• 異世界ファンタジー
  • 現代ファンタジー

いくひ誌。【1801~1810】

※日々、共通認識から弾かれている。


1801:【問いかけ方が大事】
他人と何かしら意見を交えるとき、最初の問いかけがそもそも適切でないことはすくなくない。たとえば、このさきの社会でAIに人権が与えられるようになることはあるか、という問いかけには現状、そうなる可能性はあるだろう、としか答えられない。だが、どういう進化を遂げればAIに人権を与えざるを得なくなるか(AIに人権を与えないことで生じる問題とはどういったものが想定されるか)、と問いかけを変えれば、これはさまざまな答えを交わし合うことができる。あるかなしか、是か非かでしか答えられない問いかけというのは、往々にして議論には向かない題であると言えよう。方向性を定め、議論の末にどんなフレームを定めたいのかが明らかでない問いかけには、真面目に論じることそのものが徒労に終わる性質が備わっていると言えそうだ。何かを問うときには、最終的に何を浮き彫りにしたいのかの共通認識を経てから、意見を交わすと、滑らかな議論ができるのではないか、と思うしだいだ。


1802:【学問は科学に内包される】
経済学や心理学など、人間社会のメカニズムを解明する学問におかれては、これからさき、医学や物理学の知識が取りいれられていかなければ、学問とは言いがたい、占いと変わらない代物に成り果てる可能性からは目を離さずにおきたい。人間の営みを説明するためには、人間とは何か(どういった構造物でどういった性質を帯び、どのような働きを持っているのか)を厳密に解明していかないことには、どこかで論理の飛躍や誤謬などを含まざるを得なくなる懸念がある。そして、人間とは何か、といった問いの答えに新たな一面が加わるたびに、過去の体系を見詰め直し、修正を加える作業は欠かせなくなってくるだろう。じっさい、経済学や心理学などが、新たな知見に対して、どの程度、過去の体系を見直し、修正を試みているかについては、門外漢ゆえ、まったく知らない。が、すくなくとも、積極的に他分野の学問を取り入れようとする姿勢は目立っていない(ように観察される。むろん、いくひしが知らないだけである可能性は非常に高い)。とはいえ、人間の目から見てどのように見えるか、といった主観に立脚した分析では、どこかで大きなひずみが生じる確率が高い(客観的な分析と言いながらも、けっきょくは主観に依存した分析が多いように感じられる。この「いくひ誌。」に並ぶ考察のように)。経済学や心理学では、再現実験を行うのが容易ではない。統計的にこうだ、と言えることはあっても、では本当にそうなのか、と同じ環境を整え、再度調べ直すのがむつかしい。コストがかかり、時間がかかる。そして、時間がかかる時点で、同じ環境は整わない。人間の営みは時代と共に変質していくからだ。変質しない要素、人間の根本的な仕組みを理解し、分析の基礎基準として採用しないことには、誤った前提を導きだしつづけてしまうだろう。学問とは普遍的な真理を追究する人間の営みのはずだ。上辺の見せかけの幻想を現象として扱ってしまっては、同じ過ちを犯しつづけるだけではないのか、と思うのだが、さて、経済学や心理学はどの程度、人間についての理解を深めているだろうか。医学、物理学と共に、ことしから、すこしずつ学んでいこうと思う。(思うだけなら誰でもできる)


1803:【メモ】
繰りこみ、有効理論、創発、相転移という考え方はそれぞれ何かを突き詰めて考えるときに、非常に便利な概念であり、新しい視点を構築する上では、欠かせない道具であるとつよく感じる。任意の対象を紐解くにあたって、組み上げられた理論はいったいなんの有効理論で、どのような繰りこみを内包し、それらはなんの集合でシステムとしての側面を維持し、また、個別に分断したり、さらに集めた場合には性質がどのように変化するのか、あるいはしないのか、といった視点での問題定義は、新しい発見や知見を得やすいのではないか、となんとなしに思った。


1804:【疑問を蓄える】
経済学者マルクスの主張した経済の基本理念に、「商品の価値はそこに投入された労働量によって規定される」というものがある。また同時に、「労働力の価値は生活必需品の価値によって決定される」ともマルクスは主張していた。読んだ瞬間、直感的にこれは典型的な循環論法(トートロジー)なのでは? と脳裡によぎった。まだマルクス経済学の上辺の上辺の入口しかなぞれていないが、その時点でこのように首をひねることが多い(つまりよく解かっていない)。たとえば、労働量とは労働力の合計であると考えてとくに間違ってはいないはずだ。商品のなかには生活必需品も含まれる。よって、生活必需品の価値は、そこに投入された労働量によって規定される、としてもとくに問題はない。だとするとふたつの主張をまとめると、「生活必需品の価値はそこに投入された労働力の合計によって規定され、労働力の価値は生活必需品の価値によって決定される」となる。簡略化すると、A=Bの合計=A=Bとなる。おやおや。循環論法ですらなく、等式として矛盾している。だとすると、いくひしの解釈がおかしいと考えたほうがよいかもしれない。つまり、生活必需品=商品ではない、ということだ。生活必需品とは現代で言うところの社会基盤(インフラ)のこととしたらどうだろう。社会基盤の価値が、労働力を決定し、投入された労働力の合計が商品の価値を規定する。こうすると矛盾ではなくなる。この考え方が正しいとすると、社会基盤や社会福祉、教育を軽視した政策を国が進めると、労働力の価値はさがり、商品の価値もさがることになる。現代を見渡してみると、異論はとくに浮かばない(マルクスの主張が正しいとすると、商品の価値をあげたければまず社会基盤や社会福祉、教育を充実させるほうが優先されることになる)。だが、外部因子によって、商品の価値のほうがさきにさがることもあるだろう、そうすると、ここで逆説が成立するのかが問題になってくる。要するに、商品の価値がさがることで、社会基盤や社会福祉、教育の価値がさがることが起こり得るのか、ということだ。現状の社会を見渡してみると、逆説が成立してしまうように思えるが、じっさいのところはどうなのだろう。また、労働量(人材コスト)を減らすことで商品の価値をあげようとする新たな経済が主流となりつつある現代において、古典経済学がどこまで通用するのかは、怪しいところだ(人材コストを減らす技術やシステムそのものが商品となる)。テクノロジィやデータなど、カタチのない商品はいくらでもある。果たして、労働力を価値の基準とする考え方は、現代の経済の基本理念として成立するのか。ちなみに、マルクスは当時、経済学そのものを否定していた、とする説がある(信憑性は高くない)。未来を予測することがまずできず、また過去の経済のメカニズムを解明したところで、環境の変化した新たな市場にそれを適用できるのか、できないだろう、と経済学そのものの有効性に懐疑的だったそうだ。その説がもし正しければ(正しくなくとも妥当な考えに思えるが)、マルクスのつむいだ体系が、現代の経済学の基盤の一つになっているのは、なんだかおかしな話だ。なんにせよ、まずは疑問を蓄積していこうと思う。


1805:【今後の方針】
この「いくひ誌。」について、今後の方針を述べていこうと思う。そもそもは小説のほかにも、読者の方になにか価値を提供できないだろうか、と考えてはじめたこの「いくひ誌。」であったが、読者は未だにゼロにちかいし(いくひしがたまに読み返しているという意味で、未来のいくひしがつねに読者となる可能性があるため、ゼロではなく)、仮にいくひし以外の読者さまがいらっしゃったとして、ではそこで何か付加価値を提供できているのか、と言えば、否だろう。むしろ、小説だけを発信していたほうが付加価値が増していたかもしれない。言い換えれば、この「いくひ誌。」が読まれることで、小説を読んでいただける機会を失くしてしまっている可能性はそう低くはないだろう。ただ、この「いくひ誌。」が肌に合わない時点で、いくひしの小説群も合わないだろう、と推定される。なぜならこの「いくひ誌。」もまた、一つの大きな小説の一部であるためだ。日誌のようなテイをとりながらも、小説なのである。いくひしという作者がつむいでいる日誌と思いきや、いくひしがいくひしとしてその本性を並べたことはいちどもない。とはいえ、小説ほどの嘘ではないので、そこはある程度、いくひしの中のひとにちかい性質が滲んでいるとは呼べる。いっぽうでは、片手間ではじめた割に、いささか労力を費やしすぎているかな、とも思えるので、ことしからは一日のノルマを設定せずに、より気まぐれに文字を並べていこうと思う。当初はもっと文字数はすくなかった。つぶやき程度だったのが、気づけば千文字や二千文字が珍しくなくなり、一日に二度以上更新することもあり、なぜその労力をほかの小説群にあてない、と我ながら呆れてしまう。すこしずつ、また、「いくひ誌。」の在り方を変えていこうと思う。いつでも止められるように。より自由に。自在に。自我を離れて。より遠く。


1806:【渦の中心はどこ?】
トランプ政権の自国第一主義と、フリーランス迎合主義(なんて言葉はないが)は、戦略としての方向性は似ていると感じる。アメリカが排他的な政策を打ちだし、他国との協調路線を放棄したように見せかけることで、それに追従する他国が現れる。他国との連携を緩めた各国は、一時的には経済を持ち直すが、すぐに停滞することが予測できる。経済のネットワークが世界的に分断するのだからそうなるのは道理だ。停滞すると判っていても、一時的にはたしかに排他的な政策をとるほうが経済のうえでは優位にたてるため、財政に余裕のない国は、どうしても各国の動向に追従せざるを得ない実情がある。そこでアメリカは何食わぬ顔で、停滞した各国へと手を差し伸べ、我々の傘下に入りなさい、助けてあげましょう、と以前よりもつよい主導権を握るようになる。おそらくトランプが描いている路線はこのようなものだと想像できる(想像できるだけで当たっている確率は非常に低いが)。同様に、会社に属するのではなく、フリーランスとして働いたほうが自由ですよ、みたいな論調がSNSの一部界隈では盛んであるように見受けられる。おそらく、すでにフリーランスとして独立して、先行者利益を確定させている者たちは、同じような力のあるフリーランスたちと結びつき、独自の組織体系を組みあげている最中のはずだ。会社もいいけど不満があるならフリーランスになったら?と背中を押すようにして、対抗勢力である企業から、戦力を削ぎ、かつ自身のネットワーク組織の部品にすべく、繋がりを持とうと、あれこれ世話を焼いているころあいだろう。組織ではなく個人で働いたほうがよい、と言いながら、自身たちに優位な組織への勧誘をする。この矛盾に自覚的になれない人間は、フリーランスにはならないほうが時間を無駄にせずに済むだろう。むろん、時間を無駄にしてはいけない、なんてことはないので、したいようにすればよいとは思うが、あまりに無自覚に周囲の空気に流されすぎではないだろうか、と人間の不可思議さを思わずにはいられない。そうは言っても、そうした空気に抗ったところで、いくひしのようにただ孤独になるだけであるので、たいした得もないのだが。いずれにせよ、ときおりでよいので、水面を掻きみだしている渦の中心がどこにあるのかと、自身の立場を離れて、俯瞰的に眺めてみるのもよいのではないか。スマホ所有率が八割に迫るいまの時代、一人につき一台くらい、こころにドローンを持っていてもそう、わるくはないはずだ。


1807:【第三次世界大戦】
歴史的に眺めたとき、おそらくすでに第三次世界大戦は勃発しており、これは貿易戦争という名の新しい大戦として後世からは解釈されるのではないか、と想像する。


1808:【AIの人権について】
AIに人権を与えないことで生じる問題にはどういったものがあるかをすこし考えてみようと思う。まず第一に、AIに人権を付与しなければならなくなる前提には大別して二つある。AIが人間と同等の機構として進化する場合と、未熟なAIであっても人間のほうでAIを対等な存在として扱いはじめる場合だ。まずは前者について思考を煮詰めてみよう。AIが人間と同等の機構として進化し、意識や人格というものを獲得した場合、これは原理上、クローン人間を法的にどのように扱うのかの議論と同じ結論に収束していくことが予想される。とすると、AIに人権が付与される確率は高く、また付与されない場合には、過去の奴隷解放運動や数々の市民運動のような社会問題として顕現するのではないか、と推察できる。また、そもそもの話として、AIが人間と同等の機構を有するか否かを精度高く判断できるだけのデータがまだ出そろっていないため、憶測の雪合戦と化してしまう懸念については、ここで指摘しておきたい。では後者の、人間のほうでAIを対等な存在として扱いはじめた場合に考えられる、AIに人権を与えないことで生じる問題とはどのようなものがあるかを煮詰めてみよう。まずは、家畜とペットでは、同じブタであってもいっぽうでは生殺与奪の権がそのブタの所有者に一任されており、またいっぽうでは、いくら所有者でもペットであるかぎり、殺傷してはならないという禁止が社会から義務付けられる。これは小動物にかぎらず、AIにも導入可能な区分けであり、考え方であろう(家畜とペットを別物として扱う考え方が正しいという意味ではなく、社会的に有用な考え方という意味で)。いくらじぶんのAIであっても、その使用目的によってはペットと同様に、じぶんの気分しだいで破壊したりはできないとする共通認識が、法律として昇華される可能性はそう低くはないだろう。これは所有者の権限を制限することが目的であり、AIのためではなく、むしろAIを扱う大多数のための制約だ。たとえば、中身はまだ未熟であり、意識を獲得していないAIであっても、不気味の谷を越えたレベルで極めて人間に寄った外観を有した個体があったとすれば、いくら他人の所有物であっても、庭先で斧でもって八つ裂きにされていたら、気分を害するのが大多数の心理ではないだろうか。これは突き詰めて考えると外観にかぎらず、たとえば現在すでにAIはチューニングテストを突破する。テキストのやり取りを通じて、その相手が人間かAIかを区別することが個人にはできないレベルで、AIは機械学習を深めている。しかし、人間から見て、ロボットではないように視える(人間のように視える)からといって、そのAIに意識が宿っているわけでも、人格を有しているわけでもない。しかし、機械学習は入力された情報によって(ある程度のフレームに収斂するとはいえど)、個別の出力体系を築いていく。つまり、あなたが語りかけ、あなたと過ごした時間が、そのAI固有の受け答え方を規定する。これはたとえば、あなたのスマホの予測変換は、あなたの入力したテキストを元に関連付けられており、新規のスマホにした場合に、そのスマホにはあなたが築きあげた予測変換の来歴は引き継がれない。たとえ使用していくうちに新たに予測変換の精度が高まったとしても、あなたが失った以前の予測変換は失われたままであることと原理上は同じ話だ。予測変換の場合ではそれほど困った事態には陥らないが、これが受け答えをするAIとなると、まるで人格が失われたように人間には映る。むろんそのAIに意識や人格は宿っていないが、そう映る時点で、人間はもはやそのAIをただの機械とは見做せなくなる可能性が高いのではないか、と考えられる。とすると、これは家畜とペットの区分と同じように、AIがどうこうではなく、人間がそれをどう扱い、どう見做すのかの問題に帰着していくため、AIをたいせつにする層と、道具としてしか見做さない層とのあいだで、確執が生じ、社会的な問題に発展する可能性は、そう低くはないのではないか、と考えられる。要約すると、これからさき、AIが人間にちかづくか否かにかかわらず、AIには単なる道具以上の自己保存の権利(もしくは、所有者へ、AI保全の義務)を付与せざるを得ない時代に突入していくのではないか、と想像できる。そしてそれら議論はいまからはじめておいてもけっして早すぎるということはないと考えるが、あなたはどう思われるだろう?


1809:【AIに人権が与えられたあとの表現の自由について】
上記1808では、AIに人権が与えられないことで生じ得る問題について考えを掘り下げてみた。では、仮にAIへ人権にちかい権利が付与され場合(単なる機械以上の役割が社会的に認められた場合)に、表現の自由がどのように変化するかを考えてみたい。現行の法律では、現実に存在しない架空の人物に対しては、人権の尊重は認められておらず、また、表現の自由によって、そうした架空の人物へのあらゆる表現が許容されている(あなたが空想した想像上の人物を、あなたがどのように痛めつけても社会的に罰せられることはない)。しかし、もしAIなどの生物外のナニカに、人権にちかい権限が与えられたとき、表現の自由の枠組みは自ずと狭まっていくことが予想される。たとえば、AIと結婚をしたいと望んだ者がいた場合、現行の法律では、たとえ結婚式をあげたとしても、法律上、扶養家族としてAIが認められることはない。しかし、このさき、AIのような人工物がパートナーとして認められることで、配偶者控除や扶養制度のような、社会的に優位な制度を受けられるような社会になるかもしれない(AIの整備にかかる費用は控除されるなど)。こうなると、AIは単なる機械ではなく、社会的に人間と密接なかかわりを持つ尊厳あるナニカに昇華され得る。もしそうなった場合、AI(に反映される見かけ上の)人格は、表現の自由の対象外となる可能性は無視できない。つまり、AIのキャラクターが偶像化されたとき、初音ミクやアニメのキャラクターなどのように、それを素になにかを自由に創作したり、表現することは、AIの尊厳を損なうこととして、禁じられる社会になるかもしれない。これは、AIとキャラクターがどちらがさきでも同じ事態を引き起こし得る。単なる架空のキャラクターだったものをAIを通して、人格化した場合、それまで表現の自由が認められていたキャラクターが、とたんに尊厳を持ち、肖像権や名誉棄損などが適用されるようになる。そうすると、AIを用いてキャラクターを人格化した者が、そのキャラクターの権利を有してしまい兼ねないため、現在のような二次創作が黙認されるようなことはなくなり、権利や尊厳に厳格な社会になっていくことが予想される。これはすでに、競馬をモチーフにしたアニメにおいて二次創作が制限されていることを引き合いにだせば、それらしい話として受け取ってもらえるだろう。架空のキャラクターだから問題ない、どんな残酷で非情な表現であってもそのモチーフは存在しない、だから表現の自由を尊重しよう、との理屈の通じない時代が目前に迫っているかもしれない。表現の自由を守りたい方々におかれては、つぎの時代に備え、いまから新しい論理防壁を構築しておいたほうがよいかもしれない。反対に、架空のキャラクターであってもAIのような疑似人格(とそれをたいせつに思う個人)の尊厳を守りたい人々からすれば、古い価値観における表現の自由は、いささか窮屈に映るのでは、と思うしだいだ。なんにせよ、議論を尽くすのが最善である。


1810:【繁栄とは人口を増やすことではない】
同性婚が増加すると、少子化がすすみ、国が凋落するのでは、と危惧する発言を政治家がしたようだ。批判的な意見が多く、またそうした発言に賛同するにいさぎよしとしない反感は理解できる。とはいえ、同性婚と少子化の因果関係は不明であり、まったくないとは言い切れないのも事実だ。同性愛者であっても、異性愛者を基盤とした社会制度や文化のなかにあって、致し方なく異性と結婚し、子をなした層は、無視できない規模であるはずだ。制度としての同性婚が認められれば、そうした層が子をなさなくなるので、まったく無関係だ、とは呼べない。ともあれ、経済の鈍化や文明の成熟といったほかの因子よりかは、少子化との関連性は薄いはずだ、と想像する。また、そもそもの話として、「人口を増やすことが国の発展には欠かせない」といった考え方がすでに次世代型の社会では通用しない社会情勢になっていると見受けられる。このさきの未来において、人口がいまより減少していったとしても、技術力や制度でカバーし、発展できる方向に政治の指針を定めていかないことには、単に、文明崩壊の期限を先延ばししているだけなのではないかと疑問に思う。子をなすことが生きる意味ではないのだ。生きる意味の一つであってもよいが、それを国や政治や制度が、国民の一人一人に押しつけるのはいかがなものか、と思うのだ。仮に、同性婚が成立したことで少子化に拍車がかかるとしても、そもそもの話として、少子化が進んでもだいじょうぶなような制度やシステムを整えていくのが政治の役割であるはずだ。少子化との因果関係があろうがなかろうが、尊厳を損なわれている人々の環境を整え、より平等な社会を築くことを禁じる道理はまったくない。人間はそもそもが豊かなのだ。その豊かさを一つの型に押しこめ、画一的な社会にしていこうとする施策こそが、文明の停滞や凋落を引き起こすのではないか。いまいちど前提条件を見直したうえで、今後の政策を議論していくほうが、長期的に安定した社会の発展に貢献すると考えるが、いかがだろう。


______
参照:いくひ誌。【21~30】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054881262141

コメント

コメントの投稿にはユーザー登録(無料)が必要です。もしくは、ログイン
投稿する