ああ、あるあるな話だな、とよく思う。
たとえばエッセイやSNSで、
「地位や権威や立場を振りかざして、人の気持ちを踏みにじるの、いかがなものか?」
と書くとする。すると、だいたい返ってくるのは決まっていて、
「おまえがメンタル弱いだけだろ」
「繊細さんアピール?」
みたいなやつだ。議論をしたいわけでもない、ただ、ささやかな「いかがなものか?」を置いただけで、あっという間に「個人の耐久値」の話にされてしまう。
でも、わたしが本当に怖いと思っているのは、そこではない。
最近よく「自己肯定感」という言葉が持て囃される。けれど、自己肯定感というより、実態は「自己愛の鎧」になっているケースも多い気がする。
体制のため。
組織のため。
業務のため。
そう言いながら、相手を値踏みし、ランク付けして、踏みつける。それを繰り返すうちに、本当に「なんとも思わなく」なっていく――その鈍さのほうを、わたしは危惧している。
誰かを切り捨てるたび、自分は「有能な側」「強い側」「正しい側」に残れたような気がする。そのたびに、罪悪感の線を「組織」に押しつけて、自分の内側を少しずつ麻痺させていく。
そうして、自分の感覚を守っているつもりで、人としての神経をどんどん削ってしまう。
それは、本当に「強い」ことなのだろうか。
◇◇
さんの、こんなポストがあった。
「『メンタル弱い』とか『繊細』とかリプが来るのですが、相手のメンタルが強いか弱いか、図太いのか繊細なのか、は関係なく、どんな人相手でも傷つくことを故意に言っていいわけないですよね? 傷つくのは相手のメンタルが弱いせい、じゃなくて、傷つくことを故意に言うのがアウト、ですよね」
これは、ものすごく真っ当な線引きだと思う。
「メンタル弱い」「繊細」と言っておけば、どういう言葉を投げたか、どんな意図があったかという「加害の側」の話を、すべて「被害者のスペック」の問題にすり替えられる。
傷ついた人が「つらい」と言う。
→「お前のメンタルが弱い」
→だから「自分は悪くない」「正論を言っただけ」
このループは、とても便利だ。
便利だから、多用される。
でも、そのたびに、踏まれた側は「自分が弱いからだ」と飲み込んでいくしかなくなる。
さんは、そこに対して静かに「違うでしょう」と言っている。
相手が繊細だろうが図太かろうが「傷つける目的で言葉を選んだ」時点でアウトだろう、と。
わたしが言いたかった「いかがなものか?」も、本当はそこに近い。メンタルの強弱の話ではなく、「故意に踏みにじること」をどう考えるか、という話だ。
◇◇◇
わたしは、仕事の場が「戦い」だという感覚も、ある程度は理解している。
組織の中では、どうしても相手を値踏みし、ランク付けし、自分にとって得か損かで接し方を変えざるを得ない場面がある。
この人にはここまで任せられる。
この人にはここから先は任せられない。
この上司には逆らってはいけない。
この部下には今きちんと釘を刺しておくべきだ――。
限られた時間と労力と好意を、どこにどれだけ配分するか。
そういう冷ややかな計算自体は、現実的に必要だ。
だからわたしは、
「本音なんて、隠していてかまわない」
とも思っている。全部を素直にぶつけ合っていたら、仕事も組織も、あっという間に崩壊してしまう。問題は、「戦場の判断」がそのまま「人間の価値判断」にまで食い込んでしまうときだ。
業務の文脈で「このタスクは任せられない」と思うのは、ただの判断。
そこで止めればいい。
けれど、その先で、
「こいつは使い物にならないゴミだ」
「この程度のやつは人とも思わない」
と、言葉にしてしまう瞬間がある。あるいは、口に出さずとも、内側でそうラベルを貼ってしまう瞬間がある。
その一線を越えてしまうと、やがて「人を踏む」ことが、「仕事」の範囲に含まれていく。そして、それを繰り返すうちに、本当に「なんとも思わなく」なっていく。
わたしが危惧しているのは、その鈍さのほうだ。
◇◇
「狡猾なマネージャー」という言い方をするなら、わたしがなりたいのは、
内側の感覚は鈍らせないまま、外側のふるまいだけを“戦闘仕様”にしていく人間だ。
頭の中では「いまのそれはクソだな」と思っても、口から出すのは「それはこういうリスクがあります」と、業務の言葉に翻訳する。
相手を評価し、距離を取ることはする。けれど、「人としての値段」まで決めつけるところへは行かないように気をつける。
踏みにじることを、「なんとも思わなく」なる方向へ鈍りたくない。
かといって、何もかも血の通ったまま晒して、ボロボロになるのも違う。
そのあいだの細いところを、どうにか探って生きている。
だから、「地位や権威から人を踏むのは危ないよね」と書いたとき、
「それはお前がメンタル弱いだけ」
と片づけられるとき、
わたしの中では、別の声が静かに返事をする。
――人のこころを鈍くしてまで守らないといけない「強さ」って、そんなに立派なものだろうか。
◇◇
人は、折れないから強いわけではないと思う。
むしろ、折れることができないほうが、どこか危うい。
折れても、何度でも立ち上がる。
そのとき、隣に立ってくれる誰かがいるから。
自分が折れる痛みも、誰かを踏んでしまったときの痛みも、
まだちゃんと感じてしまううちは、少なくとも「なんとも思わなくなる」側には行っていない。
その感覚を弱さだと笑う人たちもいる。
でも、 さんのように、「故意に傷つけるのはアウトでしょ」と静かに言ってくれる人もいる。
わたしは、その人たちの言葉を、ひとつの灯として胸にしまっておきたい。体制や組織の都合に、自分の心の神経を全部明け渡してしまわないように。
鈍らないで生きることは、たぶんこれからもずっと面倒で、痛い。それでも、「なんとも思わなく」なってしまうよりは、まだましだと信じていたいのだ。