅に、背の高いゴムの木の鉢が置いてあった。

「これは」

「父のです」梶原さんが言った。「わたしが生まれる前からあります」

四十年やって、五年前に継いだ。継いですぐ、灰皿を全部下げた。

「そしたら、お客さんが半分になりました」

「戻さんかったとですね」

「戻さんかったです」

言い方に力がなかった。半分にした人が半分を悔いている、という言い方だった。

「梶原さんは、吸わすとですか」

「吸いません。父も、店では吸わん人でした」

そこで、昨日の匂いを思い出した。渡辺通りのパイプ椅子に座ったとき、この人の上着から煙草の匂いがした。俺はこの人が吸う人だと思った。

吸わない人だった。あれは、この店の匂いだ。

持って出ていた、ということになる。


 「いちばん濃かとは、いつですか」

「朝です。開ける前がいちばん臭かです」

夜のあいだは誰も入らない。上の住まいから降りてきて、戸を開けると、店のどこかが煙草くさい。窓を開けて、掃除をして、客が入りはじめると、昼にはもう分からなくなる。

「夕方は」

「夕方は、せんとです」

溜まって、薄れて、また溜まる。そういう出方だった。

「札ば三枚、貼らせてください。紙が傷むだけで、店に害はなかです」

引き戸の内側に一枚、カウンターの内側に一枚、奥の壁に一枚。離して貼った。

コーヒーを頼んだ。四百円だった。

「お代は、よかです」

「払わせてください」

梶原さんは何か言いかけて、やめて、受け取った。

コーヒーはうまかった。豆の話も焙煎の話も俺には分からないが、うまいことは分かった。


 翌朝、また坂を上がった。

三枚とも、湿っていた。

黄ばみではなかった。紙が湿気を吸ったように波打って、乾いたあとの染みのような色が残っている。

黄ばみは場、焦げは動物、湿りは植物と物。修行の初日あたりに一覧で覚えた。半日で済む話だ。

場ではなかった。

店が覚えているのだと思って来ていた。四十年ここでやった店が、灰皿を下げられて、そのころを覚えているのだと思っていた。違った。

引き戸の内側の一枚は、奥寄りのところが湿っている。カウンターの内側の一枚は右寄りから、奥の壁の一枚は低いところから来ていた。

一枚では線が一本引けるだけだ。だから三枚貼る。

三本を延ばすと、奥から二番目の席のあたりで交わった。


 床のタイルを見た。継ぎ目に汚れが溜まっているだけだった。椅子を裏返した。裏板に何も貼ってない。壁を叩いた。空洞はない。座面の布を鼻に近づけると、煙草の匂いがした。ただし、それは店じゅうがそうだ。

奥のゴムの木のところへ行った。

湿りは植物と物で同じ色だ。色では割れない。四十年ここにある木なら、覚えていてもおかしくない。俺は鉢に一枚貼らせてもらって、その日はそれで帰った。


 朝、帳面の後ろの頁に字が入っていた。俺の字だ。筆ペンは机の横に転がったままで、書いた覚えはない。


  桜坂    純喫茶まりも 員数 合

  同所    山手の通り  員数 合

  薬院四丁目 当方アパート 員数 合


 合。

多くも少なくもない。過不足がない。

それだけを書いて、日が昇れば消える。

数は合っている。合っているのに、匂いがする。


 その日、店で数を数えた。

カウンターが五席、四人掛けが三つで十二席、締めて十七。椅子は十七脚。カップとソーサーが四十組。皿が二十六。灰皿は無い。五年前に全部下げて、物置に上げたままだという。

物置に上げた灰皿を数えた。十九あった。梶原さんが台帳を出してきて、十九で合っていた。

全部合っていた。

こないだのクリーニング屋では、数はもう向こうが持っていた。奥さんが三十八点と即答して、俺はそれを書いた。

ここには無い。

何が多いのでもなく、何が足りないのでもない。俺の手順は数を掴むところから始まるのに、掴むものが無い。入口で止まっている。


 三日目の朝、貼り直した三枚を見た。

引き戸の内側の一枚は、真ん中あたりから湿っている。カウンターの一枚は左寄りから。壁の一枚は、昨日より上のほうから来ていた。

線を延ばした。

交わったのは、入口の内側のあたりだった。

昨日は奥から二番目の席で交わった。今日は入口で交わる。濃さも違う。昨日より濃い。近づいたから濃いのか、強くなったから濃いのか、そこは割れない。遠ければ広くぼやけて弱く、近ければ狭く鋭く強い。濃さには両方が乗っている。

奥のゴムの木に貼った一枚は、ほとんど湿っていなかった。

動いている。

木は動かない。根を張ったところから動かないから木なのだ。動くものが、この店の中を移っている。

札は貼れない。貼る先が留まっていない。


 梶原さんに頼んで、その日は昼まで戸を開けずにいてもらった。

昼に嗅ぐと、朝よりまだ濃かった。

それから店を開けた。客が二人入って、一人が新聞を読んで帰り、もう一人が電話をしながら三十分いて帰った。二人が出ていったあと、入口の内側のあたりを嗅いだ。

薄い。

自分の上着を嗅いだ。

煙草くさかった。

持ち出されている。ここに溜まって、入ってきた人にまとわりついて、外へ出ていっている。梶原さんが渡辺通りまで運んできたのと同じものだ。減るから、夜のあいだにまた溜まる。

場は動かない。動かないから、その場所がおかしいという形でしか出てこない。これは動く。それだけの違いで、見え方はまるきり同じだった。


 「昔、ここで吸いよったとは、どげな人たちですか」

「みんなです」梶原さんが言った。「昔は、みんな吸いよったですけん」

「よう来よった人で、覚えとる人は」

帳場の裏から古いノートを出してきた。父親が付けていたもので、常連の名前と、誰が何を飲むかが書いてある。上のほうの名前は、もう来ない人ばかりだった。

「この人は亡くなりました。この人も」

指がノートの上をなぞって、途中で止まった。

俺は言った。

「先代のこと、好いとった人がおったとでしょう」

梶原さんは少し考えて、それから答えた。

「みんな好いとったですよ」

外れた、と思った。

特定の誰かの心残りだと読んだのが外れた。それだけだと思った。俺はノートを返して、次のことを考えはじめた。


 夕方、天神に戻ると、店の斜向かい、デパートのひさしの下に安藤さんが立っていた。缶コーヒーを持っている。

「安藤さん」

安藤さんは俺の鞄のあたりを見た。見た、というより、鞄の中身を推し量るような目つきだった。

「増えとらんな」

「はい」

「毎日どっかに出よるくせに、増えとらん」缶を持ち替えた。「引き取るもんの、分からんとやろ」

図星だった。

一通り話した。湿ったこと、線が毎日変わること、木は違ったこと、数が全部合うこと。

安藤さんは、少し黙った。

「匂いは、順番のあとに残ると」

「順番」

「ああ」

「どういうことですか」

「そういうもんたい」

それきり言わなかった。俺には意味が取れなかった。

「受けると決めたとか」

「受けます」

「なら、何ば受けるとか」

そこで詰まった。

「まだ、決まっとりません」

「決まらんもんは受けられん」安藤さんは言った。「先に決めろ」


 その晩、四畳半で帳面を開いた。

何を書くか。品名と数が決まらなければ書けない。数のほうは、たぶん壱でいい。問題は品名だ。

煙草、と書いてみることを考えた。

書いた瞬間に、無いものを受けたことになる。あの店に煙草は一本もない。無いものを受ければ、帳面はどこかで帳尻を合わせる。何が出るか、何が消えるかは選べない。以前それで男が一人出てきた。二度とやりたくない。

席、と書くことを考えた。

奥から二番目の席なら、椅子は一意に決まる。決まるが、消えるのは椅子だ。四人掛けなら机もついてくる。

それに、三日目にはそこにはいなかった。ならば、椅子が一脚減った店に、翌朝また煙草の匂いがするだけだ。

匂い、と書くことを考えた。

これがいちばん近い。近いが、広い。あの店にはコーヒーの匂いがあって、木の匂いがあって、油の匂いがあって、洗剤の匂いがある。四十年ぶんの匂いが全部ある。匂い、と書いて、その全部が持っていかれたら、梶原さんに何と言えばいいのか。

帳面をめくった。

「坂口方 員数 七」。「みやこビル 巡回 受 壱」。「ホテル白水 泊まり客 受 壱」。「入江クリーニング 預り物 受 三十八」。

どれも頭に、家の名か屋号が付いている。

癖でそう書いてきた。誰の何の勘定かが分からなければ帳簿にならないから、屋号から書く。それだけのつもりだった。

その屋号が、一つに絞っていたのだ。

匂いは数えられない。世の中の匂いを一つにまとめることはできない。だが、あの店の、あの一件の煙草の匂いなら、指す先は一つに決まる。決まれば書ける。

数は向こうが持っていることもある。持っていないこともある。

持っていないときは、こちらが決める。


 四日目の朝、開店前の店に上がった。

「煙草の匂いだけば引き取ります」と俺は言った。「店の匂いは残します」

「そげなこと、できるとですか」

「言葉ば狭う書きます。狭う書けば、狭う効きます」

「もし」梶原さんが言った。「父の店の匂いまで、無うなったら」

「そんときは、戻せんとです」

嘘をつく場面ではなかった。

「保証はできんとです。俺にできるとは、書く言葉ば狭うすることだけです」

梶原さんはカウンターに手を置いて、しばらく店の中を見ていた。天井の煤も、床のタイルも、奥のゴムの木も見た。

「お願いします」

「表に出とってもらえますか」

梶原さんは何も訊かずに外へ出て、ガラス戸を閉めた。


 店じゅうが見渡せるように、カウンターの前に膝をついて、鞄から帳面を出した。

短い祝詞をあげた。八文字。

「元祖天神大上屋、大上大介がお受けします」

空気が張った。

値踏みされている、というのがいちばん近い。いつまで経っても慣れない。

筆を下ろした。


  純喫茶まりも 煙草の匂い 受 壱


 匂いが、一枚めくれるように無くなった。

音はしなかった。風も動かなかった。ただ、鼻の奥に来ていたものが、すっと途切れた。


 梶原さんを呼び入れた。

入ってきて、二歩進んで、止まった。カウンターの上に顔を近づけて、嗅いだ。それから店の中を歩いて回った。席の座面を一つずつ嗅いだ。カウンターの内側に入って、豆の缶の蓋を開けた。ゴムの木の葉に触った。厨房の油の匂いを嗅いで、布巾を嗅いだ。

最後に、天井を見上げた。煤はそのままだった。

「……しません」

「煙草だけですか」

「煙草だけです」

声が少し掠れていた。泣きはしなかった。

三万円は封筒に入っていた。前の晩に用意したものらしく、折り目がついていた。

コーヒーを一杯出された。

「これは、うちからです」

四百円をカウンターに置いた。梶原さんは何も言わずに、それを取った。


 坂を下りて、駅の階段を降りるまでに、上着の袖を二度嗅いだ。

何も匂わなかった。

天神に戻ってから、安藤さんに電話した。呼び出しの途中で出た。

「決まったとか」

「決まりました」

「なんて書いたとか」

「煙草の匂い、と」

「屋号は」

「頭に付けました」

安藤さんは、ふん、と言った。

「狭う書いたな」

「はい」

「そんでよか」

それだけで切れた。順番の話は、それきり出てこなかった。


 店に戻ると、本家が表に出てきていた。テーブルの札を並べ直しながら訊いてくる。

「なんて書いたとですか」

「煙草の匂い、と」

「それだけですか」

「それだけや」

本家は手を止めなかった。訊いたわりに、答えを聞いた顔でもなかった。同じ頭なのだから、俺がどこで迷ったかは訊かなくても分かる。分かったうえで、書いた文言だけを訊いてきた。

増えたのは、煙草の匂いを出す力が一つ。いま出せるわけではない。引き取ったものは、しばらく寝ている。使えるようになるころには、こっちが忘れているかもしれない。

使えるようになったところで、店先が煙草くさくなるだけだ。厄除けは売れなくなる。

出せるだろうか、とも思った。

座布団は出した。俺自身も出た。三十八点も、番号を言ってもらえば出す。だが匂いは、何をもって一つとして出てくるのか、書いてみるまで分からない。書いてみて分からなかったときに、それを引き受ける肚がなかった。

数を数えるのが仕事だと思っていた。

数えるのは半分だった。何と書くかを決めるのが、残りの半分だ。決めた言葉の幅のぶんだけ、この世から物が減る。狭く書けば狭く減り、広く書けば広く減る。

今日は狭く書いた。

狭く書いたぶん、線の外に何が残ったのかは、俺には分からない。

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