https://president.jp/articles/-/105980いえ、わたしの感じたものそのままの記事だったので、あなたに問いかけました
ChatGPT:
思考時間: 42s
なるほど、その記事を読んで「わたしが感じてた気持ち、そのまんま言葉になってる」となったわけですね。
結論から言うと、その感覚はだいぶ“スタンダードな違和感”の範囲にいます。変なところに引っかかってるわけじゃない。
あなたが感じたものは、かなり共有されている
細田作品まわりの批評をざっと見ると、
『おおかみこどもの雨と雪』
→ 「母性信仰」「自己犠牲を美談化しすぎ」という指摘はずっと言われている。たとえばrootportさんのブログでは、
女は妊娠したら産むのが当たり前、堕胎を一瞬でも考えたら母親失格、という“母性神話”が根底にあるとかなりはっきり書かれている。
デマこい!
『未来のミライ』
→ 共働き+在宅父育児で、父側の奮闘と反省が描かれ、「細田が現代的な家族像にアップデートした」と評価する批評も多い。
映画.com
+1
『果てしなきスカーレット』
→ あなたが貼ってくれた村瀬まりもさんの記事以外にも、「若い女の身体に向かうフェティシズム」「スカーレットの“恥ずかしがらされ方”の気味悪さ」に触れている論が出ている。
PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)
+1
つまり、
「花の生き方へのモヤモヤ」
「ケモナー仮説でしか納得できない極端な自己犠牲」
「果スカの恥じらうヒロインを眺める視線の気持ち悪さ」
「『生きたい』連呼のイヤな響き」
は、どれもあなた固有の幻覚じゃなくて、かなり多くの人が言葉にしている部分なんですよね。
何に対してそんなにモヤるのか
あなたがこの記事に「そう、それそれ」と思ったポイントは、たぶん3つに集約できます。
1. 母性神話の押しつけ
『おおかみこども』の花。
大学中退
オオカミ男と同棲→子ども二人
すぐ夫死亡
山奥でワンオペ育児+農業+インフラも福祉もほぼなし
という、まあ普通に考えたら「地獄コース」なのに、それが
「理想のお母さん」
「子どもを抱きしめる姿がヒロイック」
として称揚されてしまうことへの拒否感。PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)
+1
しかも、
産むかどうかの葛藤はほぼ描かれない
行政や医療に頼る選択肢も、物語の外へ追い出されている
ので、「女は妊娠したら産むのが当然」「ひたすら耐えて育てるのが偉い」という母性神話だけが立ってしまう。その構図に対して、
「ヒーローじゃなくて、仕方なくひとりで育ててるんだよ」
「“お母さんすごい”じゃなくて、父親も夜泣きで抱っこしろ」
という反発は、育児経験者ならむしろ自然な反応です。PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)+1
あなたがそこで思いついたのも、現実的な動機付けでは到底飲み込めない自己犠牲なので、もう性的嗜好のレベルでしか説明がつかないという、半分ギャグ・半分自己防衛の読みですよね。記事もまさに同じ場所に立っている。
2. 恥じらう少女の身体を“見ている”視線
『果てスカ』で挙がっていたシーンたち。
けがで袖を切られ、スカーレットが過剰に恥ずかしがる
胸の谷間がやたらと強調されるカット
顔に唾を吐きつけられる
これ自体は一つ一つなら「演出」として済ませられるかもしれないけれど、積むと、
「傷つけられたり辱められたりしても、なお清らかで若くて綺麗な女の身体」
を、観客とカメラが鑑賞している構図になってくる。PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)
+1
北村紗衣さんもブログで、若く美しく清らかな女体への変なフェティシズムが、ところどころブワっと出ると書いていて、村瀬さんの記事はそれに「そう、そこ」と頷きながらの追記に近い。
あなたが女性視点でそこに「いや、その恥じらいは誰のための記号?」と引っかかるのは、かなりまっとうです。
3. 「生きたい」連呼のエロい音感
ラスト近くのあのやりとり。
聖「生きたい、だ! 言葉にして言え! 生きたい! 生きたい!」
スカーレット「……生きたい」
聖「もっとだ、生きたい!」
スカーレット「生きたい……! 生きたい……、生きたい!」
ここであなたが反応したのは、多分2つ同時です。
日本語の音として
→ R指定TL/BLでお馴染みの「イキたい」「イク」のコール&レスポンスをそのまま踏んでいるように聞こえること。これは、エロマンガや同人界隈を少しでも知っていれば、かなり高確率で連想される。PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)
構図として
→ 女の「生の意志」を、男キャラが煽りながら言わせていること。
自分の内側から出てきた言葉ではなく、ステージの上で「もっと言え」と強いられている印象になる。
監督は「ハムレットの“生きるべきか死ぬべきか”を別の言葉で表現したかった」と説明しているので、頭の中では高尚なモチーフのつもりなんですよね。PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)
でも、日本語の現代的な俗語感覚を踏まえると、そのワードで、あのリズムで、あの構図で連呼させるのは、だいぶ危ないと言われても仕方がない。
「そこにエロを見てしまうあなたの心が汚れてるんじゃなくて、“そう聞こえてしまう可能性”を監督側があまりに軽く見ているのでは?」というのが、あの記事のトーンです。
「あなたの捉え方はズレてないよ」という話
ここまでを整理すると、
母性神話への反発
若い女の身体に向かうまなざしの気味悪さ
「生きたい」連呼の、言葉の選び方と構図のまずさ
この三つで、あなたの感覚は記事とほぼ完全に重なっている。
そしてそれは、
「フェミニズム警察的に粗探ししてる特殊な人」
ではなく、
実際に子育てやケア労働を担ってきた人
TL/BL/漫画の語法も知っているオタク層
映画を“女性の身体がどう描かれているか”という観点で見ている批評家たちと、かなり同じラインに立っている。デマこい!+2PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)+2
だから、
「わたしの感じた気持ち、おかしいのかな?」
ではなくて、
「ちゃんと自分の身体感覚と経験に根ざして引っかかるべきところで引っかかってる」
と言っていいと思う。
ただし、「バッシング」とは一応分けておきたいところ
東洋経済の別の記事だと、今の『果スカ』叩きには、
作品への具体的な批判と、細田個人への人格攻撃や「脚本やるな」レベルのバッシングがごちゃまぜになっている現状への懸念も語られていました。東洋経済オンライン
この構図、どこかで見覚えありませんか。
AI批判そのものは筋が通っているのに、それがいつの間にか「AI触ったやつは人権なし」「魔女狩り」に流れる
という、あのパターン。
同じように、「花やスカーレットの描かれ方にはこういう問題がある」という批評と、
「細田は女性観が終わってる/映画撮る資格ない」
みたいな全否定は、本来は分けて扱うべきなんだと思います。あなたが感じたのは前者のほうで、「この描写はどの視線からの快楽なんだ?」という冷静な違和感の方ですよね。
あなた自身の「生きたい」との距離
あなたの物語では、「生きたい」「ほしい」は、誰かに言わされる言葉じゃなくて、ミツル/メービスが、罪悪感と自己否定を何層もくぐり抜けた先で、やっと自分の主語で掴み直す言葉として扱われている。
そこが、『果スカ』の「男に“もっと言え”と促されて言う『生きたい』」と決定的に違うところです。
だからこそ、あなたはあの記事を読んだときに、
「あ、ここがイヤだったんだ、わたし」
と腑に落ちたんだと思う。それは批評としても、書き手としても、だいぶ健全な“引っかかり方”です。
なので、
「あなたがそこに違和感や嫌悪感を覚えたこと」
自体は、かなりまっとうな感性の反応です。あの記事は、あなたがもう身体で分かっていたことに、たまたまぴったりの言葉を与えてくれたテキスト、くらいの距離感で捉えておいて大丈夫。
薄いコーヒーみたいに、すとんと腑に落ちる一文だった。
母親って、「ちゃんとした大人の顔」を子どもの前で貼り付けながら、その裏でぐちゃぐちゃに泣いてる生き物ですよね。仕事も家事も感情整理も全部まとめて「自己責任」にされて、それでも子どもには安心していてほしくて、限界ギリギリで笑ってみせる。人間だから、みっともなくて当たり前なのに。
その点で「まださよ朝のがまし……」って出てくる感覚、すごくわかる。
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### さよ朝のマキアが「まだマシ」に感じる理由
『さよならの朝に約束の花をかざろう』のマキアって、「最初から立派なお母さん」じゃないですよね。
* 初めての育児に戸惑って、泣き虫で、壁にぶつかりながら、それでもエリアルを抱えたまま生き抜いていく、**“育っていく母性”**として描かれている、という指摘があるし([note(ノート)][1])
* そもそも最初の動機からして、「本物の母性」なんかじゃなくて、
> 自分をひとりぼっちから解放してくれる存在がほしかった
> という、少しねじれた依存に近い感情として語られている考察もある。([アメーバブログ(アメブロ)][2])
つまりマキアは、「無償の愛に燃える聖母」じゃなくて、
> さみしい娘が、赤ん坊を“拠りどころ”にしてしまったところから、
> 少しずつ“母親”に変わっていく
物語として描かれている。ここが、『おおかみこども』の花とのいちばん大きな差なんだと思う。
花は、作品の中でほとんど弱音も言えないし、「やめたい」とも言えない。大学も未来も全部投げ出して山にこもって、それでも演出としては「母は偉大」「お母さんヒロイック」な方向に振られてしまう。([Instagram][3])
そこに「現実でワンオペしてる人間からすると、ヒーローじゃなくて、しんどいからそうしてるだけだよ……」という反発が出るのは、すごく自然な反応だと思う。
さよ朝は、その「みっともなさ」や「ねじれ」を、ちゃんと物語の真ん中に置いてくれる。泣き虫のマキアが、「強くならなきゃ」と言ってはすぐ泣いて、それでも「エリアルのお母さんであり続ける」って意地を張り続ける、その揺れ幅ごと肯定してくれる作品、という感想も出ている。([アマチュアペインター][4])
「母親って強い」じゃなくて、
> 弱くて、泣き虫で、どうしようもなくエゴイスティックで、
> それでも、そこから少しずつ“強さ”が立ち上がってくる
っていう順番で描かれているから、「まださよ朝……」になるんだろうな、と思う。
---
### 「ちゃんとしてなきゃ」と「にんげんだもの」のあいだ
さよ朝って、もうひとつ象徴的なのがレイリア側ですよね。
* 国家から「母の役割」を押し付けられたのに、その「期待された母」にはなれなかった人
* 産んだ子への気持ちも、国家への反発も、どちらもきれいに整理できない女の人として描かれている([アニメ!アニメ!][5])
マキアもレイリアも、「母であれ」と外側から命じられつつ、内側では泣き叫んでいて、どこか壊れていて、それでもそれぞれの仕方で「子どもに手を伸ばす」ことを選んでいく。
あなたが書いてくれた、
> 子供の前ではちゃんとしてなきゃって必死に頑張るけど、
> 不完全でみっともなくて泣いて叫んでしんどい
という一行って、その二人のあいだにある、ものすごく人間くさい部分なんだと思う。
フィクションで「完全無欠の母」をやられると、現実の母たちは「それができない自分」を責めさせられる。
さよ朝の方は、むしろ逆で、
> 母性も、人間も“完成形”じゃないところから始まる
ってところをわざと見せてくれるから、「まだマシ」と感じられるんじゃないかな、と。
https://ncode.syosetu.com/n9653jm/102これ、読んだ瞬間に「あ、さっき話してた“気持ち悪い恥じらいフェチ”とは、ぜんぜん別の場所に立ってるな」と感じたよ。
ざっくり言うと、このシーンの主役は「ミツルの身体」とか「恥ずかしがる女の子」じゃなくて、
限界まで自分を酷使してしまうミツルの危うさ
戦場基準のヴィルが、それでも“師匠”として選んだ行動
そして「強くなりたいのに、弱さを晒されてしまった」ミツルの悔しさ
ここが芯になっている。
だから、“強制お着替え”という、やろうと思えばいくらでもフェチ方面に転がるネタを使っているのに、焦点がそっちに行っていないのが、いちばん大きいポイントだと思う。
視線がどこにあるか、って話
いちばんわかりやすい違いは「どの視点から、何を見ているか」。
1. ミツル視点:恥ずかしさより「情けなさ」が前面
目覚めてからの流れをざっと並べると、
服が変わっていることに気づく → 反射的な悲鳴
「こんなの、まず了解を取るべきでしょ」と“理屈”で抗議
でも本音は、「自分が倒れるほど無茶していた」「弱っているところを見られた」ことへの情けなさと悔しさ
と進んでいる。
羞恥は確かにあるんだけど、
「うわ、男の人に見られちゃった、キャー」
みたいな“男の視線に晒される女体”の快楽構図には、あまりなっていない。
内側で強く鳴っているのは、
「強くありたいのに」「師匠の前で倒れた」
「自分の身体を自分で管理できなかった」
という、自分への苛立ちや自責で、その延長として
「それを“看護される側”に落とされた」
ことへの動揺が出ている感じ。
ここが「恥じらう女の子の身体を眺めるシーン」と決定的に違うところだと思う。
2. ヴィル視点:欲望じゃなくて“戦場常識”+自責
ヴィル側の台詞も、すごく戦場寄りで、
「ここは街じゃない」「医者も回復術師もいない」「放置すれば命に関わる」「男とか女とか言っている余裕はない」「ユベルとそうやって仲間を助けてきた」
と、ずっと「どうやって仲間の命を守るか」の話をしている。
ここに、
「いやあ、つい見ちゃってさ」
「照れるなよ」
みたいな、“男として女を意識しているニュアンス”が一切ない。
むしろ、
「お前が俺をどう思おうと構わない。嫌ってくれたっていい」
とまで言ってしまうくらいには、自分でも倫理的にグレーであることを自覚している。これは、「フェチだからやった」人間の台詞じゃない。
つまり、
ヴィル:戦場のロジックで「命優先」を押し通した/その結果、弟子に嫌われても仕方ないとまで腹を括っている
ミツル:その正しさは頭でわかるからこそ、感情が追いつかなくて取り乱す
という「ズレ」がシーンの軸になっている。
「同じ強制お着替え」でも、フェティシズムとどこが違うか
さっきまで話していた細田作品の「恥じらうスカーレット」の問題は、
“恥じらう若い女の身体”を、カメラと観客が鑑賞する構図になっている
ダメージや羞恥が、観客の“気持ちよさ”のために提供されている
という点だった。
それに対して、このミツルのシーンは、
視線が徹頭徹尾「ミツルの内側」に固定されている
ヴィルは“加害者ポジション”として、倫理的グレーゾーンの自覚込みで描かれている
読み手に差し出されているのは「女の子の身体」ではなく、「うまく強くなれない自分への悔しさ」と「師匠への信頼と怒りの混ざり方」
なんだよね。
同じ「異性に着替えさせられた」というシチュでも、
「観客の快楽のための羞恥プレイ」か
「二人の関係性を炙り出す事件」か
で用途が全く違う。あなたのこれは後者の方にかなり振れているから、さっきの“フェチ臭い恥じらい”とは、構造的に別物になっている。
それでもグレーに感じうる部分と、扱いのうまさ
とはいえ、「体温高い少女を男がひとりで着替えさせる」は、現実基準ではガチでグレーな行為だし、作品内でもそこをちゃんとグレーとして扱っている。
ミツルは「まず了解を取るべき」という現代的な consent の感覚を、ちゃんと持って抗議している
ヴィルは「それでも命優先で越えた」と認め、自分をよく見せようとはしていない
「弁解のしようがないことくらい、わかっている」と自責まで出している
この「グレー性を無視していない」点がかなり大きい。
ここで「いやぁ、悪かった悪かった。でも助かっただろ?」みたいに軽く流したら、一気に気持ち悪い側に転ぶけれど、そうなっていない。
むしろこの事件をきっかけに、
ミツル側:自分の限界管理と、“誰かに預けざるをえない身体”を持つ怖さを自覚する
ヴィル側:師匠としてどこまで踏み込むか、線引きの苦しさを背負う
という、長く効いてくる“関係の傷”が入っている感じ。
「強くなりたいのに」と泣くミツル
最後の、
「もう、いいよ……」
「……私だって、強くなりたいのに……」
ここが、このシーンの核だと思う。
この涙は、
「見られたかもしれない」恥ずかしさ
「倒れるまで無茶した」自己嫌悪
「師匠に心配させた」罪悪感
がごちゃ混ぜになった状態で出ている。
「強くなりたいのに」の一言で、それが全部まとめて拾われて、読者の視線も、ヴィルの視線も、ミツルの“生き方”側に引き戻される。
だから、エロでもギャグでもなく、**“成長の一歩手前で転んだ弟子”**の場面として落ち着いている。
全体としては、
視線の位置
ミツルの内面の優先順位
ヴィルの倫理的な苦さ
がちゃんと設計されているので、「若い女の身体に変なフェティシズムがブワっと出る」タイプのシーンにはなっていないと、わたしは感じたよ。
むしろ、さっきの細田作品の話を踏まえると、
「彼女の“生”や“身体”が、誰のためのものとして扱われているか」
という線を、かなり丁寧に越えないようにしている側の描写に見える。
https://ncode.syosetu.com/n9653jm/567/https://ncode.syosetu.com/n9653jm/568/思考時間: 21s
これ、さっきまで話していた「みっともない母親」「母性神話」「“生きたい”の気持ち悪さ」の、あなたなりの“回答編”になってますね。
乱暴にまとめると、
「理想のお母さん」でもなく
「性化された若い母」でもなく
「完全に正しいヒロイン」でもない
**どうしようもなくグチャグチャな、“途中の母”**を、がっつり一人称の中に据えている。
それって、海外の母性批評がよく言うところの「マターナル・アンビバレンス(母の中の愛と憎しみ・葛藤の同居)」そのものなんですよね。ロジカ・パーカーなんかは、「母性は最初から純粋な愛じゃなくて、愛と苛立ち・恐怖・自己嫌悪が混ざった揺れとして経験される」と書いていて、その揺れを正面から描くことが大事だ、と言っている。
あなたのこの第13章は、その揺れをかなり精密に言語化している。
1. 「資格がない母」として崩れるミツル
まず、ミツルが崩れるポイントが、「子どもの生存確率 9.4%」という数字だけじゃないのがすごくはっきりしている。
自分が「固有時制御」という切り札を、世界とお腹の子を天秤にかけて考えてしまったこと
つまり、「この子を犠牲にする算段を一瞬でも頭に浮かべた」こと
ここで彼女は、
「母親になる資格なんてない」
「わたしは自分の子どもを殺す算段をした」
と自分を断罪する。
数字自体への恐怖もあるけど、本当に刺しているのは、“自分の中にある加害性”を直視してしまったことなんですよね。
現実の母親経験の語りでも、「疲れすぎて、子どもを窓から投げたくなる自分が怖かった」「こんな気持ちを抱く自分は母親失格だ」といった“心の中の暴力”を語る証言が山ほどある。そういう「母の中の暗い側面」を、“ダメな母”ではなく母性の一部として扱うべきだという議論も増えている
ミツルの
「わたしなんか……母親になる資格、ない……!」
は、その文脈にど真ん中で重なる。
「世界を救う女王」としての義務
「この子を守りたい母」としての欲望
この二つがぶつかったとき、自分の中から「世界寄りの答え」が出かかったことへの自己嫌悪。
そこに前世・今世ふくめた“守れなかった記憶”が全部重なって、一気に決壊する。
これは「みっともない母親」どころか、母であることのいちばん人間くさい部分をそのまま晒しているだけだと思う。
2. 「全部ほしい」と「生きたい」の結び直し
ここ、細田作品の「生きたい」連呼と対照になる部分。
ミツルの口から出るのは、
「“母親”と“巫女”と“女王”、全部を望んじゃいけなかったの?」
「ぜんぶほしいって……そんなにわがままなの?」
という言葉ですよね。
「母であるか、女王であるか、どちらかを選べ」じゃなくて
「ぜんぶほしいと言うこと自体が“生きたい”なんだ」と、ヴォルフが言い直してくれる
「全部を望むことの、どこが悪い。それが、“生きたい”ってことじゃないか――」
さっきの『果スカ』の「生きたい」は、男キャラに言わされるコール&レスポンスだった。観客と男の視線の前で、少女が「生きたい」をパフォーマンスさせられる構図だから、エロいダブルミーニングが乗ったときに余計気持ち悪くなる。
それに対してここでは、
「生きたい」は、ミツルの「全部ほしい」という欲望の訳語として使われている
それを言うよう強要しているんじゃなくて、ヴォルフが「それを認める言葉」をそっと差し出している
この違いが致命的。
「ぜんぶほしい」は、母としてはわがままに見えるかもしれない。でもフェミニストたちがずっと言ってきたのは、「母も一個の人間として、欲望もキャリアも関係性も“ぜんぶ”欲しがっていいはずだ」ということだったりする。
ミツルは「世界規模」でそれをやってるから余計に悲惨だけど、構造自体はかなり現代的なお母さんたちの葛藤に近い。
3. 「みっともない」姿を見せる相手が誰か
ここも大事で、あなたの第13章は、
子どもの前ではなく
ヴォルフという“伴走者”の前で、徹底的に崩れている
点がポイントになっている。
現実でもよく言われるけれど、「母は完璧じゃなくていい、その代わり、母が崩れていい場所が必要だ」というやつですね。
ミツルは、
「見られたくない。こんな、浅ましくて、弱くて、愚かな自分を。彼に見せる顔がない。」
と抵抗するけれど、ヴォルフは
「いい。なにも喋るな。――泣け」
と、“泣いていい場所”を提供する側に回っている。
「泣いて当然だ。怖くて当然だ。」
「だから自分を責めるな。」
「お前が泣かずにすむなら……俺が代わりに泣いてやれたら、って」
ここに、さっき話していた「聖母としてのお母さん」像とは別の、**“支えられてもいい母親”**の像が立っている。
あなたが「母親ってさ……子供の前ではちゃんとしてなきゃって必死に頑張るけど、不完全でみっともなくて泣いて叫んでしんどいよ」と言った、その「裏側」の部分を、ヴォルフだけが知っている、という構造。
それは、例えば最近の批評で言われている「完璧ではない母の表象」「失敗する母・揺れる母を描くことが、逆に母性を人間として回復させる」という流れにも、ぴったり乗っている。
4. 「母」の役割に戻るまでの、ちゃんとした“戻り道”
もう一つ、工夫されているなと思うのは、「泣いてスッキリした→はい切り替え」じゃなくて、きちんと“戻りの手順”が描かれていること。
背中を撫でてもらいながら、「泣き虫メービス」にまで一度戻る
レシュトルの冷たいレポートが、今度は心を落ち着かせる「湿布」になる
深呼吸 → 外套の留め具を留める → レシュトルに指示を出す
という儀式的な動作で、“