第10話 半分当たって、半分外れて

 問題は――それを試すには、一度、あいつをこっちへ向かって全力で走らせる必要があることだった。


 つまり――自分から誘わなければならない。


「……冗談だろ」


 後ずさりしながら、密集した木々へ走り込める位置まで少しずつ移動する。獣は俺の動きに合わせて、じりじりと距離を保ったままついてくる。詳細まで詰め切れてはいない。うまくいく保証もない。


 ――やるしかない。


 短槍を構え直し、獣を挑発するように軽く前へ出る。獣が、待っていたとばかりに低く身を沈めた。


「来い……!」


 十分に引きつけたところで、俺は密集した木々へ向かって全力で走った。


 獣が反応する。俺を追って、体の向きを変える。狙い通りだ。少なくとも、ここまでは。


 叫びながら走る。背後で、地面を蹴る音が急速に近づいてくる。息が切れる。


 あと数歩で、隙間へ届く。心臓が痛いほど鳴っていた。


「……今だ」


 早めに、大きく横へ跳んだ。


 だが、それが早すぎた。


 その直前、足音の間隔が変わった。


 振り返る余裕はなかったが、気配で分かった。獣が、速度を落としている。


 隙間の手前で、獣はぴたりと止まっていた。荒い息を吐きながら、こちらを睨んでいる。


「こえええー! しかも止まれるのかよ……」


 情けない声が漏れる。高速で突っ込んでいる間は、急には曲がれない。そこまでは、たぶん合っている。だが、止まれないとは限らなかった。予想の半分は当たり、半分は外れた。




 考える間もなく、獣がこちらへ向き直る。短槍を正面に構え、距離を取りながら牽制した。倒すためじゃない。飛び込ませないための壁だ。穂先が細かく震えていたが、今はそれどころじゃなかった。


(……なんで止まれた?)


 さっきの動きを思い返す。獣が速度を落としたのは、俺が横へ跳んだあとだった。俺が早めに正面から消えたせいで、その先の木々が丸見えになった。そこからでも、止まるだけの時間は残っていたってことか。


 だとすれば。


(俺が正面に残ったままなら、あいつの目は俺を追う。隙間そのものは見えていても、突っ込める幅かどうかを判断する余裕まではなくせるかもしれない)


 仮説として、たぶん悪くない。だとすれば、今度は逃げるタイミングを変えればいい。獣の意識を自分だけに縛りつけておいて、障害物を判断する余裕を奪う。


 賭けだった。今度は自分が先に隙間へ向かうのではなく、獣の正面に立ちふさがったまま、ぎりぎりまで引きつけなければならない。獣が、こちらの様子をうかがうように低く唸っている。




 獣が、再び距離を詰めてくる。今度は、木々の密集地を背にする位置へ、自分から回り込んだ。獣から見れば、俺の後ろに一直線で木々が並ぶ形になる。


 今度は動かない。


 地面を蹴る音が近づく。土埃が舞う。金色の目が、まっすぐこちらを見据えている。逃げろと訴える本能を、無理やり押さえつける。足が勝手に下がりそうになるのを、奥歯を噛んで堪えた。握った短槍の柄が、汗で滑りそうになる。


(まだだ。まだ、動くな)


(早く避けたら、さっきと同じだ)


 あと少し。あと、少しだけ――。


「――っ!」


 牙が、目の前まで迫る。獣臭が鼻を突き、金色の目がすぐそこにあった。


 限界まで引きつけて、横へ飛んだ。


 俺が横へ飛んだ瞬間、獣の正面から俺だけが消えた。その先にあったのは、人ひとりがようやく抜けられるほどの狭い隙間だった。だが、もう速度が出すぎていた。減速する間もないまま、狭い隙間へ全身で突っ込んでいく。


 バキバキと枝が折れる音。肩を幹にぶつけ、体勢を崩しながらもがいている。完全に動けなくなったわけではない。それでも、体勢を立て直すには数秒かかりそうだった。


 今だ。


 俺はすぐさま立ち上がり、獣に背を向けて走った。振り返らなかった。ただ、脚が動く限り走った。肺が痛い。喉が焼けるように熱い。それでも止まらなかった。




 息が上がり、足がもつれて、ようやく足を止めたときには、獣の気配はもう感じられなくなっていた。


 息が切れて、うまく吸えない。肩と肘がずきずき痛む。手が震えて、槍を握る力さえ心もとなかった。脚にも力が入らず、その場にへたり込む。しばらく、荒い呼吸だけが続いた。


「はぁ、はぁ……なんとかなった、のか」


 実感はまだ薄い。ただ、体の震えだけが、さっきまでの時間が本物だったと教えてくれる。肩の痛み、肘の擦り傷、切れた息。どれも、痛いくらいに現実だった。


 でも、あの理不尽な死に方をした夜とは違った。今回は、最後まで考えるのをやめなかった。予想を外し、外れた分だけ何かを拾い直して、もう一度試した。それだけで、一歩前進だ。




 しばらく歩くと、畑の向こうに大きな納屋が見えてきた。教えられた通りの目印だ。インベントリから依頼品を取り出して準備しておく。


「あんた、ずいぶん汚れてるな。大丈夫か」


 出てきた農場主が、怪訝な顔で俺を見る。土まみれの服、擦り傷だらけの腕、乱れた息。誰が見ても、まともな道中ではなかったと分かる格好だったろう。


「途中で、ちょっと。狼みたいな魔物に襲われまして」


 詳しい説明は省いた。今はうまく言葉にする気力すら残っていなかった。まず依頼品を渡すことを優先したい気持ちの方が強かった。


「魔物に? ……にしても、あの辺りで魔物とは珍しいな」


「珍しいんですか?」


「普段はもっと森の奥にいるはずなんだが。街道近くまで出てきたのか」


 農場主も、心当たりはなさそうだった。少なくとも、よくあることではないらしい。


 荷物を農場主へ渡す。農場主は慎重に中身を確かめた。しばらく黙って様子を見ていたが、やがて頷いた。


「無事だな。よくやった」


 その一言に、全身の力が抜けそうになった。割れていなかった。それだけで、今日という日がなんとか報われた気がした。


「帰りも、同じ道しかないですか?」


 さすがに、もう一度あの場所を無防備に通る気にはなれなかった。農場主は少し考え、少し遠回りだが開けた道を教えてくれた。


 依頼完了のサインをもらう。


 帰りは教えられた道を、来た時よりずっと慎重に歩いた。獣のいた場所には近づかず、周囲を警戒しながら足早に街道を戻る。臆病だと言われても構わない。プライドなんかよりも、命のほうがよっぽど大切だ。




 ハルムへ戻り、その足でギルドへ向かう。伝令の完了報告と、魔物の目撃報告のためだ。


「確認しました。報酬の2,500リルです」


【所持金】7,500リル


「……2,500リルの仕事で死にかけるとは思わなかったな」


 短時間で終わりそうで、危険も少なそうだから選んだ仕事だったはずだ。そう呟いて、自分の見通しの甘さに苦笑する。


「あと、あの道で狼に似た魔物に襲われました。街道からそう離れていない場所です」


 受付の女性は表情を引き締め、詳しい状況を確認しながら、丁寧に記録を取っていく。


「情報提供、助かります。念のため、あの一帯には注意喚起を出しておきますね」


「街道近くで、灰色で、狼に似ていたと言ったな」


 横から声がかかった。


 振り向くと、腰に剣を下げた女が立っていた。


 明るい金髪を高い位置で一つに束ね、長い髪が背中へ流れている。整った顔立ちをしているが、使い込まれた剣と無駄のない立ち姿のせいか、綺麗というより先に『強そうだ』という印象が来た。身につけているのも、飾り気のない実戦向きの軽装だ。


 どこかで見た気がする。


 ……ああ。前に掲示板で、依頼票の一文を妙に長く眺めていた人だ。


「……えっと、どちら様でしょう?」


「ミグレナだ。その魔物の場所を教えてくれ」


「あ、圧がすごい……」


「その特徴なら心当たりがある。街道近くにいたというのが気になる」


 明らかに、さっきまでとは目つきが変わっていた。魔物の話になった途端に食いつきが変わったのが、素人目にも分かる。


「今から行く」


「ミグレナさん、今日はもう遅いので、確認は明日にしましょう。ナオキさんも今日は休んでください」


 受付が間に入って窘める。ミグレナは名残惜しそうな顔をしながらも、素直に頷いた。


「案内、頼めるか?」


「……俺ですか」


「お前以外に誰がいる? 実際に襲われた場所を知ってるのはお前だ」


「ですよねぇ……明日なら、まあ」


 正直、あの場所にはあまり戻りたくない。だが、場所を正確に知っているのが俺だけなのも事実だった。


(……明日は、あのミグレナって人とあの場所へ行くのか)


 ギルドを出ると、日はすっかり傾いていた。今夜こそ、ゆっくり休みたい。そう思いながら、俺は宿への道を歩き出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録(無料)

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る