眩しさに、たたき起こされた。
雪原でどうしてか、俺は空を見上げていた。
生まれたばかりのようだ。そこに至るまでの過程が欠落している。
空を見上げるこの体の持ち主が何者で、どこから来て、何をしようとしていたのか。
焦ったところで、理解できるわけでもない。己を知るためにはまず観察だ。
最初に目に入ったのは、右手が掴む刃物だった。
刃には血がこびりついて固まっていた。
裂かれた痛みがないだけに、血は俺のものではないのだろう。
——俺は誰かを傷つけたのか?
そこにいる必然について、順を追って考える。
おそらく自分は、過ちを犯して逃亡したに違いない。
今この場所に至るまでの経緯を一ミリも憶えていないわけだが、ひとめにつかない木々の格子にいるということは、そういうことだろう。
身を隠しているつもりなのだろうか。それとも追い詰められた結果だろうか。
鉄錆のようなそれが付着した刃物以外何もないこの状況では、想像に頼るしかなかった。
想像できるだけの知識が残っていて助かったかもしれない。
本当に全てを失っていれば、途方に暮れるということすら知らず、雪に埋もれることをただ甘受して時間を止めただろう。
自分の正体よりも、その場にいる理由に興味を持った俺は、過去の残滓を探すべく周囲を見回した。
大気の汚れを吸収しながら、どこまでも無垢な白——足元を目で追えば、埋もれかけた血痕があった。
俺を囲う木々を真っ二つに裂く細い道を振り返る。
斑点が続いている。
この先にはきっと、自分の非道を知らしめる何かがあるのだろう。
道の向こうで、何をし、どうして逃げたのか。
探究心が止められず、想定できる危険もおかまいなしに自分の跡を追った。
どうせ何もわからず、行くあてもないのだ。
やみくもに先を進んで凍死するか、それとも自分が犯した罪によって裁かれるか。
俺は後者を選んだ。
どちらにせよ、俺が辿る先には陰りしか見えない。
握りしめる太い包丁についた血が、現実を悟らせる。
忘却の責任か、それとも性格なのか、不思議と恐れは抱かなかった。
結晶の詰まった固い雪を踏みしめて進む。
このまま遭難しても仕方がない。とにかく進むしかなかった。
息を切らし、汗が滲み始めた頃、大きなコテージが目に飛び込んできた。
血痕はその玄関まで続いている。
自分が犯した罪もそこにあるのだろうか。
少しだけ躊躇ったのち、見た目通り固い扉を開ける。鍵はかかっていなかった。
この暖かいコテージで俺は何をしたのか。
警察でもなんでもいい、ただ教えてほしかった。
静かに足を進めると、玄関のすぐ右、開けっ広げのドアの奥から、立派な暖炉とアンティークな調度品が見える。
火が波打つように燃え盛る暖炉に近づく。
他に誰かがいるのは間違いない。まともに話し合える者なら良いのだが——危険人物として否応なく放り出されても困る。
家宅侵入したはいいが、答えが見つかる保証もないことにようやく気付く。
——自分の存在が曖昧なせいか、まるで夢の中を動いているようだ。
浅はかだと自嘲していると、背後に人の気配を感じる。同時に、俺は一人の女に声をかけられた。
「……戻ってきたの」
口元のホクロが色濃い、長い髪の女だった。
女は俺の右手をちらと見、苦笑する。
「逃げなくていいの?」
「やはり、俺には逃げる理由があるのか。……それであんたは俺が何者かを知っているんだな? ここで一体何があったんだ?」
真っ向から訊ねると、女は深く溜め息をついた。
「……何を言い出すかと思えば。——まさかあなた、あれだけのことを覚えていないの?」
「ああ。俺は自分が何者かも、こんな刃物を持って外に出た理由もわからない」
正気とは思い難い言葉を本気で言えば、女は驚いた顔をして——だが、すぐに微笑む。
「あまりの事に……ショックだったのね」
「冗談じゃなく、俺は本当に何も覚えていないんだ。どうしてこんなものを持って外に出たのか……できれば、君が知っていることを、教えてくれないだろうか?」
俺の話をすぐには信じられなかったのだろう。女は目を閉じて考え込む。だがしばらくして、小さく頷いた。
「……いいわ」
女は二人分のお茶を用意し、俺を暖炉の前に誘った。
マグカップから伝わる湯気で唇があたたまり、おそるおそる喉に滑らせた紅茶が肩の強張りをほぐす。
思っていたよりも、緊張していたらしい。ひと息つくと同時に俺は全身から力が抜けた。
「それで……あなたは何をどこから知りたいの?」
「俺がどういう人間かは後回しでいい。それよりもこの状況が何なのかを知りたい。俺が刃物を持って外に出た理由を……一体この場所で、何があったんだ?」
「わかった。あなたが必要だというなら、説明するわ」
「たのむ」
「少し遡ることになるけど……一ヵ月前にね、たくさん雪が降り積もった日があったわ。ここは町から隔離された場所だから、避難勧告が出たんだけど……避難するには遅くて、私一人が取り残されてしまったの。そんな時、あなたがやってきたの」
「俺が……大雪の中?」
「ええ。遭難した登山者だったみたい。初めて見た時、あなたは青い顔をして、とても痩せ細っていたわ。だから私が食料を提供して、体温が戻らないあなたの看病をしたの。震えてばかりいたあなたがようやく人らしい顔になった時、とても感動して泣いてしまったわ——それも覚えていない?」
「……ああ。悪いが、全く思い出せない」
「なら、これは——」
女は自分の襟元をくつろげ、喉元のネックレスを見せつけた。
細いチェーンには赤い石のついた指輪がぶらさがっている。
「ルビーよ。私の誕生石。看病したお礼にあなたがくれたものよ」
「……俺が……?」
「ええ。あなたはとても優しい人だから。私がここで暮らしているのを心配して、回復してからも一緒にいてくれるようになったの。だけど……あんなことになるなんて」
「……『あんなこと』?」
「あなたは……あなたを追いかけてここまで来た恋人を……刺したのよ」
俺は息をのむ。
「これは……やはり、人の血なのか?」
心のどこかで、自分には背負うべき罪がないことを信じていたのかもしれない。だが現実をつきつけられて、初めて自分を恐れた。
——自分の知らない自分が、人を殺したのか?
動揺を隠せない俺を——女は労わるように両腕で包み込んだ。頭を抱えられて、まるで子供にでもなった気分だ。
彼女は俺の背中を撫でながらさらに言った。
「あなたは私を選ぶ代わりに、恋人を殺したこと……とても悩んでいたわ。だけど安心して。それでも私は、あなたと居ることを後悔なんてしていない」
「……だが、君が許しても……俺は人を殺めたんだろう? それは許されないことだ。本当に俺が人を殺したというのなら、出頭しなくてはいけない」
「…………隠れて暮らせばいいじゃない」
「悪いが……俺は自分の責任を丸投げ出来るほど、図太くはない人間だと……思う。……だからここに戻ってきた」
「……あなたは、どうしても自分が許せないのね。 記憶をなくしても、やっぱりあなたは優しい人。わかったわ——とりあえず少し気持ちが落ち着いてからこれからのことを考えましょう。……新しいお茶を用意するわ。それを飲んで、山を下りましょう。私もついていくから」
「ありがとう」
「……私の責任でもあるもの」
彼女は空のカップを持ち、キッチンに入っていった。
俺は暗い未来を思いながら、部屋の隅にあるソファに腰をおろす。
——が、奇妙な違和感があった。視線を下げると、ソファが心なしか浮いている。
ソファの足に何かはさまっているのだろう。
気になって——俺はソファの下を覗きこむ。
暗がりには、黒い布で覆われた何かがそこにあった。
俺は咄嗟に腰をひく。
黒い布ごしでもわかる人の形を見て、思わず後ずさるもの、俺は申し訳ない気持ちで泣きたくなった。
俺の知らない俺の元恋人なのか。
そこにある理由を考えながら震える手を伸ばし、黒い布の一部をめくった。
白い手がソファの下からだらりと出た。細い手だ。
指先に触れてみるが、雪のように冷たい。
ただ、気になった点がひとつ。
「薬指が……ない?」
俺はあらためて地面を這うようにソファの下を覗きこむ。
が、姿勢を落とした拍子に、上着のポケットから何かが転がり落ちた。
「…………指輪? これは、俺のものか?」
赤い石のついた指輪。まだ名前も知らないあの女のものと良く似ていた。
嫌な予感がして、吐きそうなほど心臓が鳴った。
「困った人ね」
あきれたように投げかけられた言葉に、俺は息を止めてゆっくりと振り返る。
「また、やり直しだわ」
「……なんの……ことだ?」
女から距離をとるつもりで立ち上がろうとして——足元が崩れた。
全身から力が抜けてゆく感覚。
——おまけになんだ、この異様な睡魔は。
「念には念を入れておいて正解だったわ。本当に忘れたかどうか、見た目ではわからないもの」
どういうことかと聞きたくとも、口が動かない。どうやら、この女にしてやられたらしい。
俺が受けた説明は偽りだったのだろうか。唇で「薬指」とカタチを作れば、彼女は嫌悪を見せた。
「いくら私でも、薬指から指輪をもらうのは気持ち悪かったわ。私、鶏肉すらさばいたことがないもの。あなたにやってもらおうかとも思ったけど、思い出されても困るし、仕方なく私が奪ったのよ」
女は伸びをしながら続けて言った。
「今度はあなたが目覚めるまでにその子を捨てなくちゃいけないわね。……下山すると言い出した時はどうしようかと思ったけど、私の凶器を持ち帰ってくれて助かったわ。……次に目覚めた時は、もっとドラマチックな出会いを用意してあげる」
女が嬉しそうに夢を語る中、俺はまた一からスタートするために眠りについた。
***
こんばんは、悠木全です。
10年前に書いた話を近況に投下してみました。
楽しんでいただけたでしょうか。
(いや、普通に怖い話だし)
10年前のフォルダから
出るわ出るわ……昔の話が。
なんとなく放置するのも寂しいので
近況にアップしてみました。
10年前って、一番書いてた時期ですからね。
寝ても覚めても執筆のことしか
考えてなかったと思う。
今みたいにダラダラ1本書くわけじゃなくて
情熱のままにガーッと文字を綴ってました。
今よりもちょっと鼻につく感じも
否めないけど、この時にしか書けなかった
アレコレを見ると泣きたくなります。
ではでは、そんな感じで
ゲリラ投下でしたが、
深夜に失礼しました。